ちょっと気になると夜も眠れない。 城・要塞等構築物 Ans.Q どうでも良いことなのに…、誰か助けて! |
45 |
日本だと鳥取所や三木城、中国だと趙の武霊王の最後の様に兵糧攻めが攻城戦で用いられますが、 西洋で兵糧攻めで陥落した城はあるのでしょうか? 安井 賢一 |
しかし、古代や近代、あるいは中世でも十字軍のように異教徒との争いでは殲滅戦に近い攻囲戦が行われたようで、カルタゴなどは壊滅しています。また、南北戦争ではヴィックスバーグが兵糧攻めで陥落しています。
陥落こそしていませんが、レニングラードの攻防戦などは近代の攻囲戦でしょうし、チャーチルのいう大西洋の高いもそうなのでしょう。ただ、この辺りまで行くと範囲が広すぎるかと思いますので、やめておきます。
hush
確かに城塞都市を兵糧攻めで陥落させようとすれば膨大な手間と時間がかかりますね。
安井 賢一
その他の対策を施したとしても,収穫直前,食料の備蓄が最低になる時期においては,少ない数の餓死者が生じています。
詳細は,城郭都市に関する書籍や研究報告をご参照ください。次の書籍が入手しやすいと思います。図書館にもあると思います
”The medieval castle” ISBN 978-1566194587
包囲戦となれば補給が断絶しますから,備蓄食料の量は急激に減少致します。食料が欠乏すると,一般市民,非戦闘員と云ってもよいですが,士気あるいは敵に抵抗する意欲は低下します。死者が増加してゆけば,その傾向は顕著に現れます。一般市民には,老人,乳幼児,あるいは病人もいますから,死者の増加はかなり早い時期から始まります。
となりますと,包囲戦に於は,兵糧責めという戦術は非常に効果的であると言えます。言い換えれば,包囲戦では必ず兵糧責め戦術を適用する,と考えてよいです。
近世の例を挙げるとすると,まず晋仏戦争時のパリ包囲戦 (Le Siège de Paris) が挙げられます。
包囲下の市民生活に関して多くの記録がありますし,検証や研究の成果も多く発表されております。
中世の例を挙げるとすれば,サンセール包囲戦 (Siège de Sancerre) があります。こちらも興味を引く題材であることから,多くの研究成果,あるいは小説や解説本がでてます。例えば以下の書籍。
'L'hist memorable du siege et de la famine de sancerre (1573). au lendemain de la saint-barthelemy'
パリ包囲戦では講和が成立して開城,サンセール包囲戦では降伏して開城しています。
ねこねここねこ
ご指摘ありがとうございます。家畜に関しては、反芻胃を持たない豚は冬前に屠殺するのが普通であると読んだ記憶はありますが、牛もだったのですね。
なお、興味深い包囲戦としてキオッジアの攻防戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 というものがあります。これは、包囲されたヴェネツィア側が水路を使って食料を送り込み、包囲側のジェノヴァのほうが降伏するというものです。
hush
キオッジアの攻防戦に関する URL のご提供ありがとうございます
牛を冬になる前に屠殺するのは,牛は必要とする干し草や飼料が多いことも理由ではないかと考えております。
冬を越すために大量の干し草が必要となりますが,集める労力もばかになりませんし,集めた干し草を貯蔵する場所も多く必要です。それならば,冬の間は,牛は止めて,牛より少ない干し草で飼育可能な家畜,例えば山羊を飼育するのでは,と考えております。
特に,雄の仔牛は,乳牛として使用できないことからチーズを作る為もあり,早目に屠殺してしまうのでしょう。尤も,この点は現代でも同じです。
ねこねここねこ
ご返答、ありがとうございます。
ただ、冬になる前に牛を屠殺するという習慣はネット上では見当たりませんでしたが、豚のほうは、かなり見つかります。牛馬や羊は夏の間に刈り取った干し草で冬を越せますし、貴重な労働力や衣服の材料であり、牛の場合は肉を食べるためには数年が必要なため、その対象にはなりにくかったようです。それが、南米からポテト(ジャガイモ)が導入されたことにより、豚の餌となったことから、冬前に殺す必要がなくなったようです。ただ、干し草作りは、収穫期に行うわけでもなく、レンネットも多数はいりませんので、冬前に牛を屠殺する必要性があったのかなとは思っています。
もっとも、本題とはかなりずれた話題ですし、これ以上の返答は求めません。お付き合いいただき、ありがとうございました。
hush
44 |
安井 安井 |
削除を御願い致します。
安井 賢一
43 |
今から30年以上前、「世界の艦船」で呉軍港に関する特集があり、「呉は全体として良い場所であるが、一つだけ弱点がある。それは外洋からの距離が大きいことである。」という記述がありました。当時はあまり深く考えなかったのですが、その理由がはっきりしません。距離があると、船の出入りなどが外部にオープンになりやすいのが、機密保持から難点ということだったのでしょうか。お分かりの方教えてください。 電気戦艦 |
これらを監視・閉鎖されると所属する艦隊の規模にかかわらず、容易に「外洋」から途断され、日本という海岸線の長い列島国を防衛する点で遊兵と化してしまうからではないでしょうか?
