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戦史、歴史
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257 太平洋戦争終戦時、陸海軍をはじめ各省庁・組織が書類を徹底的に焼却した、という話がありますが宮内省でも同じことをしたのでしょうか?
バツ

  1. また、宮中ではどうだったのでしょうか。
    バツ


  2.  宮内省 書類焼却で検索をかけたところ、
     1945年8月18日付の「機密書類ノ焼却ノ件」と題する文書で、宮内省の大臣官房から省内の各部局長宛に出され、「機密ニ属シ破棄相当ト認ムベキモノ」を「原簿ト共ニ之ノ際全部焼却スルコト」とし、8月18〜22日に「宮城内 三重櫓(富士見櫓)下」で焼くように指定している
     というブログを見つけました。
     
    hush



256 司馬遼太郎が次の逸話をよく書いています。

司馬たちの戦車隊は、満州から関東の防衛のために栃木県佐野に移駐してきました。
その時分、参謀本部から少佐参謀がやって来たので、ある将校が彼に質問しました。
「敵軍が上陸してきたら、我々は南下して防衛にあたらなければならない。しかし、その街道は、北上してくる避難者で混雑するであろうが、どうすればよいか?」と。
この参謀少佐曰く「轢き殺してゆく」と。

質問は、今考えるには、こういう状況ではどのように対処すべきなのでしょうか?


park123

  1.  そのような場合、交通規制が行われるでしょう。
     災害対策基本法を援用したものとなると思われますので、警察官がいない場合、自衛官による交通規制も可能でしょうが、たとえば自動車専用道路を緊急車両専用にしてしまうというような方法を採ると思います。
     もっとも、日本に海を使って大規模な軍隊を送り込める国なんて、アメリカぐらいしかないと思いますが。
     
    hush



255 ヤフーニュースで「この1ヶ月でウクライナで戦死した将官は7人。これは第2次大戦以来初めてのこと」と出ていました。(元ネタはニューズウィーク日本版?)
第2次大戦末に日独で多数の将官が自決することはありましたが、1ヶ月間に7人も将官が自決でなく戦死したことはあったのでしょうか?
トロッター

誰か答えて下さい。

254 日本海海戦で、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」は有名ですね。
ところで、この文章は暗号化されて送信されたのでしょうが、後半の「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」は平文だったそうですね。
質問は、平文が混在した状況について解説して下さい。
park123

  1.  電報の原文 https://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/angou.htm を見ると、暗号とそうでない部分とがあります。単純に、それに対応する暗号がなかったということでしょう。
     
    hush


  2. hush様へ

    電報送達紙の左半分は今まで見ていたのですが、今回、右半分も拝見させていただきました。

    当時は、その後と違って、伝文全部を暗号化することはなかったのですね。主要な単語などは置き換えにより暗号化できましたが、使用頻度の低い特殊な単語などは平文で送らざるを得なかったのですね。

    park123



253 日本陸軍特別大演習の年ごとのデータのまとめサイト、書籍等ないでしょうか。

誰か答えて下さい。

252 太平洋戦争において、宮崎支隊や川口支隊、南海支隊や水上支隊など、連隊に支援部隊をくっつけた戦闘団の指揮を歩兵団長及び歩兵団司令部に充てる例が多いですが、連隊長には厳しいという考えがあるのでしょうか。
もともとノモンハンの頃はぜんぶ連隊長でしたよね。
そもそも歩兵団は本来、歩兵3個連隊を指揮する歩兵部隊としての運用が想定されていたと思っていましたが…。
しかし史実の流れを見てると支隊編成用の運用が想定されて残ったのでしょうか?無い師団もありますが。
宜しくお願いします。

  1. >ノモンハンの頃はぜんぶ連隊長
     安岡支隊長は中将ですね。
     太平洋戦争においては一木支隊等は連隊長が支隊長で、歩兵団長が支隊長をするというような決まりはないようです。
     多分、支隊の規模によるものと思われます。
     
    hush



251 大西洋のビスマルク追撃戦の最終局面で、英海軍が全砲門沈黙して浮かぶ鉄屑と化したビスマルクを、南太平洋海戦時のホーネットのように鹵獲曳航しようとしなかったのはなぜでしょうか?

自沈工作がなされ(英海軍は知らなかった)、戦艦部隊の残燃料の不足とUボートの脅威(実際には無かった)があったとはいえ、十分な隻数の艦艇を有し、また人道上の乗組員救助の点からも、問答無用で巡洋艦の魚雷をぶち込むことは性急ではなかったでしょうか?

