独ソ戦の転換点はいつなのか : なんでや?(00/1/1 10:37)
Re:独ソ戦の転換点はいつなのか : まなかじ(00/1/1 12:10)
Re[2]:独ソ戦の転換点はいつなのか : なんでや?(00/1/2 08:50)
Re[3]:独ソ戦の転換点はいつなのか : まなかじ(00/1/2 13:11)
Re[4]:独ソ戦の転換点はいつなのか : なんでや?(00/1/2 17:46)
Re[5]:独ソ戦の転換点はいつなのか : まなかじ(00/1/2 23:21)
Re[6]:独ソ戦の転換点はいつなのか : なんでや?(00/1/3 09:08)
Re[7]:独ソ戦の転換点はいつなのか : まなかじ(00/1/3 22:24)
Re[8]:独ソ戦の転換点はいつなのか : なんでや?(00/1/4 12:00)
冬季戦装備について : アリエフ(00/1/3 22:00)
Re:冬季戦装備について : まなかじ(00/1/5 00:55)
Re:冬季戦装備について : kazu(00/1/13 12:55)
Re[4]:独ソ戦の転換点はいつなのか : まなかじ(00/1/2 23:48)
Re:独ソ戦の転換点はいつなのか : J(00/1/1 12:33)
Re:独ソ戦の転換点はいつなのか : SUDO(00/1/1 16:46)
Re[2]:独ソ戦の転換点はいつなのか : まなかじ(00/1/1 20:11)
Re[3]:独ソ戦の転換点はいつなのか : SUDO(00/1/4 01:48)
息詰まる議論、久々で萌えます!! : 雪風U(00/1/3 19:53)
補足 : 雪風U(00/1/3 19:55)
Re:補足 : まなかじ(00/1/5 00:30)
Re:息詰まる議論、久々で萌えます!! : まなかじ(00/1/3 22:39)
Re[2]:息詰まる議論、久々で萌えます!! : ohhf(00/1/4 21:52)
[投稿者削除] : まなかじ(00/1/5 00:22)
Re[4]:息詰まる議論、久々で萌えます!! : まなかじ(00/1/5 01:10)
Re[5]:息詰まる議論、久々で萌えます!! : ohhf(00/1/5 08:32)


2832 Root [2833] [2834] [2835] [2850]
独ソ戦の転換点はいつなのか
なんでや?(00/1/1 10:37)

新参者の「なんでや?」です。旧年中は皆様に大変お世話になりました。本年も宜しくお願い申し上げます。
さて、新年最初?のお題は「独ソ戦の転換点はいつなのか」でお願い致します。
とりあえず、以下に4つの選択肢を挙げてみました。

@1941年冬のモスクワ攻略失敗
A1943年1月のスターリングラードにおける第六軍の降伏
B1943年7月のクルスクの戦い
Cその他

これらのうちのいずれだと皆さんはお考えですか。忌憚のないご意見をお聞かせ下さい(もし、過去の議論ボード等で取り上げている議題でしたらご容赦下さい)。


2833 [2832] [2837]
Re:独ソ戦の転換点はいつなのか
まなかじ(00/1/1 12:10)

> 「独ソ戦の転換点はいつなのか」
>
> @1941年冬のモスクワ攻略失敗
> A1943年1月のスターリングラードにおける第六軍の降伏
> B1943年7月のクルスクの戦い
> Cその他

