ちょっと気になると夜も眠れない。

戦史、歴史
Ans.Q

どうでも良いことなのに…、誰か助けて!


・ あなたが疑問を持っているなら、ここで記入してください。
名前:

*ここは新規質問投稿欄です。質問への回答ではありません。
[戻る]

228 対外戦争の際に、戦闘指揮を執る所在地が移動・前進しました。
白村江の戦いでは、福岡県朝倉市に、
朝鮮出兵では、佐賀県唐津市に、
日清戦争では、広島市に。
しかし、元寇の時には、執権・北条時宗は鎌倉を動きませんでした。
なぜ、動かなかったのしょうか?

park123

  1.  防衛戦だからでしょう。
     
    hush


  2. 元寇以外は侵攻戦ですね。

    ところで、動く動かないの話ですが、元寇以外の戦いの時には誰が動いたのでしょう。
    執権ですから鎌倉に居るのが妥当かと思います。


    暇人



227  1898年のスペイン−アメリカ戦争(米西戦争)で活躍した義勇兵部隊である『ラフ・ライダーズ』について質問いたします。
@隊員はどのような人たちだったのでしょうか?
 私は冒険好きな銃愛好家や賞金稼ぎの集団のような印象があるのですが?
A隊長のセオドア=ルーズベルトは元海軍次官でしたが、軍隊経験があるように思えません。
 この戦争で名誉勲章を受章しているくらいですから、手柄を立てたと思うのですが、どのような方法で軍人の能力を身につけたのでしょうか?
 英語版のWikipediaには詳しい記事があるようなので、どなたか教えていただければ幸いです。
PIAT

  1.  https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders
     こちらを見てください。
     
    hush


  2.  間違いました。
     https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders&prev=search
     
    hush



226  幕末〜明治の軍艦の扱いについて質問します。

 江戸時代は各藩ごとに武器の西洋化を進めており、小銃から軍艦までさまざまな兵器が輸入されています。小銃や大砲等の火器についてはほぼ全て明治政府に移管されていますが、軍艦については良くわかりません。
 幕府海軍の軍艦は最終的に明治政府に移管されていますが、各藩で保有していた軍艦はどうなったのでしょうか?
 いくつかの軍艦については民間で海運に使われたのは確認しています。銃器類のように海軍(明治政府)に納められなかったのは何か理由があったのでしょうか?
おうる

  1.  勝海舟の「海軍歴史」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845168 には、諸侯船譜として、各家(藩は基本的に明治になってでてきますので)の所有船の一覧が載っています。この一覧には漏れも多いのですが、これらは明治政府に献納されなかった船となります。では、なぜそうならなかったのかというと、海軍が欲しがらなかったからです。
     大船建造の禁の廃止により、各家は洋船の購入に走ったので、かなり程度の悪い船を、殿様ですので、言い値で買ったりしています。その後、徐々にきちんとしたものになっていき、国内での建造も始まります。しかし、津の藤堂家の神風丸のように、造ったがうまく動かなかったなんてものもあります。また、海軍創設の頃には、老朽化している船も多かったわけです。
     実際、大阪の海遊館のそばの天保山、あの沖(つまり、USJとの間)で1868年に最初の観艦式が行われていますが、その旗艦となった電流丸ですら、その4年後に献納を申し入れた時には、老朽しているということで拒否され、大砲だけを受け取っています。
     また、表を見ていますと、備考欄に備砲の数が記されたものがありますが、電流丸の10門が一番多く、ほとんどが数門です。掲載されていないもののすべてが武装していなかったわけでもないでしょうが、あっても1、2門というところではないかと思っています。まだ、軍艦と商船の境目がまだ不分明な時代ですが、老朽化していなくても、輸送任務にしか使えないものが多かったと思われます。
     しかし、海軍では役に立たないとみなされても、民間では貴重な輸送手段です。たとえば、広重の「東海道五十三次」の木版画を見ても、荷物を運ぶ牛馬の姿がほとんどありません。実際、東海道といえども、道幅が狭く、そのような用途には使えないのです。しかし、海上には帆掛舟が浮いていて、これが上方と江戸を結ぶ輸送路だと分かります。そういう中で、老朽化していても、大型の船は貴重な存在であり、収入源となりえたと愚考致しております。
     
    hush


  2. 回答ありがとうございます。

     一応、各藩の保有艦船を明治政府に納めさせようという動きはあったんですかね?
     江戸時代に海に面していた藩だけでも結構な数があり、そのうちどれくらいの藩が艦船を保有したかまでは存じませんが総数はそれなりにあった筈・・・それらがすべて「不要」とされたとしたらそれはそれですごい話ですね。
    おうる


  3. >2
    >各藩の保有艦船を明治政府に納めさせようという動きはあったんですかね?
     存じません。実のところ、「小銃や大砲等の火器についてはほぼ全て明治政府に移管」させたかどうかも存じませんし、占領軍が行うまで割と銃器類は民間にあったようですので、その典拠はどこにあるのか御教示いただければと思っているぐらいです。
    >総数は
     https://www.jp-history.info/warship こちらのサイトには幕末軍艦全140艦とあります。
    >「不要」とされたとしたら
     それらの船は華族となった諸侯の私有財産となったのではないかと思っておりますが、それを献納するかどうかは各自の判断でしょうし、すべてを献納されても、それを運用するだけの力が新政府にあったとは思っていません。
     というのは、それらの船を運用するには人員が必要ですが、財政難の時代、その人達に支払う給与を出せたかどうかは疑問だからです。したがって、新政府としても、電流丸のように献納を申し込まれても謝絶したように、取捨選択する必要はあったはずなのです。
     