あるいは火薬庫に火が回り、大爆発轟沈して損害を受けることを恐れたのでしょうか(では南太平洋海戦のホーネットは?)?
備後ピート

  1.  逆に伺います。どうやって、ビスマルクを拿捕するのでしょうか。戦闘力を失ってはいますが、乗員が残っております。ボートで近づこうとすれば銃撃ぐらいは受けるでしょう。自沈するぐらいですから、降伏の意志はありません。
     ホーネットの場合、放棄されて漂流していました。拿捕されたUボートも放棄され、自沈する直前に拿捕されています。
     商船を拿捕するのと違って、軍艦の場合は難しいのではないでしょうか。
     
    hush


  2. うーん、さすがの英海軍でも難しいですかね。駆逐艦コサックが戦闘配置の補給艦アルトマルクに接舷強襲をやっちゃった例がありますが、例外中の例外でしょうかね。
    備後ピート


  3. >2
     アルトマルクの例をすっかり忘れておりました。
     ただ、あの時には捕虜の奪還という至上の課題がありましたので、同列に語ってよいものかどうかとは思いますが。
     
    hush



250  ちょっとした笑い話の元ネタというか裏付けについて質問します。
 笑い話は以下のようなものです、

「ロシアでは恵比寿ビールが人気だ。ロシア語でエビは女性器を意味する隠語に近いのだそうだ。
 その昔、ロシア駐在武官の日本軍人がモスクワの街中で同僚を『海老原少尉!!』と大声で呼んで物議をかもしたことがあるらしい。
 街中で『エビ・ハラショー』と叫んだりしたら、銀座で『マ〇コ・バンザイ』って叫ぶようなものだから、そりゃ物議も醸すだろう。」

 というような内容です。

 感嘆に調べたところEbis(ロシア語だとЕбись)は女性器じゃなくて排泄物を指す隠語のようなので、その時点で海老原少尉云々の話は作り話っぽいのですが、制度的な問題で見た場合旧日本軍で少尉という階級の低い士官がロシアのモスクワを訪れる機会というのはあったのでしょうか?
おうる

  1.  その話、イタリア語の磯野カツオと同じぐらい知られた話のようですが、いつごろからあるのか不明です。ただ、疑念を持たれたように、一介の少尉がロシアにいるというのは、日露戦争やシベリア出兵以外には考えにくく、まして、モスクワというのは難しいだろうと思っております。したがって、ハラショーにくっつけるために少尉を持ち出したのでしょうが、少佐や少将ではないという点が、実在する人物ではないということ示しているように思えます。少佐でもよかったはずなのに、あえて少尉にしたのは、あくまでも小話であり、本当にいるのだと思われないようにするためではないかと思っております。
     なお、Ебисьは「犯す」を意味するебатьの命令形と書いたものがありましたので、英語のfuckと同様の語と考えられます。どちらにしろ、外交の一翼を担うはずの武官や武官補佐官が軽々しく口に出せる言葉ではないでしょう。したがって、ロシア語を齧った者が日本で広めた可能性が高いと思っています。
     以下、余談。野球の福留選手が渡米した際に、苗字がFuck do meと読めると話題になりました。また、大毎オリオンズに1962年に入団したFrank Edward Mankovitch選手の場合は、マニーの名で登録されています。したがって、御質問で伏字にされた語は、私の幼少期においても憚られるものだったとなるわけですが、最近、読んだ本では、これは饅頭に由来するもので、京阪神の上流階級の人々が上品に使っていたようです。それが、関東に伝わった際に卑語になったようで、大毎が毎日新聞と大映(大日本映画)の合併でできた在京球団であったがために、改名となったのでしょう。ただ、当時は情報が今のように伝播する速度が遅かったので、私のような田舎者は、聞いたこともない言葉でした。
     
    hush


  2. >>1 回答ありがとうございます。
    おうる



249  軍事というか工業技術の歴史に関する質問です。

 米国の戦車や車両等とドイツ軍の戦車の駆動系の耐久力の差からWW2当時のドイツでは高周波焼き入れ技術は使われていないと自分で勝手に思い込んでいたんですが、ドイツでの高周波焼き入れの導入は戦後になってからというのはあっていますか?それとも戦時中すでにドイツでは高周波焼き入れ技術は実現していたのでしょうか?

