ちょっと気になると夜も眠れない。 城・要塞等構築物 Ans.Q どうでも良いことなのに…、誰か助けて! |
39 |
安土城の普請は丹羽長秀の指揮下にあったそうですが そもそもの図面自体は誰の作によるものなのでしょうか? 今に伝えれらる五層七階の発想など長秀のものだったのでしょうか? san |
「信長公記」に「正月中旬より、江州安土山御普請、惟住五郎左衛門に仰せ付けらる」とあって、丹羽長秀が普請を命じられたのは確かだと思っていますが、誰が設計したのかを明らかにする資料はないようです。
長秀が、どちらかと言えば後方の人であるのは確かですが、安土以外には、小牧山城しか築城していないと思われます。しかも、小牧山城からは佐久間と墨書された石垣が発掘されており、これが佐久間信盛のことであるのなら、織田の家臣団で分担しての築城の可能性もあるわけです。ただ、近年の安土城の発掘調査で見つかった大手道と称される広い直線道路は、他には小牧山城でしか見つかっていないのも事実です。
したがって、城の中に寺があるとか、天守閣とかいう発想が、彼のものなのか、信長のものなのか、あるいは、安土城の大工棟梁として知られる岡部又右衛門のものか、それとも、全然違う誰かなのかを明らかにする資料は、現在のところ、ないということになります。
なお、安土城考古博物館というものがあり、このような状況になる前には何度か行かしてもらいましたが、専門家の意見を知りたいと仰るのなら、こちらに問い合わすという方法もあります。
hush
明らかになるような資料は見つかっていないということなのですね。
ご教示ありがとうございました。
san
じゃんご
構想は信長
当時の武将は城の構想くらいできるのは当たり前でした。
あの秀吉ですら構想出来たことからも当然の教養だったことが分かります。
じゃんご
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ただ、岡部又右衛門が安土城の棟梁であったのは確かですが、菅見の限りでは設計図を引いたというのを見たことがありません。後学のために、どこに記載されている情報か御教示いただければ幸甚に存じます。
hush
というのは、棟梁の業務に指図(平面図)を書くことがあるので、改めて誰が指図を書いたと書きたりはしないですね。
じゃんご
江戸時代になると幕府の普請とかはかなり細分化されます。
だから、江戸時代前の豊臣時代の方広寺の釣鐘で説明しょうか。あの国家安康が問題となった釣り鐘ですね。皆さん、知ってますしね。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
国会公文書にある作製の責任者を知らしめたものです。
奉行が勘定役,定普請同心,諸棟梁などを統括し、工事の検査,出費のチェックなどを行うという管理者兼責任者となります。だから、家康に何癖付けられたときに片桐且元さんは真青になりながら走り回っています。総責任者ですからね。その隣に治工とありますね。これが現場サイドの責任者であり請負業者です。ここが平面図を始めとする各種図面を作成と管理をしています。設計に変更があれば指図を書いて職人達に知らせる訳です。ここが安土城では岡田親子だったというわけですね。当時は棟梁と呼ばれていました。ただ、棟梁という言葉にはもっと下の大工だけを束ねる棟梁がいたりと、同音異義語となっていまして面倒くさいところです。
釣り鐘と城では規模が違うと思うかもしれませんが、現場総責任者としての棟梁の役目は大差ありません。
まぁ、江戸時代は分業しないときつかったことを、全部やっている訳ですから、ある意味超人ですね(笑)
じゃんご
御教示ありがとうございます。
なるほど、指図というのは東大寺指図堂の例にもありますように設計図ですね。指図と棟梁で検索しますと中井大和守(正清)の描いたとされる設計図が出てきますので、棟梁が描くものだと得心しました。お手数をおかけしました。
なお、冶工(やこう)は鋳物師ですので、そこに名のある名越三昌は梵鐘のみの責任者で、方広寺の棟梁は中井正清でしょう。
https://www1.asitaka.com/index.htm こういうページを見つけました。
質問者の方がまだ御覧になっているかどうか分かりませんが、紹介しておきます。
hush
でも、ちょっとあの頃の工事の事が分からない人が読むと誤解しそうなので、さらに補記します。
棟梁とは現場責任者なので釜師も棟梁です。当然の前田三昌こと名越三昌は釣り鐘部分の責任者です。もし、中井正清さんが方広寺の棟梁であったのならば大工棟梁となり、建築の責任者となりますね。それらの棟梁達を統括するのは、作事奉行であった片桐且元さんとなります。
これがさらに時代が進むと大工頭が作事奉行の役割の大部分を受け持ち、中井家が中井役所として中心になっていくのですが、方広寺の時代はそこまで至っていません。