    hush


  4. >総数はそれなりにあった筈…それらがすべて「不要」とされたとしたら
     新政府が所有した艦船のすべてが旧幕府のものであって、献納されたものはなかったという意味にお取りになっていないですよね。
     まさかとは思いますが、念のため、記させてもらいます。
     
    hush


  5. >>3
    >その典拠はどこにあるのか御教示いただければと思っているぐらいです。

     思えばそういう話を本で(日本軍の小銃に菊の御紋が刻まれるようになった経緯を説明する文章の中で)読んだことはありますが、事実かどうかは確認していませんでした。

    >>4
    >新政府が所有した艦船のすべてが旧幕府のものであって、献納されたものはなかったという意味にお取りになっていないですよね。

     さすがにそれはないです。
    おうる


  6. >5
     ありがとうございます。
     4に関しては、大変、失礼なことをうかがって申し訳なく思っております。御寛恕いただければ幸甚に存じます。
     
    hush



225 「武器、装備全般 787」によると、パレンバン空挺作戦では日本軍落下傘部隊は重火器を回収できず、多くの隊員は拳銃や手榴弾で戦ったとのことです。
 そこで質問いたします。
 油田を守備していたオランダ軍等は大砲・機関銃・ジープ等を装備していたはずですが、なぜ降伏したのでしょうか?
 よほど奇襲がうまくいったのでしょうか?

PIAT

  1. この時期、日本軍はあちこちで上陸作戦を実施して、シンガポールは陥落寸前。
    空は64戦隊やら59戦隊が頑張っていたと思います。
    そして、オランダ本国はもはや亡命政権。

    パレンバンは完全に奇襲だった様です。
    守備兵が逃げ出した様な記述も見ます。当たり前の様な気がします。
    暇人


  2. パレンバン市街/製油所/飛行場に配備されていたのは蘭印軍一個大隊と歩兵2中隊で合計歩兵11ヶ小隊.機関銃7ヶ小隊.迫撃砲3ヶ小隊.野砲8門.装甲車7両.40粍高射機関砲2門と英軍対空部隊(砲数不明)と航空補助部隊だったようです。
    挺進部隊の降下の際、輸送機がロッキードだったため英軍のロッキードハドソン爆撃機と誤認し奇襲になりました。
    降下兵と略同数の物料傘が投下された為、兵数を誤認した可能性があります。
    降下した兵の攻撃と市街と飛行場間の交通が7名の兵により遮断された為、航空補助部隊の撤退と市街からの増援が阻止され、製油所/飛行場施設の一部を爆破出来たことから包囲を逃れるため撤退したのです。
    poran


  3. 暇人様 
     私は当初、本国を失ったオランダ兵がヘタレだったと思っていたのですが、英米軍も加わっていたことを知り、もっとがんばれなかったのか不思議に思って質問させていただきました。
     マニラやシンガポールの陥落が同じ頃であり、連合軍も手一杯だったのですね。

    poran様
     くわしい描写をしていただき、ありがとうございます。
     油田の守備隊は降伏したのではなく、油田に放火して退却したのですね。
     まさか攻撃部隊が小銃も持ってないとは思わなかったのでしょうね。
     
     最後にお尋ねしますが、連合軍は日本軍に空挺部隊があることを知っていたのでしょうか?
     
    PIAT


  4. 海軍が1ヶ月前にメナドに降下してますから当然知っていて、対空挺用の鹿砦が造ってあったそうです。

    poran



224 第三次ソロモン海戦にて、近距離で殴りあった霧島より、遠くで砲撃していた愛宕、高雄が多数の命中弾を与えたという説を聞きましたが、近距離より遠距離の艦の方が命中率高い事ってあり得るのでしょうか?
凡人

  1.  それはあるかもしれませんが、「戦史叢書南東方面海軍作戦<2>」 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=083# p206の航跡図や記述を眺めると、愛宕、高雄、霧島の順で単従陣を組んでサウス・ダコタに対峙しています。つまり、この3隻は近接していたわけですので、何をもって近距離だとか、遠距離だとかするのか分かりません。
     また、霧島はサウス・ダコタ砲撃中にワシントンの砲撃を受けたのですから、命中率が下がるのは当然です。
     その上、サウス・ダコタに命中した砲弾数は27発だそうですが、うち5発は霧島の主砲弾です。では、のこり22発は愛宕、高雄の主砲弾かというと、霧島は副砲も高角砲も発射しており、重巡洋艦も同様なので(もちろん、こちらは副砲はありませんが)、すべてが8インチ砲弾とは限らないのです。そのあたり、きちんとお調べになりたければ http://www.navweaps.com/index_lundgren/South_Dakota_Damage_Analysis_Hit_1-2.pdf に被弾状況が載っております。
     つまり、その説を唱えておられる方の理由が、私には分からないということです。
     
    hush


  2. 有坂純氏と言う方が、35cm砲弾6発、20cm砲弾18発、15cm砲弾6発、12.7cm砲弾1発であり、霧島は余り当てておらず、一方的にボコられたと言うのが定説らしいんですが、
    実際のダメージレポートには、35cm砲弾6発、20cm砲弾7発、15cm砲弾8発、14cm砲弾4発、13.7cm砲弾2発であると言う説を聞き、一体どちらなのだろうかと。
    凡人


