ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/22 22:37)
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : k-mine(01/2/22 23:17)
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/23 03:39)
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : かすた(01/2/23 01:48)
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/23 05:12)
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : ごまめ(01/2/23 03:39)
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/23 06:59)
[投稿者削除] : BUN(01/2/23 08:53)
Re[3]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : BUN(01/2/23 08:55)
Re[4]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/23 13:18)
Re[5]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : woodstock(01/2/23 22:33)
Re[6]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/24 06:24)
Re[7]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : woodstock(01/3/3 10:19)
Re[8]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/3/3 16:06)
Re[5]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : ごまめ(01/2/27 05:31)
飛躍が過ぎると面白くないですよ : BUN(01/2/27 11:49)
Re:飛躍が過ぎると面白くないですよ : Edwerd(01/2/27 21:02)
[投稿者削除] : BUN(01/2/28 06:13)
Re[2]:飛躍が過ぎると面白くないですよ : BUN(01/2/28 06:15)
微妙な米英関係から生じる思惑の相違 : Edwerd(01/2/28 20:29)
Re[6]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/27 12:31)
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : FUL(01/2/23 19:44)
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/23 21:11)
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : k-mine(01/2/24 03:32)
Re[3]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か? : Edwerd(01/2/24 06:24)
ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−1 : Edwerd(01/2/24 22:01)
Re:ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−2 : Edwerd(01/2/24 22:03)
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−2 : かすた(01/2/25 03:31)
[投稿者削除] : Edwerd(01/2/25 09:08)
[投稿者削除] : Edwerd(01/2/25 09:21)
Re[3]:ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−2 : Edwerd(01/2/25 09:35)
純軍事的観点から観た転換点・設問者の見解 2−1 : Edwerd(01/2/26 21:49)
[投稿者削除] : Edwerd(01/3/2 14:32)
純軍事的観点からの転換点・設問者の見解 2−2  : Edwerd(01/3/2 14:39)


4928 Root [4930] [4932] [4935] [4957] [4981] [5000] [5043] [5044]
ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/22 22:37)

ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?

俗にドイツ軍が守勢に転じた大戦の転換点は何処にあったのだと思いますか?
一般的な歴史文献で有名な所では「スターリングラードの敗北(パウルス上級大将麾下ドイツ第6軍の降伏)」となっている事が多いですか、専門の軍事史になるとその時期は徐々に早くなります。ドイツが大戦の勝機を逸したと言う意味では「タイフーン作戦(モスクワ侵攻)の失敗」、「バトル・オブ・ブリテンの失敗」、はたまた「ダンケルクでの失敗(英軍とその他の連合軍将兵を含め33万名を取り逃がした)」にその根本原因を置く研究者がおります。
逆にドイツ軍はどうしたら戦争に勝てたのでしょう。
前大戦では革命によって本国政府が倒れ、「戦争に負けても戦闘には負けていなかった」と言い古される精強なドイツ軍は、「電撃戦」と言う革新的な戦争様式をもって「ドイツ国防軍」として生まれ変わりました。独ソ戦当時の双方の兵員交換率は一説では7対1(或いは8対1)と言われていたような気がしますが、当時陸軍兵士一人当たりの質が最も高かった最強の軍隊も近代戦の特徴である物量戦と経済基盤がカギとなる総力戦と言う現実の前になす術もなかったのであろうか?
こうすれば勝てた!と言う興味深い戦略論をお持ちの方、是非、意見を交換しましょう。
かしこ


4930 [4928] [4936]
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
k-mine(01/2/22 23:17)

いやはや、非常に難しいテーマですね。
 結論から言えば、私の意見はナチス・ドイツに勝利はなかった、と思います。
 私は経済について専門の教育を受けたわけではないので、間違っているかもしれませんが、当時のナチスの政策というのが「国を大きくすることによって膨大な軍事費の支払いに当て、その軍事力によってまた国を大きくする」というものであったと見ています。
 これを企業に例えると「支店を作ることによって売上高を上げ、その成長率を担保に銀行から借り入れし、また支店を作る」であると思います。で、このスタイルの典型があの「そ○う」なんですね(笑)。
 社会人の方なら分かっていただけると思いますが、こういう企業というのは必ず行き詰まるものなのです。なぜなら、世の景気がどうあれ永遠に会社を成長させなければならないからです。
 ナチス・ドイツも同じようなところがあったと思います。ノルウェー侵攻には鉄鉱石確保という側面がありましたし、モスクワ志向の将軍達に向かってヒトラーが「君達は戦争経済を御存知ない」と言ったのは有名です。だとすれば、フランスの次はロシア、ロシアの次は中東、そしてその次は・・・と際限がなかったでしょう。
 マンシュタインは軍人でしたから「失われた勝利」と語りましたが、経済的な側面を視野に入れれば、どれだけ軍事的勝利を重ねたとしてもいつかはカタストロフィがやってきたと思います。
 軍事的勝利もしょせん「バブル」である、というのは言いすぎでしょうか。


4936 [4930] なし
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/23 03:39)


>  軍事的勝利もしょせん「バブル」である、というのは言いすぎでしょうか。
>
さっそくの返答いたみいります。なるほど、最も広汎な大局的見地から導き出せる貴重なご意見と納得させられますな。そう考えると戦後の日本経済の破錠も、経済戦争という名の元に形を変えた「第二次」太平洋戦争のなれの果てであり、太平洋戦争に勝利し続けたとしても、日本やドイツと言った資源輸入国は拡大を続ける過程でいつかは限界にぶち当たったと言う事ですか・・・。
独裁体制はそれ自体を維持するために、常に外界に目を向けて膨張し続けなければならない・・・。なるほど、確かに佐藤大輔氏の「レッド・サン・ブラッククロス」なんかでも、ヒトラーはとうとうアメリカまで攻め込んでしまいましたしね。
でも貴兄にいきなり結論を言われてしまい・・・う〜ん、では設問を少し変えましょう。
ドイツはどうしたらヨーロッパを制覇する事ができたでしょうか?またどの時点で軌道修正すればそれが可能であっただろうか?例えば、米ソの介入がそのカギとなるのは間違いないでし、バルバロッサの開始時期が違えば極東の動きにも微妙な変化をもたらしたと思いますが…。
かしこ


4932 [4928] [4940]
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
かすた(01/2/23 01:48)

 国家戦略的に言えば、ポーランド進駐(侵攻ではない)+ポーランド分割が大きな転機だと思います。まあ、身も蓋もありませんが。
 クラウゼウィッツのいうとおり、戦争とは我が意思を押し通すための武力行使に他なりません。
 そのため、戦争をする際には、何を目的とするかをしっかりする必要があります。
 かつてプロイセンのフリードリヒ大帝は、オーストリア継承戦争の際、いかに不利になろうとも、シュレジェン領有だけは絶対に撤回しませんでした。しかし、どれだけ有利になろうとも、シュレジェン領有以上のことを望みませんでした。
 だからこそ、周囲の国は、プロイセンのシュレジェン領有を認めたのです。シュレジェンを渡さなければ、負けても負けても戦争は繰り返されるでしょうし、逆にシュレジェンさえ渡せば戦争が終わるのではないかと判断できるからです。
 これと同じことが第二次大戦でも言えたと思います。
 ドイツの念願の夢は、『失われた勝利』にある通り、ダンツィヒ回廊の回復でした。この点を内外に主張し、一歩も退くことなく、越えることもなく戦争をすれば、ドイツは己の目的を実現し、無駄な戦争もせずにすんだでしょう。
 こんなところでどうでしょうか。


4940 [4932] なし
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/23 05:12)

>  国家戦略的に言えば、ポーランド進駐(侵攻ではない)+ポーランド分割が大きな転機だと思います。まあ、身も蓋もありませんが。
>  クラウゼウィッツのいうとおり、戦争とは我が意思を押し通すための武力行使に他なりません。
>  そのため、戦争をする際には、何を目的とするかをしっかりする必要があります。
>  かつてプロイセンのフリードリヒ大帝は、オーストリア継承戦争の際、いかに不利になろうとも、シュレジェン領有だけは絶対に撤回しませんでした。しかし、どれだけ有利になろうとも、シュレジェン領有以上のことを望みませんでした。
>  だからこそ、周囲の国は、プロイセンのシュレジェン領有を認めたのです。シュレジェンを渡さなければ、負けても負けても戦争は繰り返されるでしょうし、逆にシュレジェンさえ渡せば戦争が終わるのではないかと判断できるからです。
>  これと同じことが第二次大戦でも言えたと思います。
>  ドイツの念願の夢は、『失われた勝利』にある通り、ダンツィヒ回廊の回復でした。この点を内外に主張し、一歩も退くことなく、越えることもなく戦争をすれば、ドイツは己の目的を実現し、無駄な戦争もせずにすんだでしょう。
>  こんなところでどうでしょうか。

さっそくのご意見ありがとうございます。
なるほど、いきなりドイツの戦争動機の核心を突いてきましたね。御見事です(^^;。しかし公に掲げた戦争動機が旧帝国領地の回復であっても、宥和政策に縛られていた英国を筆頭とする旧連合国の腰砕けな振る舞いに自信を強めていた、等のドイツの指導者であったヒトラーがそれ以上の野心(いわゆる東方への衝動)を持っていた事は確かです。それがそもそもの間違いの元だと言われればそれまでですが、貴兄の論点を更に突き詰めれば、ドイツは350万人のドイツ系住民が生活していたズデーテンの併合で矛を収めるべきであった。ズデーテン・ラントやオーストリアなどのかつての領有地やドイツ系住民が住む土地を併合するという「一線」を越えなければ、ドイツが連合国に訴えていた論理的正当性も失われる事もなかった。それどころか、ポーランドの一部になっていた旧帝国領であるダンツィヒ回廊にしても、それ以後、政治・経済的、そして軍事的にも国力を増大させるであろうドイツの潜在的脅威の前にして、以外と外交的手段のみでポーランドから領地を返還させる事さえできたかもしれない。
しかし英仏の指導者をくみやすしとおごったヒトラーは、チェンバレンが必死になって仲介し、成立させた「ミュンヘン協定」をいとも簡単に破り捨て、英国を完全な対独強行路線に導いてしまった。この事から、事、対英仏戦争と言う意味では、ここで踏みとどまっていれば戦争は回避できたでしょうが、ソ連に関してはどうでしょう?
ソ連は帝政時代に獲得した領地のほとんどを共産革命時に失っており、スターリンがフィンランド、バルト三国、ルーマニア、ダーダネルス海峡に触手を伸ばしていたのは明らかです。もっともドイツが西側連合国と争っているどさくさにまぎれる事ができたからこそ、あの時期にあわてて(ドイツがたちまちフランスを倒してしまったので)あのような西方への進出政策に乗り出したのでしょうが。しかし戦後のソ連の行動を見る限り、ドイツが対英仏戦争を回避できてたとしても遅かれ早かれソ連の西方進出に直面して対ソ戦争は避けられなかったと思います(この点ヒトラーはスターリンの性格を見抜き、鋭い洞察力を示していたと思う)。
もしそうなったら(遅くとも1940年代後半)、ひょっとしたら英仏独の連合軍対ソ連と言う図式が成立していたかも・・・
かしこ







4935 [4928] [4942]
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
ごまめ(01/2/23 03:39)

前略
未熟者ですが稚拙な意見を述べさせていただきます。
「守勢に転じた」時であれば僕もスターリングラード戦だと思いますが「ドイツの敗北が決まった瞬間」と言うのは月並みですがアメリカ参戦の時だと思います。

ですからアメリカを敵に回さなければドイツの勝ち目は多いに有ったと思います。
当時のアメリカは一国で世界を相手に戦争できるくらいの国力を持っていましたし、イギリスもソ連もアメリカからの援助無しでは持ちこたえる事は出来なかったでしょう。

しかしアメリカを味方にするとまではいかなくとも、敵に回さない為にはヒトラー政権では不可能だと思います。
よってナチスドイツの勝利はやはり不可能だったと考えます。

結論としては。1938年の時点でヒトラーが何らかの理由で死に、それに伴ってクーデターか何かでナチスが解体し、賢明な政府が成立しその上で第2次大戦が行われたとしたら戦後の2大国はアメリカとソ連ではなく、アメリカとドイツになっていた可能性は大いにあったと考えます。