備後ピート
もし、該当部分がそれであるのなら、外洋との進出距離が大きいという問題点の指摘以外に考えられませんが。
hush
電気戦艦
逆に侵入されやすくて、軍港の意味がないと思われます。
hush
ハイフォンにしても、外洋に近いのですが、カム川を遡った場所にあります。
長所は短所といったところでしょうか。
hush
電気戦艦
電気戦艦
hush
地震動と津波のことを一緒にして記述しましたので、やや誤解を与えました。改めてまとめますと、
1) 横須賀は、関東地震のような相模トラフの地震では、大きい地震動の影響を受けますが、津波はそれほどでもありませんでした。真裏の鎌倉が大きな津波被害を受けたのとは対照的です。 東京湾口で津波が絞られたことによるのでしょう。相模トラフの大地震は約200年に一回ですからまだ100年あります。
2) 呉は瀬戸内海で南海地震の震源域からかなり離れているので、地震動はまあまあでしょう。津波も鳴門海峡、豊予海峡により大幅に減衰されるので大したことありません。
3) なお、大阪市は津波に対してあまり強くありません。紀淡海峡で絞られるとはいえ、安政の南海地震では道頓堀あたりには2mの津波が押し寄せ、大被害を受けています。昭和の南海地震による津波が1mもなかったので軽く考えやすいのですが、それはたまたまで本当は大阪市は津波にものすごく弱いところです。繰り返しますが紀淡海峡の遮断効果をあまり当てにしないことです。
電位戦艦
1) の最後の行は削除します。こんなにはっきり言えるものではありません。
電気戦艦
42 |
重要な港湾や水道を守るため、陸上砲台(要塞)が設置されることがよくありました。これらは実際にどの程度役に立ったのでしょうか。私が知っているのは、旅順要塞が日本艦隊を牽制したこと、ドイツ艦隊が北方に離脱するときドーバー海峡の英国側砲台を大変気にしたこと、シンガポールの要塞の大砲が南向きになっていたので、日本軍はマレー半島側から北方を攻撃したこと、 第一次大戦時、ダーダネルス海峡(ガリポリ)にあったトルコの砲台などです。ただ牽制の有効性についてはなかなか判定が難しいかとも思います。例えばジブラルタルにあった英国の砲台はどうだったのでしょうか。映画「ナヴァロンの要塞」のような話はあまりないのではと思っています。私の知らないことを聞かせてください。なお話は20世紀以降に限定させてください。 電気戦艦 |
第2次大戦中、ジブラルタルの存在はUボートの地中海侵入に際して潜航を余儀なくさせました。そして、ジブラルタル海峡の海流の関係で地中海への侵入は簡単であっても、退出は困難なので、大西洋に戻りにくかったようです。もちろん、イタリア、ドイツ艦隊の移動に大きな制限を加えたと思います。
もちろん、ジブラルタルはマルタ島と同じく航空基地、艦艇基地としての存在が大きく、砲台がそのすべてではないと思います。ただ、航空機の発達がそれほど大きくなかった時代、無視しうるものではなかったのはないでしょうか。したがって、フォーティテュード・ノース作戦により連合軍の侵攻先がノルウェーと信じ込んだヒトラーは、H型戦艦用に用意された16インチ砲等の多くを同方面に配備したと思っております。
hush
コレヒドール要塞は忘れていました。日本軍の侵攻を何ヶ月も停めていたのですから軍事施設とっては成功だったのでしょう。ジブラルタルも実に効果的な地点でした。表面での海流は東向きだということですので、それをキャンセルするため、深部では西向きに流れているようです。
電気戦艦
アラビア・トンネルを思い出しました。
hush
ついでではありますが、現在の海洋大循環の知見によれば、グリーンランド沖で冷たい水が下方に潜り込み大西洋を南下し、南極大陸の北側を東流し、ニュージーランドあたりから太平洋を北上し、アラスカ沖で上昇反転し、結局元のグリーンランド沖に至るとのことです。この1サイクルに要する時間は数千年といわれますが、規模雄大な話です。
