本機はコールホーフェンの自主製作機として計画され、フォッカーから移籍してきたエリク・シャツカ技師の設計によっている。特に後部胴体から尾翼にかけてフォッカーD.XXIの面影を感じさせるのはこのせいであろうか。
設計は1938年春に始まり、早くも9月22日には試作1号機(PH-ATA)が初飛行している。かなりの部品をFK.56から流用しているとはいえ、何と設計着手からわずか4カ月半で試作機を飛ばしたというのはただごとではない。
資料によっては7月17日初飛行としているものもあり、これを信ずるなら3カ月で完成させたことになる。いずれにせよ、P-51マスタングに優るとも劣らないスピード開発であったことは間違いない。
1938年のパリ・サロンに間に合わせたが、ここでフランス植民地省が目をつけた。当時フランス空軍は大規模な近代化再建計画の途上にあり、しかも航空機工業国営化政策のあおりを受けて生産現場に混乱が起きていて、高性能戦闘機を植民地に回せる余裕は皆無であった。
早速試験してみると悪くない成績だったので、1939年1月に50機の発注を決定した。
もう少し開戦が遅ければ、仏印の戦闘機隊は本機で編成される予定だったのである。
また、フランスが発注を決めたことでオランダ陸軍航空隊も本機に注目し、フォッカーD.XXIを補強するものとして36機のFK.58Aを注文した。
胴体は鋼管骨組に軽金属及び羽布張り、主翼は全金属製である。武装は7.5ミリ薬室の特製FNブローニングで、左右翼下の脚付根すぐ外側に連装のガンポッドとして4挺を装備する。
試作1号機はイスパノスイザ14AA10(空冷星型14気筒930馬力)という珍しいエンジンをつけていたが、フランスの発注による量産型FK.58Aはグノームローン14N39を積んだ。
まず4機の先行量産機がイスパノスイザの発動機をつけて1939年5月にフランスに引き渡され、エタンペ飛行学校で転換訓練任務に就いた。更にFK.58Aが6月から8月にかけて13機引き渡された。更に23機が搬送の準備にかかっていたが、大戦勃発によりオランダが中立化したために差止めになり、後にオランダから脱出した1機だけがフランスに届くことになる。
また、フランスでは大戦勃発により本国に留め置かれ、1940年1月にはフィンランドに送る計画もあったが時期遅れになって実現せず、結局コードロンCR.714とともに亡命ポーランド人部隊の使用機材として配備されることとなった。
1940年5月時点では12機がリヨン近郊に展開しており、6月の休戦時には実働8機となっていた。最終的には10機を動かしてヴィシー政府領域に脱出したが、機体はその後使用されることはなかった。
オランダに残った機体は、各部がフランス空軍の仕様で作られていたこと、部隊編成の手続きや操縦士の手当てが遅れたことなどから、オランダ空軍の領収がドイツ軍の侵攻に間に合わず、コールホーフェンの倉庫で1機を除いて捕獲されてしまった。
ドイツも本機は使用しなかった。
全幅 | 10.97m |
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全長 | 8.68m |
全高 | 2.99m |
翼面積 | 17.30m2 |
自重 | 1,930kg |
全備重量 | 2,750kg |
最高速度 | 503km/h(4,500m) 475km/h(SL) |
上昇時間 | 4,000mまで7分30秒 |
上昇限度 | 10,000m |
航続距離 | 750km |
武装 | 7.5mmFNブローニング機銃*4 |
発動機 | グノームローン14N-39空冷星型14気筒 990馬力 |
乗員 | 1名 |