  3. >実際のダメージレポート
     https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/w/war-damage-reports/uss-south-dakota-bb57-war-damage-report-no57.html
     には、”During the engagement described above, SOUTH DAKOTA sustained at least 26 projectile hits. It is estimated that one hit was 5-inch, six were 6-inch, eighteen were 8-inch and one was 14-inch.”とあります。また、命中箇所の概略図 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/USS_South_Dakota_%28BB-57%29_Naval_Battle_of_Guadalcanal_%2814-15_November_1942%29_damage_chart_%28U.S._Navy_War_Damage_Report_No._57%29.jpg もあります。
     これだと14インチ砲弾は1発しか命中しておらず、8インチ砲弾は18発となっていますが、霧島が3式弾をそのまま発射したということを知らずに作成したものではないかと思っています。
     どちらにしろ、御質問にありますような距離の相違はそれほどなく、途中でワシントンからの砲撃を受けたのだから、霧島の命中率が低くても不可解とは思っていません。
     
    hush


  4. 命中率=命中弾数/射撃弾数ですから、射撃弾数が不明なら命中率の議論はできません。36cm砲8門と20cm砲20門ですので、砲身数で20cm砲が2.5倍、射撃速度も考慮すると、愛宕、高雄の射撃弾数は、霧島の3倍以上あったのではないでしょうか。
    桜ヶ丘


  5. >4
      「軍艦愛宕戦闘詳報(第3次ソロモン海戦)」(アジア歴史資料センターC08030745200)によると、愛宕の主砲は徹鋼弾55通常弾6計61発を発射しています。
     霧島はもちろん、高雄の戦闘詳報も見つかりませんが、「戦史叢書」には霧島の発射弾数三式弾68零式弾22一式弾27発とは記されています。もっとも、これとてサウス・ダコタに何発、ワシントンに何発というのが不分明ですので、机上の空論であることには間違いありませんが。
     
    hush



223 以前第二次上海事変におけるウースン上陸作戦の戦死者を訪ねましたが、それに関連して質問です。
四行倉庫の戦いはどうなのでしょうか。
第二次上海事変における四行倉庫の戦いを描いた映画「八佰」が制作されて、気になったのですが、四行倉庫の戦いにおける日中キルレシオが末期フィリピン戦並に酷いですよね。
中国側の戦死者は10人という記録がありますが、中国側はこの数としても、日本側の戦死者が200人超というのが何に基づいたものなのか不明、いくら精鋭の88師といえど日本軍をこうも一方的に斃せたものなのでしょうか。
戦果報告が過大になるのは日中それぞれ常であり、これが中国側の戦果報告を元にしたものならば一考を要さねばならないと思いますが…
パンジャンドラム

  1.  日本側の公刊戦史を管見したところでは、この戦いについてはほとんど記述もなく、日本側の被害者数についても海軍陸戦隊が数名の負傷を出したとあるのみです。したがって、第3師団の戦死者数は全くの不明というしかありません。
     ただ、戦史叢書第89巻204ページにある上海方面の旧日本軍の戦死者数を計算すると、10月14日から23日までが901人に対して、23日から11月8日までが4306名となっています。つまり、1日当たりの戦死者数が、前者では10人程度であったのに対して、後者では200人と大幅に増加しています。そして、Wikipediaの「四行倉庫の戦い」を見ると、中華民国軍は充分な兵器と弾薬等を持って、かつて師団司令部としても使われた堅牢な6階建てのビルディングにこもって4日間戦った末に撤退しています。
     これに対して、第3師団側は対岸の租界に銃弾が飛び込んではいけないという状況下にあり、航空機が使用できても爆撃も銃撃も自重せざるを得ない状況にありますので、一方的に狙撃された可能性があります。
     中華民国側の兵力は映画のタイトルにある800人ではなく、400人強だそうですが、それが1人あたり0.5人の日本兵を斃したとすれば、それだけで200人となります。
     もちろん、仰るように「戦果報告が過大になるのは日中それぞれ常であり」ますので、上記は単なる推定ですが、無茶な数字でもないとは思っています。
     
    hush


  2.  戦史叢書第89巻204ページは第86巻204コマ(387ページ)の間違いでした。
     http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=086
     失礼しました。
     
    hush


  3. 日本側のこの戦闘についての記録を見た事がありません。
    戦死200名だと戦傷者は4倍として800名位になります。
    当時激戦を戦ってきて兵力を失っている部隊がこれほどの損害を出せば、恐らく連隊が「全滅」と称されるような状態になってしまうでしょう。
    実際の攻撃部隊は1個大隊以下ではないのでしょうか?

    彼らは当時から抗日の英雄として宣伝された為かなり誇張されているのではないかと思います。
    第一次上海事変の際の「申報」の記事もかなり誇張がある様です。

    実際はどうだったのでしょうか?
    戦史叢書も大東亜戦争以前の戦闘は簡単な記述しか有りませんね。
    南京は偕行社の「南京戦史」が有りますが.....


    poran


  4. 御二方、回答感謝します。
    私の考えとしては、(何らの根拠なく)、キルレ1対20はおかしいだろ!なんですが、
    しかし400人が1人あたり0.5人殺害として見るのは何ら違和感はありませんね。

    しかしporan様も仰る様に、200人の殺害ならば、その何倍も負傷者があるはずであり、この場合200人で突撃して玉砕したとは考えにくく、大隊規模以上で攻めたと考えられます。
    つまりこれだけの規模の競り合いならば、200人の死者が出たなら日本側の記録にこうも残らないのは不自然であると思います。

