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1930年代前半から欧米で多く作られた三発輸送機・爆撃機の日本での使用例ってありますか?軍民問わず自国開発・輸入も問わずです。 森(中略)オッサン |
- 当時の三発旅客機の代表的機種であるフォッカー3m(FVIIb/3m)が日本航空機輸送の長距離線主力旅客機として使用されています。本当の意味での主力はフォッカー・ユニバーサルだったのですが。
フォード3mの使用例は日本になく、日航はその後DC−2に移行していきます。
片
- この当時、双発以上の大型機はまだ完全自国開発できる状況にありません。それが可能になるのは八試中攻の試作、ダグラスDC−2国産化以降のことです。
その例外として、海軍が早くから技術習得に努めていた大型飛行艇がありますが、ここでは大艇が双発から四発化へと発達してゆく過程で三発飛行艇が現れています。
片
- まったくの余談で申し訳ありません。フォード社のアジアでのフォード3Mの売り込みの様子が、若干、わかるので書き込みさせていただきました。多分、日本ではフォード3Mの価格、維持費とも高すぎて購入できなかったように思えます。
1930年初め、フォード社はパイロット、ペリー ハットン(Perry Hutton、アメリカのパイロットライセンスナンバーは♯547) 、CO-パイロット、エドワード ハミルトン(Edward Hamilton、ライセンスナンバー♯366)、メカニック、アンドリュー クリスチャン(Andrew Christian)のクルーを組み、トライモーター(フォード3M)をオリエント(アジア)へ売り込むための6か月のデモンストレーションツアーを実行させます。ペリー ハットン、エドワード ハミルトンはデモンストレーションパイロット兼セールスマンというわけです。
セールスは日本では失敗しましたが、満州の東北軍張学良は興味を示しました。張学良は雑多な少数の小型機しか持っていませんでしたが、とてつもない大金持ちでしたので、トライモーターを買うことが出来ます。ライバルの軍閥たちの上を行きたいと思ったようです。1930年7月にトライモーターを購入しペリー ハットンを専属パイロットとして雇いました。CO-パイロット、ハミルトンの帰国後のCO-パイロット席は、ソロになれなかったようですが、瀋陽(奉天)の航空学校で操縦を学んだことのある張学良が占め、重い木の操縦輪と格闘することになります。アメリカ人と中国人でしたが張学良とハットンとは年齢が近かったのでお互いにすぐに意思疎通ができるようになったようです。
ラインバッカー