電気戦艦
ワシントン海軍軍縮条約で、41センチ砲を搭載する筈の主力艦が何隻か建造中止になったため、余った41センチ砲は壱岐の要塞に備え付けられました。この結果、太平洋戦争の終末時に、米国の艦艇は日本海側の諸都市を砲撃するために日本海へ進入することができなかったともいわれています。
UK
お返事遅くなりすみませんでした。88艦隊用に用意していた大口径砲を要塞用に転用したことは以前読んだことがあります。三浦半島先端の砲台にもえらく苦労して据え付けたと言います。壱岐の砲台が米艦隊を牽制したというのは初めて聞きましたが、興味深いです。なお、日本の陸軍と海軍は仲が悪いので有名でしたが、海軍の砲を陸軍(要塞は陸軍管轄)に渡すときは珍しく協力がうまくいったと聞きます。
電気戦艦
私も「壱岐の砲台が米艦隊を牽制したというのは初めて聞きましたが」、出典は何でしょうか?
hush
UK
ありがとうございます。
ただ、隠岐は壱岐の意味と考えて、いろいろと検索してみたのですが、出店を見つけることができませんでした。
「米国の艦艇は日本海側の諸都市を砲撃するために日本海へ進入することができなかった」ということですので、アメリカ側の資料も見てみましたが、こちらも見当たりませんでした。
アメリカ側としては、機雷封鎖されているはずの海峡に水上艦艇を派遣するより、空母搭載機で爆撃したほうがはるかに有効であり、太平洋戦争中にそのような計画がありえたのかと思うのです。
何となく、日本の知識のない人がそのように書いただけのもののようも思ってしまいます。
実際、 https://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/index.php/category/hiradoshi?page=3 に「海峡を陸上の大砲で制圧するという構想自体、航空攻撃が主体をなした第二次世界大戦の状況下では時代遅れだったのである」とありますように、この辺りが妥当な所ではないかと思っております。
hush
電気戦艦
41 |
大阪冬の陣の後、豊臣の大阪城外堀は、徳川によって埋められました。では、この時の埋立地の高さはどの程度だったでしょうか。外堀の水面のちょっと上程度であったのか、それとも、外堀外側の石垣上端部に達するものだったのでしょうか。埋立地が低いと攻撃時には一旦斜路で低くまで降り、また登らなければならないので有利ではなく、かなり上まで埋め立てたのではないかと想像しましたが。 電気戦艦 |
一般に言われているのと異なって、講話の条件は、 https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210422-00233901 によると、双方の手で外堀と内堀は埋めるが、本丸は残すというもので、堀だけでなく、惣構までも破却するというものです。当然、水面まで埋めたてて終わりなどということはあり得ないです。
現在の大阪城は、江戸時代に豊臣の城の上に数mから十数mの盛り土をした上に、豊臣、徳川双方とも異なる場所に鉄筋コンクリートの天守閣があるというものですが、創建時の遺構が一部出土しています。ただ、直後に盛り土されているので、夏の陣の焼け跡が残っていれば判明するかもしれませんが、管見の限りではそのような報告書を見出すことができませんでした。
hush
現在の大阪城再建天守閣はデザインが豊臣・徳川両天守閣の折衷ものだそうなので、どうにも違和感があります。
Ranchan
どうもありがとうございました。少し調べればこういうことだと分かったのですが、やや世間の「常識」に影響されていました。それにしても本丸以外の取り壊しの内容がよくわかりません。いわゆる内堀の石垣も全て壊したということでしょうか。徳川の城を作るとき、豊臣の石垣を外側から覆うように新しく石垣を作ったようですので、元のものはバラバラにはせずそのままだったような気もします。
Ranchan様 <2.