    (根底にあるのは、私の日本軍に対する思い入れなんですが…。実際に逆ならどうとも思わないでしょう(^_^;) )
    パンジャンドラム


  5. >3
     非常に的確な御指摘をありがとうございます。
     ただ、前述のように10月23日から11月8日までの12日間で日本軍は4306名が死亡しています。これに9753名の負傷者を合わせると14059名もの損害を出しており、「9月までの日本軍第3・第11師団だけで死傷者は12388名にのぼり、第9師団は11月の蘇州河渡河までに12360名の死傷者を出した」という状況です。したがって、その伝でいくと1ヶ師団が「全滅」と称されるような状態であったわけです。もちろん、これは上海方面全体のもので、比較対照として好ましいものとは考えておりませんが、この戦いの様子は戦史叢書からはほとんど窺えません。
     日本側の投入兵力が1ヶ大隊以下であろうという推測に関しましても、きわめて妥当なものだと思っております。ただ、この戦いは、それまでの戦いと大きく様相が異なっております。
     一つは、欧米列強の租界に近く、各国の注視の中で行われていたということです。
     二つ目は、四行倉庫を守っていた中華民国軍がドイツ製の兵器によって充分な武装をしていたということです。
     前者については、早急に落とさないと、日本側の面子が立たないということになりますし、日中戦争で噂されている毒ガスの使用もできません。また、航空機も、艦艇もいながら、租界に被害が及ぶことを恐れて使用できません。
     後者については、それまで対峙した兵力がどれだけか不明ですが、装備不充分な中華民国軍により多くの死傷者が出ている状況です。ですから、新兵が多いといいながらも、装備充分な兵力にぶつかった時にどうなるかということを想像しますと、多くの死者が出たとしても不思議はないと思っています。
     両方とも、それまでの戦いで、日本側がほとんど遭遇したことのない状況です。そのような中で、日本側が1ヶ大隊程度の兵力で戦闘を開始したとしても、陥落できなかった場合、兵力を増強した可能性はあると思っています。そして、その場合、後の戦闘でも行われたように兵力の逐次投入がされた可能性もあろうと思っています。したがって、連隊「全滅」というような事態に陥ったとしても不思議はないと思っています。
    >4
     たしかに、四行倉庫の場合も、日本側の兵力も死傷者数も、戦史叢書は黙して語っておりませんし、「日中戦争全史」にも記載がありません。ただ、その名が、陸海軍ともに戦史叢書に記載されているのが、異例なのです。つまり、それだけの激戦が行われたということであり、死亡者も多かったのかもしれません。また、海軍側の負傷者数が記載されているということは、陸戦隊も参加しているということです。したがって、「200人の死者が出たなら日本側の記録にこうも残らないのは不自然」ではないと考えています。

     第16師団ですので、この後の南京攻略戦になりますが、伯父が頭部に銃弾を受けて負傷しております。鉄帽を貫通したものの、頭蓋骨に沿って銃弾が半周したので一命を取り留めました。ただ、後送されて、広島の陸軍病院で長く入院していたそうです。そういう関係で、関心を持っている部分ですので、専門外ですが、つい、大量に書き込んでしまいました。御寛恕いただければ幸いです。
     
    hush


  6. 戦史叢書をしまい込んでしまい、掘り出すのに時間がかかり申し訳御座いませんでした。
    支那事変陸軍作戦(1)には「海軍特別陸戦隊は27日閘北一帯を占領し、これが掃討を完了した」とあり、
    四行倉庫については中国の「抗戦簡史」の引用文中に「この際我が軍の撤退援護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する八百の勇士はついに孤立となったが、命により撤退しかつ英国の好意により租界内に退入した」とあるだけです。閘北は第三師団の戦場の大場鎮/蘇州川とは5Km以上離れています。

    同中国方面海軍作戦(1)には「陸戦隊は27日0430総攻撃開始、1800頃四行倉庫に追い詰めた残敵100の外各部の残敵を掃討を完了、敵の損害 戦死630 押収兵器多数 我が損害 重傷3 軽傷24 四行倉庫の残敵に対してはその後包囲態勢を取り降伏勧告をしたが応じなかったので、31日0145 砲撃制圧する一方、0300突撃隊が突入、残敵を掃討した」とあります。

    之等から見て、四行倉庫は海軍陸戦隊の戦闘であり、仏租界の傍らのため大した戦闘は無かったと思います。

    hushさん、ご親戚の方がご参加でしたか、鉄帽に沿って弾が一周して命拾いした話は時々聞きます、海軍陸戦隊上海戦闘記(昭和7年)に旧型ですが鉄帽の写真が載ってました。
    私の義父も戦傷者で亡くなったとき1cm位の弾片が3個お骨と一緒に出てきたのを覚えています。

    poran


  7. 成る程陸戦隊主体での戦闘ですか…
    陸戦隊は小火器不足で35式海軍小銃やイ式などで埋め合わせてしたりと涙ぐましい努力をしてかき集めていた印象があります。
    それに初戦からの連戦で一層に消耗して兵力面で陸軍より不利な面もあったのではないでしょうか。
    ともあれ帝国陸軍が一蹴されたかの様な戦闘でも、また喧伝されているほどの戦闘と言うわけでもない様ですね。激しい戦闘であったのは事実ですが。poran様有難うございます。

    またhush様も、陸戦隊の情報を提示して下さりありがとうございます。私なんてからっきし第3師団しか頭にありませんでした。
    あと鉄帽の件、伯父様の貴重な話をありがとうございます。血縁にあの激戦の経験者がいるとは凄いことです。私には血縁には日中戦争従軍者は居ませんが、地元では第9師団の壊滅で多くの未帰還者が出ました。あまりの戦死者の数の多さに祖父は、「親父が軍隊に取られるかもしれないのが一番怖かった」と私に回想しました。実際にはそれは起こりませんでしたが、きっと戦死者のあまりの多さが「出征からの死」に凄まじい現実味を帯びさせていたと今になって思います。