だいぶ大まかになってしまいましたが、意見、反論、訂正等戴けたら嬉しく思います。
しかし当方明日から数日ネットに繋げませんので議論に参加できないのが残念です。
では失礼します。
早々


4942 [4935] [4943] [4944]
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/23 06:59)

> 「守勢に転じた」時であれば僕もスターリングラード戦だと思いますが「ドイツの敗北が決まった瞬間」と言うのは月並みですがアメリカ参戦の時だと思います。
>
> しかしアメリカを味方にするとまではいかなくとも、敵に回さない為にはヒトラー政権では不可能だと思います。
> よってナチスドイツの勝利はやはり不可能だったと考えます。
>
さっそくのご意見有り難く拝見させてもらいました。
なるほど、確かにアメリカの参戦は長期戦に引きずりこまれたドイツにとって致命的な転換点になったと思います。しかし二番目の意見に関しては見解を異にします。
アメリカのルーズベルト大統領は、対独戦に介入したくてうずうずしていましたが、如何せん前大戦以降も根強く維持されていたモンロー主義(ヨーロッパの紛争には介入しないという伝統的な孤立主義政策)に縛られて、大戦介入への口実を探しあぐねていました。日本の先制攻撃を受けた時も、アメリカは日本と戦争状態にはあっても、それが即、ヨーロッパ戦線への介入を国民に納得させ得る正統な理由となるものではありませんでした。
貴兄はどうか存じませんませんが、以外と一般に知られていない事に、アメリカの対独戦争介入の糸口は、ヒトラーがばか正直にも「三国同盟」に則って対米宣戦布告をしたからなのです(1941年12月11日午後2時過ぎ、アメリカも同日、直ちに対独伊宣戦布告を行う)。
チャーチルの回顧録「第二次世界大戦」によると、真珠湾攻撃の事実を知ったチャーチルがルーズベルトに「今や我々は同じ船に乗ったのです」と言う下りがある。しかし国際法上、その時点ではアメリカとドイツは戦争状態にある訳ではないので、直ちにアメリカが戦列に加わったとするチャーチルの表現は非常に腑に落ちない。ドイツが宣戦布告した11日に関しても全く触れていないし、明らかにチャーチルとルーズベルトの間には事前に何らかの密約があったと伺える節がある。こう考えると、ルーズベルトが欧州戦線に介入したいがばかりに、日本に到底受け入れがたい内容の「ハル・ノート」を突きつけ、日本の参戦を促すと同時に、真珠湾への奇襲を察知していながらこれを黙殺し、同胞の犠牲と引き換えにアメリカ国民の怒りを煽ったと言う、例の根強く囁かれている「陰謀説」も真実味を帯びてくる。
ルーズベルトがよもやヒトラーの方から宣戦して来る事を予想していたとは思えないが、彼にしてみればいずれ英国にも宣戦してくるだろう日本を片づけたあとで、ドイツに対する戦争にも国民の怒りを転化させようとしていた事は見え見えである。しかしその為には更に時間と別の工作が必要になっただろうし、ヒトラーの方から宣戦しなければ、アメリカの参戦は確実に一年以上遅れていたはずだ。そうなれば対ソ戦の動向の如何によってはアメリカの参戦前にヨーロッパ戦線の趨勢が決していた可能性も少なくないと思うのだが・・・。
*実際には、アメリカは1941年9月からチャーチルの要請に則って、大西洋におけるドイツの通商破壊作戦に干渉していた。しかし、それを忌々しく思っていてもヒトラーはアメリカの中立違反の数々を黙殺して、ルーズベルトの挑発に乗らずにいたのに、何を思ったのか日本が参戦した途端、嬉しそうに「転換点だ!・・・今や戦争に負ける事はありえない。300年の歴史に未だ負けた事のない味方ができた・・・、それに負けるばかりだが、常に最後には正しい側にいるもうひとつの同盟国もいる(イタリアは1943年に対独宣戦布告したし、前大戦でもドイツ軍にこっぴどく痛めつけられたが連合国側にいた)」と語っているそうだが、この時のヒトラーの考えほど理解に苦しむ例はない。日本の指導部同様、アメリカの工業生産力を見くびっていたとしか思えないが・・・。
かしこ






4943 [4942] なし
[投稿者削除]
BUN(01/2/23 08:53)

投稿者によって削除されました。(01/2/23 08:53)


4944 [4942] [4947]
Re[3]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
BUN(01/2/23 08:55)

>彼にしてみればいずれ英国にも宣戦してくるだろう日本を片づけたあとで、ドイツに対する戦争にも国民の怒りを転化させようとしていた事は見え見えである。
>アメリカの参戦は確実に一年以上遅れていたはずだ。そうなれば対ソ戦の動向の如何によってはアメリカの参戦前にヨーロッパ戦線の趨勢が決していた可能性も少なくないと思うのだが・・・。

 その可能性は非常に少ないのではありませんか?
アメリカの戦争計画は、この当時はレインボー第五計画であったと思いますが、この計画では、太平洋方面は守勢、大西洋方面攻勢、と明確にその方針が定められています。米陸軍部隊の英国向け出発は開戦、動員開始後10日で第一陣が英国へ向う予定ですし、海軍部隊の行動は更に積極的に行われる計画です。アメリカは「兄弟国」英国の防衛は最優先であるとレインボー計画中に明記していますので、英国の欧州での後退を静観する積りなど、ルーズベルト、チャーチル間の「密約」等が無くとも、とても考えられないのではないでしょうか。
 また、モンロー主義と言えども、アメリカは対独戦略の中では南米の親独勢力の伸張を非常に警戒しており、決して欧州情勢を座して見守る態度ではありません。まして日本を先に叩いて、その後に欧州で対独攻勢という戦略はレインボー計画そのものを否定することになります。計画では順序は逆であり、対独攻勢の後に対日攻勢なのです。


4947 [4944] [4960] [5008]
Re[4]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/23 13:18)

>>彼にしてみればいずれ英国にも宣戦してくるだろう日本を片づけたあとで、ドイツに対する戦争にも国民の怒りを転化させようとしていた事は見え見えである。
>>アメリカの参戦は確実に一年以上遅れていたはずだ。そうなれば対ソ戦の動向の如何によってはアメリカの参戦前にヨーロッパ戦線の趨勢が決していた可能性も少なくないと思うのだが・・・。
>
>  その可能性は非常に少ないのではありませんか?
> アメリカの戦争計画は、この当時はレインボー第五計画であったと思いますが、この計画では、太平洋方面は守勢、大西洋方面攻勢、と明確にその方針が定められています。米陸軍部隊の英国向け出発は開戦、動員開始後10日で第一陣が英国へ向う予定ですし、海軍部隊の行動は更に積極的に行われる計画です。
>…まして日本を先に叩いて、その後に欧州で対独攻勢という戦略はレインボー計画そのものを否定することになります。計画では順序は逆であり、対独攻勢の後に対日攻勢なのです。

BUNさん、忌憚無いご意見有り難うございます。
なんだか同じ時間にレスし合っていて、行き違いになっているようで…
さて、議論をしましょう。
1939年6月、アメリカ陸海軍統合会議において、対日戦にのみ焦点を当てていたこれまでの「オレンジ計画」に代わり、複数の枢軸国と対する「レインボー計画」を採用した事は事実です。しかし7月に「両洋海軍法案」が議会を通過した時点では、その概要は太平洋では日本、大西洋ではドイツに対抗し得るよう、二つの大洋で海軍力の充実を図る」と言うものであったに過ぎません。また1940年秋、スターク海軍作戦部長が中心となって作成した「合衆国国防方針」で挙げられていた四つの選択技の内、スターク自身は確かにドッグ・プラン(D案・最初にドイツを叩き、日本に対しては当初は防衛に専念する)を採る事を推していました。しかし彼が「合衆国国防方針」を提出した陸海軍統合会議が出した結論は、まずA案(「米本土周辺の防衛に集中しつつ、英国を援助し、これが極東に軍事力を増強できるようにする」と言う消極的かつしごく当然でもある極めて利己的なプラン)を採用し、もし戦争になればD案を採ると言うものだった。
ルーズベルトはこの決定に対してなんらコメントをせず、彼自身の腹の中は「D案」で決まっていたとしても、英仏の対独宣戦直後に公式に「欧州での戦争に対する中立・不介入」の立場を取る声明を発表している以上、「D案」支持を明確にはしていた訳ではありませんでした。それだけアメリカ国民の民意は戦争不介入の意見が多数を占めていたと言う事であり、彼がその時点で、その年の11月の大統領選挙において「大戦が勃発していた」事で、史上初の三選を果たす事を確信していたとも思えない。それはつまり「D計画」を実現させる事にはっきりと確信を持てていたとは限らない事を意味し、それはチャーチルとの個人的つながりのあるルーズベルトが、意に反して中立宣言を掲げた直後から、長期にわたってチャーチルに送った私信に綴られた弁解めいた内容にも強く現れている(ウィンストン・チャーチル著「第二次世界大戦」を参照)。
レインボー計画の「D案」は、幸運にもヒトラーの方から宣戦してくれたおかげで、「結果的」に予想外にも早期に実現できた「棚からぼたもち」の計画であり、民意に反する政策を取る事のできない民主国家がそもそも参戦する口実を得られなければ、「D計画」ではなく「A計画」を続ける他なかったはずです。この事からも欧州に直ちに介入する事が無理なら、極東で紛争中にあり、更に不穏な動きを示している枢軸国の片割れである日本をそそのかそうと考えても不思議はないと推察するのです。
考えるに、この時点で英国にしてやれる事は「武器貸与法」を成立させる事ぐらいであった、ルーズベルトの「腹の中」と言うのも歴史家の一つの解釈に過ぎません。終戦を待たずして逝去し、チャーチルと密談ばかりしていた一国家の大統領の腹の中なぞ余人の推察の域を出る事はないし、私は権謀術数に長けた政治家としてのチャーチルと言う人物さえ完全には信用していない。彼の著書を読むと(翻訳が悪いと言うのも多少あるが)、何か大英帝国と自らの行ってきた行為に対する良い訳がましい物が感じられるし、誇大な表現や抽象的な文章で言いくるめた内容は、過去の事実を明確にした回顧録と言うより政治的アンチテーゼの書といった方が良いくらいだ。何か二つや三つの隠し事を持って墓の中に眠っていても不思議でない人物と言う印象を受けるのである。
話がそれてしまったが、あくまでもこの意見は「仮定」の議論の中でアメリカ参戦の可能性を考える上で、私個人が導き出した推論からなりたっているものとしてご容赦願います。

>アメリカは「兄弟国」英国の防衛は最優先であるとレインボー計画中に明記していますので、英国の欧州での後退を静観する積りなど、ルーズベルト、チャーチル間の「密約」等が無くとも、とても考えられないのではないでしょうか。

私は「兄弟国」という感情的つながりの意味合いの強い言葉だけに、アメリカが支援にでる動機を見出す事はできませんし、その様な理由が冷徹な外交戦略の世界で通用するほどアメリカが甘い国だとも思っていません。親戚関係にあるとは言え、アメリカはれっきとした独立国家です。英連邦のような政治的義務が公式に認められる様な関係にないかぎり、自国の利益にならない事に相応の理由なしに干渉する事など、およそ世界の一等国がとる外交戦略としては自殺行為だと考えるのです。
もちろんアメリカが大戦に参入したのは、(ルーズベルトが)自国の利益を第一に考えた上での結果に過ぎないと考えていますし、それが実現したのも上記した幸運のたまものであったに違いないと推測してます。
何故なら、ルーズベルトが本気でそう考えて英国を救う決意であったなら、再選を逃してでも1940年の時点で参戦していたはずですし(まあ…準備が整ってからと言う理由もあるが…)、その時点のドイツ軍の勢いを見るに参戦が遅れれば遅れるほど、その打倒に多大な犠牲が伴う事は理解していたはずです。