おっしゃる通りです。しかし、そもそもの豊臣の城の形はどの程度正確に分かっているのでしょうか。
電気戦艦
現存する資料では「大坂夏の陣図屏風」に描かれている天守閣が一番正確なのでは・・・?と個人的には思っています。
一見して頂ければお分かりの通り、大天守閣は全面真っ黒です。
Ranchan
鄭重な挨拶痛み入ります。
そのまま土を盛っていますが、夏の陣でどのようになったかは、不分明ですが、 https://www.toyotomi-ishigaki.com/event/141126.html などは参考になるかもしれません。
>そもそもの豊臣の城の形はどの程度正確に分かっているのでしょうか
早稲田大学所蔵の本丸図 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ke05/ke05_00155/index.html が平面図としては最大の資料です。
この図面に関しては https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2020/04/vol22_article06.pdf が詳しいです。
hush
ありがとうございました。黒漆喰興味ありますね。普通の漆喰に松墨を混入してあるのでしょうか。姫路城のこと白鷺城などと言ってその白さが有名です。しかし、漆喰が白くなったのは、海藻がのりとして使われるようになってからだと聞きました。それまでは米の粉を使っていたのでとても高価だった言います。有名な城でも土壁のままのところがあるのはそれが理由と言います。
hush様 <5.
資料紹介ありがとうございました。ゆっくりと読んでみたいです。それにしても、外堀の土砂は「数奇」な道を歩んでいます。最初外堀作る時掘り上げられた土は、付近に盛られていました。今度内堀埋めるときにはその土がまた使われ、徳川大阪城建設時にはまた掘り上げられたことになります。
電気戦艦
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一般的な城・要塞等構築物とはいささか異なるのですが、いわゆる拡大解釈として「将棋における囲い」について長年考えていたことを質問したいと思います。 不適当と思われるなら削除して頂いて構いません 囲いは玉を守るいわば要壁に当たるものですが、これを組むことは立派に戦法として成立しています。 そこで疑問に思ったのが、玉を囲う位置によって右側の通常の穴熊囲いと左側の居飛車穴熊囲いがあり、また美濃囲いにも右側に囲う通常の美濃囲いと左に囲う左美濃囲いが戦法として成立しています。 しかるに「将棋の純文学」と言われる矢倉囲いは盤面左側で囲うのが大部分で、右側で囲うのは相振り飛車戦でたまに見られる程度で、それでも二枚金戦法等に比べると採用率は低く、右矢倉囲いは戦法としての地位を得ているとは言えないと思います(私見です。念のため)。 どうして穴熊囲いや美濃囲いには左右両方戦法として成立していて、矢倉囲いはそうではないのでしょうか?前からずっと疑問に思ってきたので、あえて板の趣旨とはずれてるかなと思いつつ、質問させていただく次第です。 備後ピート |
hush
備後ピート
敵はそこから自玉を攻めてきますので、必然的に横から(6筋〜9筋方面)の攻撃となり、守り駒である金が5八、4九の2枚ある美濃囲いの方が固いです。
右矢倉囲いだと、横からの攻撃に対応するのは3八金1枚だけ、しかも最下段には他の金銀がいません。
飛車を2段目か最下段に打たれ、4九銀とされるとすぐ寄り型になります。
ちなみに相振り飛車の右矢倉だと、左右を引っくり返せばほとんど普通の矢倉戦になるように、飛車が敵の囲いを上部から攻めることになります。
ですから矢倉囲いの「上部に強い(守り駒が上部に多い)」との長所も生きてきます。
でも普通の居飛車VS振り飛車だと、「横や下から攻められると脆い(最下段、2段目両方合わせても金一枚しかいない、しかもその急所の金を味方の他の金銀は守っていない)」矢倉の弱点を衝かれ易いのです。
Ranchan
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安土城の普請は丹羽長秀の指揮下にあったそうですが そもそもの図面自体は誰の作によるものなのでしょうか? 今に伝えれらる五層七階の発想など長秀のものだったのでしょうか? san |
「信長公記」に「正月中旬より、江州安土山御普請、惟住五郎左衛門に仰せ付けらる」とあって、丹羽長秀が普請を命じられたのは確かだと思っていますが、誰が設計したのかを明らかにする資料はないようです。