「転換点」の意味合いの取り方にもよりますが、
1・はあまり関係なさそうです。
1941年の秋から冬にかけてのドイツ軍の苦戦は、ヒトラーのせいではなくOKHの失策によるものです。ヒトラーとしては1941年中の決着は無理、ある程度の持久戦はやむを得ないと考えていたようですし、また、1942年にブラウ作戦をやってのける余力もありました。
モスクワ攻略の失敗によって、ソ連打倒の機会がなくなったというのは、あまり説得力がありません。
2・はドイツ軍の背骨を折られてしまったという意味で「転換点」になるとも言えます。
陸軍はまだしも、空軍、とくに攻撃の骨幹たる爆撃機部隊は、これ以降立直ることはできませんでした。これによって、ドイツ軍は近代戦での戦略的攻勢を取れなくなります。
また、ブラウ作戦はこれによって失敗に終わり、コーカサス・カフカズでの戦果は無意味になってしまいました。ロシア南部の資源地帯を確保して長期自給態勢を造る(大東亜戦争みたい…)という戦略目標は、達成できませんでした。これで、ドイツ(いや、ヒトラー)は東方にレーベンスラウムを拡大して、確保するという大戦略の実行を不可能にされてしまいました。
3・は陸軍の最後の弾発力をすりへらしてしまったという意味合いしかないと思います。ツィタデル作戦は、その目的からしてクルスク突出部の排除とソ連機甲部隊を戦場でたたくこととを狙いとしています。これは、戦略的攻勢ではなく、作戦的攻勢でしかありません。ザイトリッツ1/2作戦の規模をうんと拡大しただけのことです。
4・ならば…
ドイツがこの戦争に勝てなくなったのは、全てヒトラーのイギリスに対する読み違いからだと思っています。
イギリスが本気で戦争するとは思ってなかった、潜在的には同盟国だと思っていた、共産主義国に援助するとは思ってなかった、海上戦力がこんなにも重大なものとは思ってなかった、放っとけばおとなしくしてると思った、イギリスに侵攻しなければならない必要に迫られるとは思ってなかった、要するに、ヒトラーがイギリスを(チャーチルを)甘く見すぎていたことが最大の敗因でしょう。


2837 [2833] [2838]
Re[2]:独ソ戦の転換点はいつなのか
なんでや?(00/1/2 08:50)

> 「転換点」の意味合いの取り方にもよりますが、
> 1・はあまり関係なさそうです。
> 1941年の秋から冬にかけてのドイツ軍の苦戦は、ヒトラーのせいではなくOKHの失策によるものです。ヒトラーとしては1941年中の決着は無理、ある程度の持久戦はやむを得ないと考えていたようですし、また、1942年にブラウ作戦をやってのける余力もありました。
> モスクワ攻略の失敗によって、ソ連打倒の機会がなくなったというのは、あまり説得力がありません。

ソ連に比して国力(人的及び物的資源)に劣るドイツが勝利するには短期決戦しかありえず、この時点でモスクワもしくはロシア南部の資源地帯の攻略をいずれも達成できないとなると、例えブラウ作戦をやってのける余力があったとしてもソ連打倒の機会は失われたのでは、と思うんですがこの考え方にはやっぱり無理がありますか。
また、モスクワ侵攻作戦の失敗はヒトラーがこの作戦を発動するのがあまりにも遅すぎたからだと思うんですが、これについては如何ですか。

> 2・はドイツ軍の背骨を折られてしまったという意味で「転換点」になるとも言えます。
> 陸軍はまだしも、空軍、とくに攻撃の骨幹たる爆撃機部隊は、これ以降立直ることはできませんでした。これによって、ドイツ軍は近代戦での戦略的攻勢を取れなくなります。
> また、ブラウ作戦はこれによって失敗に終わり、コーカサス・カフカズでの戦果は無意味になってしまいました。ロシア南部の資源地帯を確保して長期自給態勢を造る(大東亜戦争みたい…)という戦略目標は、達成できませんでした。これで、ドイツ(いや、ヒトラー)は東方にレーベンスラウムを拡大して、確保するという大戦略の実行を不可能にされてしまいました。

ドイツにとってスターリングラードの戦いは勝敗に拘らず「転換点」になったということなのか、それともこの戦いに勝利していればまだ望みはあったということなのか、どちらになるのでしょうか。


2838 [2837] [2842] [2845]
Re[3]:独ソ戦の転換点はいつなのか
まなかじ(00/1/2 13:11)