>  また、モンロー主義と言えども、アメリカは対独戦略の中では南米の親独勢力の伸張を非常に警戒しており、決して欧州情勢を座して見守る態度ではありません。

しかし「モンロー主義」は前大戦以来20年間、堅持されてきた当時のアメリカの国家政策です。確かに南米は親独政権が温床となっている危険地帯ではありますが、むしろそれに対処する意味でAプランが戦前に採用されていたはずです。第一次大戦における悲惨な消耗戦は、アメリカ国民をして再びヨーロッパの情勢から目を反らせて、大洋に囲まれて安泰(少なくとも一般庶民はそう考えていたはず)であるだけでなく、殆どの資源を自国内で確保できると言う
稀有な地勢にある北米大陸の殻の中に閉じこもらせていました。
アメリカ国民が世界恐慌の始まりはアメリカでしたが、アメリカ自身は他の地域の情勢に関わり無く、独り存続していられるだけの経済的基盤も十分にあったし、国民自体がそれを望んだからこそこの政策が20年も続いていたと言えます。直接選挙制で大統領を選ぶアメリカの制度は、民意の反映がもろに投影されると言う事も無視できるものではないし、自己主張の強いアメリカ国民が自分たちの国とは「関係ない」と標榜されいたはずの土地で、息子や夫が棺桶に入って帰還してくる事に強い反発を示すであろう事は、ベトナムを見ればあきらかです。また当時のアメリカでは、海外に軍事派遣を行うと言う事自体、現在の日本の自衛隊がイラクに出兵すると言うのと同じくらいにタブー視されていたはずです。
まあ…ちょっと極端な例を挙げているのかも知れませんが、当時のアメリカの政策にはそれぐらいの重みがあったはずで、決して伊達ではないと言う事です。

長々と拝見して頂いて有り難うございます。またの忌憚ないご意見をお待ちいたしております。
かしこ




4960 [4947] [4967]
Re[5]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
woodstock(01/2/23 22:33)

アメリカが先?イギリスが先?
資本主義国が共産主義国へ支援を決定した時。
投資した資金が回収できないので。


4967 [4960] [5055]
Re[6]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/24 06:24)

> アメリカが先?イギリスが先?
> 資本主義国が共産主義国へ支援を決定した時。
> 投資した資金が回収できないので。
>
woodstockさん、こんにちわ。
「米大統領選挙 : woodstock (01/2/23 18:22)」の意味が
全然判らないんだけど…議事録の記録かなにかですか?
ひじょーに気になります。
また上の記事はソ連へのレンド・リース(武器貸与)の事をおっしゃっていると取りますが、厳密にどちらが先か調べないと良く分かりません。
ただ英国は大西洋・ルートで、またソ連はムルマンスク(ノルウェー海、バレンツ海経由 )からの北方ルートとイラン経由の南方ルートで米国からの大々的な物質的援助を受けました。英国は自身も米国の援助に頼る身だったので、ソ連に対する援助は米国からのものに比して少なかったと思いますが、それでも独ソ戦が始まった後の1941年の冬あたりに、北方ルートでスピット・ファイヤーを2〜3個中隊分ほど貸与していたはずです。
貸与した分が帰ってきたのか、また何かの対価の形で返還されたのかは、良くしりません。戦後の状況を考えるにソ連からの分はチャラになった可能性も・・・
かしこ


5055 [4967] [5059]
Re[7]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
woodstock(01/3/3 10:19)

チャラですよ。さすがと言って良いのかはよくわかりませんが。(笑)
なんでそんなにソ連大事だったんですかねぇ。
軍事の都合を優先したにしても組む相手を間違えていると思う。
資本主義圏内の自由主義と全体主義の戦争に留めておいた方が良かったのに、余計なことして勢いつけさせて、対独戦終了からシリーズで冷戦になだれ込んじゃったでしょ、その後50年も準戦時体制とでも呼べそうな状況を続けざるを得なくしてるんだから、間違った判断をしてるんだと思う。

> 「米大統領選挙 : woodstock (01/2/23 18:22)」の意味が
全然判らないんだけど…議事録の記録かなにかですか?
ひじょーに気になります。

スレ、被るなぁ(^^;


5059 [5055] なし
Re[8]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/3/3 16:06)

> チャラですよ。さすがと言って良いのかはよくわかりませんが。(笑)
> なんでそんなにソ連大事だったんですかねぇ。
> 軍事の都合を優先したにしても組む相手を間違えていると思う。
> 資本主義圏内の自由主義と全体主義の戦争に留めておいた方が良かったのに、余計なことして勢いつけさせて、対独戦終了からシリーズで冷戦になだれ込んじゃったでしょ、その後50年も準戦時体制とでも呼べそうな状況を続けざるを得なくしてるんだから、間違った判断をしてるんだと思う。
>
>> 「米大統領選挙 : woodstock (01/2/23 18:22)」の意味が
> 全然判らないんだけど…議事録の記録かなにかですか?
> ひじょーに気になります。
>
> スレ、被るなぁ(^^;

お久しぶりですな!お待ちしておりました。切り口を変えた見方も相変わらずで、なかなかはっとさせられます。
一言で言ってしまえば、戦争も所詮、一つの政治的手段に他なりません。チャーチルは残り少ない大英帝国の威信と自身の名誉のために自国民の犠牲と他国を巻き込む事をかえりみずにかろうじて戦争に勝利できた訳です。しかしそれを軍事的勝利と呼べても、大局的な勝利とは呼べないでしょう。これを大国のエゴと呼ばずしてなんと呼ぶのか?戦後、英国は大国の地位を完全にアメリカに取って代わられただけでなく、大陸は再び経済的復興を成し遂げたドイツを中心に動いています。日本が戦後の経済的発展の頂点にあった一時期に、「日本は本当に戦争に負けたのだろうか?」と言う多分に観念的一説を耳にした事があるが、私は「なるほどな」と思った。ヨーロッパにおけるドイツと極東における日本には、どちらも戦後の共産主義に対する防波堤として期待され、戦勝国の厚い庇護の下で急速な復興・経済発展を成し遂げました。無論その政治的地位は言うまでもなく、チャーチルやルーズベルトが1980年代まで生きていたら、「我々はあの戦争に本当に勝利したのだろうか?一体あの戦争で何を成し遂げたのだろうか?」自問自答せずにいられないだろう。
彼らは全体主義国家を倒すために、それより多少はマシ(とその時は思われた、あるいは周囲にそう思わせた)な共産主義ソ連を利用して何とか大戦に勝利できたが、利用されたのは実は彼らの方で、大戦で最も利益を得たのが言うまでもなく「ソ連」であった事はその後の歴史が証明している。結果的にソ連は崩壊したが、だからと言って当時の米英が正しかったとは言えない。冷戦時代の負の遺産、無駄に費やされたマンパワーや経済的損失は図りしれず、宇宙科学分野での発展は停滞して「2001年・宇宙の旅」の世界なんて夢また夢に留まっている。世界が狭くなり、経済活動の結びつきがより緊密になっている現代社会では、大規模戦争が起きて無傷でいられる国家など無く、本当の勝者もまた存在しないのであろう・・・。
尚、「米大統領選挙」の意味、改めて読み直して察しがつきました(^^;これからもよろしく
かしこ





5008 [4947] [5010] [5011]
Re[5]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
ごまめ(01/2/27 05:31)

すいません、もう議論はほとんど終わってしまった様ですがネットに繋げるようになりましたので意見を書き込みたいと思います。

>Edwerdさん
「賢明な政府が成立しその上で第2次大戦が行われたとしたら」の辺りが説明不充分だった様です。
ちなみに上の僕の意見は「こうすれば勝てた!(かも知れない)」と言う意見でありあくまで仮定ですが。
仮定の通りヒトラー政権でない「賢明な政府」であればアメリカに宣戦はしないでしょう。(アメ
リカを敵に回さないのが目的ですから)
又、それ以前の外交交渉次第でアメリカの参戦を防ぐ事も不可能ではなかったと思います。
当時のアメリカの主敵は日本だったと思いますので3国同盟の破棄なども必要でしょうが。

>BUNさん
米英関係はそんなに固い物だったのでしょうか?
僕の記憶では独立戦争以来、南北戦争でイギリスが南軍びいきだった事、多数のアイルランド系移民はイギリスに追われる形で移住してきた事、カナダが英連邦下だった事等から当時のアメリカ国民はそれほど親英ではなかったと思うのですが。まあ、政府にはイギリス系の人が多かったですが。




5010 [5008] [5015]
飛躍が過ぎると面白くないですよ
BUN(01/2/27 11:49)

> >BUNさん
> 米英関係はそんなに固い物だったのでしょうか?

第二次大戦前後の米英関係は、せいぜい空想小説の設定に味付けできる程度の隙間しかありません。実に確固とした同盟関係です。
私は「民意」という曖昧な表現は好みませんが、大戦時の米軍への志願率の日本などとは比べようも無い高さから言っても英国救援に対して反対し、政権の脅威になるような規模の「民意」は実際には存在しなかったものと考えます。

私はチャーチルが日本の米英への宣戦布告を待っていたとの説にも大いに疑問を感じています。
たとえば、チャーチルからモスクワ経由で松岡外相宛に送られた書簡には米英の鉄鋼生産量と欧州での戦況をほぼ正確に伝え、三国同盟に日本の国益が無いこと、米英は欧州の枢軸国処理と日本への対処をそれぞれ別個に行う余裕があること等を述べ、日本の強硬な姿勢に対して警告を行っています。これは恫喝ともとれる内容ですが、決して日本を正面から挑発する態度では無く、むしろ逆の目的によって書かれた物と読むべきです。
「それでも裏では・・・」との発想は夢想が過ぎるというものでしょう。


5015 [5010] [5016] [5017]
Re:飛躍が過ぎると面白くないですよ
Edwerd(01/2/27 21:02)

>> >BUNさん
>> 米英関係はそんなに固い物だったのでしょうか?
>
> 第二次大戦前後の米英関係は、せいぜい空想小説の設定に味付けできる程度の隙間しかありません。実に確固とした同盟関係です。
> 私は「民意」という曖昧な表現は好みませんが、大戦時の米軍への志願率の日本などとは比べようも無い高さから言っても英国救援に対して反対し、政権の脅威になるような規模の「民意」は実際には存在しなかったものと考えます。
>
米英間に「確固とした同盟関係」と呼べる同盟など存在していなかったと思いますが・・・。英国は日英同盟の締結までその後のアメリカの様な孤立主義的政策を採っていましたし、アメリカが第一次大戦の恩恵を受けて英国の立場に取って変わった時もそれを苦々しく思わないはずもなかったはず。ドイツと言う共通の敵があったために潜在的な「協力関係」は築いていても(英ソ間のそれ程、脆弱ではないが)、明確な軍事同盟としての確固たる協力関係は、戦後、冷戦に直面した時にアメリカ主導で結ばれたNATOが始めてと言っていいはず。しかもアメリカは前年に締結されたチェコの政変に際してのWEU(西ヨーロッパ連合条約)にも関与しなかった。
もし英米に「確固たる同盟関係」があって、しかも政権存続を脅かしかねない民意が存在していなかったのなら、アメリカは何故、1939年9月以降二年間も沈黙を続けたのでしょう?アメリカ人の国民性を考えれば、わざわざ真珠湾攻撃まで待たずにさっさと宣戦し、1941年9月にドイツの通商破壊作戦に中立法違反と言う汚名を覚悟で干渉した際にも、堂々と介入する方を好んだはずです。

> 私はチャーチルが日本の米英への宣戦布告を待っていたとの説にも大いに疑問を感じています。
> たとえば、チャーチルからモスクワ経由で松岡外相宛に送られた書簡には米英の鉄鋼生産量と欧州での戦況をほぼ正確に伝え、三国同盟に日本の国益が無いこと、米英は欧州の枢軸国処理と日本への対処をそれぞれ別個に行う余裕があること等を述べ、日本の強硬な姿勢に対して警告を行っています。これは恫喝ともとれる内容ですが、決して日本を正面から挑発する態度では無く、むしろ逆の目的によって書かれた物と読むべきです。
> 「それでも裏では・・・」との発想は夢想が過ぎるというものでしょう。
>