長秀が、どちらかと言えば後方の人であるのは確かですが、安土以外には、小牧山城しか築城していないと思われます。しかも、小牧山城からは佐久間と墨書された石垣が発掘されており、これが佐久間信盛のことであるのなら、織田の家臣団で分担しての築城の可能性もあるわけです。ただ、近年の安土城の発掘調査で見つかった大手道と称される広い直線道路は、他には小牧山城でしか見つかっていないのも事実です。
したがって、城の中に寺があるとか、天守閣とかいう発想が、彼のものなのか、信長のものなのか、あるいは、安土城の大工棟梁として知られる岡部又右衛門のものか、それとも、全然違う誰かなのかを明らかにする資料は、現在のところ、ないということになります。
なお、安土城考古博物館というものがあり、このような状況になる前には何度か行かしてもらいましたが、専門家の意見を知りたいと仰るのなら、こちらに問い合わすという方法もあります。
hush
明らかになるような資料は見つかっていないということなのですね。
ご教示ありがとうございました。
san
じゃんご
構想は信長
当時の武将は城の構想くらいできるのは当たり前でした。
あの秀吉ですら構想出来たことからも当然の教養だったことが分かります。
じゃんご
フォロー多謝。
ただ、岡部又右衛門が安土城の棟梁であったのは確かですが、菅見の限りでは設計図を引いたというのを見たことがありません。後学のために、どこに記載されている情報か御教示いただければ幸甚に存じます。
hush
というのは、棟梁の業務に指図(平面図)を書くことがあるので、改めて誰が指図を書いたと書きたりはしないですね。
じゃんご
江戸時代になると幕府の普請とかはかなり細分化されます。
だから、江戸時代前の豊臣時代の方広寺の釣鐘で説明しょうか。あの国家安康が問題となった釣り鐘ですね。皆さん、知ってますしね。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
国会公文書にある作製の責任者を知らしめたものです。
奉行が勘定役,定普請同心,諸棟梁などを統括し、工事の検査,出費のチェックなどを行うという管理者兼責任者となります。だから、家康に何癖付けられたときに片桐且元さんは真青になりながら走り回っています。総責任者ですからね。その隣に治工とありますね。これが現場サイドの責任者であり請負業者です。ここが平面図を始めとする各種図面を作成と管理をしています。設計に変更があれば指図を書いて職人達に知らせる訳です。ここが安土城では岡田親子だったというわけですね。当時は棟梁と呼ばれていました。ただ、棟梁という言葉にはもっと下の大工だけを束ねる棟梁がいたりと、同音異義語となっていまして面倒くさいところです。
釣り鐘と城では規模が違うと思うかもしれませんが、現場総責任者としての棟梁の役目は大差ありません。
まぁ、江戸時代は分業しないときつかったことを、全部やっている訳ですから、ある意味超人ですね(笑)
じゃんご
御教示ありがとうございます。
なるほど、指図というのは東大寺指図堂の例にもありますように設計図ですね。指図と棟梁で検索しますと中井大和守(正清)の描いたとされる設計図が出てきますので、棟梁が描くものだと得心しました。お手数をおかけしました。
なお、冶工(やこう)は鋳物師ですので、そこに名のある名越三昌は梵鐘のみの責任者で、方広寺の棟梁は中井正清でしょう。
https://www1.asitaka.com/index.htm こういうページを見つけました。
質問者の方がまだ御覧になっているかどうか分かりませんが、紹介しておきます。
hush
でも、ちょっとあの頃の工事の事が分からない人が読むと誤解しそうなので、さらに補記します。
棟梁とは現場責任者なので釜師も棟梁です。当然の前田三昌こと名越三昌は釣り鐘部分の責任者です。もし、中井正清さんが方広寺の棟梁であったのならば大工棟梁となり、建築の責任者となりますね。それらの棟梁達を統括するのは、作事奉行であった片桐且元さんとなります。
これがさらに時代が進むと大工頭が作事奉行の役割の大部分を受け持ち、中井家が中井役所として中心になっていくのですが、方広寺の時代はそこまで至っていません。
安土城でも城本体を建築する責任者としての棟梁は岡田親子ですが、他にも石垣を組む棟梁や濠を作る棟梁などがおり、それらを統括していくのが作事奉行となります。
じゃんご
フォロー多謝。
hush
38 |