 アメリカが1930年に実用化し、日本には戦後に入ってきて、それによって日本のブルドーザー等建設重機の寿命が一挙に3倍くらいになったというのは話は聞いています。
おうる

  1. 調べた範囲では、ドイツでも戦前から技術はあったように思います。

    https://haertetechnik-hagen.de/induktionshaerten-partielles-haerten-in-hochgeschwindigkeit
    添付のHPには以下の記述がありました。
    Das Induktionshärten ist ein vergleichbares junges Verfahren zum Härten von Stahl. Das Verhütten von Eisenerz und das Erzeugen erster Stahlsorten liegt mehrere Jahrhundert in der Vergangenheit. Die Möglichkeit Stahl mit Hilfe von Elektrischer Induktion zu härten erforderte zunächst die Entdeckung der Elektrizität. Die ersten Versuche Stahl mittels Induktion zu Härten erfolgten im Jahr 1920. Das erste Kurbelwellenhärtewerk wurde in Deutschland 1938 in Betrieb genommen.
    高周波焼入れは、鋼を硬化させるための比較的若いプロセスです。鉄鉱石の製錬と最初の種類の鋼の生産は数世紀前にさかのぼります。電気誘導の助けを借りて鋼を硬化させる可能性は、最初は電気の発見を必要としました。誘導による鋼の硬化の最初の試みは1920年に行われました。最初のクランクシャフト硬化プラントは1938年にドイツで操業を開始しました。(機械翻訳)


    https://de.m.wikipedia.org/wiki/Panzerkampfwagen_IV
    また、このwikipediaには(駆動系の話ではありませんが)、
    Erfolgreiche Versuche mit einer neuartigen Induktionshärtung konnten auf die Panzerblechbearbeitung während des Krieges nicht mehr übertragen werden.
    新しいタイプの高周波焼入れで成功した試みは、戦争中に装甲板金加工に移すことができなくなりました。
    Successful attempts with a new type of induction hardening could no longer be transferred to armored sheet metal processing during the war.(機械翻訳)
    とあります。

    太助


  2. >>1
    回答ありがとうございます。

    少なくともIV号戦車の装甲板はレアメタル欠乏を高周波焼き入れによる硬化で補っていたようですね。
    一応、自分である程度検索していましたが現地語で検索するのは忘れてました。

    歯車のような形状の複雑な製品の硬化には高い周波数での高周波焼き入れが必要になりそうですが、ネットで調べた限りでは当時何Hzの焼き入れまで実用化していたのかは分かりませんでした。
    おうる


  3. >2 そこで言われている「しばしば100時間かかった表面硬化工程」とは浸炭焼き入れのことで、それに代わる火焔焼き入れへの転換で浸炭を行わずともブリネル硬度520を実現していた、というお話ではないでしょうか。
    BUN


  4. >>3
    そうですね…むしろ高周波焼き入れを装甲板の加工に用いることが出来なくなったという風に読み取れそうです。
    おうる



248 旧陸軍の歩兵操典について質問します。
とあるネット上に掲載されていた歩兵操典なのですが・・・

「第七十四 突撃は猛烈果敢にして敵を圧倒するの気勢充溢せざるべからず
突撃を為さしむるには著剣の後左の号令を下す
    突撃に 進メ
予令にて右手を以って木被の所に就き銃を確実に握り銃口を上にして提げ動令にて駈歩と同要領にて前進し次いで「突込メ」の号令にて喊声を発し的に向かいて突進し格闘す但し突入の稍々前に於いて両手を以って銃を保持して刺突の準備を為す
射撃しあるときは予令にて銃を安全装置にし動令にて前項に従い動作するものとす
……突撃に在りては剣鞘を握らざるも妨げなし
演習に在りては格闘に先だち「止レ」の号令を下す然るときは停止し敵を刺突するの構えを為す」

という記述があって銃撃戦中に突撃命令があった時は安全装置をかけることが定められていますが、某S氏ちんのお部屋に掲載されている昭和15年版歩兵操典を見ると、

「第74 夜間の突撃は地形地物に制せらるることなく果敢に実施し得るを要す。手榴弾の投擲の演練亦必要なり
夜間の突撃に在りては喊声を発せざるものとす 」

となっていて、安全装置云々という記述がありません。
先に挙げた方は昭和十二年版のようです。
どうやら昭和十五年改訂の際に安全装置云々の記述が削除されたようなのですが、戦術に変化があったという事ですか?
おうる