この点にも、むしろ微妙な英米関係を裏書きする背景が見て取れます。チャーチルが優れた戦争指導者であればある程、「決して日本を正面から挑発する態度では無く、むしろ逆の目的によって書かれた物と読むべき」とする意志と、いやしくも一等国と呼ばれる独立国家が到底飲めるはずも無く、内政干渉も甚だしいと言える「ハル・ノート」を突きつけたアメリカの行動とが矛盾している事に気付くはずです。
アメリカの行動は日本を抑制するものでなく、明らかに日本の宣戦を促す完全な挑発行為です。そして松岡外相に対する示唆は、むしろ太平洋方面より欧州方面を優先して欲しいとするチャーチルの個人的希望から発露されたスタンド・プレーであり、そこにはアメリカとの利害の差から生ずる微妙な協力関係の姿が垣間見えています。この点ではチャーチルは、日本が先に宣戦でもしてくれなければアメリカが直ちに大戦に参加する事が難しいと言う事を真剣に受け止めていなかったふしがある。


5016 [5015] なし
[投稿者削除]
BUN(01/2/28 06:13)

投稿者によって削除されました。(01/2/28 06:13)


5017 [5015] [5026]
Re[2]:飛躍が過ぎると面白くないですよ
BUN(01/2/28 06:15)

当時の米英関係が日独伊三国同盟よりも余程強固な基礎の上に立っていたことは疑えないと私は思いますが・・・。

また1941年9月については、開戦理由はともかくとして、単純に戦備の問題であったと解釈するべきではありませんか。米軍が欧州で攻勢をとる為の直接の戦力の整備が形を成すのは1942年後半からでしょう。「民意」を挙げるのであればその根拠となる所をデータとして形にする必要があるでしょう。

チャーチルは1941年4月に考えていたことについて、数ヵ月後に突如認識を変え、180度方針転換した、ということなのですか?私はそのような劇的な転回が行われた証を知りません。チャーチルの書簡は他の方にも読んで戴けるよう、以下に転記しますので、ご参考までにどうぞ。

「1941年4月2日
 私は日本帝国と国民の注意に値すると思われる幾つかの質問を試みたいと思います。

1 ドイツは制海権または英国における昼間制空権無くして、1941年の春か夏か秋に英国に侵入し征服できるでしょうか。これらの問題に解答が出るまで待つのが日本の利益ではないでしょうか。

2 英国の海運に対するドイツの攻撃は英米が前工業を戦争目的に転換しても、米国の援助が英国の海岸に届くのを阻止するほど強くなるでしょうか?

3 日本の三国協定加盟は米国が現在の戦争に参加する可能性を大きくしましたか、小さくしましたか?

4 米国が英国側に立って参戦し、日本が枢軸がわに与した場合、この二つの英語圏の海軍の優勢はその総合した力を日本へ向ける前に英米の欧州枢軸国処理を可能ならしめないでしょうか?

5 イタリアはドイツに取って力ですか?それとも重荷ですか?イタリア艦隊は紙上におけると同様に海上においても強力でしょうか?

6 英国空軍は1941年の末までにドイツ空軍より強力になり、1942年の末までには遥かに強力になるとは思いませんか?

7 ドイツ陸軍と国家警察によって抑圧されている多くの国民は時が経つにつれて一層ドイツが好きになるでしょうか?それとも段々嫌いになるでしょうか?

8 米国の鉄鋼生産が1941年中に7500万トンになり、英国では1250万トン、合計9000万トン近くになるのを信じられませんか? ドイツが前大戦と同様に敗北するようなことがあったら、日本の鉄鋼生産700万トンでは単独戦争に不十分ではないでしょうか?

これらの問題に対する解答から、日本による重大破局の回避、日本と西方二大海軍国の関係における著しい改善が生まれ出るかもしれません。」
(海上自衛隊「太平洋戦争日本海軍戦史」第二巻より転記)


5026 [5017] なし
微妙な米英関係から生じる思惑の相違
Edwerd(01/2/28 20:29)

> 当時の米英関係が日独伊三国同盟よりも余程強固な基礎の上に立っていたことは疑えないと私は思いますが・・・。
>

確かに三国同盟は、盤石で緊密な同盟と呼ぶに足らない名ばかりの同盟でした。互いに体面する潜在的敵国に対する牽制の効果を期待していただけで、それぞれの思惑のままに結ばれた、「軍事同盟」と呼ぶには余りにも統一的方針を欠いたものでした。そしてそれはヒトラーに何の相談も無しにエジプトやギリシャを攻撃したイタリアや、当初の日本の上層部における軍事政策を巡るの意見の不統一に現れており、ドイツの打倒と言う明確な方針があった「米英関係」の方がよっぽどましでした。
しかしそれは「米英関係」の強さを、枢軸同盟を引き合いに出して相対的に比較して観た上での話であって、だからと言って「第二次大戦前後の米英関係は、せいぜい空想小説の設定に味付けできる程度の隙間しかありません。実に確固とした同盟関係です」と呼べる程の物ではありません。

> また1941年9月については、開戦理由はともかくとして、単純に戦備の問題であったと解釈するべきではありませんか。米軍が欧州で攻勢をとる為の直接の戦力の整備が形を成すのは1942年後半からでしょう。「民意」を挙げるのであればその根拠となる所をデータとして形にする必要があるでしょう。
>
その根拠は「20年以上」も続いた「孤立主義政策」そのものであり、ルーズベルト自身が1940年に「奇跡の三選」を果した事です。彼はその意味する所を肌で実感していたはずです。何故なら彼が選ばれたのは、大戦勃発直後にはっきりと中立を宣言し、「武器貸与」などの経済的援助はあったにしてもヨーロッパの紛争に直接介入する事はないと国民の大半が信じたからです。20年に渡って「直接自国が攻撃されてもいないのに、何で外国の戦場に家族を送らねばならないのか?」という考えを徹底して貫いて来た国民が、どうしてその政策を反故にするかもしれない大統領を選ぶでしょうか?
彼はそれが判っていたからこそ、(貴兄のおっしゃる様な)緩慢な戦備体勢にも関わらず、迅速な戦時体制への移行に踏み切れなかったはずなのです。
また1940年9月に宣戦しなかった理由は「単純な戦備の問題」という言葉では説明するには不十分です。何故なら参戦の意志を明確にする事の第一義は、政治的動機に基づくものであり、だからこそ英仏、とりわけ英国に至ってはろくな準備もないままにポーランドに侵入したしたドイツに宣戦せざるを得なかったのです。ポーランドに対する明確な軍事支援を約束した「相互援助条約」がなければ、英国は少なくとも戦備が整うまで宣戦を控え、「いかさま戦争」などと陰口を叩かれる様を演じなかったでしょう。
同様な理由から、米英関係がそれ程「確固たる」ものであったなら、アメリカは1940年という英国が最も精神的、物理的に追いつめられて、今にも降伏しそうだと誰もが信じていた時期に、参戦の意志を明確にする政治的必要性を優先させねばならなかったはずです(例えそれに伴う実質的な行動が、一部の海軍戦力による嫌がらせ程度ものでしかなかいとしても)。それができなかったのは「単に戦備の問題」と言うのではなく、民意を無視する事ができなかった以上に、明確な同盟条約の様なそもそも参戦を国民に納得させられるだけの「理由(口実と言ってもいい)」がなかったからです。

> チャーチルは1941年4月に考えていたことについて、数ヵ月後に突如認識を変え、180度方針転換した、ということなのですか?私はそのような劇的な転回が行われた証を知りません。チャーチルの書簡は他の方にも読んで戴けるよう、以下に転記しますので、ご参考までにどうぞ。
>
これは私のいわんとする所を取り違えていらっしゃるようなので補足させていただきます。私は1941年4月のチャーチルの(日本の参戦を望まない)と言う考えと、ルーズベルトの日本に対する挑発行為にしか見えない行動の間にある「隔絶」から、とても両国が緊密で確固たる協力態勢があったとは思えず、そこにはそれぞれのエゴと利己的な展望が現れている、と述べたかったのです。チャーチルは日本が参戦すれば、極東における自国の権益が脅かされる以上に、「アメリカは最初に太平洋方面で日本に対処する必要に迫られるのではないか」と恐れて松岡に提言し、ルーズベルトは「欧州の紛争に直接介入するな」と言う民意に逆らえない以上、日本が先制攻撃を仕掛けてでもくれなければ大戦に参入する事さえできないと考え、英米間にアメリカの参戦の過程における考え方に相違があったと述べたつもりなのです。
チャーチル自身は上記の理由からその認識を変えてはいなかったでしょう。だがルーズベルトの認識とは必ずも正確に一致していなかったと言う事なのです。従って真珠湾直後に「これで我々は同じ舟に乗った訳です」とあたかもアメリカのヨーロッパ戦線への介入が直ちに決定したかの言いよう(ドイツの宣戦布告はその3日後なのに)には、日本の攻撃を事前に察知していたかの様な印象を受けるのです(これは、

>「 チャーチルが日本の米英への宣戦布告を待っていた」
>

と言う意味ではなく、アメリカの挑発によって日本が動きだす事を知ったチャーチルが、「少なくともドイツが大西洋における挑発に乗ってくるまで太平洋方面では守勢に徹してもらう」ようアメリカに打診済みだったのではないかと言う意味なのです。


5011 [5008] なし
Re[6]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/27 12:31)

> すいません、もう議論はほとんど終わってしまった様ですがネットに繋げるようになりましたので意見を書き込みたいと思います。
>
> >Edwerdさん
> 「賢明な政府が成立しその上で第2次大戦が行われたとしたら」の辺りが説明不充分だった様です。
> ちなみに上の僕の意見は「こうすれば勝てた!(かも知れない)」と言う意見でありあくまで仮定ですが。
> 仮定の通りヒトラー政権でない「賢明な政府」であればアメリカに宣戦はしないでしょう。(アメ
> リカを敵に回さないのが目的ですから)
> 又、それ以前の外交交渉次第でアメリカの参戦を防ぐ事も不可能ではなかったと思います。
> 当時のアメリカの主敵は日本だったと思いますので3国同盟の破棄なども必要でしょうが。
>
> >BUNさん
> 米英関係はそんなに固い物だったのでしょうか?
> 僕の記憶では独立戦争以来、南北戦争でイギリスが南軍びいきだった事、多数のアイルランド系移民はイギリスに追われる形で移住してきた事、カナダが英連邦下だった事等から
当時のアメリカ国民はそれほど親英ではなかったと思うのですが。まあ、政府にはイギリス系の人が多かったですが。

>ごまめさん、お帰りなさい。
確かにヒトラー政権下のドイツでなかったら、第二次大戦は怒らなかったでしょうね。その状況を見事に表現したアメリカの小説に「エリアンダー・モーニングの犯罪」と言う非情にユニークな設定のパラレル・ワールドを扱った本がありました。ごまめさんの言うように、まだ若き売れない画家だった頃にヒトラーが暗殺されたその世界は第二次大戦も怒っておらず、1980年代に米国と共に世界の二大国の一つとなっていたドイツが南極で世界初の核実験に成功した技術大国にもなっていました。タイム・スリップとタイム・パラドックス、そして史実とは変わったまた別の歴史を詳細に摸写した架空の世界に中々楽しませてもらいました。なにしろその世界では、史実での有名な各国の首脳や名将たちが、聞けばああと思うぐらいのほんの小物としてしか扱われていないのですから。
それと議論はまだ終わっていません。どんどん意見を述べて下さい。私も振るって返答いたしますし、私が述べたい、肝心 の「純軍事的観点からの転換点・設問者の見解(その具体的戦略は2−2で述べるつもり)」は完結していませんので。
かしこ


4957 [4928] [4959] [4964]
Re:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
FUL(01/2/23 19:44)

私は皆さんほど軍事知識無いものですから
ここらで少々視点を変えさせていただいて
20世紀の欧州各国の動きの背景には
必ず地下資源をめぐる葛藤があったはずです。
特に植民地獲得に出遅れたドイツにとっての
非常に重要な拠点は、イラクとナミビアで
はなかったでしょうか?
特にナミビアはたまたまドイツの鉄道員が
発見したダイヤモンドの宝庫で、一次大戦後
ほとんど強制的に南アのオッペンハイマーに
買収されてしまいます。イラクの油田もしかりでボーア戦争にかかわり南アとの関係も深い
チャーチルやダイヤモンドを独占するデビアスに
対してドイツ財界が非常に深い恨みを抱いても
不思議ではないはずです。
しかしこれらを取り戻すためには西北アフリカの盟主たるベルギー、フランスを排除しなければ、
それこそシーレーンの確保が出来ない植民地
状況でした。従って、ドイツがもっと冷静に
政治環境を分析していれば、
1.アフリカ同様の資源を持ち
2.資本主義に対する列強共通の脅威で
3.決してスターリンという独裁者に国民が
 満足していない。
ソビエト攻略戦を目指すことが再軍備の
目的と西側諸国にアピールしていれば、英国、
フランス、オランダ、ベルギーはもとより
米国の支援も受けれたのではないでしょうか?
日本の満州政策も対ソ攻略の一環だと主張し
資本主義陣営であると主張すれば国際的に
認知されることも可能??だったかも
しれません。
つまりドイツは恨みのあまり順序を間違え、
ソ連を存在を軽視しすぎて不可侵条約を結んだ
時点が転換期であったと思います。


