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豊田穣さんの戦記小説、「仙人参謀」のなかで大和級戦艦三番館信濃を太平洋戦争前のから空母に変更する計画があった。しかし当時の軍令部第一部長(作戦部長)である宇垣纏少将(当時)が頑として判を押さずできなかったとありますが、これは本当でしょうか?以下は「仙人参謀」からの引用です。 ある日、山本は海軍大臣の及川古志郎のところへやって来て、 「宇垣君を第一部長(作戦部長)からはずしてくれませんか」と頼みこんだ。 理由はこうである。大和、武蔵の巨大戦艦建造に山本は反対であった。そこで何とかして三号艦の信濃は空母に変更してもらいたい、と呼びかけてきたのであるが、作戦部長である宇垣が承知しない。艦船を発注するのは、作戦部長、すなわち第一部長の権限である。ところが、大艦巨砲主義者である宇垣は、頑として変更に判を押さない。そこで宇垣をはずして、現GF参謀長の福留繁を第一部長に入れてくれ、という山本の頼みである。 「よし、なんとかしよう。ところで、宇垣をどうするかな」 及川は腕を組んで考えた。宇垣は頭脳名敏で切れるが、倣岸で押しの強い性格である。なみ大抵の上官では使い切れないところがある。 「そうですな、宇垣君は、私のところへでももらいますか」 山本がそう言い出したので、及川は驚いた。一番気に入らぬ男を自分の部下に使ってもよい、というのである。この男、大器だなと感じ入った。 こうして宇垣は、三号艦信濃を空母に改装する見返り? として八戦隊司令官の職に補せられたのである。 この話は事実でしょうか?事実だとしたら信濃の空母の変更案は戦前からあったということでしょうか?だとすると帝國海軍は真珠湾、マレー沖開戦前から、対艦巨砲主義に見切りをつけていたといってよいのでしょうか? 烈風かい? |
- 大艦巨砲主義って何でしょうか?
戦艦は海の王者にして最強、戦艦の数が勝敗を決めるということであるなら、日本はワシントン条約が締結された時点で完全に捨てたと思います。
問題はどうすれば手持ちの戦艦を補えるかというところにあり、戦艦が足りないから新しく戦艦を作ろうというのが、一般に言われる「大艦巨砲主義者」であり、戦艦の足りない分は航空機で補えるとするのが「航空主兵論者」であったということです。
大艦巨砲主義者にせよ航空主兵論者にせよ、それぞれの手段で戦艦を撃沈できることは認めていましたが、どっちの方が効率と費用対効果に優れるかという部分で争っていたのです。
また、常に水雷畑は大きい発言力と高い地位を保っていましたし、水雷部隊が戦艦と並んで決戦に必要不可欠な兵力であることは昭和10年代には完全な合意事項であったと言えるでしょう。
真珠湾とマレー沖の結果によって大艦巨砲主義にトドメが刺されたというわけでもありません。
航空がなければ海戦にならないことは大艦巨砲主義者も認めていましたし、航空主兵論者も制海権を維持するには強力な水上艦隊が不可欠であることは認めています。要は、どこに力点を置いてどのように戦力をバランスさせるべきかという部分での対立であったわけで。
まなかじ
- 非公式な打診として110号艦の建造枠を母艦に切り替えられないかを各方面に持ち掛けたらしいという事と、110号艦の空母改造は別の話と考えるべきではないかと思います。大艦巨砲主義をどう定義するかもまた微妙な話ですけれども、元々老朽艦の代艦計画としての規模でしか進行していない戦艦建造計画を更に縮小するような動きは大東亜戦争の開戦直前まで表面化しません。同じように110号艦の建造枠を母艦に差し替えるような構想も公式には現れません。
航空本部内でさえ検討の跡が見られない話ですからそれがひとつの転換点として意味を為したとは言い難いのではないかと思います。
BUN
- 毎度毎度、私のピントの外れた質問にご回答ありがとうございます。2.3日考えた上での僕の考えですが、
1.この話が事実であるかどうか。話の出所も明らかにされてない、非公式な話であるから事実を立証するのは困難(当時ありそうな話ではあるので事実でない完全に立証するのも同様に困難。可能性はたぶんにある)。
2.結局、信濃が空母に改装されたのはミッドウェー海戦後なので、この話が事実であっても意見は通っていない(結果的に無意味)。
3.連合艦隊司令官とはいえ、一個人の考えで日本海軍全体の大艦巨砲主義に見切りはあまりに話の飛躍のしすぎ(自分で質問しておいてごめんなさい)。
という意見ですが、ひとつ最後に残った疑問は宇垣纏の軍令部第一部長からの異動の件ですが、このような高級将校の人事異動の権限は海軍大臣の一存で決まるのでしょうか?
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烈風かい?