安土城でも城本体を建築する責任者としての棟梁は岡田親子ですが、他にも石垣を組む棟梁や濠を作る棟梁などがおり、それらを統括していくのが作事奉行となります。
じゃんご
フォロー多謝。
hush
38 |
ドイツのライン川に架かっていたㇾマーゲン鉄橋(ルーデンドルフ橋)は連合軍の占領後、崩落したまま現在も再建されていないそうですが、なぜでしょうか? ドイツの自動車道路網が発達して、鉄道網に取って変わり、「交通の要衝」としての地位を失ったからでしょうか? 備後ピート |
備後ピート
hush
一般論として、
需要密度が祖であっても建設・維持費を必ずしも廉く出来ず、需要密度が密であれば需要当りの運行コストを大きく廉く出来る鉄道は集約する意味があり
散在する需要と需要の間を直結して結べる処に意義がある道路こそ分散させる意味が在ります。
にも。
片
1969年の映画「レマゲン鉄橋」では、橋の爆破前に負傷兵を満載した列車を通過させようとする場面が出てくるので、第二次大戦当時も鉄道橋として使用されていたものと思ってました。
もともと第一次大戦時の軍用鉄道橋として建設されて、その用を終えた第二次大戦時はただの道路橋として使用されていたのですね。あくまでも軍事目的で作られたもので、生活路線としてはさして重要ではなかったと。また勉強になりました。
備後ピート
おうる
備後ピート
37 |
星形要塞あるいは稜堡式城郭において、中央の敷地(日本の城でいうところの「本丸」部分)は何と呼んだら良いのでしょうか? 中世以前の城のような「ベイリー」という呼び方がそのまま引き継がれていたりしますか? おうる |
Motte-and-baileyのような奥床しい名ではなく、駐屯所とは随分な言い方なのでアメリカ英語かと思って調べたのですが、WikipeiaのPlace-of-armsの項にはイタリア語とフランス語が掲載されており、そのリンクでも同じ意味の言葉でした。
なお、Wikipeiaの下のほうにはFortificationsとして、各時代の築城用語のリンクがついていますので、そのあたりをお調べになるのなら、便利だと思います。
hush
自分でも調べていて偶然見つけた星形要塞の図にはベイリーと記載されていたのでこれかと思ったんですが、ベイリーと記載されていたのはそれ一枚っきりで他ではベイリーという表現は使われていないし、かといって他の単語も使われていないしで困っていました。
参考になりました。
おうる
お尋ねの部分は、 hush様の調べられた通り、防衛軍兵士の駐屯所、又は守るべき都市の市街地そのものになります。前者が軍事要塞、後者が城塞都市の場合です。
Motte-and-baileyの場合、baileyには「中庭」と訳せる場合も多いのですが、城門を突破された場合に誘い込み、Motteと周囲の城壁から射撃を浴びせる「キルゾーン」の役割を持っている場合があります。
合わせて防衛施設なのでMotte-and-baileyと呼ぶようです。[すいません、これも小説からの知識なので、間違っていたらごめんなさい。]
以上、あやふやなので控えていました。
タンジェント
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hush
36 |
メコン川は長江(揚子江)に劣らない大河ですが、ラオスからカンボジアに入る辺りで滝様の急流地帯(シーパンドン、コーンパペン)となり舟運が途切れます。一方でこの地域の地形は然程険しいとは思えず、19世紀後期から20世紀前半の技術で、この地に外洋の艦船を通過させられる規模の閘門式運河を建設し、より上流に直通せしめる事は、十分可能な計画だったと思われます。計画は当時在った、或は現在在るのでしょうか。 にも。 |
何か大きなメリットがあれば造られるでしょうが、あの辺りにそんなものはないと思われるからです。
しかも、メコンは雨季と乾季の差が大きな川です。雨季には急流が発生し、乾季には浅瀬が出来して運航が難しくなる川です。また、中国まで繋げたとしても、雲南省から先はどうするのだろうかと思います。
当時、この付近を領有していたのはフランスで、レセップスを生んだ国ですが、他にもっと運河建設の候補地がありました。あの付近ではクラ地峡ですが、メコンにという話は聞いたことはないです。
hush
近代にフランス宗主権下の王国とタイ王国領に分割されたラオス-イサーンは単一の盆地で四川に相当し
シーパンドン・コーンパペンが三峡、
宜昌より下流の荊江・揚子江がカンボジア・コーチシナ。
レセップスやクラ地峡について二、三、検索しましたが、
スエズ運河であれパナマ運河であれ、イギリス等の勢力圏に進出する政略として運河の建設地を選定している様です。
