QQCCMMVVGGTT
2999 第二次世界大戦当時日本軍やアメリカ軍は太平洋の島々に上陸作戦をおこなったとおもいますが師団規模の兵をおくる場合どうしていたのですか?駆逐艦等に分乗して作戦直前に一等輸送艦などに搭載されている大発でピストン輸送したのでしょうか。

バリバリの素人

  1. 最初から輸送艦に乗り込んでおけば良いのでは?…いや冗談でなくて。
    敵前上陸でもない限り、基本的には輸送艦で移動ます。岸壁が使えれば接岸し、
    そうでなければ舟艇に乗り換えて上陸します。
    いぎし ちじ

  2. 回答ありがとうございます。すいませんその通りですね。もしその場合輸送艦はどのくらい必要だったのか教えてくれないでしょうか?一個歩兵師団の場合です。あと敵前上陸の場合はどうだったのでしょうか?
    バリバリの素人

  3.  強行的な上陸を企図せず、無駄なく船倉を利用できたとした場合、一個師団の輸送には125,000総トンの船舶を必要とすると見積もられています。
    SUDO

  4. ありがとうございます。そんなにもいるんですか;すごいですね。
    バリバリの素人

  5. 「Gパン主計ルソン戦記」という文庫本があるのですが、第一師団が上海からフィリピンに移動したときの編成が載っています。これが公式記録からの引用か、本人の記憶・メモ等に基づいているのか分かりませんが、以下の通りとなっています。

    金華丸9,350トン
    師団司令部、歩兵1連隊、捜査、野砲一部、工兵一部、人員計3,750、馬151、トラック40、兵器弾薬糧秣1,500トン

    香椎丸8,407トン
    歩兵49連隊、野砲一部、工兵一部、人員計3,400、馬141、トラック40、兵器弾薬糧秣1,500トン

    能登丸7,191トン
    歩兵57連隊、野砲一部、工兵一部、野戦病院、通信、人員計3,100、馬106、トラック40、兵器弾薬糧秣1,500トン

    高津丸5,656トン
    歩兵49連隊の一部、歩兵57連隊の一部、輜重、野砲一部、工兵一部、通信、人員計2,700、トラック27、兵器弾薬糧秣1,000トン

    ちなみに、この船団は無事にフィリピンに到着しています。


    富士見町

  6. ありがとうございます。旧日本軍の師団の場合は30000t程度でよかったんですか何か理由があるのでしょうか?

    バリバリの素人

  7. >6
     #4で出した数字は、米陸軍が日本軍のマニュアルから計算した、日本陸軍一個師団に必要な量の概算です。ですから日本軍は理想論としてこのぐらい欲しいと考えていたという数字です。
     #5で上げられた一師の例ですが、まず全員を連れて行っておらず(例えば私の祖父は当時一師の輜重兵でしたが上海に置き去りにされてます)、容積を食う砲、輜重、馬、補給品を思い切り削った結果です。

     ちなみに師団の輜重は正規ですと、一個連隊で馬1000〜2000+トラック200台程度、人員2000〜3000人を抱えています。また野砲は輓馬4頭で引き、弾薬等も抱え、予備の馬も必要で、一個連隊で2000頭ほどとされています。また歩兵連隊で馬700〜1000頭、捜索連隊で1000頭弱、師団の場合完全ならば7000頭前後の馬ないし同容積トラックを必要とするんです。
     比島輸送で運んだ馬は400弱、トラック150台弱、トラックは1.5トン車ならせいぜい馬4〜6頭相当ですから、合計して馬で1000〜1300相当。つまり重装備や補給品は殆ど無いという事が数字からも判るでしょう。
    SUDO

  8. なるほど。詳しい答えどうもです。あと馬に頼る部分が多かったのは知っていましたが七千頭ってすごいですね;馬はデリケートな生き物だと思っていましたが長期の航海やその後の環境の変化に耐える事が出来たのでしょうか?
    バリバリの素人

  9. >8
     学研の「戦場の衣食住」等によると、餌や面倒の見方等の対処方法が研究されて成果を上げているようです。
    SUDO

  10. >5
    >7
    山本七平の著書によると、比島に満州から転用された部隊は「砲兵の馬は現地で調達」という前提で、馬など見つかるはずもなく人力での搬送を余儀なくされていたとのことです。富士見町様の引用データにある合計400頭ほどの馬は、砲兵用の輓馬だったのでしょうか。
    ベアベア

  11. >10

    「Gパン主計ルソン戦記」の著者は、フィリピン到着後本体と分かれています。ルソン西岸のラポッグに投錨した際に、各輸送船から1個大隊だけ下船し、マニラまで徒歩で移動しているのですが、これに選ばれたためです。その後直ちに負傷してしまっているので、本隊の馬に対する記載はありません。

    山本七平の記述によると、現地で馬の水牛を調達したが、水牛は定期的に水をかけてやらなければ使い物にならず、結局役に立たなかったとされていたと記憶しています。

    なお、ラボックで揚陸された1個大隊600人、1週間用の糧秣として、

    米45kg80俵
    粉みそ3袋
    粉醤油3袋
    牛肉缶詰2000個
    計4トン
    加えて弾薬2トン

    これを運ぶためにリヤカー16台、自転車3台。兵士は32kgの完全軍装。弾薬に関しては一人当たり3kg程度にしかなりませんが、本格的な戦闘をするつもりはなく、あくまでマニラまでの行軍ですので、こんなものなのでしょうか。大砲はおろしていないようで、最も重いのは92式重機関銃だったようです。

    港湾設備のない場所で、しかもリヤカーなど船倉のかなり奥まった場所にあったそうですが、予定1時間半にたいして実際の揚陸作業は3時間弱かかったそうです。
    富士見町


Back