> ソ連に比して国力(人的及び物的資源)に劣るドイツが勝利するには短期決戦しかありえず、この時点でモスクワもしくはロシア南部の資源地帯の攻略をいずれも達成できないとなると、例えブラウ作戦をやってのける余力があったとしてもソ連打倒の機会は失われたのでは、と思うんですがこの考え方にはやっぱり無理がありますか。
短期決戦は、ことの始めから不可能です。
ヒトラーは1941年の9月頃にはそれに気づいており、それが悪名高いモスクワ攻撃軍からの南方への兵力抽出につながりますが、OKHの将軍たちもあまり誉められたものじゃないです。タイフン作戦は時期遅れなのは明らかで、冬季戦装備がないままにモスクワ攻略は無理だったでしょう。
ロシア南部の資源地帯の確保は、まさにそのブラウ作戦の目的です。
> また、モスクワ侵攻作戦の失敗はヒトラーがこの作戦を発動するのがあまりにも遅すぎたからだと思うんですが、これについては如何ですか。
バルバロッサ作戦について言えば、遅すぎた、というより、遅くせざるを得なかった、のです。イタ公のせいでバルカン方面に予定外の作戦をしなければならなかった。
タイフン作戦に関して言えば、これはOKHの責任です。急進撃が可能な時期にキエフ包囲戦に兵力を割いたのが響いています。
ヒトラーが南部に兵力を割いても、タイフン作戦時の参加兵力量はモスクワ攻略可能な規模でした
が、冬季戦装備の補給を怠ったのは、完全にOKHの怠慢以外のなにものでもありません。
> ドイツにとってスターリングラードの戦いは勝敗に拘らず「転換点」になったということなのか、それともこの戦いに勝利していればまだ望みはあったということなのか、どちらになるのでしょうか。
勝敗に拘らず、だと思っています。スターリングラードで勝利するには、第6軍の兵力では不足だったと思います。これもOKHの作戦ミスです。
第6軍単独でやらせる限り、ジリ貧になるのは明らかです。あと歩兵2個軍団もあれば第64軍の早期撃滅も可能だったでしょうし、二重包囲を受けることもなかったでしょう。


2842 [2838] [2844]
Re[4]:独ソ戦の転換点はいつなのか
なんでや?(00/1/2 17:46)


> 短期決戦は、ことの始めから不可能です。
> ヒトラーは1941年の9月頃にはそれに気づいており、それが悪名高いモスクワ攻撃軍からの南方への兵力抽出につながりますが、OKHの将軍たちもあまり誉められたものじゃないです。タイフン作戦は時期遅れなのは明らかで、冬季戦装備がないままにモスクワ攻略は無理だったでしょう。
> ロシア南部の資源地帯の確保は、まさにそのブラウ作戦の目的です。

短期決戦は始めから不可能なら、ブラウ作戦がいつ頃までに完了していればドイツに勝利の望みはあったと思われますか。

> タイフン作戦に関して言えば、これはOKHの責任です。急進撃が可能な時期にキエフ包囲戦に兵力を割いたのが響いています。
> ヒトラーが南部に兵力を割いても、タイフン作戦時の参加兵力量はモスクワ攻略可能な規模でした
> が、冬季戦装備の補給を怠ったのは、完全にOKHの怠慢以外のなにものでもありません。

確かキエフの陥落は1941年9月26日で、タイフン作戦の発動が同年9月30日でしたよね。そこで、

@OKHの責任というのは「急進撃が可能な時期にキエフ包囲戦に兵力を割いた 
 」ことなのか、「冬季戦装備の補給を怠った」ことなのかどちらを意味している のでしょうか。

Aまた「急進撃が可能な時期」というのは具体的にはいつ頃の時期を指しておられ るのでしょうか。

Bさらに「ヒトラーが南部に兵力を割いた」ということと「キエフ包囲戦に兵力を 割いた」ということは全く違うことを意味するのでしょうか。

というのは私は「ヒトラーが南部に兵力を割いた」ということに「キエフ包囲戦に兵力を割いた」ということは含まれると思っているからです。どうも私は勘違いをしているようです。そのあたりをもう少し詳しく教えていただけませんか。
ちなみに、私は同年8月にヒトラーがグデーリアンやボックなどの反対を押し切って、ウクライナやコーカサスなどの資源地帯を確保するために中央軍集団にモスクワ進撃を中止させ、同方面の攻略を命じ、その結果タイフン作戦の発動が遅れたことがモスクワ攻略の失敗の原因だと思っていました。


2844 [2842] [2849] [2852]
Re[5]:独ソ戦の転換点はいつなのか
まなかじ(00/1/2 23:21)

> 短期決戦は始めから不可能なら、ブラウ作戦がいつ頃までに完了していればドイツに勝利の望みはあったと思われますか。
ブラウ作戦だけでは不足です。
ドイツとしては、ソヴィエトロシアをウラル以東に閉じ込めることが限界であり、またそれを達成すれば一応の勝利だと思っています。
いわゆるヨーロッパロシア全域を確保することこそ、レーベンスラウム構想の主眼であり、目的であるからです。
また、当時、シベリアの資源は知られていませんでしたし、ウラル以東では米英からの援助も陸路に頼らざるを得ませんから、自ずと規模は大きく縮小されます。人的資源の面でも、ロシア人の動員が困難になります。結果、ソヴィエト政権の国力は非常な低下を迫られ、ドイツの敵ではなくなるでしょう。(これには、ドイツの占領政策の面で無理があることが大きいネックとなりますが)
で、それを達成するには、ブラウ作戦成功の後、こんどは北方軍集団戦区で大きい作戦をやる必要があり、さらに、もう一度中央軍集団戦区で攻勢をかけて勝たねばなりません。
大作戦には1シーズンを要することから見て、全てが順調に行ったとして1944年までかかります。