クラ地峡についてはマレー半島とその付け根のタイ・ビルマ沿岸以外には意義が在るほどの航路短縮は在りません。
私もでしたが、
「運河」と云ったときに地峡を開削し外洋間をショートカットするものばかり考えては駄目なのです。
それらは例外で
内陸に引かれる水路
それも支那の大運河の様な大物では無く、
一八世紀のイングランドに民間出資で網の目の様に作られたナロウボートの運河網を運河の典型と考えなければならんのです。
シーパンドン・コーンパペンへの閘門を始めとするメコンの舟運環境への投資は、分かる人にはその経済効果が理解されつつも
大衆的なアピールに欠け、適正な出資の旗振り人を得られない儘宗主国がシュリーフェンプランを浴びる事に成ったと考えます。
にも@返信。
何を仰りたいのかよく分かりませんでしたが、かの地に閘門式運河を建設してペイするほどの経済効果があるとは思えません。
これが、ブルゴーニュ運河やモスクワ運河のようなロケーションなら分かるのですが。
hush
35 |
「要塞」の定義についてお尋ねします。どの程度の防御水準を満たしていればその施設は「要塞」と言えるのでしょうか?例えば太平洋戦争中のタラワ島や硫黄島は「要塞」と呼ばれてもおかしくないと思いますが、何か私の知らない公文書で「要塞」の定義が定められているいるのでしょうか? 目を西に転じてみれば1942の冬季戦でドイツ軍がが「スタリングラード被包囲部隊」を「スターリングラード要塞部隊」と実態は全く同じなのに改称した例はあるようですが。 備後ピート |
この様な質問は、何故貴方が知りたいのかを先ず最初に説明して下さい。一々、戦記物の言葉尻に付き合っていたらきりがないですよ。
UK
ちなみにドイツ陸軍においては元帥の称号を得る要件として(ヒトラーの恣意的な任命の時期を除く)、野戦において「要塞」を陥落させるという一項がありました。ロンメルがトブルク要塞を陥落させ、マンシュタインがセバストポリ要塞を陥落させて元帥号を得たのはある意味ドイツ陸軍の伝統といえるのでしょう。
このように「要塞」かそうでないかは単なる戦記物の言葉尻と切って捨てられるものではなく、敵味方にとって影響すること極めて大なためあえて「要塞」の定義の有無を質問したしだいです。
備後ピート
ボンコツニート
リンクしてくださるか、検索すれば出る文字列を示してください。
にも。
日本陸海軍には要塞の明確な定義があり、それは明治大正に東京湾や対馬に作った様なベトンを十分に使って、砲など装備を据え付けられる堅牢な構造、長期間兵の士気を保ち戦力を維持し得る生活医療の設備を備えうる建築物として十全な機能を備えたそれであって、南方の対米戦にはそれを作れなかった(作らなかった)からだと思います。
一言で云えば、要塞とは落とす敵であって、
見方が籠る対象では無いのです。
にも@追加。
A03020198800はアジア歴資料センターのリファレンス・コードです。
アジア歴資料センターの検索窓に番号を打ち込んでください。
なお、アジア歴資料センターの資料は直リンクができません。
hush
畏くも御署名原本であるぞよ
ポンコツニート
にも@追加。
この点に関しスターリングラードで得た「戦訓」などはありません。
片
ヒトラーは「要塞」という、日本陸軍は「会戦」という、イデオロギーに憑かれているのです、だから実態が伴わなくとも連呼し、或は客観的に評価してそう名乗らない。
にも@追伸。
「この地を死守せよ」という意味で、西洋にはそれが説得力を持つ要塞の文化があります。
明治の日本陸軍がプロイセンから学んだのは会戦であって、要塞に籠る事では無い。
にも@追伸。
にも@追伸。
以下全く余談ですが、ガダルカナルの刻に堤康次郎と同郷同年生れの高畑浅次郎が赴した岡山一中の昭和二十年度の同窓会は「烏有会」と名乗ります。
烏有会のひとり高畑昭久は戦後NHKに奉職し、1975年7月11日にロンドン・ウェイブリッジの居宅で、末弟が連れてきた捻挫で足を攣る男おいどんの如き青年と、夕餉を共にします。
にも@追伸。
板野ファン
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030395791-00
https://www.pixiv.net/artworks/79414077
https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040030812908/
https://twitter.com/tamaya8901/status/1295745490076594177
ご参考までに。
にも@参考迄。
九十九里浜陣地は要塞とは言われませんが、どちらも帳簿上のものとのこと。
父島要塞もありますが、死闘の硫黄島と比べて実効はどんなものでしょう。
昔の定義とご都合主義の合わさった言葉じゃないですか?
