イタリア空軍としては1930年代に入って将来戦策を立案するにあたり、これまで存在しなかった長距離爆撃機の必要性に鑑み、1934年に近代的四発重爆撃機の要求仕様を策定した。
この仕様書は習作的なもので、詳細なものでもなかったが、ピアッジオではP.50の試作名称を与え、1927年から米国に出張させて全金属製多発機の設計製作を学ばせていたジョバンニ・カシラギ技師を設計主任として試作にあたらせた。
カシラギ技師はアメリカで図面を引き、これを本国に送ってピアッジオの工場で試作するという強引な方法で製作が始まった。
試作機は発動機の装備法によって2種類あり、一方は串型タンデム配置、もう一方は通常形式のもので、それぞれP.50I、P.50IIと呼称された。
どちらも全金属製肩翼単葉で、エンジンナセルと銃座配置以外の線図はほぼ同一である。主翼の内部構造はもちろんだいぶ違っているが。
発動機はIは液冷のイゾッタ=フラスキーニ・アッソXI RC、IIは空冷のピアッジオP.XI RC40を装着していた。
空軍側の計画優先度が高くなく、エチオピアやスペインで予算を浪費していたことからなおさら不急の計画になってしまったので、設計試作作業はいたくのんびりとしたもので、1937年初めにカシラギ技師が帰国してきてようやく機体組立に入ることができた。
P.50Iの試作機(MM.369)は1937年11月16日にアンジェロ・トンディの操縦により初飛行を果たした。P.50II(MM.370)も1938年早々に初飛行した。
審査の結果、イタリア空軍はP.50IIの方を優秀と認め、これを更にブラッシュアップすることを要求した。これがP.108計画となる。
P.50はそれぞれ試作機1機ずつのみが製作されたに過ぎず、またカシラギ技師としてはP.108自体もP.50のリファインではなく、アメリカで新たに仕込んだネタを盛り込んだ新型機にする心算であったので、何となくまるっきり無駄な試作であったと言えなくもない。
結局、カシラギ技師が経験を積むための実習課題であるに過ぎなかった。
P.50I | P.50II | |
全幅 | 25.76m | 同じ |
全長 | 19.80m | 同じ |
全高 | 6.30m | |
翼面積 | 100.00m2 | 同じ |
自重 | 13,000kg | 12,800kg |
離陸最大重量 | 20,000kg | 20,200kg |
武装 | 7.7mmブレダSAFAT機銃*3 爆弾3,000kg | 7.7mmブレダSAFAT機銃*5 爆弾3,000kg |
発動機 | イゾッタ=フラスキーニ・アッソXI RC 液冷V型12気筒 730馬力 | ピアッジオP.XI RC40 空冷星型9気筒 1000馬力 |
最高速度 | 435km/h(4,600m) | 450km/h(4,500m) |
実用上昇限度 | 7,900m | 7,000m |
航続距離 | 3,350km | 3,500km |
乗員 | 4〜5名 | 4〜5名 |