2969 |
私の祖父(存命です)が、昭和20年の春に特殊潜航艇部隊に配属され、沖縄沖の敵機動部隊に向けて出航したと良く話すのですが、その話を聞きますと2−3疑問に思った事がありましたので、先輩諸兄の知恵をお借りしたく思います。 祖父の話では、特殊潜航艇による攻撃作戦は、戦艦大和の水上攻撃を援護する為だと上官から告げられたと言っておりますが、私の祖父は一等水兵です。 末端の海軍軍人にこのような作戦上の秘密を明かすような事はあったのでしょうか?(戦艦大和が存在する事自体が機密であったと思うのですが) 祖父の話はなかなか生々しく、呉を出航して種子島の側まで来た時に、グンズリした形の敵機に発見され、1時間もしないうちにグラマンが5−6機来襲し、機銃掃射を受けて特設運搬船(祖父談)は機銃だけで沈んだと言っているのですが、この「特設運搬船」なるものは、どういったものなのでしょうか? 祖父の話では、特殊潜航艇を2隻積んでいたと言っていますが、仮にこの特殊潜航艇が蛟龍であるとすれば、かなりの大きさになると思うのですが、海防艦か何かを改造したものだったのでしょうか? 機銃掃射で沈んだと言う辺り、漁船?かと疑ったりするのですが、その辺りの事をご教授頂けると幸いです。 雪彦 |
- 推論であることを先に申しておきます。
末端の海軍軍人に、、、:すでに出航してしまった状況であれば、多少の作戦内容であればいずれ伝えられるのでは?機密保持の面からでも、出航前では口が堅くとも、出航後、しかも戦闘がいつ起こるかといった状態であれば、この程度ならば話しても問題ないと思う士官がいても、おかしいとは思えませんが。(完全な秘密作戦というのであれば、何をして、何をしたかまで隠すのでしょうが)
「特設運搬船」なるものですが、特殊潜航艇を運んで、戦闘に供しようというのですから、いくつか考え付きますが、二隻積んでいたとなると、「一等輸送艦」ではないでしょうか?申し訳ありませんが、いま手元に資料が無いため、当日近辺に沈んだ一等輸送艦の該当艦がわからないのですが、もしあればそれの可能性が高いと思われます。
資料お持ちの方、フォローお願いします。
Lachesis
- 少なくとも存在自体は機密でもなんでもありません。
日本が新戦艦を建造していたことは外国では公然の秘密というやつです。
大体、英米の新戦艦の主砲サイズの問い合わせを日本が黙殺したことが、
Nカロライナの16インチ砲他エスカレーター条項発動につながりましたし。
国民はというと、戦時中? 公開された筑摩の写真(有名な8門の主砲を旋回させたやつです)みて
「これが建造されてた新戦艦か!?」と思ったとか思わなかったとか。
勝井
- >(戦艦大和が存在する事自体が機密であったと思うのですが)
機密事項は主砲口径、装甲厚、排水量などの主要スペックではないでしょうか?!
大和は呉の芸者や仲居は全員知ってたと思いますしw
武蔵も船台上や儀装中はともかく「完成して呉に回航される日には周囲の遮蔽物が取り払われてその全貌を現し、市民も警官も憲兵も一緒になって大喜びし、波止場や丘の斜面に鈴なりになって旗を打ち振った」とのコト(佐藤太郎「戦艦武蔵」再建社より)
駄レス国務長官
- これは1等輸送艦17号です。
3月23日甲標的丙型93号および94号を積載し出港、4月2日に敵機の攻撃で撃沈されています。
GO
- 用途が異なるとはいえ,1等輸送艦は基準排水量1,500tと白露型駆逐艦(同:1,685t)とほぼ同大の艦ですので,誘爆でもない限り機銃掃射だけでは撃沈できないと思います。
もし該当艦が一等輸送艦17号であったならば,大変失礼とは存じますが「機銃掃射のみで撃沈された」点だけは錯誤があるかと思います。
Ranchan
- 祖父に確認しましたところ、特特輸送艦で出航、奄美大島近郊で敵偵察機に発見され近くの湾内に退避、夜間に物資揚陸(予備魚雷等の可燃物放棄らしいです)し、翌早朝に出航、日の出と共に上空に10機前後の敵機が旋回し波状攻撃(確認しましたところ、艦載機で爆弾は持っていなかったとの事)艦自体は夕暮れまで浮かんでいたものの、頭上からの機銃弾に死者・負傷者多数により退艦命令が出て、短艇により祖父は脱出。日暮れ前に火災発生、後に弾薬か何かに引火し「くの字」に折れて艦首を頭にしながら沈んでいったとの事です。
機銃攻撃により火災発生→何かに引火→沈没 これを祖父は「機銃掃射」で沈んだと言ってます。
「そりゃ誘爆で沈んだんやないか」と突っ込みは入れておきましたので。
大和関連の機密と言うのは伝説に近い様ですね。何かの本で「大和は存在が国民に秘匿され、人気が一番高かったのは長門〜」みたいなくだりを読んだことが有った様に記憶してますので、一般には知られてなかったのかと思いこんでました。
「天1号作戦」について、祖父が上官から聞いた事も改めて確認しましたが、作戦名はともかくとして、大和が出航予定であること、自分たちは大和出撃に際して多少でも戦果を上げ、それを援護する事が目的だと穏やかな口調で話してくれたと言っています。
祖父曰く、この時の上官の雰囲気は今でも思い出すと郷愁に駆られるそうです。
(この方とは、戦後に至るも再会していないそうです)
士官級ともなれば大和の出撃は成功の望みが薄く、自分達がその露払いになれる事を何処か晴れ晴れしく思っていたのではないか……と祖父は言っています。
祖父を代表する兵達は、出撃が決まってからは、暇さえあれば水泳の練習をしていたそうです。(艦が沈んだら体力だけが味方とか (;^_^A アセアセ…)
何時の時代も、下っ端は逞しいです。
長文になりましたが、皆様のご回答に感謝します。
雪彦