イタリア空軍に有効な急降下爆撃機が長らく不在であったことはヨーロッパ戦線の不可思議な出来事のひとつとして扱われているのだが、イタリア空軍は1938年には本格的な単発急降下爆撃機を計画しており、ブレダ社に一社特命で試作を命じていた。
ブレダではヴィットーリオ・カルデリーニ、マリオ・ピットーニの両技師を据えて計画に取り組み、基本的にはJu87を参考にしつつイタリア独自の思想に基く設計案をまとめたが、国産発動機では要求を満たせる見込みがなく、試作計画は頓挫した。
1940年にDB601Aの輸入とライセンス生産が本決まりとなり、計画はようやく具体化することになった。つまり、イタリア版「彗星」とも言えようか。
機体構造は全金属製応力外皮、主翼はJu87ばりの逆ガルであるが、脚は引込む。急降下制動板もJu87に倣った形状であるが、翼下面にぴったりと引込むようになっている。胴体内爆弾倉を持ち、500kg爆弾を収容できる。
操縦席は単座であるが、これは戦闘爆撃機的運用を考慮してのことである。固有武装は両翼内にブレダSAFAT12.7ミリを1挺ずつ装備している。
計画再スタートからの作業は操縦席位置の変更問題(重心に置くか、視界を重視してやや前方に置くかで、結局前方位置に落ち着いた)を除けば順調に進み、初飛行はJu87で豊富な経験を持つルイジ・アチェービ中尉の操縦により、1941年7月3日にブレッソ飛行場で行なわれた。
その後、9月26日までに34回13時間の試験飛行を実施し、11月10日には空軍技術本部長マリオ・ベルナスコーニ中将臨席の下に領収飛行を実施、試験は空軍ギドニア実験場での実用試験に移った。
ギドニアでも飛行テストは順調に進み、高性能が期待されていた。
しかし、これまで良好な成績を示してきたBa.201だが、兵装試験に移ったとたんにボロが出始めた。爆弾を搭載すると飛行性能がガタ落ちになってしまうのである。
「ブレダ」の名を聞いた時点で不吉な予感のした読者もいることだろう。
Ba.65、Ba.88と、既にブレダのお家芸となっているこのパターンに、またしてもハマってしまったのである。
しかも、ついていないことに1942年1月、実弾を搭載しての急降下爆撃テストで爆弾が落ちず引起しに失敗して墜落、1号機(MM451)は修理不能なまでに大破し、パイロットは殉職した。
幸か不幸か2号機(こちらはエンジンにアルファ・ロメオ製RA1000 RC41「モンソニエ」を搭載)が完成したばかりで、それを使用してテストは続行された。
結局、ギドニア実験場では合計して27回の試験飛行を行なったが、それ以上の開発は中止された。
結果は、「爆弾さえ積まなければ性能は良好である。爆装した場合の性能低下は著しいが、一点を除けばなんとか我慢はできる。その一点とは爆装時の速度不足である」と。
さすがに、胴体内爆弾倉を採用しているにもかかわらず、100km/h弱も速度低下するというのは尋常でない。現用のドイツから供与されたJu87Bと大差なくなってしまうというのだから恐れ入る。
ブレダ社の設計陣は、ある意味天才的な才能を再び発揮し、伝統「芸」を見事に花開かせた。
それでも、まだ帰投時だけでもBa.201の飛行性能は貴重であるとの意見もあったのだが、最終的にはDB601とRA1000 RC41の供給数があまりに限られていたことが、既に虫の息となっていた本機の運命にトドメを刺した。
1942年春には、北アフリカの戦況はのっぴきならないものになっており、MC202の量産は最優先課題であった。しかも、単座攻撃機で構わないのならば、250kg爆装が限度とはいうもののRe2001bisが完成しており、しかもずっと性能は良かったのだ。
Ba.201が入り込むべき余地は全く残っていなかった。
イタリアの「彗星」は失敗作に終わり、またしてもイタリアは急降下爆撃機を手に入れ損ねたのである。
全幅 | 13.00m |
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全長 | 11.09m |
全高 | 3.10m |
翼面積 | 24.84m2 |
自重 | 2,380kg |
全備重量 | 3,650kg |
武装 | 12.7mmブレダSAFAT機銃*2 爆弾最大500kg |
発動機 | ダイムラー・ベンツDB601A 液冷V型12気筒 1,175馬力 |
最高速度 | 460km/h(4,000m) |
巡航速度 | 405km/h |
実用上昇限度 | 8,200m |
航続距離 | 1,200km |
乗員 | 1名 |