> 確かキエフの陥落は1941年9月26日で、タイフン作戦の発動が同年9月30日でしたよね。そこで、
> @OKHの責任というのは「急進撃が可能な時期にキエフ包囲戦に兵力を割いた」ことなのか、「冬季戦装備の補給を怠った」ことなのかどちらを意味しているのでしょうか。
>
> Aまた「急進撃が可能な時期」というのは具体的にはいつ頃の時期を指しておられるのでしょうか。
>
> Bさらに「ヒトラーが南部に兵力を割いた」ということと「キエフ包囲戦に兵力を割いた」ということは全く違うことを意味するのでしょうか。
言葉足らずで申し訳ありません。
1・に関して言えば、その両方です。
冬季戦装備の補給を怠ったのは、どう考えても失敗です。第一、歴史的に見てもモスクワ陥落はロシアに対する戦争の終結を意味しません。よし、秋(泥将軍)の到来までにモスクワ前面に達し、冬(冬将軍)が来る前にモスクワを陥したとしても、ソ連軍の(いやさ、ロシア軍の)冬季反攻は当然予想されて然るべきです。
キエフ作戦に関しては、3・へのお答えにも重なりますが、西方面軍の完全包囲に中央軍集団の兵力を充当するのは、厳密にはヒトラーの命令に違反しています。ヒトラーは、ウクライナとコーカサスの『地域』に対する作戦に使用せよ、という意図のもとに命令しているのです。OKHはクラウゼウィッツ流の「目的はパリ、目標はフランス軍」の原則に従ったまで、西方面軍を撃滅すれば自ずとウクライナ全域は手に入る、というつもりだったでしょうが、泥将軍の存在を忘れています。WWT当時にこの地域で戦った経験があったにもかかわらず、です。
2・に関して言えば、9月いっぱいです。
10月に入って、ロシア中部から南部にかけて雨季に入りました。ドイツ軍の進撃速度は大幅に鈍っています。
3・に関しては、1・でも述べましたが、OKHは作戦の意図を誤解していたか、故意に曲解した可能性があります。
キエフ作戦は、確かに史上空前の包囲撃滅戦をしてのけました。(1944年のソ連軍による中央軍集団大包囲も、戦争の行方に対する影響という点ではともかくも、規模の点ではこれに及びません)
しかし、戦略的にはそこまでの完全さは必要でなかったし、なによりも時間と距離を優先しなければならない局面だったのです。
OKH・・・というより、軍人としては、この判断は仕方のないことだと思いますが、それだけに「勝っているうちの」ヒトラーの戦略的判断の的確さを活かせなかったのでしょう。


2849 [2844] [2853]
Re[6]:独ソ戦の転換点はいつなのか
なんでや?(00/1/3 09:08)

> また、当時、シベリアの資源は知られていませんでしたし、ウラル以東では米英からの援助も陸路に頼らざるを得ませんから、自ずと規模は大きく縮小されます。人的資源の面でも、ロシア人の動員が困難になります。結果、ソヴィエト政権の国力は非常な低下を迫られ、ドイツの敵ではなくなるでしょう。(これには、ドイツの占領政策の面で無理があることが大きいネックとなりますが)
> で、それを達成するには、ブラウ作戦成功の後、こんどは北方軍集団戦区で大きい作戦をやる必要があり、さらに、もう一度中央軍集団戦区で攻勢をかけて勝たねばなりません。
> 大作戦には1シーズンを要することから見て、全てが順調に行ったとして1944年までかかります。
>
まなかじさん、丁寧な解説有り難うございます。
ソ連をウラル以東に閉じ込めるのに、全てが順調にいって1944年までかかるとした場合、当然その間にソ連もそれなりに反攻体制を整えるはずです。例え、ブラウ作戦が成功して南方の資源地帯をおさえたところで、ドイツの軍需物資の生産能力や動員力(ご指摘の通りその占領政策の面からみて)からすれば戦争遂行が「順調」にいくとは到底思えません。だとすれば、独ソ戦の帰結は遅かれ早かれ最初から決まっていたということになるんでしょうね。また、この戦争におけるドイツ国民の努力や団結は評価に値するとは思いますが、結果としてこの戦争を長引かせ多くの人々の命を奪ったことを考えると「イタ公」の節操のなさも案外評価できるものなのかもしれません。
私個人としてはティーゲルやパンテルが戦局の挽回に寄与することができなかっことが残念なような気がします・・・