ドイツのライン川に架かっていたㇾマーゲン鉄橋(ルーデンドルフ橋)は連合軍の占領後、崩落したまま現在も再建されていないそうですが、なぜでしょうか? ドイツの自動車道路網が発達して、鉄道網に取って変わり、「交通の要衝」としての地位を失ったからでしょうか? 備後ピート |
備後ピート
hush
一般論として、
需要密度が祖であっても建設・維持費を必ずしも廉く出来ず、需要密度が密であれば需要当りの運行コストを大きく廉く出来る鉄道は集約する意味があり
散在する需要と需要の間を直結して結べる処に意義がある道路こそ分散させる意味が在ります。
にも。
片
1969年の映画「レマゲン鉄橋」では、橋の爆破前に負傷兵を満載した列車を通過させようとする場面が出てくるので、第二次大戦当時も鉄道橋として使用されていたものと思ってました。
もともと第一次大戦時の軍用鉄道橋として建設されて、その用を終えた第二次大戦時はただの道路橋として使用されていたのですね。あくまでも軍事目的で作られたもので、生活路線としてはさして重要ではなかったと。また勉強になりました。
備後ピート
おうる
備後ピート
37 |
星形要塞あるいは稜堡式城郭において、中央の敷地(日本の城でいうところの「本丸」部分)は何と呼んだら良いのでしょうか? 中世以前の城のような「ベイリー」という呼び方がそのまま引き継がれていたりしますか? おうる |
Motte-and-baileyのような奥床しい名ではなく、駐屯所とは随分な言い方なのでアメリカ英語かと思って調べたのですが、WikipeiaのPlace-of-armsの項にはイタリア語とフランス語が掲載されており、そのリンクでも同じ意味の言葉でした。
なお、Wikipeiaの下のほうにはFortificationsとして、各時代の築城用語のリンクがついていますので、そのあたりをお調べになるのなら、便利だと思います。
hush
自分でも調べていて偶然見つけた星形要塞の図にはベイリーと記載されていたのでこれかと思ったんですが、ベイリーと記載されていたのはそれ一枚っきりで他ではベイリーという表現は使われていないし、かといって他の単語も使われていないしで困っていました。
参考になりました。
おうる
お尋ねの部分は、 hush様の調べられた通り、防衛軍兵士の駐屯所、又は守るべき都市の市街地そのものになります。前者が軍事要塞、後者が城塞都市の場合です。
Motte-and-baileyの場合、baileyには「中庭」と訳せる場合も多いのですが、城門を突破された場合に誘い込み、Motteと周囲の城壁から射撃を浴びせる「キルゾーン」の役割を持っている場合があります。
合わせて防衛施設なのでMotte-and-baileyと呼ぶようです。[すいません、これも小説からの知識なので、間違っていたらごめんなさい。]
以上、あやふやなので控えていました。
タンジェント
フォロー多謝。
hush
36 |
メコン川は長江(揚子江)に劣らない大河ですが、ラオスからカンボジアに入る辺りで滝様の急流地帯(シーパンドン、コーンパペン)となり舟運が途切れます。一方でこの地域の地形は然程険しいとは思えず、19世紀後期から20世紀前半の技術で、この地に外洋の艦船を通過させられる規模の閘門式運河を建設し、より上流に直通せしめる事は、十分可能な計画だったと思われます。計画は当時在った、或は現在在るのでしょうか。 にも。 |
何か大きなメリットがあれば造られるでしょうが、あの辺りにそんなものはないと思われるからです。
しかも、メコンは雨季と乾季の差が大きな川です。雨季には急流が発生し、乾季には浅瀬が出来して運航が難しくなる川です。また、中国まで繋げたとしても、雲南省から先はどうするのだろうかと思います。
当時、この付近を領有していたのはフランスで、レセップスを生んだ国ですが、他にもっと運河建設の候補地がありました。あの付近ではクラ地峡ですが、メコンにという話は聞いたことはないです。
hush
近代にフランス宗主権下の王国とタイ王国領に分割されたラオス-イサーンは単一の盆地で四川に相当し
シーパンドン・コーンパペンが三峡、
宜昌より下流の荊江・揚子江がカンボジア・コーチシナ。
レセップスやクラ地峡について二、三、検索しましたが、
スエズ運河であれパナマ運河であれ、イギリス等の勢力圏に進出する政略として運河の建設地を選定している様です。
クラ地峡についてはマレー半島とその付け根のタイ・ビルマ沿岸以外には意義が在るほどの航路短縮は在りません。
私もでしたが、
「運河」と云ったときに地峡を開削し外洋間をショートカットするものばかり考えては駄目なのです。
それらは例外で