    鉄帽に関してはまた別に質問をしたいと考えています。ありがとうございます。
    パンジャンドラム


  8. 海軍陸戦隊の装備は陸軍より良いのです。
    陸軍は終戦まで小火器を歩兵以外は自衛用にしか配備していません。(砲兵1個大隊に騎兵銃50挺程度)
    それに対し海軍は砲隊も二重装備で小火器を装備しています。
    スマイサー・ベルグマン等の機関短銃も伝令の装備として上海戦でも実用しています。
    昭和20年に陸戦隊の装備を見た陸軍参謀が吃驚した話も残っています。

    但し主に陸軍から兵器/弾薬を購入していた為、陸軍の都合で兵器が不足する事は在った様で三国同盟を機にイ式を訓練用に輸入したり、九九式海軍銃を豊川工廠で月産5000挺量産したりしてます。
    上海戦では(陸軍も同じ状況ですが)手榴弾が旧式の着発式だったため土質では殆どが不発で苦戦した様です。

    閘北の戦闘は、陸軍の攻撃が進展し中国軍の主力が撤退を始めてから攻撃に移っており、潰乱状態の敵への追撃戦ですから戦果の割に被害が少ないのは納得できます。
    poran


  9. >6
     丁寧な解説ありがとうございます。土日、いろいろとありましたので、お礼が遅くなりました。
     Google mapで確認しますと、たしかに「閘北は第三師団の戦場の大場鎮/蘇州川とは5km以上離れています」が、陸軍作戦(1)のほうには、お示しになった数行前に、「26日、軍は大場鎮を攻略し(中略)27日、蘇州河の線に到達した」とあります。
     もちろん、味方打ちを避けるためにも、閘北は陸戦隊の担当とするというというのは首肯できる話です。ただ、陸戦隊のみであるとするのなら、死亡者0というのは、中国側が話を大袈裟にしたとしても、あまりに違いすぎるように思うのです。
     そうした時、「蘇州河の線に到達した」陸軍は、一切、何もしなかったということがあるのだろうかと思うのです。しかも、件の四行倉庫の戦いは、陸軍がその「蘇州河の線に到達した」27日に始まっているのです。
     もっとも、そのあたりを検証するには材料がありませんし、推定を重ねる話につきあわせるのも迷惑かと思いますので、このあたりで打ち切ろうと思っています。素晴らしい着眼点をお示しいただいたことに感謝申し上げます。

     なお、 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/CrossSearch で、戦史叢書は公開されておりますので、付記いたします。

    >私の義父も
     末筆ではありますが、ご冥福を祈念いたします。
     
    hush



222 樺太の戦いにおいて、樺太の住民救出に参加した海軍艦艇をよろしければ教えてください。
日向

  1.  海軍艦艇となると特設砲艦の第二号新興丸ぐらいではないでしょうか。
     
    hush


  2. 回答有難うございます。


    日向


  3.  「証言・南樺太最後の17日間」(光人社NF文庫)の314ページに特設敷設艦高栄丸、機雷敷設艇石埼が敗戦直後に緊急疎開に参加したとありましたので追記します。
     大湊警備府には機雷敷設艦となった旧装甲巡洋艦常磐や駆逐艦がおりましたが、直前の大湊空襲で擱座しており、行動可能な艦艇は少なかったと思われます。
     
    hush



221 普仏戦争でプロイセン軍はフランス軍を開戦後40日余りで降伏させていますが、フランス軍の兵士は長期勤務の職業軍人だったのに、プロイセン軍は短期の徴集兵でした。
マクニール『戦争の世界史・下』によると、プロイセンの予備軍は「民間人が軍服を着ているに過ぎず、訓練と規律はフランスの長期勤務兵の部隊の水準にはとうてい及ばない」と書いてありました。
また、フランス軍はプロイセン軍のドライゼ銃より射程の長いシャスポー銃を装備していました。
プロイセン軍は兵士の質や装備で優れたフランス軍をどのような戦術で破ったのでしょうか?

PIAT

  1.  補足します。
     プロイセン軍は参謀本部が練りに練った作戦で鉄道を活用し、いち早く戦場に多くの兵士を送り込んだし、クルップ製の鋼鉄製後装砲はフランス軍の大砲よりはるかに優秀だったので、フランス兵は戦場に着いた段階ですでに不利な状況でした。
     しかし、フランスの古参兵ならば、塹壕を掘って砲撃をやり過ごし、射程のシャスポー銃で敵兵を狙撃する戦術が取れたと思います。
     
     プロイセン軍は歩兵戦闘でもフランス軍より優れていたのでしょうか?
     それとも、作戦と大砲の優越が歩兵の不利を補ったのでしょうか?
     

    PIAT


  2.  Wikipediaの「普仏戦争」の中に「ドイツの勝因」という項目がありますので、一度、お調べになってはどうでしょうか。
     
    hush


  3. hush様 wikipediaを調べてみました。
     
    『ドイツの勝因』は「参謀幕僚制・国民皆兵・動員制度・フランスの外交的孤立・武器」が挙げられており、武器については、小銃はフランスが上回っているが、大砲はプロイセンの方が射程・速射性ともに上回っており、フランスのミトラィユーズ機関銃は有効ではなかったと記載されていました。
     
    『プロイセンとフランスの軍事力』では、「フランスの戦術はシャスポー銃を使って塹壕戦を防御的に戦う事を重視していたが、ドイツ軍の戦術は包囲の形勢を作ることと、可能な限り常に砲兵を攻撃的に用いることを重視していた」との記述がありました。

    PIAT


  4.  私が普仏戦争にこだわる理由を申し上げます。
     
     プロイセンは人口・富・(当時の発想では)兵士の質でフランスに劣っていたのに、軍隊のありかたを根本的に変えることにより勝利しました。
     人口が減り、経済も衰えている日本の再生のヒントになるのではと考えました。
     日本では高齢者や主婦を労働者として活用することが必要になると思いますが、精神論では優秀な労働者にはなりません。
     「軍服を着た民間人」を世界一の精鋭にした方法を知りたいと思っていますので、資料の紹介もお願いします。
     なお、渡部昇一『ドイツ参謀本部』は持っています。
     