2853 [2849] [2857]
Re[7]:独ソ戦の転換点はいつなのか
まなかじ(00/1/3 22:24)

> ソ連をウラル以東に閉じ込めるのに、全てが順調にいって1944年までかかるとした場合、当然その間にソ連もそれなりに反攻体制を整えるはずです。例え、ブラウ作戦が成功して南方の資源地帯をおさえたところで、ドイツの軍需物資の生産能力や動員力(ご指摘の通りその占領政策の面からみて)からすれば戦争遂行が「順調」にいくとは到底思えません。だとすれば、独ソ戦の帰結は遅かれ早かれ最初から決まっていたということになるんでしょうね。
まさにその通りでして、実は、お気づきになったと思いますが、私のここまでの言い分は純作戦的な見地からのみで主張しているんです(汗)
世界戦略まで入れると、そもそもヒトラーに政権を取らせたことから説き起こさなくてはならなくなります(笑)
ドイツがソ連との戦争に勝つには、これまでヒトラーをべた褒めしてきたのとはまったく逆の意見になりますが、ヒトラーが政権を取っていては万に一つも勝ち目がないのです。
ヒトラーがやろうとした対ソ戦は、昔ながらの、というよりも時代錯誤的な、領土拡張のための侵略戦争です。
これが、東西冷戦のようなイデオロギー戦争ならロシアの民衆を味方につけ、ソヴィエトボルシェビキ政権の打倒は可能だったかもしれません。
しかし、ヒトラーにとって、ロシア人はその住んでいる土地から追い出し、追い出せなければ奴隷化し、奴隷にならないのなら絶滅してしまえ、という対象です。
ソ連での、この戦争の名称が、図らずもヒトラーの思想の失敗を如実に示しています。『大祖国戦争』です。党でもボルシェビズムでも人民でもなく、ロシア人たちは、その「祖国」(ロージナ)を守る為に戦ったのです。
> また、この戦争におけるドイツ国民の努力や団結は評価に値するとは思いますが、結果としてこの戦争を長引かせ多くの人々の命を奪ったことを考えると「イタ公」の節操のなさも案外評価できるものなのかもしれません。
もう一つ、関東軍のはねっかえりどもの節操のなさも、評価してあげましょう(笑)
もし、ノモンハン事件をあの時期に起こさないで我慢していれば、2年後の「関特演」は「演習」では済まなかったでしょうから。
1941年夏の「無敵関東軍70万」をもってしても、ソ連領内に侵攻はしても、したたかに逆撃を食って、逆に満州領内に侵入を許したかもしれないとさえ思ってます(何人の高級将校が腹を切るハメになるのか見当もつきませんね)
しかし、当時の乏しいソ連の資源、資材、そして極東からザバイカル、もしかしたら西シベリアにある兵力を拘束することはできます。
WWTの緒戦で、ロシア軍がタンネンベルクで大敗しながらも、西部のドイツ軍精鋭2個軍団を遊兵と化させてマルヌ川会戦での英仏連合軍を救ったように、関東軍も、自分はボロボロになっても、ドイツ軍に大変な貢献をすることになったかもしれません。(もちろん、関東軍としては、そんなこと望みもしないでしょうが、結果として、です)


2857 [2853] なし
Re[8]:独ソ戦の転換点はいつなのか
なんでや?(00/1/4 12:00)

> ヒトラーがやろうとした対ソ戦は、昔ながらの、というよりも時代錯誤的な、領土拡張のための侵略戦争です。
> これが、東西冷戦のようなイデオロギー戦争ならロシアの民衆を味方につけ、ソヴィエトボルシェビキ政権の打倒は可能だったかもしれません。
> しかし、ヒトラーにとって、ロシア人はその住んでいる土地から追い出し、追い出せなければ奴隷化し、奴隷にならないのなら絶滅してしまえ、という対象です。
> ソ連での、この戦争の名称が、図らずもヒトラーの思想の失敗を如実に示しています。『大祖国戦争』です。党でもボルシェビズムでも人民でもなく、ロシア人たちは、その「祖国」(ロージナ)を守る為に戦ったのです。

