Ro.63は1938年の空軍の要求に基く植民地用の近距離連絡兼観測機である。
当初、この計画にはドイツのフィーゼラーFi156シュトルヒをライセンス生産して充てる構想であったが価格面で折り合いがつかず、イタリア空軍は独自に国内メーカーに開発させることとした。発注はI.M.A.Mへの1社特命となり、ジョバンニ・ガラッソを設計主任としたが、実際の作業はマンロ・フィオーレとピエトロ・カレーリオが行なっていたとされる。
もともとシュトルヒを採用するつもりだったこともあり、同じような高翼単葉鋼管羽布張りの軽飛行機となった。日本の三式指揮連絡機、いやむしろテ号観測機の兄弟機とも言えようか。
ただ、エンジンは適当な国産機がなく、ドイツのヒルトHM508Dを使用したが、これが本機のネックとなってしまう。
試作機(MM.11591)は1940年6月にアルド・リガボーの操縦で初飛行した。1941年1月には5機の増加試作機が発注され、9月には2機(MM.11594/11595)が第29スクァドリッリアに配備され、更に残る5機は第132スクァドリッリアに配備、これら2個スクァドリッリアはリビアに進出して第76グルッポの指揮下に入って実戦テストを受けることとなった。
テストの結果は上々で100機の量産発注を目論んだのだが、ここでエンジン供給の困難に直面する。ドイツがHM508Dを一方的に生産中止にしたのである。1941年5月にヒルトはハインケルと合併してしまい、ジェットエンジンの開発に専念することになってしまったのであった。
また、同時に文句があるならシュトルヒのライセンスを買えという気持ちもあったことだろう。
イタリアとしては困り果てて、HM508Dの代わりにイソッタ=フラスキーニ・ベータを装着しようとしたが、もともとそれでよいならHM508Dをわざわざ買う必要もなかったわけで当然うまくいかず、性能はかなり悪化し、またベータはまったく信頼性に乏しかった。
計画は暗礁に乗りあげたまま、結局休戦を迎えてしまう。
戦後、改めて民間軽飛行機として計画は再出発したが、これも結局うまくはいかず、1948年に本機の開発は完全に放棄された。
全幅 | 13.50m |
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全長 | 9.60m |
全高 | 3.10m(2.35mの資料あり) |
翼面積 | 26.50m2 |
自重 | 1,060kg |
全備重量 | 1,485kg |
武装 | なし |
発動機 | ヒルトHM508D 空冷倒立V型12気筒 280馬力 |
最高速度 | 203km/h |
巡航速度 | 164km/h |
実用上昇限度 | 6,800m |
航続距離 | 900km |
乗員 | 2名 |