内陸に引かれる水路
それも支那の大運河の様な大物では無く、
一八世紀のイングランドに民間出資で網の目の様に作られたナロウボートの運河網を運河の典型と考えなければならんのです。
シーパンドン・コーンパペンへの閘門を始めとするメコンの舟運環境への投資は、分かる人にはその経済効果が理解されつつも
大衆的なアピールに欠け、適正な出資の旗振り人を得られない儘宗主国がシュリーフェンプランを浴びる事に成ったと考えます。
にも@返信。
何を仰りたいのかよく分かりませんでしたが、かの地に閘門式運河を建設してペイするほどの経済効果があるとは思えません。
これが、ブルゴーニュ運河やモスクワ運河のようなロケーションなら分かるのですが。
hush
35 |
「要塞」の定義についてお尋ねします。どの程度の防御水準を満たしていればその施設は「要塞」と言えるのでしょうか?例えば太平洋戦争中のタラワ島や硫黄島は「要塞」と呼ばれてもおかしくないと思いますが、何か私の知らない公文書で「要塞」の定義が定められているいるのでしょうか? 目を西に転じてみれば1942の冬季戦でドイツ軍がが「スタリングラード被包囲部隊」を「スターリングラード要塞部隊」と実態は全く同じなのに改称した例はあるようですが。 備後ピート |
この様な質問は、何故貴方が知りたいのかを先ず最初に説明して下さい。一々、戦記物の言葉尻に付き合っていたらきりがないですよ。
UK
ちなみにドイツ陸軍においては元帥の称号を得る要件として(ヒトラーの恣意的な任命の時期を除く)、野戦において「要塞」を陥落させるという一項がありました。ロンメルがトブルク要塞を陥落させ、マンシュタインがセバストポリ要塞を陥落させて元帥号を得たのはある意味ドイツ陸軍の伝統といえるのでしょう。
このように「要塞」かそうでないかは単なる戦記物の言葉尻と切って捨てられるものではなく、敵味方にとって影響すること極めて大なためあえて「要塞」の定義の有無を質問したしだいです。
備後ピート
ボンコツニート
リンクしてくださるか、検索すれば出る文字列を示してください。
にも。
日本陸海軍には要塞の明確な定義があり、それは明治大正に東京湾や対馬に作った様なベトンを十分に使って、砲など装備を据え付けられる堅牢な構造、長期間兵の士気を保ち戦力を維持し得る生活医療の設備を備えうる建築物として十全な機能を備えたそれであって、南方の対米戦にはそれを作れなかった(作らなかった)からだと思います。
一言で云えば、要塞とは落とす敵であって、
見方が籠る対象では無いのです。
にも@追加。
A03020198800はアジア歴資料センターのリファレンス・コードです。
アジア歴資料センターの検索窓に番号を打ち込んでください。
なお、アジア歴資料センターの資料は直リンクができません。
hush
畏くも御署名原本であるぞよ
ポンコツニート
にも@追加。
この点に関しスターリングラードで得た「戦訓」などはありません。
片
ヒトラーは「要塞」という、日本陸軍は「会戦」という、イデオロギーに憑かれているのです、だから実態が伴わなくとも連呼し、或は客観的に評価してそう名乗らない。
にも@追伸。
「この地を死守せよ」という意味で、西洋にはそれが説得力を持つ要塞の文化があります。
明治の日本陸軍がプロイセンから学んだのは会戦であって、要塞に籠る事では無い。
にも@追伸。
にも@追伸。
以下全く余談ですが、ガダルカナルの刻に堤康次郎と同郷同年生れの高畑浅次郎が赴した岡山一中の昭和二十年度の同窓会は「烏有会」と名乗ります。
烏有会のひとり高畑昭久は戦後NHKに奉職し、1975年7月11日にロンドン・ウェイブリッジの居宅で、末弟が連れてきた捻挫で足を攣る男おいどんの如き青年と、夕餉を共にします。
にも@追伸。
板野ファン
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030395791-00
https://www.pixiv.net/artworks/79414077
https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040030812908/
https://twitter.com/tamaya8901/status/1295745490076594177
ご参考までに。
にも@参考迄。
九十九里浜陣地は要塞とは言われませんが、どちらも帳簿上のものとのこと。
父島要塞もありますが、死闘の硫黄島と比べて実効はどんなものでしょう。
昔の定義とご都合主義の合わさった言葉じゃないですか?