今の価値観からすれば、ヒトラーの戦争は「時代錯誤的」な侵略戦争なのでしょうが、世界中至るところに植民地だらけだった当時の価値観からすれば「時代錯誤的」だったのかな?という気もします。もっとも、今でもイスラエルが(意味合いは異なるものの)生存権の確保のためにゴラン高原を併合したままであることを考えるといつの時代でも政治(社会)においては強者の論理が貫かれるという、ごく当たり前の結論に落ち着くんでしょうね。
また、独ソ戦はレーベンスラウム獲得のための戦争であり、ロシアを支配するのがボルシェビキであろうがなかろうが、ナチスにとっては欠くことのできない戦争でした。それは容赦のない戦い及び占領地行政に表れており、その意味でナチスは自己のイデオロギーに忠実だったと思います。それは戦局が不利になっても尚、いや、むしろなってからユダヤ人の虐殺にそれまで以上に力を注いだことからも明らかです。よってナチスのユダヤ人絶滅政策はたんにドイツ国民の不満をそらせるための方便ではなく、人種論的な近代反ユダヤ主義に基づくものであり、その結果、果てしない殺戮の行動として表れているのでしょう。
あと、ご指摘のようにロシア人は祖国のために戦ったのであり、彼らは戦争に勝ったら新しい、もっといい世界がやってくるのだろうと期待したのでしょうが、勝利がもたらしたものは戦前と変わらぬスターリンによる強権的支配であり、深く失望したであろう事には同情を禁じえません。


2852 [2844] [2861] [2872]
冬季戦装備について
アリエフ(00/1/3 22:00)

独ソ戦が仮に予定通り進行したとしても、冬季における占領地や戦線の維持確保のためにはかなり大量の冬季装備を事前に補給しておくべきだったとするのはその通りと思います。
しかし、軍需産業や列車等の輸送手段をフル回転させて前線からの要求に対応する中で冬季装備の確保、補給の優先順位が低くなってしまい、必要となった頃にはもう間に合わなかったということではないでしょうか。参謀本部の中にも冬季装備の必要性を説く者がいたのでしょうが、当面必要な物資が優先されたのと、冬までには戦争が終わるだろうという楽観的観測からこの問題を真剣に考えようとしなかった、組織意思決定上の問題が関係しているのではないかと思います。そもそも、兵站能力をはるかに上回る大規模作戦を行ったことが原因なのだろうけど。


2861 [2852] なし
Re:冬季戦装備について
まなかじ(00/1/5 00:55)

そうなんですよね。
自分で言っといて何なんですが。
クレヴェルトの「補給戦」を読んでも、ワルシャワあたりで補給物資が渋滞して山積みになってたという…。
世界に冠たるドイツ鉄道部隊をもってしても、ロシアの広軌を直し、なおかつ新たに線路を敷くというのは手に余る仕事だったでしょう。
しかし、それだけにOKHの甘い見通しというのが解せません。
ロシア人がウンターメンシェンだから、というのナチスの論理であって、伝統あるドイツ国防軍の頭脳からそうした思考が出てくるのでしょうか。
西部での大勝以来OKHの発言権が弱くなったとはいえ、ヒトラーを盲信するなら、タイフン作戦は強行されるべきではない。
ミッドウェイでのGF司令部のように、OKHも勝ちにおごったというところなのでしょうか。


2872 [2852] なし
Re:冬季戦装備について
kazu(00/1/13 12:55)

ソ連軍の冬季装備が重視されるのはそんなに以前のことではなかったりします。
ソ連軍はフィンランドとの「冬戦争」で痛い目を見たので冬季装備を重視するようになったわけです。「雪中の奇跡」より。


2845 [2838] なし
Re[4]:独ソ戦の転換点はいつなのか
まなかじ(00/1/2 23:48)


> タイフン作戦に関して言えば、これはOKHの責任です。急進撃が可能な時期にキエフ包囲戦に兵力を割いたのが響いています。
> ヒトラーが南部に兵力を割いても、タイフン作戦時の参加兵力量はモスクワ攻略可能な規模でしたが、冬季戦装備の補給を怠ったのは、完全にOKHの怠慢以外のなにものでもありません。
ちょっと訂正を…。
「キエフ包囲戦云々」のくだりは、入るところが違いますね…。
これでは、確かにわかりにくいです。
申し訳ありません。


