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2961 日清戦争の頃の軍艦は、大口径の砲を少数装備している例が多いですが、その発射速度は「1時間に数回」程度であったと聞いています。実際はどうだったのでしょうか。
ベアベア

  1.  日清戦争時、つまり19世紀末期の大口径砲は急速に性能改善が進んでいく過程にありました。
     遅いものはカタログ上ですら数分間隔、早い物は数十秒で再装填できるという事になってます。
     ただ、まあ昔のものですので、機構的にも機械的にも不完全な部分があり、公称値の射撃速度を実戦で充分に発揮できたとは言い難いようです。
     それでも日清戦争時の両軍大口径砲は、故障等から事実上使い物にならなかった三景艦の主砲以外は、それなりの射撃間隔(数分程度)で撃っているようです。

    SUDO

  2. >SUDO 様

    「1時間に数回」の発射速度でどうやって命中するのか?と疑問に思っていたのですが、誤読かガセだったようです。ありがとうございました。
    ベアベア

  3. >>2.
    松島の32cm砲弾は14:26鎮遠の前部に命中してますケド(廿七八年海戦史より)
    駄レス国務長官

  4. >ベアベア様
     全くの間違いと言うわけではありません。
     当時、清国海軍には、30.5センチ砲4門を持つ、定遠、鎮遠と言う二隻の甲鉄艦(戦艦)があり、日本海軍には対抗できる艦がありませんでした、そのため、巡洋艦に32センチ砲1門を搭載したいわゆる三景艦(松島、厳島、橋立)を建造したわけですが、艦隊決戦となった黄海海戦では、3艦合わせて13発と言う発射数、命中は零(福井静夫、日本艦艇史による)という結果に終わっています(資料によっては発射数は3艦合計で2発と言うものもあります)。
     むしろ海戦の帰趨を決したのは日本側の12センチ及び15センチアームストロング速射砲(当時としては)の威力と、清国の単横陣に対し日本のとった単縦陣の効果であったとされています。

    わんために

  5. 便乗質問で失礼します。
    昔、タイトルは忘れましたが、
    「松島の32cm砲は、一発だけ鎮遠に命中したと記録があるが、
    鎮遠の装甲には一ヶ所も貫通痕がなく、誤認だった可能性が高い」
    と言う内容の本を読んだことがありますが、最新の研究では、
    命中・誤認、どちらの説が有力なのでしょうか?
    それとも、確認のしようが無く、真実は闇の中なのでしょうか?

    ベリアル

  6. >>4.
    松島だけで少なくとも3発(12;58, 14;26, 15:26)撃ってますんで
    「3艦合計で2発」は違うのではないかと思われ
    カタログデータは「5分に1発」でしたが、何せ砲を旋回させると船体が傾くので、
    彼我の対勢とかの関係で発射チャンスが少なかったのでしょう
    あと砲の故障は強装薬を使ったためも有るようデス

    >>5.
    装甲の厚いトコロ(水線帯14in、バーベット14in、砲塔12in)に当ったんで、貫徹しなかったんじゃないでしょうか?!
    駄レス国務長官

  7. >>6 2発の出典は「世界の艦船」204号で関野氏と言う方が書かれていますが、「だったという」と言うレベルの書き方です、ただしこの方の父親が、厳島の32センチ砲の直接指揮にあたった方だそうで「一発くらい打ったかなあ」と言う答えが返ってきたそうです、一方アームストロング速射砲の方は、鎮遠の場合220発と言う命中弾を記録しています(出所同じ)
    わんために

  8. >>7.
    当日の厳島の砲術長は但馬惟孝大尉で、関野謙吉大尉は4人居る分隊長の3番目に名を連ねてますね >> 廿七八年海戦史
    あと「220発」は大小取り混ぜた総数です >> 同上
    駄レス国務長官

  9. >6
    鎮遠の装甲の厚さについて、まったく考えていませんでした。
    32cmが当たれば(最大装甲の個所でも)、必ず相応の被害があったと思い込んでいました

    ベリアル

  10. "日清戦争の頃の軍艦は、大口径の砲を少数装備している例が多いですが、その発射速度は「1時間に数回」程度"という情報源が何か分からなかったのですが、このサイトでした。http://www3.kiwi-us.com/~ingle/topix-2/gunnery.html

    どなたか、「鎮遠」の黄海海戦での主砲発射弾数をご存じではないですか?日本の三景艦の発射速度は、皆さんのご教示でも「1時間に数回」だったようですが。
    ベアベア

  11. >10.
     資料が駄レス国務長官様が用いられているものと同じ廿七八年海戦史なので私が回答するのは心苦しいのですが、これによると主砲発射弾数は鎮遠94発、定遠120発とのことです。
    (引用元の表には「戦後クルップ社が調査したもので信頼性は低い」と添えられていますが、鎮遠に乗っていた人の回想で「鎮遠の主砲残弾は25発」というものもありますので、相当数を発射した可能性は高いと思われます)
     また余談ながら、同資料によると黄海海戦に於ける浪速、高千穂の主砲発射弾数はそれぞれ33発と22発、扶桑の24拇砲は29発と記載されています。また、10年後の日露戦争に於ける鎮遠の主砲発射弾数は黄海海戦6発、日本海海戦5発で、同じ海戦での三景艦の主砲発射弾数2〜3発と大して変わらないようです。
    摂津

  12. >11
    ご回答ありがとうございます。鎮遠・定遠の主砲はきちんと稼動していたわけですね。
    ベアベア


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