4式射撃装置
34 |
蒸気エンジンについてお尋ねします。 クランクシャフトで回転に変換している蒸気レシプロエンジンの最下層で、機関建屋や船舶機関室の床に一体化してクランクシャフトが据え置かれる部位の名称をご教示願います。内燃レシプロエンジンのメインベアリングキャップに相当する部位です (構造が異なるので例示として相応しいか若干疑問が残りますが)。 DDかず |
英語だとエンジンベッド【Engine bed】または単にベッド【Bed】と訳す場合もあります。
「船 エンジン 台板」で検索するとディーゼルエンジンのしかヒットしませんが、それに該当しそうな図等がヒットします。
おうる
ありがとうございました。
DDかず
33 |
1657年の明暦の大火によって江戸市中のみならず江戸城の天守閣まで焼失されました。 素人考えだと堀で囲まれた江戸城内までどうして火が来ると考えてしまいます。 火の粉が飛びさかって堀内の江戸城にまで引火して燃え広がってしまった。戦時中ならこうしたことが起きないように、万全の処置をしていただろうが平時の大火事だから対策ができていなかった。 その後の江戸の火事でも城内に燃え広がったことはないので明暦の大火は城内に引火しないように対策をした。 この考え方でよろしでしょうか? 江戸城本丸 |
正)明暦の大火以降は城内に引火しないように対策をした。
江戸城本丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%81%AB%E4%BA%8B#幕府の出火対策
したがいまして、対策が講じられたというのでよろしいのではないでしょうか。
なお、余談ですが、猿回しは江戸時代に非常に流行しておりますが、これも防火のためだったという説があります。江戸は武士の町ですので、馬が多い。そして、五行では馬は火ですので、水に配当される猿を持ってくることにより、防火したというわけです。
また、これは明治になってからの話ですが、明治天皇が1870年の大火の火除地に宮中から勧請させた鎮火社から、火防の神として秋葉社と呼ばれたのが、秋葉原という地名の由来になります。
hush
失礼の段、御寛恕いただければ幸甚に存じます。
hush
火炎旋風が発生したのかもしれません。
広範囲に及ぶ火災が発生すると、火災によって巻き起こる上昇気流にのって炎の竜巻のような火柱が立ち上がります。
通常ならまっすぐ上空に向かって炎が吹き上がるのですが、条件によってはこれが地を這うようにのたくる場合があるのです。
東京大空襲等でそうした現象があったとされていますが、そうした現象が起こると幅数十メートル程度の燃えるものが何もない空き地で隔てられていたとしても、炎がその空き地越しに飛び越えてきます。
火炎旋風による延焼を防ぐためには100m以上のバッファーゾーンで隔てる必要があるとされており、江戸城の堀程度では防げないでしょう。
ちなみに現代では都市部(特に東京)での大震災後の大規模火災対策ではそんなバッファーゾーンを設けるだけの土地の余裕がないことから問題視されています。
一部の広域避難場所では火炎旋風対策として敷地外周にミスト・スプリンクラーを設置し、火災時にはミストカーテンを発生させて火炎旋風を防ごうという試みもされています。
おうる
この様に強風の乗った飛び火はよく飛びます。江戸城の堀を飛び越えてもおかしくはありません。当時は火災家屋は放置し、周りの建物を壊すしか方法はありませんでした。そのため、飛び火は各地に飛び散って行ったものと推察されます。
ちなみに延焼スピードは東京大空襲時の東京大火の数倍ぬスピードであったことが分かっています。
じゃんご
32 |
ウィキペディアフリー百科辞典でマジノ戦を調べたところ、『隠ぺい型の砲塔の構造図の動画』という図があったのですが、その図の中央下、階段の隣にある弦巻状の物は何でしょうか? デスコン |
hush
回答有り難うございます。
デスコン
31 |
「ヒューリー」というブラッド・ピット主演の映画を鑑賞して疑問に感じたのですがB.ピットが戦闘中に砲塔のハッチから身を乗り出すシーンが多々あります 銃弾が飛び交う中で身を乗り出すのは大変危険かと思うのですが実際の戦場でもこのような事をしていたのでしょうか? Ad.シュペー |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13139755453