4959 [4957] なし
Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/23 21:11)

> 私は皆さんほど軍事知識無いものですから
> ここらで少々視点を変えさせていただいて
> 20世紀の欧州各国の動きの背景には
> 必ず地下資源をめぐる葛藤があったはずです。
> 特に植民地獲得に出遅れたドイツにとっての
> 非常に重要な拠点は、イラクとナミビアで
> はなかったでしょうか?
> 特にナミビアはたまたまドイツの鉄道員が
> 発見したダイヤモンドの宝庫で、一次大戦後
> ほとんど強制的に南アのオッペンハイマーに
> 買収されてしまいます。イラクの油田もしかりでボーア戦争にかかわり南アとの関係も深い
> チャーチルやダイヤモンドを独占するデビアスに
> 対してドイツ財界が非常に深い恨みを抱いても
> 不思議ではないはずです。
> しかしこれらを取り戻すためには西北アフリカの盟主たるベルギー、フランスを排除しなければ、
> それこそシーレーンの確保が出来ない植民地
> 状況でした。従って、ドイツがもっと冷静に
> 政治環境を分析していれば、
> 1.アフリカ同様の資源を持ち
> 2.資本主義に対する列強共通の脅威で
> 3.決してスターリンという独裁者に国民が
>  満足していない。
> ソビエト攻略戦を目指すことが再軍備の
> 目的と西側諸国にアピールしていれば、英国、
> フランス、オランダ、ベルギーはもとより
> 米国の支援も受けれたのではないでしょうか?
> 日本の満州政策も対ソ攻略の一環だと主張し
> 資本主義陣営であると主張すれば国際的に
> 認知されることも可能??だったかも
> しれません。
> つまりドイツは恨みのあまり順序を間違え、
> ソ連を存在を軽視しすぎて不可侵条約を結んだ
> 時点が転換期であったと思います。
>
すばらしい!!その発想の斬新さに感服します。
どんな歴史家もその成功をヒトラーの外交上の奇跡と呼んだ
「独ソ不可侵条約」をもっと大局から観てドイツの黒星だった示唆する考え、勉強させられました。
確かにこの蜜月の条約は、英仏に対する牽制、そして機が熟するまで時間を稼ぐと言う意味では偉大な外交上の勝利だったかもしれない。後に突如としてこの関係を破ってソ連を攻撃したとは言え、当時のこの事件はかなりのインパクトをもって西側諸国を動揺させ、「全体主義国家(ナチズム)」と言う政治体制を持つこの専制国家を、完全に共産主義=ロシアと相通ずる見方を定着させたのかもしれない。
もしヒトラーが1937年に死んでいたとしたら、史上希に見る稀有な功績を残した偉大な政治家として歴史に名を残していたであろう事は多くの歴史家が認める事だと言う。ヒトラーが自己の野心を実現するために政権を掌握してから、1937年11月に執り行われるホスバッハ会議の席上にて軍首脳に自らの構想を吐露して戦争への道を歩み出すまでの4年間、彼の成し得た民政上の功績は過去に例がない。
史上初の高速道路となったアウトバーンの建設、安く低燃費で国民の誰もが手にできる安価で低燃費の国民車「フォルクス・ワーゲン」の提供、数々の文化的娯楽の普及、そして航空機産業を復興させ外国旅行を普及させるなど国民生活の水準を向上させた。その他、環境問題に対する規制、地下駐車場を設けて公園などの緑地帯を広く維持する事を提唱し、学校教育におけるスポーツ重視の改革を行って青少年層の運動能力向上を推奨したり、これら多くの先進的政策を僅かな期間に実現させた政治家など他に何処にも見当たらないだろう。
しかし、これら多くの民間政策の多くが軍事戦略の上でも重要な要素を併せ持つ事にお気づきになれると思う。民間生活の水準を向上させる事は、すなわち国力を充実させる事に他ならない。これらの民間政策と並行して、ヒトラーは軍事力の充実を図る事で再軍備のための下地と民需の更なる活性化を促した。
しかしヒトラーが周辺諸国の併合を始め、旧帝国領の全てを取り戻す意図をあらわにし、かつポーランドから回廊地帯を取り戻すために、事もあろうにあの共産主義ロシアと手を結ぶに至っては、西欧列強も国家社会主義なるものが単なる全体主義国家に過ぎない事を気付かされるに至るのである。
前大戦の終戦間際、ドイツに共産革命が勃発した時に、連合国は帰還したドイツ兵達がその革命を潰したのを見守り、今度は東部国境地帯で敗れたドイツの領土に争うように群がっていた東欧諸国に武器を持って反撃する事を認めた。これは新しく台頭してきた共産ロシアの拡張を押さえる防波堤の役目を期待していたのであっが、いまやそのドイツがソ連と手を結んだ事でドイツはワイマール共和国時代から培って来た国際的信用を自ら放棄してしまったと見る事もできると思うのである。
こうした状況ではFULさんが想像した西欧連合(独仏英)とアメリカが組んだ(言わば大西洋連合?)連合国VSソ連と言う図式は成り立たず、ドイツ軍が主力となってソ連打倒に邁進する事の見返りとして、東方に一定範囲の「生活圏」を建設する事を認めさせると言う事も夢のまた夢である。
その意味で、「独ソ不可侵条約」の締結はドイツの植民地獲得への道の一つの選択擬が絶たれた事のひとつの転換点と言えるのかもしれない。


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Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
k-mine(01/2/24 03:32)


> つまりドイツは恨みのあまり順序を間違え、
> ソ連を存在を軽視しすぎて不可侵条約を結んだ
> 時点が転換期であったと思います。
>
 私は意見を全く異にします。
 ヒトラーがソ連と不可侵条約を結んだのは対仏戦の為であり、いずれソ連に侵攻したであろう事は明らかです。
 Edwerd氏とは「あしか作戦」の是非についてご教授いただきましたが、資料を読んでいたらその頃盛んにヒトラーはイギリスに対し平和交渉の糸口を探っていたことが分かりました。ヒトラーはその頃「(優等人種の)イギリスとドイツが戦争をしていて、そのドイツが(劣等人種の)ロシア人と不可侵条約を結び(これまた劣等人種の)日本人と同盟するとは皮肉なものだ」というような意味の言葉を残しています。
 そもそもナチスは「ボルシェビキ打倒」を掲げているのですからヒトラーは自他共に認めるアカ嫌いのチャーチルに期待していたようです。
 またヒトラーは折に触れ自分の軍備はソビエト打倒のためだと主張しています。
 チェンバレン始め西側諸国がヒトラーにあれだけ譲歩をしたのもソ連に対しドイツを強力にさせることによって共産主義の拡大を防ごうという思惑があったことを忘れてはいけません。
 ナチス・ドイツはその成立から東を向いていました。しかしドイツが強力になりすぎることは西側諸国とりわけフランスにとっては脅威であり、たとえヒトラーが誠実に(私自身はかなり誠実だったと思いますが)東を指向しても フランスと衝突するのは避けられなかったと思います。


4966 [4964] なし
Re[3]:ヨーロッパ戦線の転換点は何処か?
Edwerd(01/2/24 06:24)

>
>> つまりドイツは恨みのあまり順序を間違え、
>> ソ連を存在を軽視しすぎて不可侵条約を結んだ
>> 時点が転換期であったと思います。
>>
>  私は意見を全く異にします。
>  ヒトラーがソ連と不可侵条約を結んだのは対仏戦の為であり、いずれソ連に侵攻したであろう事は明らかです。
>  Edwerd氏とは「あしか作戦」の是非についてご教授いただきましたが、資料を読んでいたらその頃盛んにヒトラーはイギリスに対し平和交渉の糸口を探っていたことが分かりました。ヒトラーはその頃「(優等人種の)イギリスとドイツが戦争をしていて、そのドイツが(劣等人種の)ロシア人と不可侵条約を結び(これまた劣等人種の)日本人と同盟するとは皮肉なものだ」というような意味の言葉を残しています。
>  そもそもナチスは「ボルシェビキ打倒」を掲げているのですからヒトラーは自他共に認めるアカ嫌いのチャーチルに期待していたようです。
>  またヒトラーは折に触れ自分の軍備はソビエト打倒のためだと主張しています。
>  チェンバレン始め西側諸国がヒトラーにあれだけ譲歩をしたのもソ連に対しドイツを強力にさせることによって共産主義の拡大を防ごうという思惑があったことを忘れてはいけません。
>  ナチス・ドイツはその成立から東を向いていました。しかしドイツが強力になりすぎることは西側諸国とりわけフランスにとっては脅威であり、たとえヒトラーが誠実に(私自身はかなり誠実だったと思いますが)東を指向しても フランスと衝突するのは避けられなかったと思います。
>

「つまりドイツは恨みのあまり順序を間違え、」と言う所は確かに極端でしょうね。「独ソ不可侵条約」はヒトラー個人の考えから生まれた彼のスタンド・プレーであり、ポーランドに対する「分割協定」に関しては国防軍の首脳部ですらソ連軍が動き出すまで何も知らされてなかったぐらいです。
ヒトラー個人は経済的な怨恨で西側と事を構える気は毛頭なかった(まあ・・・経済的見地から見て植民地獲得競争に取り残されていた事は確かで、ドイツ経済界の重鎮たちにはその様な感情はあったとは思うが)し、もちろん、ヒトラーはいずれソ連を攻撃するつもりで(スターリンもまた同様な事を考え)いながらこの「蜜月の同盟」を結んだのは確かです。
むしろヒトラーはこの条約が英仏に対する確実な牽制になる事を確信し、ポーランドに侵入しても英仏が腰を上げる事はないと見ていたぐらいなのだから。
しかし私は「独ソ不可侵条約」が、「英仏と連合したドイツがソ連を攻撃する、と言う可能性をついばんだ」と言う意味での発想そのものは評価したい。
ヒトラー自身は元々西側し事を荒立てる気はなかったし、ズデーテン以外のチェコやポーランドに侵入せずにいたら大戦も勃発せず、戦争屋のチャーチルなぞ政権の座に突く事もなく、ミュンヘン協定を成立させて平和を維持した英雄のままチェンバレンが英国の首相の座に居座わって、ヒトラーと手を組んでソ連と対峙すると言う構図も十分に考えられたはずである。
かしこ


4981 [4928] [4982]
ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−1
Edwerd(01/2/24 22:01)

ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解

皆様、様々なユニークな意見ありがとうございます。
色々な人に意見を聞く事は、別の切り口から見た発想の転換を得られてすごく勉強になります。
さてこの辺で私の意見を述べさせてもらいます。
本来、ヨーロッパ「戦線」と名を打っている訳ですから、その観点は純軍事的側面からのみに置くべきでしょうが、視野を広く持って物事を考える事は新しい発想やアイディアを生む原動力となる事は既に御分かりかと思いますのでこの際、堅い事は抜きにしましょう。
そこで私はまず、(武力進駐や軍事力の圧力による恫喝外交をも含めた)政治・外交的側面からの観点、次いで純軍事的観点から見た大戦の転換点を示し、そしてそこでドイツが全く別の選択をしていたら大戦に勝利(或いは政治的に勝利)する事ができたかどうかという可能性について述べようと思う。

*武力進駐は「純軍事的行為だ!!」とおっしゃる方もいると思いますが、大戦が勃発に至る前までヒトラーは何度も恫喝外交を成功させているので、問題を単純化するために「戦争が起きている」状態と「起きていない」ものとで区分けする事にしました