  1. 昭和十五年歩兵操典の七十四は夜間突撃で地形に妨げられないようにせよ、手榴弾投擲を重視し、喚声無しの静謐な攻撃を行う、との内容で、突撃一般の動作、要領を示していません。それよりも前の項で安全装置については触れていますので、基本動作の中に安全装置も含まれていると読むべきではないでしょうか。
    BUN


  2. >>1 回答ありがとうございます。

     確かに内容が重複していたので合理化簡略化したのかなとは思っていましたが、ちょうど近い時期に百式短機関銃が正式化されてるのでまさか戦術の変更があったのかと一抹の不安を覚えて質問させていただいた次第です。
    おうる



247 バルバロッサ作戦における、レニングラードを巡るOKHの意思決定がよくわかりません。
バルト海沿岸を補給基地にするという方針が放棄された経緯
攻略ではなく包囲に転換した理由
これらを明確に述べた公文は残っているのでしょうか。
また歴史的に反体制派が現れやすい(現に革命の起点となった)レニングラードをモスクワに叛逆させることは計画されなかったのでしょうか?
あぶくま

誰か答えて下さい。

246 リュッツエンの戦い(ナポレオン戦争ではなく1634年の30年戦争の方)の戦略上・戦術上の勝利は神聖ローマ皇帝軍、スウェーデン軍のいずれにあるのでしょうか?



備後ピート

  1. ミリタリー系Youtuverの配信でもいくつか取り上げられているリュッツエンの戦いですが、人によって戦略上・戦術上の勝利の解釈がバラバラなので、あえてこの板の識者の皆様のご意見をお伺いするしだいです。よろしくお願いいたします。
    備後ピート


  2.  何を持って勝利とするかでしょうね。
     
    hush


  3. リュッツエンの戦いについては歴史系Youtuver、ミリタリー系YoutuverがYoutuveで何人も取り上げているのですが、
    「敵の主将を討ち取って新教徒側の求心力を奪い、のちのネルドリンゲンの戦いの勝利を導き出したから神聖ローマ皇帝軍の勝ち」と結論ずける人もいれば、
    「実際の戦闘で相応の損害を出したものの、敵軍を戦場で壊走させ、ワレンシュタインの不敗神話を打ち崩し、皇帝軍の不和、ついにはワレンシュタインの暗殺にまで至ったのでスウェーデン軍の勝利に間違いなし」と述べる人もいて、正直私にはわかりません。

    あるいは30年戦争は以後も続きますので、著名な割には「勝利無き戦い」というべきものだったのかも知れませんね。
    備後ピート



245 こんにちは。 お世話になります。
2.26事件の際、射撃の名手として知られていた教育総監・渡辺錠太郎大将は拳銃で応戦したとありますが、当時、将官などの軍人は非番時における拳銃の所持・使用が許されていたのでしょうか?
Deutschland

  1.  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%83%E8%A6%8F%E5%88%B6#%E8%BF%91%E4%BB%A3
     時代にもよりますが、銃規制は今よりゆるく、将校は自由に拳銃を所有できました。
     なお、将校の場合、軍装などと同じく、私物です。
     
    hush


  2. hush様
    おはよう御座います。お教え、ご紹介サイト大変参考になりました。
    良い勉強をさせていただきました。心より御礼申し上げます。
    ありがとうございました。
    Deutschland



244 MO作戦においてクックタウン空襲が計画されていますが、機動部隊でクックタウンのどこを空襲する計画だったのでしょうか。

MO機動部隊による豪州空襲計画は航空兵力の撃滅とのことですが、クックタウンの航空基地の場所がわかりません。
日本軍のクックタウン空襲計画や実際の連合軍の在クックタウン航空兵力についてご存じの方がいればよろしくお願いします。
天ヶ崎