hush
Ad.シュペー
戦車長が砲塔ハッチから身を乗り出して戦況を視察するのは、今日でも各国陸軍でやっています。
代表格はイスラエル陸軍で、同国軍では戦車長は必ず砲塔ハッチから顔を出して戦況を視察しろと教育している為、中東戦争の戦車戦では多大な戦果を挙げていますが、同時に戦車長も高い戦死傷率を出しています。
で、2015年に公表されたロシアの新戦車T-14は無人砲塔を採用して、乗員3人全員が車体内に収容されています。
実は、冷戦後のロシア製戦車はロシア周辺国やシリアの内戦等で「砲塔から身を乗り出した戦車長が市街戦等で次々と狙撃されて戦死する」と言う悪夢を多数繰り返しています。
従って、その対策として砲塔の無人化へ踏み切った可能性があります。
瀬戸の住人
30 |
古代ローマ軍の砦について質問です。 古代ローマ軍は辺境地域の街道沿いに兵を数人配置できる程度の小さな砦を多数作っていますが、その砦の名前がスタティオ(Statio)とブルグス/ブルギ(Burgus/Burgi)の二通りあります。 この両者の間に違いはあるのですか? それとも同じものに二通りの呼び名があるだけなのですか? おうる |
もちろん、私は古代ローマについて、専門知識を持っているわけではありませんので、これはあくまでも検索の結果でしかありません。ただ、Burgusはストラスブール、ケーニッヒスベルク、スカーバロ等の地名の末尾に現れるbourg、Burg、boroughの、Statioは英語のstationの語源であり、と同時に、Statioはラテン語で「立っている、歩哨、部署」を意味する語ですので、そのような理解でいいのではないかと思っております。
hush
確かに両方同時に検索したらそのような本がヒットしました。
片方ずつ別個に検索してたので見落としていました。
おうる
Tokyo-Rose
29 |
『マッドマックス2』を見てた時にふと思ったのですが、昔の城の城門で「横スライド式」というのはなかったのでしょうか? (上記の映画の劇中で鉄板で補強したバスを籠城している基地の入り口に止めておいて、自軍の車両が出る時にバスを動かすという方法で出入りしているシーンがある。) 動力車の無い時代でもピラミッドの石材輸送などでこういう重量物移動方法は考えられていたわけだし、城門背後にレールを敷けば破城槌でもそう簡単に破壊できない石の壁をすぐに設置できそうなんですが・・・ レサ |
もちろん、金属製のレールに載せればという解決策もあるのですが、それも地盤が水平である間だけです。実は、仕事先の門扉の下のコンクリートが、通行する車により破壊され、沈下もあって、非常に使いづらいことになっております。
御質問の城門というのが、西洋のものか、日本のものかは存じませんが、どちらにしろドア式であるというのは、通行量が多いという特性に由来するものでありましょう。
なお、スライド式の扉を持つ城門というものは実はありますが、これは横ではなく、上下方向に動く落とし戸と呼ばれるものです。攻められた時、すぐに閉められるという特性があるのと、横方向より開くのに手間がかかるので、緊急時には有効だったと思われます。
hush
自分は落とし戸タイプは知ってたのですが、横スライドの方が一部だけ開けて味方を出せたり便利じゃね?と思ったので質問してみたのですが、やっぱり問題があったのか・・・
レサ
したがって、周囲を城壁で囲まれていない平城京や平安京でも羅城門という立派な門があり、その向こうに幅何十メートルもある、通りというよりは広場というほうが適当な朱雀大路が広がっていました。そして、その両脇に市が立てられ、平安京の場合は、東寺、西寺という寺院が設けられていました。すべては、都を訪れる人にその壮麗さを喧伝するためのものです。
質問者の方は、戦闘の際の城門の役割を主としてお考えのようですが、城門の本来の目的は、上記に示させて戴いたように、人や車の出入のためであり、当然、他の場所より通行量が多いということになるのです。このため、横スライド式の場合、敷居なり、レールなりが必要なので、この部分が簡単に磨耗してしまう危険性があるのです。