1 政治・外交的側面から見た転換点

まず初めに、1933年にヒトラーが政権を掌握した後のドイツにおいて、何をもってドイツの勝利と呼ぶのかと言う点から考えなければならないと思うが、それは大きく二つに分けられると思う。一つはドイツの歴史的経緯を鑑みて、旧ドイツ帝国の領土を回復し、ヨーロッパにおける大国としての威信を取り戻すまでを勝利とするもの。もう一つはご存知の通りヒトラーと言う国家指導者の立場から見たもので、彼が心に想い描いていた東方への拡張によるレーベンスラウム(ゲルマン民族の生存圏)の確立と、石油・穀物資源の確保を以って勝利と呼ぶものである。
前者は大戦前の歴史的経緯から、外交・政治的な手段で十分達成され得るものと判断したのでこの項で述べたい。しかし後者のヒトラーの野望と呼べるものは到底、戦争を伴わずには達成され得ぬものと解釈するので、これを「純軍事的観点」から見た勝利と呼ぶ事にし、次の項で述べたい。

さて、大戦を引き起こさずに、外交・政治面(先に述べた如く、当然、軍事力を背景にした恫喝外交をも含む)におけるドイツの勝利を得る上で、その転換点となった所は何処なのかを一言で述べれば、他の記事でもちょっと触れたが、それは「チェコ併合」であると私は結論したい。
1938年9月に始まったチェコ併合はドイツだけでなく、むしろ連合国側にとっても一つの転換点であり、ドイツの行動を推し留める最後の機会でもあった。
1935年、住民投票の結果によってザール・ラント地方のドイツへの帰属の決定をかわぎりに、ヒトラーは次々に大きな政治的賭けを行い、そしてそれを成功させてた。1936年、一方的に「再軍備」を宣言すると共に、非武装中立化されていたラインラントへの進駐を強行、さらに1938年3月にはオーストリアに進駐しこれを併合したのである。
ヒトラーは連合国間の足並みの乱れや、特にフランスを中心として「もう前大戦の様な悲惨な戦争は絶対に御免だ」と言う、極端な平和主義思想が広まるヨーロッパの国民感情の趨勢を敏感に感じ取っており、ドイツが行動を起しても英仏は腰をあげまいと踏み、実際その通りになった。ドイツ軍部の心配とは裏腹に、ラインラント進駐に際しフランスは戦争を恐れて動員する事を躊躇し、オーストリア併合も住民の歓喜に包まれてたドイツ軍が無血占領を果すのをただ指をくわえて見守るばかりだった。
しかしドイツ系住民350万人が住むズデーテン・ラント地方の割譲をチェコに迫った時は、事はそう簡単には行かなかった。この地方には重要な産業基盤が集中している事からチェコはドイツの要求を拒否し、ドイツ軍が国境に展開したのに応じて動員を開始、フランスもとうとう軍を動員するに及んでヨーロッパは再び戦争の危機に見舞われた。この時、軍事予算の削減によって人気を得ていた英国のネヴィル・チェンバレン首相は、イタリアの仲介の下に英・独・仏・伊四カ国によるミュンヘン会談を成立させ、チェコにスデーテン・ラントの割譲を飲ませて、一躍戦争を回避した政治家として名声を博した。
しかし問題はここからで、ヒトラーはスロバキア内の独立運動を契機にチェコ全土の要求をハーハ大統領に突き付けたのである。結局、ハーハはヒトラーの軍事力を背景にした恫喝と張ったりに屈し、残りのチェコ領は39年5月にドイツの保護領となり、大戦が勃発する9月には正式に併合されてしまう事になる。そしてこの事件で、成立したばかりのミュンヘン協定をこうもあさっりと踏みにじられた英国の威信を地に落ちる結果となった。英国民は怒りに沸き立ち、これまで多くをヒトラーに譲歩して宥和政策を堅持して来たチェンバレンも、とうとう対ドイツ強行路線へその政策を変更せざるを得なくなったのである。

この時点(39年3月のドイツ軍進駐)でフランスが、23年にルール地方を占領(賠償金の不払いを理由としたものだが、占領軍の維持費の負担に耐え兼ねたフランスは結局、7年後に撤退していた)した時の様に、再び断固とした態度でドイツへの武力進駐を行っていれば、第二次世界大戦は回避できていたであろうと多くの歴史家が述べている。その時ドイツが西部国境に展開できていたのは僅か12個師団の戦力に過ぎす、その大半は予備役だったのに対し、フランスは100個師団を動員可能だったのだ。しかし前大戦で最も多くの人的損害を被り、厭戦気分の頂点に達していたフランス国民はもとより、要塞防衛論に傾倒してただひたすら自国の国境を二度と脅かされない事だけを考えていたフランス軍部も政治家も腰を上げる事はなかった。
こうしてドイツの行動を阻止して大戦を回避する最大の機会を逸した連合国と同様に、この事件はドイツにとっても戦争に至る道の分岐点となった。
ヒトラーはこれまでの併合政策に際し、全ての行為はかつてのドイツ領を取り戻し、ドイツ民族を本来あるべき形に統一しているに過ぎないと言う論理を連合国側に訴えていた。これは前大戦後に、旧連合国がヴェルサイユ体制の名の下に行った国家間の線引きと同じである事と英仏も認めざるを得ず、それゆえこれをドイツの行動を黙認する根拠として掲げて面目を保ってきた。しかし残りのチェコ領を奪い、ドイツ人でもない民族を支配下に置いた瞬間から、ヒトラーはオーストリア併合以来から保持していた、一連の併合政策に対する論理的正当性を自ら放棄する事になった。もはや、ヒトラーの目的が旧帝国領以上の領土を獲得する事にあるのを気付かされるに至ったヨーロッパ各国は、あわてて軍備拡張に乗り出す事になり、ヨーロッパ情勢は二度目の大戦に向けて急速に動き始める事になったのである。

2−2へ続く


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Re:ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−2
Edwerd(01/2/24 22:03)

2−1からの続き

もし、ヒトラーがスデーテンの併合だけで矛を収めていたら、その後のヨーロッパ情勢はかなり違ったものになったに違いない。加えてヒトラーが急逝するかしていれば、彼はドイツの復興に偉大な功績を残した指導者として歴史に名を留めたに違いない。チェンバレンやレイノー(フランス首相)はその後、かつて領有していた周辺諸国の領土に触手を伸ばす共産主義ソ連の脅威や、エチオピアで行動を起していたムッソリーニのイタリアの行動を推し留めるために、ドイツに頼らざるを得なくなるだろうし、ソ連が実際にフィンランド、バルト三国、ルーマニアのベッサラビア地方へ進駐すればますますその必要性はたかまるだろう。
ミュンヘン協定が破られなければ、その偉大な実績を作った英国のチェンバレンが長期政権を維持した可能性は高い。チャーチルが戦後、直ちに首相の座から降りねばならなかった事からも判るとおり、彼が1940年の危機に際してチェンバレンの後釜にすわれたのは、ひとえに前大戦における海相としての実績と戦争指導力を買われたからである。
イタリアの動きは鈍るだろうが、西側とソ連が揉めている隙にアルバニアからギリシアに進むかもしれない。もし独仏英の防共協定を結ぶとしたらヒトラーはムッソリーニとたもとを分けなければならないだろうが、東方の危機に際して背に腹は代えられないと思う。
ソ連は1940年代前半は慎重に推移を見守るかも知れないが、英仏がアフリカと地中海でイタリアと対峙している隙を狙って必ず東欧諸国を狙ってくる。
アメリカはヨーロッパで大戦が起きていない以上、オレンジ計画を堅持して日本を警戒し、ヨーロッパの情勢には当初は介入しないだろう。太平洋戦争が起きるかどうかは微妙な所だ。ドイツと日本は防共協定を結んでいたが、スターリンを東西から締め付ける為に日本を協力させて北進政策を取らせれば、アメリカは満州国を黙認せざるを得なくなるかもしれない。
そうなると中国共産党はソ連と組んで日本と対峙する事を掲げ、国共合作の枠から抜け出して早期に共産中国の樹立に乗り出す事も考えられる。
世界の政治地図は、
ヨーロッパ方面における、英仏独を中心とする WETO(注1) VS ソ連と
極東方面における、アメリカ VS ソ連、中国の共産連合
と言う図式ができあがる。
日本と中国の紛争は長引きそうなのでソ連はまず、リガ条約でポーランドに奪われていた領土を取り返す為に1950年に入る前に行動を起す可能性は高い。その際、同国北東部に住む100万の白ロシア人と東南部にいる400万のウクライナ人の保護を名目に軍事進駐を開始するに違いない。同時にアメリカの支援を遮断するべくソ連はノルウェーを攻撃、次いでアイスランドを狙ってノルウェー海の制海権奪取を目論む可能性が大だ。南では黒海艦隊の地中海への出口を求めてダーダネルス海峡を狙い、ルーマニア経由で兵を進める。
これに対しWETOは、バルト三国とポーランド、ルーマニアの解放を目指し、対ソ作戦計画「フリードリッヒ(佐藤先生ごめんなさい)」を発動する。圧倒的物量のソ連空軍に対しドイツはその科学技術の粋を集めた新生ルフトブァッフェ(当然全ての戦闘機がジェット化されている)で対抗し、瞬く間に制空権を掌握、ポーランド国内のソ連軍を包囲殲滅する。一方、英仏軍がユーゴ方面からルーマニアを、そしてソ連北洋艦隊を撃退した英米仏の艦隊はノルウェーに上陸してそれぞれの解放を目指す。
ドイツ軍は更に、ルーマニアからの英仏軍と合流するべくキエフ方面にまで進出、中央ではスモレンスクを、そして北ではバルト三国のソ連軍を蹴散らしてレニングラードを占領。それでもソ連軍が降伏しないので遂に秘匿していた新兵器・V5弾道弾による戦術核攻撃をハリコフに加えるに至る。その圧力に屈したスターリンは和平を結ぶ苦渋の選択をするが、37年の粛正の恨みを忘れていない赤軍の一派が混乱に乗じてクーデターを起し、政権の座を追われる。
戦後、オデッサ条約の名の下にフィンランドが解放され、ウクライナが独立、その他幾つかの小民族国家が西側の思惑で独立する。レニングラードはドイツの委任統治下に置かれ、白ロシア地方の西半分はWETOの監理の下に数年間は非武装地帯とされた…。

(注1) WETO (West Europe Treaty Organization) 西ヨーロッパ条約機構
勝手に創りました…すいません

WETO VS ソ連 の対決はかなり悪乗りしてます。あまり突っ込まないで下さい。
「2 純軍事的観点から見た転換点」は次回
かしこ


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Re[2]:ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−2
かすた(01/2/25 03:31)

 どうも申し訳ないです。初期の設問の「守勢への転換点」というところをぽっかり読み落としていました。その点から見れば、スターリングラードだと思いますと、この場を借りてフォローさせていただきます。理由は、その後ドイツは国家戦略的な攻勢をかけていないことがあげられると思います。アルデンヌ攻勢や「春の目覚め」作戦など、攻勢をかけていますが、攻撃してくる敵戦力の排除といった作戦戦略レベルの行動に思えるからです。

>さて、大戦を引き起こさずに、外交・政治面(先に述べた如く、当然、軍事力を背景にした恫喝外交
>をも含む)におけるドイツの勝利を得る上で、その転換点となった所は何処なのかを一言で
>述べれば、他の記事でもちょっと触れたが、それは「チェコ併合」であると私は結論したい。

 転換点については、チェコ併合でも間違いではないでしょう。しかし、まだ退き返せる地点にあったと思います。
 さらにこの時点では東プロイセンが飛び地の状態であり、ダンツィヒはドイツ領にはなっていません。そのため2−1でいう「旧ドイツ帝国の領土を回復」が果たせていません。またプロイセン発祥の地が飛び地になっているというのは「大国としての威信」を損なうものではないでしょうか。「政治的勝利」を完全に手にするためには、ポーランドとの戦争は避けられなかったのではないでしょうか。

