ピアッジオP.50の試作結果に基づき、イタリア空軍は1937年に本格的な四発重爆撃機の仕様を策定した。P.50計画がとりあえず作ってみる的なやや投げ遣りな計画であったのに対し、今度は近代的空軍整備の中核計画として、かなりの気合を入れたものとなった。
ピアッジオでは引き続きジョバンニ・カシラギ技師を設計主任としてP.108計画に取り掛かった。
カシラギ技師はP.50を近代化するのではなく、アメリカ出張での最新の経験に基づく腹案を既に持っており、出来上がった設計案はP.50とはあまり似ていないものだった。しかし、設計案は1937年中に出来上がったものの、当時のピアッジオ社、というよりイタリア航空工業の力量ではこれを実現することが不可能で、試作機の製作は1939年に入るまで始めることができなかった。
全金属構造の低翼機で、尾部銃座を持たず、B-17の初期型に似た印象を持つ。特徴的なのは防御武装の配置で、両外側エンジンナセル上に遠隔操作銃塔を持っている。
この種の遠隔操作銃塔は、当時アメリカではスペリーやベンディックスで開発されており、B-29、A-26、P-61といった世代の機体に搭載されることになるが、こうした装備位置はあまり例がない。
オーストラリアのCA-11ウーメラにも見られるように、射界の点ではたいへん優れてはいるのだが、操作員との距離、なかんずく見越角が大きくなりすぎて目標追随性に解決しきれない問題が残った。特にP.108では四発の外側ナセルであったからなおさらである。また、機械的信頼性も十分ではなく、企画倒れに近い結果となってしまった。
発動機はピアッジオP.XII RC35を装着していたが、これも今ひとつ信頼性に欠けていた。
本機は後発してきたカントZ.1014との競作となった。設計案の段階ではZ.1014の方が有利であり、いったんは採用が決まって試作機5機を製作するという話にまで進んでいたのだが、Z.1014は実際に製作できる見込みがP.108よりも更に低く、また試作に掛かる費用の見積りもP.108の倍もあったため、一転P.108が採用されることとなった。
試作機は1939年11月24日に初飛行した。
イタリア空軍は待ち焦がれた新型重爆の完成を見て、早くも1940年初めに制式採用を決めたが、初期不良の洗い出しにはまだまだ時間を要した。まさにイタリア航空工業力の最先端を結集した機体であり、まあなんというかこの程度でという感もあるが、イタリアにとってはアメリカにとってのB-29に匹敵する難物ではあったのである。
実験運用部隊として第274スクァドリッリアが1941年の5月にピサで開隊しテストと訓練が繰り返されたが、1941年8月7日には、ドゥーチェ閣下の三男であるブルノ・ムッソリーニ空軍大尉の操縦で飛行試験中にエンジン不調で不時着、ムッソリーニ大尉を含む3名が死亡、2名が重傷という事故も起こしている。この事故の後、第274スクァドリッリアは”グルッポ・ムッソリーニ”の名で呼ばれるようになり、結局イタリア空軍で唯一のP.108B装備の部隊となった。
実戦出動は1942年6月9日のバレアレス島近海への洋上哨戒が初出撃で、その後はサルデーニャ島に展開してジブラルタルやアルジェリアの各地を散発的に少数機で襲撃する程度にとどまった。
結局、生産能力と資材の不足から、爆撃機型P.108B(Bombardiere:爆撃機)の生産は原型機1機を除き、第1ロット8機、第2ロット4機、第3ロット12機のわずか24機である。第3ロットは機首に20ミリMG151/20と7.7ミリブレダSAFATそれぞれ1挺を更に追加しており、非公式にP.108Mとも呼ばれる。また、第4ロットの12機はシリアルナンバーを与えられてはいるが、完成機は1機もない。
まとまった機数で運用できず、防御武装もさして強力とは言えず、機械的信頼性も高いものではなかったことから損耗も少なくなく、休戦時の残存機はわずかに3機であった。これはドイツ軍が接収して輸送機として使用された。
派生型としては、P.108A、P.108C、P.108Tがある。
P.108A(Artigliere:砲兵)は、名前の通りにソリッドノーズとした機首に102ミリ加農砲を装備したもので、対艦攻撃機として原型機(MM.496)を改造して試作された。
この102ミリ砲はもともと海軍砲の35口径シュナイダー・アームストロングModelo1914-1915で、主に中型潜水艦や特設艦船の備砲として使われていたものを改造、転用した。
固定弾薬の手動装填で砲弾重量は通常弾で13.74kg、徹甲弾で15kg、発射速度は毎分7発、初速は徹甲弾で750m/s、砲の重量は約1.2トンというものであった。
1943年3月6日に初飛行し、22日にはギドニア実験場に移され、更に武装試験ではビアレッジオ海軍試射場で200回以上の射撃テストが行われた。休戦に伴いドイツ軍が接収し、更にドイツ本土のレヒリン実験場に移って試験された。
P.108C(Civile:民間)はP.108の旅客機型で、計画は1940年初めに開始された。32席(寝台16席)、客席与圧、巡航400km/h、航続4,000kmを目指したが、開戦となって武装兵員56名を運べる軍用輸送機に設計変更となった。
初飛行は1942年7月16日にカテッラ大尉の操縦で行われた。テストもそこそこに採用が決まり、原型1機を除く12機が製作されたが、イタリア空軍に在籍した期間はわずかで、全機がドイツ軍に接収された。
P.108T(Trasporti speciali:特別輸送)はドイツ空軍の発注によって開発されたもので、1942年にP.108Cの原型機を改造して試作機が作られた。このタイプは貨物扉は胴体両側面につき、Ju190のような胴体下部後面のパワーリアゲートが装備された。
ドラム缶80本が入る広い貨物室に6トンあまりのペイロードを持ち、航空機エンジンなら8基、航空魚雷なら6本を一度に輸送することができた。
P.108Cは非武装であったが、P.108TではJu52/3mやFw200で有効性を示した「とさか」としてカプロニ・ランチァ銃塔と、胴体両側面、及び胴体後下方に12.7ミリ機銃の銃座が設けられた。もっとも、ドイツ空軍のP.108Cには武装したものがいくつかある。
もともとは原型機の特徴であるが、P.108C生産型にあった垂直尾翼前方のひれがないのが外見上の識別点である。
完成は休戦直前となり、まだ組立工場を出ていなかったが、P.108Cとともにドイツ軍が差し押さえた。
これらのP.108輸送型はドイツ空軍にとって貴重な戦力となり、P.108BとともにKG200が装備して輸送任務に使われた。特に1944年のセパストーポリ撤退作戦では大車輪の活躍を見せた。
P.108B | P.108C | |
全幅 | 32.00m | 33.05m |
全長 | 22.92m | 24.85m |
全高 | 7.70m | 7.50m |
翼面積 | 135.34m2 | 142.85m2 |
自重 | 17,320kg | 17,200kg |
離陸最大重量 | 29,885kg | 32,000kg |
武装 | 12.7mmブレダSAFAT機銃*6 7.7mmブレダSAFAT機銃*2 爆弾3,500kgまたは魚雷3本 | なし |
発動機 | ピアッジオP.XII RC35 空冷星型18気筒 1500馬力(公称1350馬力/3500m) | 同じ |
最高速度 | 419km/h(3,900m) | 440km/h(4,250m) |
実用上昇限度 | 8,050m | 6,000m(重量27,000kg状態) |
航続距離 | 3,520km | 2,500km(4,000km:フェリー) |
乗員 | 6名 | 4名 |