この機体はKLMがアムステルダム〜バタビアを結ぶ東インド線を強化するにあたって1932年にフォッカーに発注したもので、極東路線には寝台付きで16名、ヨーロッパ内の路線では32名を輸送できることが要望されていた。
1930年に開設された東インド線は世界恐慌にもかかわらず業績はうなぎのぼりのドル箱(ギルダー箱?)路線となっており、KLMにとって輸送力強化は目下の緊急課題であった。
フォッカーではもはや伝統ともなった高翼単葉に四発発動機を配する方向で設計案をまとめ、1932年11月にはモックアップを完成し、1933年初めには原型機の製作にとりかかった。本機はこれまでヨーロッパで製作された最大の陸上民間旅客機となるはずであった。
構造はフォッカーの名作トライモーターと同じく、鋼製の構造材に主翼は合板張り、胴体は羽布及び合板を張るというものであったが、この構造法を採用した最後のフォッカー製の機体でもある。エンジンは最新のサイクロンで、これまた最新のハミルトン・スタンダードの恒速プロペラを装備していた。
巨大な固定脚と特製の大型低圧タイヤは極東路線で経由すべき飛行場に対応している。また、客室設備は当時としても非常に豪華なものであった。
KLMとしてはこのクラスを6機整備する予定でいたが、1934年になるとアメリカにダグラスDC-2という強力なライバルが現れてしまった。
1934年6月22日に原型機は初飛行し、ほとんど問題らしい問題もなくテストをパスして8月27日には航空局の耐空証明を得ることができた。
しかし、KLMの注文は来なかった。KLMとしては全金属製で、しかもより航続距離の大きいDC-2に食指を動かしたのである。F.XXXVIの航続距離は要求通りであったのだが、その見積もりはやや小さかったとKLMは発表した。
とりあえずKLMは原型機を1935年3月27日に受領し、ベルリン〜アムステルダム〜パリ〜ロンドン間の路線に投入した。
スペイン内乱当時、フランスが構成した後方輸送機関SFTAに賃貸され、ここでは抜きん出た優秀性を示した。
1939年8月には2機のF.XXII(22)と共に英国のスコティッシュ航空に売却された。ロンドン〜エジンバラ〜グラスゴー間の夜間路線に投入されたが、すぐに大戦が勃発し、スコティッシュ航空はRAFに本機を提供、RAFでは航法訓練および偵察訓練にこれを用いた。この目的ではそれまでアブロ・アンソンが使われていたが、一度の飛行で訓練できる人数が多く、効率的であるとして好評であったといわれる。
1940年5月21日に離陸事故を起こし、幸い人員に損害はなかったが機体は大破し、補用部品が全く手に入らないために修理は放棄され失われた。
全幅 | 33.00m |
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全長 | 23.60m |
全高 | 5.99m |
翼面積 | 171.9m2 |
自重 | 9,900kg |
離陸最大重量 | 16,500kg |
最高速度 | 280km/h |
巡航速度 | 240km/h |
上昇限度 | 4,400m |
航続距離 | 1,550km |
武装 | なし |
発動機 | ライトR-1820F2サイクロン 空冷星型9気筒750馬力 |
乗員 | 4名 乗客32名 |