TETSU29(01/2/15 09:15)
チハは開戦初期にM3に苦戦したか?
「どっち」で話題になったこの話、何故か非常に気になります。 よって、お題の提示と相成りました。お付き合い願えれば幸いです。
結論から言うと私の見解は「チハはM3に苦戦した」です。
ちなみに私の手持ちのタネ本は「戦車隊よもやま物語」(寺本弘著)です。
これによるとビルマ中・北部攻略時の昭和17年4月27日、戦車第一連隊が、ウィンドウィンにおいて、連隊主力40輌(内訳の詳細は不明)が7輌のM3と戦い、撃破できなかったとあります。 射撃では主に榴弾を使っていたようです。 また、著者寺本中尉のチハ「志11号」も前面を地面で跳飛した徹甲弾に射貫されたとあります。
榴弾を使った理由はこれに先立つ4月13日に、捕獲したM3に対する射撃試験を実施したところ、 徹甲弾では貫通できず(弾が砕けた)、榴弾の集中射撃によってようやく装甲を割ることができたという結果によるものと推察します。 この試験は、ぺグー北方で95式軽戦車6輌と独立速射砲中隊が20輌のM3にやられたことから、 チハでM3と戦えるかを確認するために行われたようです。
7輌のM3を40輌(2/3はチハと推定)で捕捉し、射撃を加えながらも1輌も撃破できずに撤退され、前面装甲を貫通されたチハまであったというのは「苦戦」と呼ぶべきでしょう。
・・・とはいえ、いくつか気になるところはあります。
(その1) 4月13日の試験において徹甲弾が砕けたという旨の記述がありますが、こんなことはあるのでしょうか? 跳ね返されるだけであればまだしも、砕けるというのは信じがたいのですが、日本の徹甲弾はそんなにもろかったのでしょうか?
(その2) 連隊主力40輌という数字ですが、27日には第四中隊を別行動させていたので、これはほぼ定数に近い数字と思われます。 ビルマに投入される以前はマレーを転戦していくらかは損害を出しているはずなのですが、定数に近いということは何処かで補充を受けたのでしょうか? 第一中隊が鹵獲したM3を装備していたようなのですが、詳細は分かりません。 定数だとすれば第二・第三中隊はチハを装備していたはずです。
(その3) 「大東亜戦争全史」(服部卓四郎著)によると3月6日に第55師団がぺグー付近で戦車・装甲車約130輌の優勢な敵と交戦し、7日に撃破したとあります。 「大東亜戦争作戦日誌」(井本熊男著)では「この装甲部隊は師団の装備する武器を持ってしては撃破し難いものであった」とあります。 「よもやま物語」のぺグー北方云々の記述はこのことを指しているものと思われます。
両書にわざわざこう書いてあるのは、ちょっと気になるところです。よっぽどてこずったのではないかと推察します。 この戦闘について詳しい記録はあるのでしょうか?
以上です。
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