 この点を「細かい話」と片付けたとして、話を2−2のソ連とイタリアに対する列強の警戒についてのあたりまで戻します。

 で、私の考えでは、もし英仏と防共協定(共に防ぐ協定なのか、共を防ぐ協定なのか)が結ばれたとしたら、
 欧州方面
  ドイツ、フランス、イギリカ VS ソ連、イタリア
 極東方面
  中国、イギリス、フランス VS ソ連、日本
となっていたと思います。
 なぜなら、防共協定が成立した時点でソ連は対抗するために仲間を捜すでしょう。するとこの時点でソビエトに敵対的でない強国は、国境問題でこじれかけている日本だけです。ノモンハンは5月以降なので、ソ連は前もって譲歩し、日本を味方につけようとするでしょう。日本はソ連から重油を分けてもらえるため、異存はないでしょう。
  ※ガソリンはアメリカ製の方が質がよく、またこの頃は石油輸出規制もないため、
   買い放題です。またソ連も陸や空で使うガソリンや軽油は備蓄しておきたいはずなので、
   艦船用の重油しか売ってもらえないでしょう。
 このとき一番困るのは、もしかしたらアメリカの石油業界かもしれません。海軍国のイギリスはサウジから石油を手に入れ、ドイツ、フランスもそこから買うでしょう。上の図式はあくまでもにらみ合いであり、石油と血の浪費合戦には発展していないため、それ以上の石油は必要としないはずです。
 また、支援相手の中国は石油を必要とするほど発展していません。とすると、ガソリンの手に入らない日本と、極端に生成能力の低いソ連相手にガソリンを売りまくる以外、破産するほかありません。しかし、だからといってアメリカは満州国を是認しないでしょう。これは歴史が証明する通りです。

 この後1950年に欧州が戦争に突入したとしても、技術的には1942年あたりのでしょう。戦争をしなければ兵器技術の進歩はゆっくりです。
どの国の戦車もいまだに補助兵器で、海軍は大艦巨砲主義で、各国の最強戦闘機も時速600キロ出るかでないかのレシプロでしょう。中国とドンパチやってた日本はもう少し高性能でしょうが、戦後、他国の生活レベルの高さに目を丸くすることでしょう。

 結局のところ、
 恐らくアメリカは中立を宣言し、日本は欧州を無視して黙々と中国と争い、欧州では独仏英がソ連を圧倒するでしょう。
 しかし、英仏ともソ連と国境を接していないため、一方的にドイツの国土拡大を助けるとは思えません。手を抜いては「イタリアが強くて」とぼやき、ここぞというときに「援軍くれないと降伏する」と駄々をこね、もう少しでモスクワ占領となると、「輸送トラックなくなった」と邪魔をするでしょう。一方では中国を我が物にせんと血眼になる日本に対して、インドシナ方面からちょっかいをかけ続け、地中海にいるべき艦隊はシンガポールで演習し、ハノイでは空前絶後の大兵力が観兵式を行い、香港中を「トラックの載ったトラックを載せたトラック」が走り回っているでしょう(極端な話ですが)。

 最後に、
 どの国も、特定の国が大きくなることに対して強い懸念を持ちます。
 出る杭は打たれるのです。出た杭は他国にとって脅威となるため、集団安全保障の名の元に打たれるのです。それがそれぞれの国家を守ることにつながりますから。
 その中でいかに自分の地位を保つか。これが外交の妙だと思います。主義主張では本当の同盟はできません。共産国同士のにらみ合いだってあります。宗教を何よりの一体感と見るイスラム圏でさえ、戦争は起きます。

 ……あ、突っ込まないでくださいってところ、ぽっかり読み落としてたや。


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Edwerd(01/2/25 09:08)

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Re[3]:ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−2
Edwerd(01/2/25 09:35)

さっそくの返答ありがとうございます。
めちゃくちゃ突っ込まれると思いましたが、意外と手柔らかでホッとしましたな…WETO案には一応同意してくれたようで…あっ、だからと言ってあまりあら捜ししないで下さい(^^;…私としてはあくまで問題の焦点は「転換点」ですので…

> 転換点については、チェコ併合でも間違いではないでしょう。しかし、まだ退き返せる地点にあったと思います。
>

私の言う「転換点」とは「分岐点(を過ぎた所)」と言い換えてもいいので、それは「もう引き返せない地点」を差して言ってます。ドイツはズデーテンの併合までで留まっていれば英仏と対立せずに済んだはずですが、チェコ全土(スロバキアは除く)の併合となればそうは行きません。何故なら、ズデーテン進駐の時点までに取り戻した領土に在る住民はそのほとんどがドイツ民族であり、その「論理的正当性」に反論できなかったからこそ、チェンバレンもチェコに「ミュンヘン協定」を飲ませてドイツに譲歩するよう説得した訳です。しかし史実では、スロバキアで独立運動が発生して助けを求めに来たチェコのハーハ大統領に、ヒトラーはチェコ全土の併合を迫りました。ドイツ系住民が住んでいる訳でもない土地にドイツ軍が進駐を開始した時点で、ミュンヘン協定を踏み躙ったドイツは英仏を完全に敵にまわした訳です。この意味で「ズデーテン併合」から「チェコ(全土)の併合」までの間に「分岐点」があり、「チェコ(全土)の併合」に歩を進めた事が「(もう引き返せなくなった)転換点」となったと言う事なのです。

>さらにこの時点では東プロイセンが飛び地の状態であり、ダ ンツィヒはドイツ領にはなっていません。そのため2−1 でいう「旧ドイツ帝国の領土を回復」が果たせていませ> ん。またプロイセン発祥の地が飛び地になっているというのは「大国としての威信」を損なうものではないでしょうか。「政治的勝利」を完全に手にするためには、ポーランドとの戦争は避けられなかったのではないでしょうか。
>

この点については説明が抜け落ちておりました。当然ドイツは最も重要なポーランド回廊の返還を打診するでしょう。ポーランドにしてもミュンヘン協定の恩恵を受けてスロバキアからテッシェン地方を割譲していますし、前大戦後に多くのソ連領を獲得している事から西方よりむしろ東方に脅威を感じてドイツとは1934年に不可侵条約を結んで友好関係にあったぐらいです。
また、ポーランド政府は軍人と右翼政党の連合体であり、東方との緊張関係を続けている以上、直ぐに回廊を返還すると言わないまでもドイツとの交渉を無下に拒否する事はできないしょう。英仏に打診した所で英仏もまたドイツを共産主義に対する一番の防波堤として期待しているので、逆にドイツに譲歩するよう迫るはずです。なんと言っても回廊地帯は旧帝国領である以前に、その国境付近には100万のドイツ人が在住している訳ですし、ドイツがミュンヘン協定を破らないかぎり、それがヴェルサイユ体制にとって変わる「国際的枠組み」になってしまっているからです(英仏は、ドイツがヴェルサイユ体制を無視したのを黙認した時点でその体制が間違いだった事を認めたも同然ですし、ミュンヘン協定を結んだ事でそれは決定的になったはずです)。

この結果、年々増大する共産主義ソ連の脅威に対処するためにも、ポーランドとしても譲歩する事になるでしょう。しかしヨーロッパの民族分布は非常に複雑で回廊地帯にもポーランド人が以前から住む地域があったでしょうから、ドイツとしても全部とは言わずに内陸部の地帯については調整して、一部を返還地帯から除外して譲歩する必要があると思う。そして陸続きとなって兵站線も安定した東プロイセンにドイツ軍が進駐し、東部国境からソ連に睨みを利かせれば、ポーランドも納得する事でしょう。

> 私の考えでは、もし英仏と防共協定(共に防ぐ協定なの
> か、共を防ぐ協定なのか)が結ばれたとしたら、
>  欧州方面
>   ドイツ、フランス、イギリカ VS ソ連、イタリア
>  極東方面
>   中国、イギリス、フランス VS ソ連、日本
> となっていたと思います。
>

( )の所は意味が良くわかりません、特に二節目が。
欧州方面は判りますが、ソ連と日本が手を結ぶですか…
むしろ、

>
> 結局のところ、
> 恐らくアメリカは中立を宣言し、日本は欧州を無視して
> 黙々と中国と争い、欧州では独仏英がソ連を圧倒するで
> しょう。
>

の方が納得できます。ただしアメリカは西ヨーロッパが団結してソ連にあたっている以上、「オレンジ計画」を保持し続けて日本に睨みを利かせ、英仏と共に中国を支援しようすとるのではないでしょうか。けれど、ソ連が中国共産党を後押しして、その代償として生まれ変わった共産中国を味方に引き入れようとする可能性は捨て切れません。なにしろ日本と中国は紛争中ですし、もし日本と協定を結んだら、北方に憂いが無くなった日本は日中戦争に勝利してしまうかもしれません。陸続きの中国大陸に、中国共産党が力を伸ばしている中国と、ソ連とは歴史的因縁があって漁夫の利を得ようと考えるかもしれない日本、どちらが残った方がソ連にとって脅威か明らかだと思うのですが…。
結局の所、日本と戦っている中国に対し、ソ連とアメリカのどちらが先に有利な条件を提示できるかに架かっているかによると思うが、中国は陸続きであるソ連を取ると思う(ソ連から密かに援助された中国共産党が台頭すれはそれは確実だ)

> しかし、英仏ともソ連と国境を接していないため、一方的にドイツの国土拡大を助けるとは思えません。
>

ここの所は思い違いをされてるようで…
この項のテーマはあくまで「政治・外交的観点からの転換点」ですので、ドイツの政治的「勝利」はポーランドから回廊の一部を返還された時点で達成されます。また、英仏と共同してのソ連侵攻はあくまで予防戦争(この言葉もまた物議をかもしそうだが)であり、ソ連が併合した諸国を解放した時点でその目的は達成されています。しかし敵が降伏したからと言って直ぐに撤兵すると言う訳にも行かないので、レニングラードはドイツの、そして白ロシアの西半分がWETOの「委任統治下」にあり、あくまで一時的な非武装中立地帯にあると言う事なのです。
ドイツはロシアの領土を併合していませんし、この項(1「政治・外交的観点からの転換点」)の「勝利」とは「旧帝国領の回復」であり、ヒトラーの目指した「勝利」(2「純軍事的観点からの転換点」で述べるつもり)である「東方生存圏の獲得」とは別物なので、ドイツは東方への政治的野心は持っていないと仮定した上での話と理解して下さい。

また国境を接していなくとも、共産主義ソ連の西ヨーロッパへの拡大(東欧諸国がそうなれば、次ぎは西欧である事は明白です)は英仏にとって十分にき脅威です。第一次大戦の終戦時、ドイツに共産革命が起きた事で連合国は救われましたが、直後にドイツ兵達に武器をもったまま帰還する事を許してこの鎮圧にあたる事を容認しました。また同様に終戦後も、東欧諸国が競ってドイツの東部国境を奪おうとするのに反撃する事を許して、同時にソ連に対する防波堤になる事を期待してたぐらいなのですから。

まぁ、こういう論議でお互いツッコムなと言う方が無理かもしれませんね…
「勝利の栄光を…君に!!」
かしこ



5000 [4928] なし
純軍事的観点から観た転換点・設問者の見解 2−1
Edwerd(01/2/26 21:49)