     

    PIAT


  5. >>3、>>4
     えっと・・・ご自分で書いててドイツ軍が勝つのが当たり前だったとは気づけないんですかね?
     逆にフランス軍が勝てた可能性を考える方が難しいように思えます。

     部隊を敵よりも高速で機動させて包囲を狙うのは野戦では当然のことですし、それを実現したほうが勝ちます。というか、それをいかに実現するかが参謀の仕事なわけで、それを実現できなかった側に勝利を期待するのは無理です。
     塹壕を掘って籠るのは籠城戦と同じで機動力を自ら捨てる行為であり、一部の部隊がそれによって敵を拘束して他の部隊で敵を逆包囲するというような場合を除けば、基本的に悪手です。
     ましてや歩兵の小銃がいくら優れようが敵砲兵を圧倒するなんてできるわけもありません。一つの兵器が優れているからというのは戦争の勝敗には期待するほど影響しません。

     実際、ナポレオン率いる大陸軍が他の欧州列強に勝利し続けたのも、兵器の性能云々ではなく部隊を高速で機動したからです。
     プロイセンは彼らに敗れてそのことを学び、フランスはそのことを忘れた・・・極端に大雑把に言ってしまえばそれだけのことのように思えます。
    おうる


  6. 普仏戦争、普墺戦争に関して時間がある時にでも
    https://ncode.syosetu.com/n3872bm/
    上記のサイトを読んでみるのも一興かも

    まさのり


  7. そもそもとして、シャスポー銃、意外と大した事なかったみたいですよ。
    当時の小銃でずば抜けて高性能などと評す向きもありますが、極めて脆弱と評される雷管固定法により、不発が多く軍用銃として信用なりません。
    軍用銃たるもの、兵士の命を預かるものです。ここぞという時に弾が出てくれなくては。
    確かに、イタリア兵や暴徒と化した市民を殺戮するだけの見るべき性能はあったでしょう。
    しかし、同じくボルトアクション同士、つまり本家ドライゼ銃と交戦したとしても、必ずしもシャスポー銃が優位に立ちません。むしろ私はいくらかの長射程よりも、シャスポー銃よりはまだ弾が出てくれるドライゼ銃に軍配が上がったのは必然であると考えています。
    以上、別の視点からの書き込みでした。
    パンジャンドラム



220 クルスクの戦いにおいて、「砲兵から見た世界大戦」という本には「ドイツ軍の攻撃開始直前に行われたソ連軍の対砲兵戦でドイツ軍砲兵が相当数やられ、ドイツ戦車部隊は火力支援を充分に受けられず、突破に失敗した」となっていますが、ウィキでは「若干の損耗と攻撃開始が少々遅れただけ」と大したことなかったように書かれています。
 実際、ソ連軍の対砲兵戦でドイツ軍にどのくらいの損害が出たのか、具体的な数字があれば教えてもらえないでしょうか?

REW

誰か答えて下さい。

219 日本軍鹵獲機秘録によると「1945年(昭和20年)2月27日に台湾空襲に飛来した第5航空軍第35戦闘航空群第40戦闘飛行隊所属のラルフ・R・ハートレイ中尉操縦のP-47Dが日本軍の集成飛行場所属の四式戦「疾風」に撃墜されて豊原郊外に墜落したが、ほぼ原形に近い形で鹵獲された」だそうです。
この時の空中戦闘はどの様なものだったのでしょうか。第47戦隊はその少し前のジャンボリー作戦でも戦果を挙げている様ですが。
パンジャンドラム

  1.  お求めのものに一番近いのは下記ではないかと思います。もちろん、私に内容を理解できる能力があるはずができませんので、読解はお任せします。
     http://taiwanairpower.org/blog/?p=5295
     なお、同中尉は捕虜となり、台北で日本軍に処刑されています。
     
    hush



218  日本では手裏剣術は武術の一つとして認められていますが、欧米ではナイフ投げはフェンシングや棒術のような武術として認められているのでしょうか?
 
PIAT

  1.  映画やテレビのアクション作品ではよくナイフ投げの名人が出てきます。
      西部劇:荒野の七人 OK牧場 エル・ドラド
      戦争物:特攻ギャリソンゴリラ ランボー エクスペンダブルズ 
     小説では007によく出てきます。
     ジェームズ=ボンドは(スメルスシュの資料では)ナイフ投げの名人であり、携帯している書類カバンには刀匠ウィルキンスンの鍛えになる平たい投げナイフが仕込まれています。
     また、スペクトル一味が立てこもるピズ=グロリアを襲撃した私設特殊部隊のメンバーはシュマイザー=サブマシンガンと「使い込んだ投げナイフ」で武装しています。 

     しかし、サーカス以外で実際にナイフ投げを見た記憶はあまりありません。
     ナイフ投げとは実戦で使えるのでしょうか?
    PIAT


  2.  この質問は板違いではないかと自分で思ったので、補足します。

     Wikipediaによると、徳川慶喜は手裏剣術の達人だったそうです。
    『最後の将軍』によると、徳川慶喜は投網が上手かったとのことですので、物を投げるのが得意だったのでしょうか?
     欧米の軍人や武術家でナイフ投げの名人はいたのでしょうか?
     (剣豪)シラノ=ド=ベルジュラックや、近接格闘を創始したフェアバーンやアップルゲイトはナイフ投げをやらなかったのでしょうか?
    PIAT