  1.  毎度、Wikipediaですいません。
     https://en.wikipedia.org/wiki/Cooktown,_Queensland#World_War_II
     に、”The busy airfield played a key role in the crucial Battle of the Coral Sea when Japanese expansion towards the Australian mainland was finally halted. The last military unit, the 27th Operational Base Squadron of the RAAF, ceased operations in Cooktown in April 1946.”とあります。
     また、 https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2+%E3%80%924895+%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89+%E3%82%AF%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3/@-15.4674503,145.2273469,1663m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x699dcb0f8aabd22d:0x400eef17f207250!8m2!3d-15.4758164!4d145.2470981 を見ますと、クックタウンの飛行場が確認できます。
     なお、27th Operational Base Squadron of the RAAF ”cooktown”で検索をかけると、いくつか出てきますね。
     
    hush


  2.  https://en.wikipedia.org/wiki/Cooktown,_Queensland#World_War_II
     には、”Some 20,000 Australian and American troops were stationed in and around the town.”ともあります。
     http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=049# 105コマを見ると、MO機動部隊で同地を攻撃することと定められたが、第5航空戦隊からの反対意見によって取り下げられている経緯を見ますと、実施部隊のほうできちんとした計画を策定したかどうかも分かりません。 ただ、戦史叢書の100コマにはクックタウンは出てきません。等に含まれているのかもしれませんが、急遽、候補に挙がった地名かもしれません。
     
    hush


  3. hush様ありがとうございます。
    やはり現在のクックタウン空港(cooktown Airpot)は1942年から存在する航空基地だったのですね
    天ヶ崎


  4. >3
     現在のクックタウン空港Cooktown Airportとクックタウン飛行場Cooktown Airfiledは違うようです。というのは、http://www.cook.qld.gov.au/development/infrastructure-update/cooktown-airport-development/CooktownAirportDevelopmentMasterPlan.pdf の1.4.Role and historyに町の西2qに飛行場を設置したが、低湿地だったために3度も冠水し1949年に廃止されたとあるからです。したがって、2で示したGoogle Mapの滑走路跡らしいものがWW2当時の飛行場だと思っています。地図を縮小していただくと西北西のEndever川沿いに見えているのが新しいクックタウン飛行場で、Wikipediaの町の中心部から7.5qという表記と合致します。
     1、2ではそこまで書く必要性は感じなかったのですが、Cooktown AirportよりCooktown Airfiledのほうが当時の情報がより多く出てきますので、おせっかいながら書かしてもらいました。
     
    hush


  5.  3で紹介したpdfはかなり重たいので原文を添えておきます。
     The first aerodrome constructed was at a mission on the existing site and was used regularly as far back as the mid-1920s. This site is 17 km from town.In 1936, CSC established a licensed aerodrome, 2 km west of the town on a low swampy area protected from flooding by a levee bank. The Department of Aviation took over this aerodrome on 1 January 1938 and remained in possession until 1949 when the aerodrome was decommissioned. During its brief life the aerodrome was flooded three times despite the levee bank protection.
     
    hush


  6. ありがとうございます。
    2で示して頂いたgoogle mapをクックタウン空港のことと勘違いしてしまい失礼致しました。
    詳しい解説をして頂き感謝です。
    天ヶ崎



243 サ第一号作戦の時に、日本の艦は、星条旗を掲げるなど、米艦に偽装しましたが、これは、戦時国際法上の背信行為にあたらないと、日本海軍は判断していたのでしょうか。攻撃の時には、星条旗を降ろして、日本の軍艦旗を掲げていたようなので、これで戦時国際法上の背信行為ではない、という解釈なのでしょうか。
saLo

  1.  国際慣習法としては、交戦国船舶を攻撃するときは自らの国籍を明らかにしなくてはならないと考えられていました。逆に言えば、接近時に自らの素性を明らかにする必要はないし、欺瞞行為もギリギリの所でセーフであると考えられていたようです。ですから、ドイツ水上艦艇が通商破壊戦を実施している時には、かなりの欺瞞行為を行っていました。したがって、問題ないと考えていただろうと思います。
      ただ、サ第一号作戦時、利根は、「我は汝と信号せんとす信号し易き距離内に接近せよ」、「我はアメリカ巡洋艦なり」と発光、ならびに旗旒信号を送ってるとか、艦首紋章を隠すとか、戦闘記録(アジア歴史資料センターC08030573400)に書いてあります。ところが、戦史叢書(http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=054の182コマ)には、そのようなことを書いてないところを見ると、多少の後ろめたさはあったのかもしれません。もちろん、その後の商船Beharの乗員処刑問題がありますので、あまりこの作戦には触れたくはなかったのかもしれません。
     
    hush


  2. ご回答ありがとうございます。ドイツの仮装巡洋艦「アトランティス」なども別の国の旗を掲げて、攻撃の時に正体をあらわしていましたね。
    saLo



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管理者 F4U : Ans.Q v1.40 [Shigeto Nakazawa]