また、西洋式の城門の場合、アーチ型に造られていますので、横スライド式ですと、上部が開いてしまいます。そして、その部分から出入されたり、物を投げ入れられたりする危険性が生じますし、砲撃を受けた場合、城郭としての脆弱性が生じます。
では、上部を水平に造ればよいということになるのですが、緊急時に対応できるような扉ですと、かなり大型ですし、重量も大きいと思います。そのようなものを、上下で挟み込んで水平に動かせるような精密な平行を保たせないといけないのです。そうしないと、簡単に動かせなくなるからですが、精密に造ったものは、衝撃にも弱いはずです。攻撃を乗り越えた後、城門が動かないので破壊したというのでは、本末転倒な訳です。
そして、横スライド式の場合は、扉がこじ開けられやすいという問題があります。また、大きな衝撃を受けた場合、扉自体が倒れてしまう可能性があります。実際、その映画に出てくるバスも、ジャッキを用いれば人力でも横転させることのできる代物だと思うのです。
にもかかわらず、日本家屋で引き戸が多用されるのは、場所を取らないからです。もちろん、横方向には扉の幅だけは必要ですが、厚さはそれほどではありません。これに対して、ドアの場合はその幅の1/4回転する分は空間が必要です。このため、狭隘な日本の住宅環境の場合、ドアはほとんどが外開きであり、内部空間を圧迫しないようになっており、欧米が内開きであるのと大きく違うのですが、城門に採用される場合は必ず内開きです。これは、外開きだと、蝶番が外側になって無用心だからです。
したがって、横転する心配のないほどの厚みのあるスライド式ドアを設置するというのも考えられるのですが、非常な空間が必要であり、引き戸の利点を殺してしまいます。また、少しだけ開けて、味方を出すのに便利だということですが、それなら隠し通路を作って、後方錯乱を狙ったほうがいいのではないかと思っております。
長文、失礼致しました。
hush
日本の近世城郭の場合、大きな門扉の脇に小さな通用門を設けている例が多いですね。
きっど
28 |
第二次大戦時のラバウル要塞は食料を自給自足し武器の自作まで行っていたそうですけどこれは旋盤などの工作機械を運びこんで使用していたという事なのですか? 以前何かで ラバウルでは撃墜した米軍の飛行機を回収して自分たちで修理して使用したり、魚雷を使った敵船舶攻撃用装備を開発したりしていたと見かけたこともあります。(何で見たのかがおもいだせませんが) 軍事拠点に飛行機や戦車の整備、修理用に予備パーツが搬入されているのは当然でしょうけど日本軍がわざわざ内地にある工作機械を現地に運びこむというのはありえるんでしょうか? パルテノ |
もっとも、現地ではネジ1本まで不足していたというような状況だったそうですので、これらが敗戦時まで稼働可能であったかどうかは分かりません。ただ、内地からこの程度の工作機械は運んでいなければ、修理は無理であろうと思っております。
門外漢ですので、間違いもあろうかとは思いますが。
hush
ttp://www.warbirds.jp/ansq/12/A2003043.html
暇人
てっきり兵器の製造設備は内地にしかないのだと思ってました。
参考になりました。
パルテノ
27 |
野戦陣地での除雪について質問です。 塹壕や掩蔽壕で積雪があったら、除雪はどのようにするのですか? 陣地の前面に30pとか40cmとか雪が積もったら、射界も視界も遮られてしまうので除雪しなければならないと思います。 塹壕の中に積もった雪も適当に取り除かないと、踏み固められた雪が溶けずに積み重なって壕が浅くなっていったり、滑って歩きにくくなったりしそうです。 かといって除いた雪を壕の脇にそのまま放り出したり、壕の前面の雪だけをきれいに取り除いたら、「陣地の配置はこうだ」と遠目からでもわかるように暴露するようなことになってしまいそうです。 かといって広い範囲の雪を均一に除雪するのは現実的ではありません。 おうる |
1.フィンランド(ペッツァモ、ムルマンスク、ヴィープリ、ソルダバラ等)
2.ヴァルダイ高地周辺(ルジェフ、トロペツ、スタラヤルッサ等)
3.わが国内
4.北米海岸部
ぐらいではないでしょうか。
普通壕内は除雪しますが壕前面は圧雪し崩壊しないようにするだけだったような
カレルの焦土作戦のうろ覚え...
