「装甲兵」前へ!

あるいは鉄兜考の120000おまけ


 印刷物からのコピー画像のため、見づらいモノであるが、「済南事変画報」(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社 S3)に掲載された写真である。
 見づらいなどと云う文句は一切受け付けない。福島まで新幹線に乗り(自腹)、福島県立図書館でコピーしたアリガタイ画像なのだ!

 済南で活躍した わが軍の装甲兵

 のキャプションがある。「兵器生活」の良き読者であれば、説明不要のオモシロさであるのだが、不幸にして「どこがオモシロイの?」と思ってしまった人のために、野暮を承知で説明すると

 ドコが装甲兵やねん! ただの兵隊やんけ!!

 の一言で終わる。

 「装甲」を辞書で調べてみると、「敵弾を防ぐために、車体・船体に鋼鉄を張ること もと、よろい・かぶとに身をかためること」(岩波国語辞典第三版)と定義されている。
 まあ、戦争用ヘルメットの事を、「鉄兜」と称する以上、たしかに「装甲兵」と呼んでも嘘ではないのだが、すでに欧州大戦において、西洋列国が大量の鉄兜を兵士に支給している事を思うと、そこまで大袈裟に扱わなくても良さそうなものである。

 現代人から見ればヘルメットを被っていない兵隊なぞ、オマケの無いグリコのようなもので、それを「装甲兵」とは何のこっちゃ、と云うことになる。我々が思い浮かべる「装甲兵」のイメージは、


「風の谷のナウシカ」第三巻(宮崎 駿、徳間書店)

 やっぱりコレでしょう(笑)。トルメキア王国の「装甲兵」である。映画の続編が待たれて久しいが、コミック第三巻における戦闘場面を見てみたいだけ、と云うのは公然の秘密である。
 

  
こう云う場面が見たいって事ね(笑)

 *現代中国では、戦車兵のことを「装甲兵」と呼ぶし、ドイツの「装甲擲弾兵」と云う有名な言葉もあるが、そこまで言及すると面白く無くなるので、気にしないで下さい。

 日本陸軍のヘルメットを、「鉄兜」と表記すると、「ソレハ俗称デア、リ正シクハ『鉄帽』ト云ウノデアリマス」と云うツッコミが入ることが、ままある。

 「南京大虐殺」における「百人斬り」に関する議論で、当時の新聞記事が「鉄兜」と表記されていたのを捕まえて、「日本陸軍では『鉄兜』ではなく、『鉄帽』と呼称していたのだから、『百人斬り』は捏造である」と云う論旨のモノが有名である。
 しかし「鉄兜」だろうが「鉄帽」だろうが、それが示している物体そのものは変わらないし、そもそも斬られた支那兵のそれを、彼等自身が何と呼んでいたかの方が、私は気になってならない。
(政治問題には踏み込みたく無いのだが、「虐殺があった」、「なかった」の争点が人数の多寡になっているのを見ると「五十歩百歩じゃん」と思ってしまう…)

 真面目な研究者はちゃんと、当初は「鉄兜」と呼称していたが、のち「鉄帽」と改称したと、書いてあるものだ。
 この改称に関する通牒が、「アジア歴史資料センター」がウェヴで公開されている。良い時代になったものだ(以下に引用する史料すべて)。

 陸普第二七四八号
 鉄兜外六点器材ノ取扱方変更ニ関スル件陸軍一般ヘ通牒

 と云う文書がそれで、昭和7年4月28日付けのもの。全文引用しても良いのだが、カタカナ表記が面倒なので、一部にとどめる。なお漢字は新字体に改めた。

 
 従来兵器タリシ鉄兜、防毒面、防毒衣、防毒外套、馬匹防毒脚絆、同防毒面及防弾具ノ七点ハ之ヲ被服品ニ移シ且其名称ヲ別紙ノ如ク改ム(以下略)

 別紙 鉄兜外六点新旧名称対照表
 旧名称   鉄兜
 改正名称  鉄帽(原文は表形式になっているので、必要部分のみ抜粋)


 「兵器」だから「兜」、「被服」だから「帽」と云うことなのだろうが、わざわざ呼称を変える必要があったのだろうか…。ここから「鉄兜」の俗称化が始まるわけである。しかし、これはあくまでも陸軍身内への通達であるから、関係者以外は知ったことではない。必然的に、外部と内部の齟齬が史料にも現れてくるのだった…。

 官房機密第三三八六号
 昭和十二年八月二十五日 海軍次官 山本五十六
 陸軍次官 梅津美治郎 殿

 鉄兜繰替渡ノ件照会

 今次事変ノ為左記兵器緊急所用ニ付貴省保管ノ分ヲ繰替渡相受度候条可然取計相成度(略)
 鉄兜(陸軍制式ノモノ)四、〇〇〇個

 と云う、海軍から陸軍への物品借用のお願い文書が存在している。陸軍がすでに「被服」扱いにした「鉄兜」を、海軍が「兵器」として所望しているところがポイントである。
 この文書の背景に、第二次上海事変があり、当時の上海特別陸戦隊は、戦闘要員に対して、ヘルメットが4000個不足していたと云う事を結果として物語っている。と云うことは…と、手持ちの資料を漁ってみると、確かにヴィッカース6トン戦車を引っ張る兵士の中に、星印の鉄兜を被った陸戦隊員がいる。しかし、この写真は8月22日撮影とされているのだ。となると、山本海軍次官の文書は、実は事後承諾を求めたものだったのかもしれない(汗)…。