2834 [2832] なし
Re:独ソ戦の転換点はいつなのか
(00/1/1 12:33)

> Cその他
です。
ブラウ作戦が高望みしすぎだったと思います。
スターリングラード、カフカスに軍を分けなければ良かったのに・・・
もともと戦車の数が定数割れなのにさらに分割するから・・・


2835 [2832] [2836]
Re:独ソ戦の転換点はいつなのか
SUDO(00/1/1 16:46)

> @1941年冬のモスクワ攻略失敗
> Cその他

1941年12月だな
アメリカに宣戦したことだと思う


2836 [2835] [2856]
Re[2]:独ソ戦の転換点はいつなのか
まなかじ(00/1/1 20:11)

> 1941年12月だな
> アメリカに宣戦したことだと思う
うーん、どうでしょうか。
日本陸軍も唱えていた「米英可分論」は説得力が薄いと思います。
確かに、ソ連に対して事を起こさない日本に対して、三国同盟を忠実に守ってアメリカに宣戦する『必要』はなかったと思います。
しかし、アメリカの方は、何とかして参戦しようとてぐすねを引いています。
「『ルーベン・ジェイムズ』事件」を代表として、ビスマルク追撃戦でも米海軍のPBYからの情報は英軍に当然のように通報されていますし、とてもアメリカの立場は厳正中立とは程遠い。
現実に戦争しているドイツとしては、イギリスの裏に見え隠れしながら機会を捉えてくちばしを突っ込もうとしているアメリカに、いつまでも口実を与えないようにすることはかなりの困難があると思います。
日本を見捨てて12月10日時点での対米宣戦をしなかったとしても、アメリカの参戦を防ぐことができたかどうかは、かなり望み薄だったろうと私は思います。
日米開戦からの二日間のドイツの躊躇も、このようなことを検討した末のことだったのではないでしょうか。
大西洋での第一線にあるドイツ海軍としては対米開戦は回避はしたいが避け難いというのが実感だったでしょうし、対外的には「同盟条項の遵守」ということでも、実際にはほとんど戦争状態にあるアメリカとの状況の名と実を一致させたに過ぎないと思うのですが…。


2856 [2836] なし
Re[3]:独ソ戦の転換点はいつなのか
SUDO(00/1/4 01:48)

> 確かに、ソ連に対して事を起こさない日本に対して、三国同盟を忠実に守ってアメリカに宣戦する『必要』はなかったと思います。

そう、結局はそれなんですがね(^^;;

米が正々堂々と介入できるようになった効果は大きく
あそこで宣戦しなければ
数ヶ月は稼げたかもしれない
そして、その数ヶ月が
最後にものを言う可能性は高いと思う


2850 [2832] [2851] [2854]
息詰まる議論、久々で萌えます!!
雪風U(00/1/3 19:53)

息詰まる議論、見ていて熱く萌えます!!

小生のようなトーシローには、こういうヤツが嬉しいですね。

で、恥を忍んで便乗質問。

スターリングラード、独逸側に勝機はあったのでしょうか?

サルでも解るスターリングラード戦術・戦略講座を開いてくれると、貴方への忠誠度は10%UP!!


2851 [2850] [2860]
補足
雪風U(00/1/3 19:55)


> スターリングラード、独逸側に勝機はあったのでしょうか?
>
> サルでも解るスターリングラード戦術・戦略講座を開いてくれると、貴方への忠誠度は10%UP!!

いやね、高校時代の教科書には、“スターリングラードの戦いが東部戦線の転換期となった”と明記されてたもんでね。


2860 [2851] なし
Re:補足
まなかじ(00/1/5 00:30)

> いやね、高校時代の教科書には、“スターリングラードの戦いが東部戦線の転換期となった”と明記されてたもんでね。

あとから見て、の話でしょうね。
これ以降、ドイツ側が主導権を取っての大作戦はなくなります。
翌年のクルスク会戦もかなりの大作戦ですが、ツィタデル作戦ではドイツ側は先制主導権を有していませんでしたし、そもそも作戦目的そのものの規模が小さくなっています。
そこからあとは、一瀉千里の勢いでのソ連軍の反攻ですから、やはりスターリングラードが転換点なのは、歴史的に見るならば、順当でしょう。


2854 [2850] [2858]
Re:息詰まる議論、久々で萌えます!!
まなかじ(00/1/3 22:39)