という事で詳しくはフィンランド軍もしくは陸自第11師団の野戦築城教本を調査するのがよろしいかと思います。
eastbind
個人の感想で申し訳ありません。
hush
26 |
見張り塔について質問です。 前線基地とか捕虜収容所とか国境付近とかで見張り塔を建てて見張り員を配置してたりしますよね? 見晴らしがいい分、周囲からの非視認性も高く、映画などでは潜入や奇襲の際には真っ先に狙撃されたりしています。 そこで質問ですが、見張り塔(というかそこに配置される兵員)は戦闘中はどのように扱われるものなのですか? 戦闘中に暴露された場所に居続けるのは自殺行為のように思います。 しかし、ベトナム戦争モノの映画だの小説だのを見ていると、塔の上に重機関銃を持ち上げて銃座にしている例が見受けられます。(たしかに射界は広いだろう)。 おうる |
たぶんあれは、互いに迫撃砲も手榴弾も希少な戦闘だからそうなるんだと思うのです。だから敵対勢力に重火器や爆発物があり、かつ火力で優位に立てないと思えば、目立つうえ脆弱な監視塔は使わないのであろうと思います。一時期の軍艦にあったミリタリーマストやファイティングトップは、水雷艇と戦うために小型砲を高いところに据え付けていましたが、日露戦争の日本海軍では黄海海戦の後、大型艦との遠距離砲戦を優先して取り外してしまいました。
マイソフ
1.1 第3行目の「非視認性」は、「視認性」ですね。
1.2 第4行目の「戦闘中」は、戦っている最中でしょうか、戦地で見張りに立っている時のことでしょうか。
1.3 「扱われる」は、見張る人員の選定方法、危険任務に対する褒章のことでしょうか。見張り塔が目標にされやすいか否かを問われていらっしゃるのでしょうか。
2.次に、小生は実戦での見張りの経験はありませんが、幾ら見晴らしが良くても敵に狙撃され易い場所に見張り塔が設置されたりはしないと思います。狙撃やゲリラの攻撃に対して何等かの対策が採られていると思います。
例えば、ゲリラに襲われる危険があれば多数で哨戒する(イラク等における米陸軍)、弾着観測であれば敵から見え難い場所で行う等の措置が採られている筈です。
3.なお、極めて危険なのは御説の通りだと思います。日中戦争に従軍した人の話では、隣村の部隊への連絡等は何時ゲリラに襲われるかも知れないので緊張の連続だったそうです。また、ノモンハンでは、弾着観測用の気球が地面すれすれに飛んで来たソ連の戦闘機に撃破されたりしています(昭和35年頃の航空情報に掲載されていた航空関係者のノモンハン航空戦の回想)。
UK
どう扱われるかですが、規模や数に応じて組や班〜中隊規模でローテーションするのが普通では。
伊吹
通行人
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太平洋戦争の初期に壊滅したアメリカ海軍のアジア艦隊の司令部はマニラのどの辺にあったのですか? 艦隊の根拠地としても使われていたキャヴィテ港の近くだとは思うのですが、よく分かりませんでした。 Tori-ten |
hush