カプロニ Ca101

 高翼単葉単発機Ca97の拡大型三発機として1927年に計画され、社主でもあるタリエド伯ジャンニ・カプロニ自身の設計により、1929年に試作機が完成した。
 鋼管骨組みに羽布張りの当時としてスタンダード、逆に言えばやや保守的な設計である。高翼単葉、両翼の発動機はストラットにナセルを設けて装着する。胴体の容積は大きく、当時のこのクラスの機体としてはかなりペイロードが大きかった。
 まずはアルファ・ロメオ・リンクス(200馬力)3発の民間輸送機として就役を開始し、1932年にはアルファ・ロメオD.2(240馬力)3発の軍用機型Ca101d2が登場する。
 翌年1933年には中央発動機を強化したCa101bis、1934年には東アフリカ植民地向けに翼幅を増し、胴体も伸ばしたCa101E(Etiopia:エチオピア)が登場した。
 各型はそれぞれ80機が発注され、空軍機としての生産数は240機であるが、この他に民間機が十数機あり、ハンガリーには15機が輸出された。
 軍用機型はまず夜間爆撃機として任務についたが、実質的には多用途機であった。もっとも、イタリア空軍の方針として爆撃機部隊は1941年くらいまでは輸送任務を兼ねることが普通でもあったのだが。
 1935年のエチオピア侵攻では爆撃機部隊の中軸として参加し、もちろん通常攻撃も行なったが、特に毒ガス攻撃では主役を担った。当時、280kgイペリット爆弾C.500.T、及び100kgアルシン(ルイサイト)爆弾C.100.Pを搭載できる機体が数機のCa133を除いて他になかったためで、Ca101はまさにファシスト・イタリアの最もダーティーな槍先となったのである。
 41kgイペリット爆弾40F、30kgホスゲン爆弾は毒剤量が少ないため威力に乏しかったが、特にC.500.Tは多量の毒剤を空中炸裂で撒布することができる新型爆弾であった。もっとも、その方法は原始的で(気圧高度計しかなかったので、まず模擬弾を投下し着達までの時間を計測して絶対高度を測り、基地で予め調整した風車式時限信管の秒時と投下射表とに合わせて上昇ないし降下し、炸裂高度を設定してはじめて爆撃針路に乗せる)、且つ信管の信頼性が低く地上炸裂になってしまう爆弾も3割〜5割にも上るという代物でもあったが。
 当時としても既に旧式低性能な爆撃機による、しかもおそろしく運用の不便な爆弾での極めて緩慢な攻撃ではあったが、空軍力皆無、高射砲もほとんど持たず、更には化学兵器に対する防護手段をも欠いていたエチオピア帝国に対しては恐るべき災厄となり得たのであった。
 その後、SM.81の登場とともに爆撃機部隊からは引退し、更にCa133及びCa148の充実とともに輸送機としても引退していったが、イタリア参戦時にもなお数機が東アフリカ方面に現役機として在籍していた。これらの機体のほとんどは1941年に英軍の侵攻により失われた。

 ハンガリー空軍は1931年にピアッジオ・ステラP.VII(370馬力)の爆撃機型を導入しており、1941年の参戦時にも第3爆撃航空団第2飛行隊が本機で装備されていた。その後He111と交代したが、輸送機としては数を減らしながらも1944年の休戦まで飛行を続けた。
 また、オーストリア陸軍航空隊も1934年に6機を導入し、1937年にCa133で更新するまで爆撃機として使用した。その後は輸送機として使用したが、ドイツによる併合後はルフトヴァッフェに使用されることもなく廃棄された。
 

(文章:ダリオ・マナカジーニ)




諸元
Ca101d2Ca101bisCa101E
全幅19.68m同じ21.24m
全長13.80m同じ15.45m
全高3.89m同じ同じ
翼面積61.70m2同じ67.60m2
自重3,150kg3,132kg3,500kg
全備重量4,975kg4,870kg5,200kg
武装7.7mmルイス機銃*2〜3 爆弾500kg7.7mmルイス機銃*2 爆弾500kg7.7mmブレダSAFAT機銃*2〜3 爆弾700kg
発動機アルファ・ロメオD.2 空冷星型9気筒 240馬力アルファ・ロメオ(アームストロング=シドレー)リンクス 空冷星型9気筒 200馬力 2基
アルファ・ロメオ(ブリストル)ジュピターIV 空冷星型9気筒 420馬力 1基
ピアッジオ・ステラP.VII 空冷星型7気筒 500馬力
最高速度165km/h(1,000m)196km/h(1,000m)215km/h(2,000m)
実用上昇限度6,100m6,000m6,000m
航続距離1,000km1,080km1,000km
乗員4〜5名同じ同じ

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