4式射撃装置
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蒸気エンジンについてお尋ねします。 クランクシャフトで回転に変換している蒸気レシプロエンジンの最下層で、機関建屋や船舶機関室の床に一体化してクランクシャフトが据え置かれる部位の名称をご教示願います。内燃レシプロエンジンのメインベアリングキャップに相当する部位です (構造が異なるので例示として相応しいか若干疑問が残りますが)。 DDかず |
英語だとエンジンベッド【Engine bed】または単にベッド【Bed】と訳す場合もあります。
「船 エンジン 台板」で検索するとディーゼルエンジンのしかヒットしませんが、それに該当しそうな図等がヒットします。
おうる
ありがとうございました。
DDかず
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1657年の明暦の大火によって江戸市中のみならず江戸城の天守閣まで焼失されました。 素人考えだと堀で囲まれた江戸城内までどうして火が来ると考えてしまいます。 火の粉が飛びさかって堀内の江戸城にまで引火して燃え広がってしまった。戦時中ならこうしたことが起きないように、万全の処置をしていただろうが平時の大火事だから対策ができていなかった。 その後の江戸の火事でも城内に燃え広がったことはないので明暦の大火は城内に引火しないように対策をした。 この考え方でよろしでしょうか? 江戸城本丸 |
正)明暦の大火以降は城内に引火しないように対策をした。
江戸城本丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%81%AB%E4%BA%8B#幕府の出火対策
したがいまして、対策が講じられたというのでよろしいのではないでしょうか。
なお、余談ですが、猿回しは江戸時代に非常に流行しておりますが、これも防火のためだったという説があります。江戸は武士の町ですので、馬が多い。そして、五行では馬は火ですので、水に配当される猿を持ってくることにより、防火したというわけです。
また、これは明治になってからの話ですが、明治天皇が1870年の大火の火除地に宮中から勧請させた鎮火社から、火防の神として秋葉社と呼ばれたのが、秋葉原という地名の由来になります。
hush
失礼の段、御寛恕いただければ幸甚に存じます。
hush
火炎旋風が発生したのかもしれません。
広範囲に及ぶ火災が発生すると、火災によって巻き起こる上昇気流にのって炎の竜巻のような火柱が立ち上がります。
通常ならまっすぐ上空に向かって炎が吹き上がるのですが、条件によってはこれが地を這うようにのたくる場合があるのです。
東京大空襲等でそうした現象があったとされていますが、そうした現象が起こると幅数十メートル程度の燃えるものが何もない空き地で隔てられていたとしても、炎がその空き地越しに飛び越えてきます。
火炎旋風による延焼を防ぐためには100m以上のバッファーゾーンで隔てる必要があるとされており、江戸城の堀程度では防げないでしょう。
ちなみに現代では都市部(特に東京)での大震災後の大規模火災対策ではそんなバッファーゾーンを設けるだけの土地の余裕がないことから問題視されています。
一部の広域避難場所では火炎旋風対策として敷地外周にミスト・スプリンクラーを設置し、火災時にはミストカーテンを発生させて火炎旋風を防ごうという試みもされています。
おうる
この様に強風の乗った飛び火はよく飛びます。江戸城の堀を飛び越えてもおかしくはありません。当時は火災家屋は放置し、周りの建物を壊すしか方法はありませんでした。そのため、飛び火は各地に飛び散って行ったものと推察されます。
ちなみに延焼スピードは東京大空襲時の東京大火の数倍ぬスピードであったことが分かっています。
じゃんご
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ウィキペディアフリー百科辞典でマジノ戦を調べたところ、『隠ぺい型の砲塔の構造図の動画』という図があったのですが、その図の中央下、階段の隣にある弦巻状の物は何でしょうか? デスコン |
hush
回答有り難うございます。
デスコン
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「ヒューリー」というブラッド・ピット主演の映画を鑑賞して疑問に感じたのですがB.ピットが戦闘中に砲塔のハッチから身を乗り出すシーンが多々あります 銃弾が飛び交う中で身を乗り出すのは大変危険かと思うのですが実際の戦場でもこのような事をしていたのでしょうか? Ad.シュペー |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13139755453
hush
Ad.シュペー
戦車長が砲塔ハッチから身を乗り出して戦況を視察するのは、今日でも各国陸軍でやっています。
代表格はイスラエル陸軍で、同国軍では戦車長は必ず砲塔ハッチから顔を出して戦況を視察しろと教育している為、中東戦争の戦車戦では多大な戦果を挙げていますが、同時に戦車長も高い戦死傷率を出しています。
で、2015年に公表されたロシアの新戦車T-14は無人砲塔を採用して、乗員3人全員が車体内に収容されています。
実は、冷戦後のロシア製戦車はロシア周辺国やシリアの内戦等で「砲塔から身を乗り出した戦車長が市街戦等で次々と狙撃されて戦死する」と言う悪夢を多数繰り返しています。
従って、その対策として砲塔の無人化へ踏み切った可能性があります。
瀬戸の住人