1934年に初飛行し、大きな問題もなく1935年7月には量産機の引渡が開始されている。
当時、ちょうどエチオピア侵攻作戦が進行中(このため第一次発注は200機という大口注文であった)で実戦化が急がれたが、結局エチオピア戦役そのものには間に合っていない。
とはいえ、エチオピアではハイレ・セラシエ皇帝の亡命後も抵抗が燻っており、これらに対する鎮圧行動がRo.37の初陣となっている。
液冷エンジン型のRo.37は1937年9月までに5つの生産ロットで294機が生産された。
改良型として空冷星型エンジン装備のbisが1936年に登場した。
この改良は整備性を改善して稼働率の向上を図ったもので、植民地の設備の良くない飛行場で使われることの多かったRo.37に対しては当然必要な改良であったと言える。
560馬力のピアッジォP.IXエンジンを装備しており液冷型に対してほとんど性能は向上していないが、後期生産型はピアッジォP.X700馬力を装備して多少性能を向上している。
このタイプの初陣はスペイン内乱である。
Ro.37bisは1939年4月までに10の生産ロットで375機が生産されている。
スペイン内乱では近接支援飛行隊が軽量化のために前線改造で後席を潰して単座で運用したものがあったが、多数派とはならなかった。この他、ブレダ製の動力銃塔を後席に備える計画もあったが、明らかに重量過大で空気抵抗も大きすぎ、試験のみに終わっている。
また、1937年から1939年にかけてハンガリー、アフガニスタンの反英勢力、ウルグアイ、エクアドルへの輸出も行なわれている。
1940年の参戦時には液冷型100機弱と空冷型200機あまりが在籍していた。
液冷型はバルカン方面に集中しており、ギリシア侵攻やユーゴスラビア方面での対パルチザン任務でそれなりに働き、戦闘損耗の他くたびれきって用廃になる機体も多かったが、休戦までどうにかこうにか戦い抜いている。
空冷型はフランス侵攻からリビア作戦、またエチオピア・ソマリア・エリトリア方面で働いて激しく消耗を続けた。
フランス侵攻では短期間のうちに「生残り」のフランス空軍戦闘機隊に叩かれ、驚くほどの被害を出している。これが長期間に渡ればどうなるかと心配されたが、適切な後継機もなく、やむなく使用を続行。
熱砂の砂漠で酷使するにはややエンジンも機体も華奢であり、北アフリカでは英軍以上に砂が敵となった。
もちろん330km/h程度の速力で、しかも味方空軍が制空権を確保できない状況に強行偵察に出れば危険なのはわかりきったことで、戦闘損耗も猛烈なものであった。フランス戦での危惧はモロに的中する。
こんな中で出撃を続けたイタリア空軍近距離偵察飛行隊の搭乗員たちの根性には頭が下がる。
東アフリカ植民地ではCR32やCR42とともに燃料弾薬の続く限り戦い(といってもそれが乏しくてすぐに下火にならざるを得なかったのだが)、ケニアとスーダンから急速に侵攻する英軍に基地を占領されて失われることになる。
休戦後までイタリア軍管理下に残った機体は1機もない。
Ro.37 | Ro.37bis(P.IX RC40) | Ro.37bis(P.XR) | |
全幅 | 11.10m | 同じ | 同じ |
全長 | 8.70m | 8.57m | 8.60m |
全高 | 3.10m | ||
翼面積 | 32.00m2 | 同じ | 同じ |
自重 | 1,560kg | 1,465kg | 1,570kg |
全備重量 | 2,395kg | 2,300kg | 2,405kg |
武装 | 7.7ミリ機銃*3(前方固定*2 後席旋回*1) 爆弾180kg | 7.7ミリ機銃*3(前方固定*2 後席旋回*1) 爆弾180kg | 同じ |
発動機 | フィアットA30RAbis 液冷V型12気筒 550馬力 | ピアッジョP.IX RC40 空冷星型9気筒 560馬力 | ピアッジョP.XR 空冷星型9気筒 700馬力 |
最高速度 | 297km/h(海面) 332km/h(4,037m) | 330km/h(5,050m) | 320km/h(2,020m) |
着陸速度 | 112km/h | ||
実用上昇限度 | 6,760m | 7,266m | 6,360m |
航続距離 | 1,212km | 1,500km | |
乗員 | 2 | 2 | 2 |