  3. すみません。 
    少し酔っていたので、取り止めのない文章になってしまいました。
    PIAT


  4.  ナイフ投げが武術として認められているかということですが、これは回答のしようがありません。武術という概念が日本のものであり、欧米にはそういうものがないからです。たしかに、武術を調べるとmartial artsという英語が出てきますが、これは武芸を直訳したもので、東洋風の格闘技として関連づけられることが多い語です。また、マーシャル・アーツというと、日本では別の意味で使用されることが多いです。
     また、フェンシングは、銃砲の発達により剣の存在意義がなくなった19世紀にスポーツとして発生したものです。そして、英語のスポーツという言葉は、チェスやビリヤード等も含んでいます。つまり、日本語と欧米の言葉は、示す範囲が違っており、意味合いも違っているわけです。
     そういうことを踏まえていただいた上で回答しますと、格闘戦においては、ナイフ投げはほとんど意味はないと思っています。せっかくの武器を投げ捨てることになるからです。
     実際、名前を出されているフェアバーンの開発したナイフは、握りにくびれがついています。正確に握れること、つまり、滑らないようにしてあり、ナイフの保持には注意を払っていても、投げることはあまり考慮されていません。これに対し、投げナイフは、目標に命中したときに折れないように焼き入れが甘く、切れ味がほとんどないのが特徴です。もちろん、戦闘ナイフはそのようなことはなく、切れ味が重視されます。
     したがって、ナイフを投げるというのは、火急の場合となりますが、これとて、拳銃のほうが有効性が高いのは論を俟たないと思っております。そのようなものをわざわざ練習し習熟しようというのは、おかしな話です。
     ところで、スペツナズ・ナイフという刀身を発射できるナイフがあります。これは、ソ連の特殊部隊であるスペツナズが開発したとありますが、実際にはそうではなく、制式の装備品でもなかったそうです。そこからも分かるように、戦闘用の投げナイフはフィクションの中でのみ活躍するものであり、実際の戦場ではそのようなものを試す機会はほとんどなく、兵士の慰み物程度の存在でなかったかと思っています。
     
    hush


  5.  「欧米には武術という概念がない」というのは驚きました。
     日本では「剣禅一如」などと言って戦闘技術と哲学・教育を組み合わせて武術と呼んでいますが、欧米では、スポーツでなければ技術なのですね。
     そういえば、ナイフ戦闘をテーマにした映画『ハンテッド』・『殺しのアーティスト』では名人は弟子に精神的なことを全く言いませんでしたね。

     『忍者』と同じく『ナイフ投げ』もフィクションの産物でしたか。
     昔、アメリカ製のダガーナイフを持っていたことがありますが、説明書に「決して投げてはいけない」と書いてあったので、予想はしていましたが、ちょっと残念です。

     スペツナズナイフは戦争アクション小説の名作『樹海戦線』や『真夜中のデッドリミット』に登場していたので、ソ連の秘密兵器だと思っていましたが、そうではなかったのですか。
     当時はソ連のアフガン侵攻などでスペツナズが注目されていたので、頭のいい商売人が考え出したのでしょうね。
    PIAT



217 太平洋戦争において日本陸軍は映画で見られるように無理な突撃で勝機を逃したのでしょうか?日露、第一次大戦で近代戦は学ばなかったのでしょうか?それとも報道規制で実は善戦していたとか。
大鳳

  1.  島嶼戦においては、水際撃滅を基本として、縦深防御を行っています。無理な突撃というのは、いわゆるバンザイ突撃なのでしょうが、それは、これ以上の持久戦を行っても餓死するという場合の最終局面において行われています。
     日本は、勝てるはずもない相手に戦いを挑み、必然として敗れたのであり、勝機も正気もなかったことは、インパール作戦に参加した私の叔父達が証明しています。
     また、もしも善戦をしていたならば、当然、それを大々的に報じるはずですので、それがきちんと伝えられなかったというのならともかく、報道規制云々はありえません。
     
    hush


  2. バンザイ突撃は、hushさんの仰る通り。
    自決する為の突撃です。自分が見た記憶では、ピストルで突撃。軍刀で突撃。棍棒で突撃。機関銃やらライフルやらで防御している陣地にこれで突撃するのです。

    無謀な攻撃というと、日露戦争。
    ロシアの南下政策に対抗した物でした。
    ここで、負ければ次は本土戦も有りえた訳です。


    次ぎがノモンハン。
    日中はソ連の機械化部隊に押され、夜間は日本兵の突撃で陣地を取り戻したそうです。ジュ―コフ元帥をして、WW2最悪の闘いだったと言わしめています。
    当時は、日本の負けと云われていましたが、情報公開によりソ連の損害が日本の損害を上回っているのが分りました。

    この後、日中立侵条約が結ばれました。
    これって、大きい成果じゃないでしょうか?
    対独戦が有りソ連も望む所で有ったろうかと思いますが。

    今日、戦史等で、当時の彼我の状況等、分る様になっています。
    今では、無謀と断言する事が出来るのだろうと思います。

    が、しかし、当時の前線の指揮官はどうだったのでしょう。
    暇人


  3. >>1
    質問者様が聞いておられるのは、末期の自殺的な所謂バンザイ突撃の事ではないのでは?
    お答えすると、太平洋の島嶼において、ガダルカナル島での一木支隊や第二師団攻撃など、日本軍の突撃が「無謀」にも取れる様な様相を呈していたのは、地形によるところが大きいのであります。
    狭い島嶼ではうまく散兵できないんですよ。
    ああいう地形では一個大隊がギュウギュウに詰まって突撃せざるを得ません。
    これでは一網打尽にされるのは察しがつきますよね。

