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5135 九二式重爆の後継となる4発重爆はなぜ開発されなかったのでしょう?コレヒドール要塞に1t(でしたっけ?)爆弾を投下するという目的の戦術的な価値が相対的に低くなったから、と考えて良いのでしょうか。
物知らず

  1. 九二式重爆の審査終了直後から次世代の超重爆についての研究が始まりますが、当時の陸軍には自軍に特有な機種は独自に試作し、超重爆等は海軍機からの転用をはかって陸軍の負担を軽くするという方針が生まれています。そのために航空兵器研究方針に昭和10年、12年と超重爆の項目が存続しているにもかかわらず実機試作が行われません。陸軍内にはこのような予算の掛かる機種を海軍と共用する考え方と、あくまで独自開発する考え方との対立が存在したのです。

    BUN

  2. いずれにしても海外の機体設計に依存することになるのですが、流用可能な適当な大型機が存在していなかった、という現実的な事情も大きかったように思います。
    アメリカでいよいよ4発旅客機が開発された、という話に海軍が性急に飛びついて十三試大攻になり、九二式重爆以来久々の陸軍超重爆であるキ85に結びついてゆきます。DC−4の出現には「待ちに待った」という感があったのかもしれません。


  3. BUN様、片様、明確な解答をありがとうございました。

    陸軍の戦術思想からはシベリアの敵飛行場に小型爆弾の雨を降らせるのが爆撃機の第一の役目であり、4発重爆の重要性はそれ程の位置を占めていなかったということでよろしいのですね。そのため、限られたリソースをそれに投入することは避けて海軍に作らせて、それに便乗しようと。海軍は海軍で外国製大型機の設計に便乗しようとして初代DC-4というババを引いてしまったという訳でしたか。

    物知らず

  4. >3
    戦術思想は後からついて来たもので、全金属製の超大型機を製造する技術の習得というのは陸軍機開発の一大テーマなんです。九二重の技術で九七重が出来たという部分もあるのですから、九二重の経験は無駄であるどころか技術的には欠くべからざる重要な過程なのです。DC4の件もそれ以前にDC2というきわめて貴重な習作を経験した後にやって来たものである事や、この計画の失敗が「DC4が駄作機だったから」という解りやすいエピソードよりもむしろ発動機の開発にあるという当たり前で地味な事実を押えて欲しいと思います。陸軍にしても海軍にしても四発爆撃機は喉から手が出るほど欲しかった機種なのですが、技術と予算の両面で妥協を迫られているというのが本当のところです。双発爆撃機に理想を見出していた訳ではありません。
    BUN

  5. 海外の機体を基にしたとしても当時の日本に4発大型機の開発は不可能だったと思います。
    当時日本が軍用機を設計するにあたって一番困ったのがエンジンの出力不足でした。
    当時の日本陸軍の主力爆撃機である九七式重爆でも最大1000Kgしか搭載できなかった(B−25中爆の半分以下)のはエンジンの出力不足によるもので、このとき日本のエンジン技術では1000馬力が戦闘に耐えうる限界でした。
    2000馬力エンジンも開発はしていたのですが信頼性が劣悪でとても飛行機に搭載できるような物ではありませんでした。
    末期にはそれでも1700馬力級エンジンを開発したもののこのときには資源不足で量産されたものは欠陥続出だったそうです。
    (試行錯誤した末彗星等の液冷エンジン搭載機も現れたがエンジントラブル続出・当時日本機の主流は空冷式)

    因みにフィリピンで捕獲したB−17を基にして試行錯誤の末に海軍が「連山」なる4発機を試作しましたが性能はB−17に遠く及ばなかったようです。
    あと富嶽という日本本土を出発してアメリカ本土を爆撃し、そのまま日本本土に戻ってくるという夢物語的発想の戦略爆撃機も発案されてましたがB−17の性能すら再現できなかった日本には到底作れませんでした。
    そういえば戦後まもなくアメリカが航続距離2万キロの6発戦略爆撃機を開発してますね。「ピースメーカー」だったかな?
    Uボート機関兵

  6. >5
    様々に誤解をされているようですが、例えば、B25の爆弾搭載量、キ21IIの発動機馬力など、具体的な数値をまずお調べ下さい。他の諸情報についても同様です。

    九七大艇、二式大艇という四発大型機の完成作があったこともお忘れなく。


  7. >5
    あんまり素っ頓狂な事を書くものじゃないよ。
    BUN


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