8月22日撮影の陸戦隊員(「支那事変写真全篇 中 上海戦線」より)

 陸軍では、この申し入れを受け入れたようで、

 支経被乙第三四号
 陸戦隊用鉄帽処理ニ関スル件通牒

 と云う文書を、陸軍被服本廠宛に8月31日付けで発行している。陸軍の文書であるので、「陸戦隊用鉄帽」と記述されているのが面白い。
 内容は、被服廠長に対し、「近ク海軍省ヨリ貴廠宛補充ノ為依託注文アル筈ニ付同品ヲ以テ戻入処理」をせよ、と云うものである。役所やの〜。

 海軍がこの通りであるから、民間も同じようなもので(笑)、日本電報通信社(略称:電通)社長の光永 星郎より、昭和14年5月4日付けで陸軍大臣 板垣 征四郎宛に出された「願書」にも、「鉄兜 壱個」を社員に「皇軍感謝ノ意ヲ徹底セシメ併セテ軍事思想ノ普及、及時局認識ヲ強化セシメルタメ」下げ渡し願うよう記載されている。当然陸軍は、「皇軍ノ鉄帽(戦歴品)壱個ヲ御希望ノ如ク」交付するよう、被服廠に指示している。

 歴史上の語句の使われ方にシビアになる事は。素人研究者として必要なことであるが、うっかりすると当の歴史そのものに足をすくわれる事もあるわけだ(気をつけようっと)。

 日本軍の鉄兜(鉄帽)と云えば、九〇式鉄兜(鉄帽)と呼ばれる、あのカタチ(上にあげた陸戦隊員の写真参照)が有名なのであるが、それ以前に使用されていたものについて、何故か私は真面目な記述を見たことが無かったりする。
 日本軍の装備に関する通俗書籍が、たいてい大東亜戦争中心なのが原因なのか、私の不勉強によるものなのかは不明だが、近年出版された「工兵入門」(佐山 二郎、光人社NF)も、「帝国陸軍 戦場の衣食住」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ39、学研 あ、こっちにはちゃんと「太平洋戦史」って書いてあらあ!)も、「九〇式鉄兜」、「九〇式鉄帽」の図版しか掲載されていない(「工兵入門」の場合、「二重鉄兜」、「前後板接合せ鉄兜」、「九八式鉄兜」が紹介されているが、図版は九〇式のみ)。
 過去の書籍においては、詳細に紹介されているのかもしれないが、知らないモノについて書けるわけも無い。

 一度気になると手持ちの資料を漁りたくなるし、漁ればネタに使いたくなるので、どのようなモノがあったのかを紹介してみる(ここからは本当に「おまけ」である)。


済南事件における鉄兜装着兵士の図(総督府蔵)

 済南事件時の写真である。九〇式鉄兜にくらべ、庇部分が長く、鉢と庇・錣(縁と云った方がわかりやすいか?)が、くっきりと識別できる。


「一億人の昭和史 日本の戦史2 満州事変」(毎日新聞社)より

 満洲事変における写真。手前の兵士のものは、庇が長く突きだしており、本体はなだらかな円型。
 その後方三人は、頭頂部が扁平で、庇は短めで、兜の「錣」に相当する部分の始まりが、ゆるいカーブを描いている。ドイツ式鉄兜風にも見える。


「一億人の昭和史 日本の戦史2 満州事変」(毎日新聞社)より

 第一次上海事変時の陸戦隊。左の兵士の鉄兜だけ、本体から庇・錣(ほとんど「縁」になってしまっているが)に流れるラインがゆるやかで、かつ形状も皿形に近い。
 他の兵士は庇の長いタイプで、よーく見ると頭頂部に花型の出っ張りがある(サクラヘルメットなどと云うらしいのだが、私もどこで覚えたのか思い出せないいないくらい、あやふやな名称なので、吹聴しないように。オスプレイ社の本では、モロに 'cherry blossom'model とキャプションが付けられている)。


「一億人の昭和史 日本の戦史2 満州事変」(毎日新聞社)より

 「肉弾三勇士」を出した決死隊の生存者。ひさしの長いタイプを着用しているようだ。着用者の首の角度のせいだろうが、丸いものと、やや平らなものがあるように見える。それにしても日本兵には見えないなあ…。


標準的な 鉄兜の形状

 こういった初期の鉄兜の形状を真正面から取り上げた資料が私の手もとには、オスプレイ社の「MEN−AT−ARMS」シリーズ「The Japanese Army 1931−45(1)」くらいしか見つからないと云うのは、日本人として、ちと恥ずかしいのである。

初期の鉄兜って国内にあるんだろうか?