「2 純軍事的観点からの転換点」2−1

 最初の記事でも述べたが、「ドイツが守勢に転じた時」と言う意味では「スターリングラードにおけるドイツ第6軍の降服」がその転換点の一つと言える。だが、ここで私は更に一歩踏み込んで、「ドイツが大戦における勝機を逸した時」と言う意味での純軍事的観点から見た転換点を示し、同時にその時点でどの様な選択をしたら勝利を得られたであろうかと言う点を考えてみたい。
 この問題を考える上で、まず何を以ってドイツの軍事的勝利とするのかを定義しなければならないが、ここでは「1 政治・外向的観点からみた転換点」で述べた通り、ヒトラーが意図していた「東方への拡張」、すなわちソビエト=ロシアの打倒と、その結果として得られる石油・穀物等の資源の確保をもってその最終的勝利をとするのが妥当ではないかと思う。冷戦後に明らかになったソ連の資料からも判明した通り、この時期のソ連がルーマニアの正面に異常な程の兵力を集中しており、べッセラビアに次いでドイツ攻撃を意図していた事からも、ドイツはどうあってもソ連との戦争を回避する事はできなかっただろう。またそれはヒトラー自身が望んでいた事でもあり、この事からソ連の打倒こそが、ヨーロッパにおける軍事的勝利の必須条件であった事は否めない。
 しかしここで問題になるのは英仏の存在である。ヒトラーは当初から東方を指向していたにも関わらず、ポーランド攻撃時に英仏から予想外にも宣戦布告を受ける事態に至り、「二正面作戦」と言うドイツが伝統的に抱える戦略的弱点を避ける必要上まず西欧の敵を片づける事に迫られる。ヨーロッパ中部に位置するドイツがその建国以来から持つ、この「常に東西から強敵に脅かされねばならない」と言う地政学的脆弱性は、前大戦においても致命的な足かせとなったが、それを見事に克服した時代もあった。普奥戦争、普仏戦争において、プロイセンの偉大な名参謀長・モルトケが常に常勝でいられたのは、同じく政治・外交の舞台で辣腕を振るった鉄血宰相・ビスマルクが、決してモルトケが二正面作戦を強いられる状況を作らなかったからである。
 この時代、モルトケは国内の鉄道網を徹底的に整備させる事によって兵力の迅速な移動・集結を可能ならしめ、これを以って敵の各個撃破に専念して、決して二正面作戦による「戦力の分散」と言う愚を避ける事ができた。その意味でドイツ国防軍が取り入れた「電撃戦」の持つ「スピード」は、作戦レベルで見た上での「敵の各個撃破」を可能とする近代的戦術であった。
 この新たな用兵思想を駆使したドイツ軍の戦術が正しかったのは、フランスが僅か6週間で崩壊してしまった事で十分に証明された訳だが、問題は残る唯一国となってもしぶとく抵抗を継続し続けている英国であった。そしてここでも前大戦同様に、ドイツは「戦術的」な勝利を手にしてはいても、潜在的に逃れる事のできない二正面作戦と言う「戦略的」な問題を左右するジレンマにぶつかるのである。突き詰めれば、1940年夏、英本土航空決戦を前にしてヒトラーの前に無限の選択擬が残されていたこの時期こそが大戦の分岐点であり、英本土航空決戦に敗れ、英国の存在を無視してヒトラーが東に目を向け、ドイツが絶対に採ってはならない「二正面作戦」への道に歩み出した瞬間こそが「ドイツが大戦における勝機を逸した」軍事的な転換点であった言える。
 そしてこの時期にヒトラーがもっと別な選択をしていたら、果たしてドイツが大戦に勝利する事ができたであろうか?実際、この時期からソ連攻撃に至るまでの間、ドイツ軍の上層部では様々な計画案が持ち上がっては立ち消えており、ヒトラーの心は大きく揺れ動いていた。ドイツが指向すべきだったのは、英国への直接侵攻だったのか、それとも通商破壊作戦と空軍の戦略爆撃による間接的攻勢であったのか、そして更にスペイン、北アフリカ、或いは中東にその活路を見出すべきだったのか?
 その具体的な軍事的戦略に関する私の見解は、またまた長くなりそうなので次回に譲る事にしたい。
かしこ

 


5043 [4928] なし
[投稿者削除]
Edwerd(01/3/2 14:32)

投稿者によって削除されました。(01/3/2 14:32)


5044 [4928] なし
純軍事的観点からの転換点・設問者の見解 2−2
Edwerd(01/3/2 14:39)

2 純軍事的観点からの転換点・その具体的戦略

結論から言うと、「英国に対する間接的攻撃」をドイツが大戦に勝利できる根本戦略であるとして考えてみたい。「直接侵攻」に関しては他の記事で散々語り尽くした感もあるし、その戦略を採り、成功すればその時点でヨーロッパの戦争は終わるだろうし、失敗すればドイツの戦略的立場は史実以上に悪化したであろう。その選択は紛れも無く一つの「賭け(私は成功の可能性が7割を切れば十分にそう呼べると思う)」であるだろうし、その成功率が賭けに値するものかどうかは人によって捉え方が違うと思う(しかし、色々工夫すればその成功率もかなり高める事ができるだろうが、しかしそれは架空戦記の域をでないレベルの話には違いない)。
この戦略は1940年の9月初め、英国への直接侵攻に乗り気でなかったヒトラーに対し、ドイツ海軍のレーダー提督が提唱した「地中海戦略」の様な間接的アプローチに、より早くヒトラーが着目していたらと仮定した上で考えたものだ。まず、フランスが降伏した時点で(史実でもヒトラーが一時的にそうした様に)陸軍の規模を若干縮小して、戦争経済の努力を空軍と海軍(特にUボートの建造・改良)に集中させる。東部国境に駐屯させる陸上兵力は(最終的に)史実の半分(5、6個軍・約60〜70個師団)もあれば(万が一の)防衛戦闘には十分である。イギリスに対する航空攻撃と上陸準備は継続するが、もはやその目的は地中海における攻勢の牽制と、英国経済の麻痺を狙った通商破壊作戦に限定される。ドイツ空軍はクニッケバインに代わる新しい電波誘導技術・「X装置」の登場を待って、その戦略を中型爆撃機を主力とした全面的な夜間爆撃作戦に移行する。当時の英空軍が夜間迎撃の手段を全くと言って良いほど持っていなかった事(この当時の英空軍には夜間戦闘機なるものがあったが、鈍足なディファントは敵機をほとんど捕捉する事もできず、できても敵機に追従する事さえままならなかった)を考えれば、英国の港湾と主要都市(そこは重要な鉄道分岐点でもある)に対する徹底した攻撃は、ドイツ海軍(主にUボート)による英国経済への封鎖作戦と相乗効果を生んで英国経済の流れを徐々に麻痺させるはずである。
一方、地中海においてはスペインのフランコ将軍を説得してジブラルタル攻撃(フェリクス作戦)に協力させる(史実でフランコはヒトラーと会談し、何度か意見交換して逡巡した挙げ句、スペイン経済の困窮とカナリア諸島などの領地を英国に攻撃される事を理由に同盟参加を拒否した)。その見返りはモロッコとアルジェリア(無論、ヴィシー政府には内密にする)であり、更にカナリア諸島に直ちにドイツ空軍を派遣する事を約束する。イタリアはほっておけば史実通りに9月と10月にエジプトとギリシャを攻撃するであろうが、それを押し留めるよりもむしろその状況を利用して陽動の役目を負ってもらうのである。
更に駄目押しとしてドイツ空挺部隊によるマルタ島攻撃を敢行する。この作戦はクレタ島降下作戦の場合と違って、指呼の間にイタリア本土がある事から、空海軍の大々的な支援が得られる。また、輸送距離が短い事から、第7空挺師団で飛行場を確保した後、第22空輸師団と第6山岳師団(どちらも空輸作戦の訓練を受けた空挺歩兵だが、降下能力はない)を輸送機を往復投入して、増援させる事ができる。無論、ムッソリーニのメンツを立てるためにイタリア空挺部隊にも一枚噛ませても良い。
英国はギリシャ、エジプト、そして本国の防衛にと陸・海軍の戦力を分散させ、ぎりぎりの状態にあるが、マルタが落ちればイタリア−リビア間の補給線が堅固なものとなってしまうため、ジブラルタルのH艦隊の一部を救援に向かわせるはずだ。当然、その行動に対して一部のイタリア艦隊を迎撃に向かわせるが、その実力からして嫌がらせ程度の遅延行動を行うだけでも良しとすべきだろう。
それとタイミングを合わせ、密かにスペイン国内を通過してきたドイツ軍部隊が、ほとんど無防備の陸側からジブラルタルの飛行場(中立地帯の直ぐ目の前)、次いで西側の突堤に攻撃を加える(ほとんど意味がないほど一方的な展開となるので、攻撃兵力に関してはそれほど詳しく考察する必要もないが、それでもドイツ軍は多数の重砲と急降下爆撃機、それと若干の装甲兵力を夜陰にまぎれて中立地帯に進出させる必要がある)。
ジブラルタルとマルタが落ち、東・中部地中海が枢軸国のものとなれば、41年初頭から始まる北アフリカ作戦は史実とは全く異なる状況を呈してくるだろう。史実より豊富な補給物資を得たロンメルの軍団とイタリア軍は、一年目にトブルクを落とせる可能性が高くなり、一方の英軍は反撃に移る物資を備蓄しようにもその全ては本土から長躯、南アフリカの希望峰を回航した紅海経由での細々としたものに限られてしまうのである。
史実通りユーゴにクーデターが起き、バルカン作戦が開始されてクレタもドイツ軍の手に渡れば、戦況はかなり枢軸国優位に傾く。枢軸国側はトブルクからの補給に加え、必用ならクレタ島経由で補給物資を空中投下させる手も取れる。イラク(英領)やシリア(ヴィシー・フランス統治下)にも睨みを利かせなければならない英中東方面軍は、西方砂漠軍(英第8軍の前身)だけに戦力を廻す事はできない。詳しい戦術は省くが、それでも補給の増大に合わせ、1、2個装甲師団の増援を受けたドイツ・アフリカ装甲軍(42年にはそう呼ばれていたが、実質的な規模は装甲軍団の域を出ていなかった)が、史実の様に「容易周到に待ち構えていた英軍にエル・アラ・メインで阻止される」と言う事にはならないはずだ。
おそらくカイロとアレキサンドリアへ向けた進撃に先立ち、三たび空挺攻撃を行ってスエズを押さえる必要があるかもしれないが、マルタとクレタの作戦での激しい損耗(特に輸送機が不足しているだろう)のため、大規模なものは望めないかもしれない。
しかしジブラルタルとマルタが落ち、ロンメルがエジプトに攻め込んで、一度戦局の流れが枢軸国側に傾いた後は、各地に戦力が分散され、「補給戦」で不利な立場(人的資源ではなく、特に決戦兵力であった機甲戦力の補充が困難になるはず)にある英軍にはその流れを押し留める事はできず、1941年中には趨勢は決してしまうと思う。そうなれば当然ソ連は、慌てて地中海への出口であるダーダネルス海峡を睨んでルーマニアを攻撃して来る可能性は高い。しかしルーマニアはその頃には三国同盟に参加しており、ルーマニア国内のドイツ軍と一線交えれば戦火は東部戦線全体に広がる可能性が高い為、ソ連の攻撃は遅ければ42年の春になるかもしれない。
だが一方でトルコは、地中海と中東が枢軸国の勢力圏となり、ソ連が不穏な動きを見せればドイツに頼るしかなくなる。この状況は史実におけるドイツ軍の戦略的立場より遥かに優位なものと言える。何故ならドイツはコーカサスの油田地帯を奪うにしてもシリア経由の最も最短距離のルートを選べるし、トルコがドイツの側に組すれば、ソ連は東部国境のみならず黒海沿岸とトルコ国境にも相応の兵力を拘置せざるを得ないからである。この様なドイツが戦略的優位にある状況でソ連が直ちに仕掛けてくる可能性は五分五分だと思う。むしろ英国の弱体にかこつけてイラン・ペルシャ湾方面に目をを向けてドイツに対抗する資源を確保しようとするが自然だ。
英国は頑として戦争を継続しようとするかも知れないが、もはやヨーロッパには守るべき権益も存在せず、その目的が失われている事に英国民が気付くのも時間の問題である。またドイツ海軍による通商破壊作戦が二年も続けば、実際問題として和平を視野に入れざるを得なくなる(当然、北アフリカ・中東喪失の責任を糾弾されるチャーチルは、勢い増す和平派から追放されているだろう)。何より地中海戦線が消失した事により、物理的に「二正面作戦の危険」を回避したヒトラーには、ソ連に対する行動をいつ始めるかと言う問題しか残されていない。
<ここではドイツのアメリカへの宣戦がなされなかった事として、アメリカはヨーロッパ戦線に介入できなかったとの前提に立っている(その理由は「ヨーロッパ戦線の転換点・設問者の見解 2−1」以下の記事で散々述べている)。百歩ゆずって1941年末にアメリカが介入して来たとしても、ドイツはソ連攻撃を延期して防衛戦略に専念すれば言いだけの事だ。1943年に大陸反攻作戦を計画したとしても十分な航空戦力と陸上戦力をフランスの海岸に展開させている以上、作戦そのものの実施が危ぶまれる可能性の方が高い。>
英国との和平実現後、(或いはそうならなくとも、実質的に二正面作戦の危険はない訳だから)1943年か1944年に「バルバロッサ」を発動した場合、史実の如く国土の奥深さと言う戦略的優位性を利用できないソ連が、1941年より危機的立場にたつのは否めないであろう…。

かなりラフになってしまいましたが、鋭いツッコミを期待しています。
かしこ


FlasH BBS Pro v1.41 [Shigeto Nakazawa]