コードロンCR.714シクローヌ
 全木製の小型軽量の機体で小馬力エンジンを使用した高速迎撃機というコンセプトに基いて作られた機体である。
 コードロン社および設計主任のリファール技師は木製構造レーサーの設計には経験を積んでおり、その経験を生かして軽量戦闘機の開発を自社の企画として行なうことにした。
 母体となったのは1936年度ドゥーチュ・ラ・ムールト杯優勝機であるC.561である。
 これを軍用機化するにあたっての形式符号はC.710であった。機体は武装を搭載するために各部を補強した程度、ルノー12空冷倒立V型12気筒(450馬力)を中心にした、低翼単葉固定脚の小型戦闘機であるが、武装は20ミリHS404機銃を翼下にポッド式に2門装備という重武装で、最大速度は455km/h(4,000m)に達した。
 C.710はC.561と半ば並行して製作が進行しており、1936年7月18日に初飛行して、そのままフランス空軍次期戦闘機コンペに出場する。
 このときの勝者はモラーヌ・ソルニエMS405(この量産型がMS406)となったが、ほぼ倍近い出力のイスパノスイザ12Y搭載の機体に張り合う性能を出せたことでコードロン社技術陣は自信を深めた。
 実のところ、大間違いなのだったが…。

 確かにカタログ性能的には、それなりのものを持ってはいる。
 だが、数字に表れにくい、加速性能、上昇性能、旋回性能という戦闘機に最も重要な飛行性能がどれをとっても物足りないし、なによりエンジン馬力にまったく余裕がないのだ(しかもルノー12系は出力向上の限界にある)
 副武装ともいえる7.5ミリ機銃を積むこともできないし、防弾鋼板を追加することもできない。燃料容量も追加できない。
 果たして、C.710を引込脚に改めたC.713は、まさにその脚構造の重量増加で4,000mまでに9分25秒を要するまでに上昇力が悪化し、最大速度は470km/h(4,000m)と15km/hあまり向上したものの、それに達するまでの時間は固定脚のC.710と変わらない不満足な値でしかなかった。
 C.714はこれを改めるべく、武装をより低平なポッドに収めた7.5ミリMAC1934機銃4挺と思い切って軽量化・低抵抗化し、更に主翼の翼型をいじってひたすら高速化に努めたものである。
 その甲斐あって、上昇時間は4,000mまで7分とかなりの改善を見せ(それでも十分ではないが)、最大速度も485km/h(4,000m)と更に速くなった。
 しかし、旋回性能と加速性能に不満がある点はそのままで、これでは当時欧州最強の『格闘戦戦闘機』であるBf109に対しては心許ないこと夥しく、しかもパンチ力を失った以上は一撃離脱で必殺を期すことも難しくなってしまった。
 それでも制式採用、量産化に進めたのは、一にかかってイスパノスイザ12Yもグノームローン14Nも使用しないで、とりあえず「使えなくもない」性能を保持していたことにあるだろう。
 フランスの空を護る戦力としてはともかく、営業方針としてだけ見れば、コードロン社の開発方針は完全に誤りだったとは言えないかもしれない。

 1938年11月に第一次発注分として20機、39年1月には更に120機が追加された。当初の予定では39年末までに初号機引渡しというスケジュールであったが、工場の生産立ち上がりが早く39年6月末には生産機がラインを出始めた。
 とはいえ空軍側にはこれに対する用意が十分でなく、空軍は機体の受領はしたものの部隊編成に手間取り、倉庫や駐機場に溢れ出す結果となった。
 そのうえ、やはり飛ばしてみると性能はかなり不満で、実用性能では駄目飛行機MS406よりも更に駄目であった。またアメリカから急遽購入した、より強力なカーチス75(P-36)が配備に就きつつある点を見て、空軍はすでに組立てが終わっている分を除いて追加分の発注をキャンセルしてしまう。生産数は53機〜約90機まで諸説ある。
 1940年1月にようやくC.714部隊が編成されたが、これは亡命ポーランド人からなる部隊(GC.I/145)であり、意地悪な見方をすれば、もはやフランス空軍は本気でこの戦闘機を使うつもりはなかったと言ってもいいだろう。
 しかも、この部隊に回す予定の機体から割いて、当時ソ連軍の侵攻に苦闘していたフィンランドへの援助物資として送ることにしたのである。
 多少弁護の余地があるとすれば、フランスは義勇兵としてGC.I/145をそっくりフィンランドへ送り込むまでの計画も持っていた。ポーランド人は昨年9月のソ連の泥棒猫的所業を忘れてはおらず士気も高かったといわれる。
 ただ、GC.I/145はまるで訓練未了であり、しかも国際情勢上の問題もあり、機体のみを送ることになったのである。
 50機を割いて6機しか届かなかったことについて、輸送途上で44機もが失われたとする資料も多いが、最近では失われたのは4機だけで、あとの40機はまだフランスにあった(10機はルアーブルで積込は終わっていたようだが)とされている。
 もし生産数53機という説を採るとすれば、どうしてもこの話を信じるしかない(笑
 フィンランドではLeLv30にこれらを配備した。1940年5月末のことであり、冬戦争にはまったく間に合わなかった。第30飛行隊は雑多な機種の寄せ集めで編成されている偵察部隊であった。1941年冬に部品不足で飛行停止になるまで任務についていたが、重要な役目を果たしたことはなかったと言ってよい。

 GC.I/145は1940年4月半ばにようやく実戦配備となり、リヨン近郊ブロン基地で防空任務に就いたが、ドイツの西方電撃戦は数週間後に迫っていた。
 5月10日の侵攻開始以来会敵機会に恵まれなかったが、6月2日から13日までの激闘で7〜12機を撃墜、被撃墜4機(地上で被撃破9機)、搭乗員の戦死5名という戦績を残している。
 撃墜した機種についての記録を見つけられないのは残念だが、ともかくポーランド人操縦士たちは類稀な勇敢さと技量を発揮したと言えそうである。
  

(文章:まなかじ)


諸元
全幅8.97m
全長8.53m
全高2.87m
翼面積12.50m2
自重1,400kg
離陸最大重量1,750kg
武装7.5mmMAC1934機銃*4
発動機ルノー12Rol 空冷倒立V型12気筒 450馬力
最高速度400km/h(SL) 485Km/h(4,000m)
巡航速度320Km/h
実用上昇限度9,100m
上昇速度4,000mまで7分
航続距離900km
乗員1

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