イカルス Ik-2

 1920年代後半から30年代中期にかけて、ユーゴスラビア空軍はアヴィアBH33、ホーカー・フューリーを購入、グールドゥ・ルスールB.3、ドヴォワチヌD.27をライセンス生産し、戦闘機の運用・整備・生産に自信をつけてきていた。
 若手技術者も育ちはじめ、彼らの間から国産戦闘機開発の機運が起こりはじめる。
 そうした若い技師たちのコスタ・シブセフ、ルドミラ・イリチが、個人的ベンチャーとして設計を開始したのがIk-2の源流となる。
 高翼単葉固定脚、イスパノスイザの液冷エンジンに20ミリモーターカノン装備を中心とした高速迎撃戦闘機である。
 この設計案はイカルス社の購入するところとなり、原型機Ik-1は1934年末に完成、初飛行を済ませ、1935年4月に軍による試験飛行が行われた。
 パイロットはレオニード・バイダチ大尉が務め、2回目の飛行で思いきり振り回した後の3回目の飛行でのパワーダイブで昇降舵が破損、バイダチ大尉はパラシュートで脱出し、機体は失われた。
 バイダチ大尉は本機は戦闘機としてまったく不適であると報告したが、昇降舵の羽布の縫製作業に問題があったことがわかり、2号機の完成を待って試験は続行されることになった。

 2号機はイカルス社の技術陣によって改設計され、冷却にエチレングリコールを採用してラジエータの前面面積を小さくし、動翼の骨組を金属に改めている。
 この2号機はIk-2と呼ばれ、1936年4月に完成。イカルスのテストパイロットであるドプニチの操縦で、バイダチ大尉の操縦するフューリーIIを圧倒して仇討ち(?)を果たした。とはいえ、フューリーは名機とはいえ原型1931年初飛行の複葉戦闘機で、エンジン出力も250馬力ほど小さいのではあるが…。
 1936年6月に制式採用をかちとり、12機の生産発注を受け、イカルスは1937年までにこれを完納した。

 1941年4月にドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻したときには、8機のIk-2が6機のハリケーンMk.Iとともに第4戦闘機連隊第34飛行隊を編成しており、Ik-2は主としてドイツ軍地上部隊に対する機銃掃射に使用された。
 Ik-2の性能ではこのころのドイツ空軍戦闘機に対抗することは困難ではあり、機数も少なく、しかもなによりドイツ地上軍の進出速度が速かったことから、こうした作戦に投入されるのはやむをえなかった面があろう。

 生き残った数機のIk-2はクロアチア空軍に吸収され、練習機として使用された。

 
(文:まなかじ)
Ik-2
諸元
全幅11.4m
全長7.88m
全高3.84m
翼面積18.0m2
全備重量1,930kg
最高速度428km/h(5,000m)
上昇限度10,500m
航続距離400km
武装イスパノスイザHS404 20mm機銃*1 シュコダVz30 7.92mm機銃*2
発動機イスパノスイザ12Ycrs 液冷V型12気筒860馬力
乗員1

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