> スターリングラード、独逸側に勝機はあったのでしょうか?
>
あ、ユキカゼーニッヒ少尉どの!(ツリーが違うべし)
ドイツ軍の勝機はいくつもありますが、どれも難しいです。
1・スターリングラード市街に突入する時期をもう少し早める。
これは、補給線の能力の限界を超えます。
2・第6軍に、あと歩兵2個軍団程度を追加し、市街戦能力を高める。
これも補給線の能力を超えていますが、装甲師団を戦列から外せばなんとか可能かもしれません。
装甲師団は市街攻略に投入するのでなく、外郭線の強化に使用します。
3・そもそも、第6軍単独でなく(且つ、ルーマニア第4軍などに頼らず)スターリングラードを南方軍集団主力で攻撃する。
これは、ほとんど結果論でして、初めはスターリングラードが決戦場になるとは思ってもいなかったのですから無理というもの。

とにかく、スターリングラード市街で粘るソ連第64軍の排除に手間取ったことが、イェレメンコにつけいるスキを与えたわけで、このチュイコフ指揮の第64軍をどうやっつけるかが勝敗の分かれ目でしょう。


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Re[2]:息詰まる議論、久々で萌えます!!
ohhf(00/1/4 21:52)

>> スターリングラード、独逸側に勝機はあったのでしょうか?
>>
> あ、ユキカゼーニッヒ少尉どの!(ツリーが違うべし)
> ドイツ軍の勝機はいくつもありますが、どれも難しいです。


はじめまして、ohhfといいます。
質問の趣旨とは外れてしまうのかもしれませんが、正攻法でいくのならスターリングラード市街に突入せずに包囲するという作戦になるのでしょうね。敵の防御拠点は出来るだけ攻撃しないというのが基本ですから。

スターリングラード戦が独ソ戦の転換点と言うのは私もそう思いますが、スターリングラードが包囲された後のドイツの空輸作戦では、パイロット、器材、燃料を大量に消耗してしまい、後のパイロット養成にも支障をきたして大戦の終結をも早めたとも言われていますよね。ですので、第2次大戦の転換点と言えるのかもしれません。


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[投稿者削除]
まなかじ(00/1/5 00:22)

投稿者によって削除されました。(00/1/5 00:22)


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Re[4]:息詰まる議論、久々で萌えます!!
まなかじ(00/1/5 01:10)

>> 正攻法でいくのならスターリングラード市街に突入せずに包囲するという作戦になるのでしょうね。敵の防御拠点は出来るだけ攻撃しないというのが基本ですから。
>>
いや、それが難しいのです。
地図を見れば一目瞭然なのですが、スターリングラードはボルガ川という大河に接していて、川向こうからの補給を受けることができます。
昼間は砲兵で制圧し、夜間も間断なく照明弾を撃ち上げて対応するとしても、川は長いですから、常に渡河点を制圧することは困難と思われます。余談ですが、小説「レッド・オクトーバーを追え」では、パドーリン提督の若き日の回想(たしか、愛用のペーパーナイフの由来だったと思いました)として、スターリングラードへの舟艇での補給シーンがホンの数行ですが、あります。
史実でも、ソ連海軍ボルガ川小艦隊の将兵によってその通りに展開され、ドイツ軍はソ連軍の補給線を断ち切ることには失敗しています。
レニングラードがラドガ湖を後背に持って900日間にわたる包囲に耐えたように、兵糧攻めでは落ちる見こみが薄いと言えます。
また、ドイツ軍(及びルーマニア軍)はスターリングラードに対し西からの半包囲の態勢を敷いていました。しかし、その態勢を逆用されて、二重包囲の網にからめとられてしまったのです。
スターリングラードという都市を占領しようとするならば、力で踏み潰す(それも、速やかに)のが、この場合は正攻法なのです。


2863 [2862] なし
Re[5]:息詰まる議論、久々で萌えます!!
ohhf(00/1/5 08:32)

>>> 正攻法でいくのならスターリングラード市街に突入せずに包囲するという作戦になるのでしょうね。敵の防御拠点は出来るだけ攻撃しないというのが基本ですから。
>>>
> いや、それが難しいのです。
> 地図を見れば一目瞭然なのですが、スターリングラードはボルガ川という大河に接していて、川向こうからの補給を受けることができます。

あ、いや、すいません言葉足らずでした。そのあたりは私も同感なんです。(^^;


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