    これが、広い大陸での「突撃」との違いです。
    仮に広大な野戦での突撃でしたら、突撃を迎撃する火力密度は数十分の1に、かつこちらの散兵は本来の広さを取り戻しますので、成功するわけです。
    パンジャンドラム


  4. 「うまく散兵できない」なんてことはありません。
    陸軍の歩兵操典は典型的な散兵戦術の操典です。散兵と散開を勘違いしているのでしょうけれども、この場合の「散開」も正しい使い方ではありません。
    BUN


  5. 無謀な突撃と呼ばれるものも、よく分析すれば支援火力の欠如が失敗の要因であるケースが殆どです。本来なら用意されているはずの火力が、その戦場ではどうして無かったか、そこが調べるべきポイントでしょう。
    ガダルカナル島が狭いから、なんて話ではないのです。

    BUN


  6. 回答ありがとうございます。
    粘り強く相手に迫る方法はなかったのかと思いまして
    防備状況の認識誤りと不充分な
    援護のもと攻勢を
    始めたということでしょうか?
    日露戦争の白襷隊のようだった?
    大鳳


  7. 一つの戦闘を眺める時には評論めいた結論ありきの見方を極力遠ざけて、ひとかたまりに見えてしまいがちな戦いを幾つかのフェイズに分けて考えて行くと新たな発見がきっとあります。
    あれはダメな見本だと決めつけず、その時に何ができ、何をしようとして、何を試みたのか。そしてそれが失敗した後に何を改善して、どうやってみたのか。そうやって追って行くのです。
    一木支隊に何が起きていたのかも、そうやって見て行くと段々と解って来ますよ。

    BUN


  8. それから、敵の防御が堅ければ何とか敵弾を避けてジリジリと迫って行ければいい、と思うでしょうけれども、当時の日本軍もそう考えていて、戦訓としてガダルカナル島ではこうだったようだが、自分たちは敵の火点まで這い寄って手榴弾で仕留めている、といった報告も上がっています。
    我々が何となく考えるようなことは当時の前線でも概ね考えていたのです。
    BUN


  9. >>5
    開けた野戦とは異なり、ジャングルや海岸での戦闘、錯綜した山奥などその常識が通じない様な場所です。歩兵操典は典型的な散兵戦術の操典ですが散兵の取れない戦域での戦闘をあまり現実的に想定したものではない様に思えます。
    やむなく半ば密集隊形の様な形で突撃していたと推測します。敵前上陸作戦とかもセオリー通りにはいけない事が多いですね。二個師団が全滅した上海戦は割と知られた話でしょう。
    ザ・パシフィックのガダルカナル編はご覧になっていられると思います。あれはドラマですが。しかし有名な日本兵の横たわるイル川砂州の写真を見るとあの川を千人弱が渡河すれば散兵の体を成していなかっただろうとさえ思えます。あの折り重なる様に斃れる将兵の亡骸を見るに、固定されたキルゾーンに入った順番にバタバタとやられてあのようになったのでしょう。
    もちろん支援火力の欠如も大いにあります。しかし地形の制約が本質ではないとされると少しもんにょりします。
    いくら火力のある、例えば広大な突破正面を是とするソ連軍だって沖縄戦に放り込んでは前の人のケツに銃剣が刺さるレベルでしょう。
    火力もあって十分広がれてこその大陸での突撃との違いがあるのでしょう。
    この様にやはり限度というものがあると思われます。
    パンジャンドラム


  10. あ、しまった、酔いのせいでよく読んでいなかった。誤用に関しては訂正します。
    ○列横隊とか○列縦隊などの密集隊形を組んだ陣形は散兵戦術のそれを外れているとの認識でしたが、確かにガダルカナルでは兵員がすし詰め状態とはいえこれといってそれらの陣形を意識したものではありません。散兵云々は私の飛ばしです。
    ともあれ兵員の密集度合いなるニュアンスを汲み取っていただければ幸いです。

    105mm榴弾の威力半径は29m程度でしょう。敵砲兵一個中隊6門程度の火力で密集した一個中隊を壊滅させるのに苦労はいりません。
    まぁこの時の一木支隊のうち200名を死傷させ撃退に大いに撃退したのは、重機関銃要員であるリー・ダイヤモンド伍長、ジョン・リバース一等兵とアルバート・シュミット二等兵の3名だったりするんですけどね。
    ともあれ機関銃弾、キャニスター弾、迫撃砲・榴弾の雨あられに対しては、密集していては命はありません。

    パンジャンドラム


  11. 「密集」がそもそも思い込みですよね。
    BUN


  12. まぁ映像作品は演出上多数の兵士を画面に収めなきゃいけないですからね…多少は誇張も含まれるでしょう。
    とはいっても、たった3名の海兵隊員に200名が殺傷される異常な事態は火力の優劣で一蹴できる様な問題ではないでしょう。
    痛々しくも重なる様に無残に斃れる皇軍将兵の亡骸を見ると、私はもうそうとしか言えません。
    やはりよくある、僅かな機関銃巣の前にすら密集状態の集団が無力である事例の典型的な一つでしかありません。
    支援火力とて、無数に点在する火点を発射前にしらみつぶしに制圧する事は不可能ですから、あまり過度な期待はできません。

    パンジャンドラム


  13. あと「ガダルカナル島は狭い」というのはちょっと解釈が違うと思われます。
    ガダルカナル島はそこそこ広いです。地形が悪いと言っているのですが、私の表現が悪かったでしょうか。大半がジャングルに覆われた中で加農が届く様な距離の飛行場を奪い合うのですから、戦域が狭いのです。イル川の写真を見てください。あれのどこが広いですか。
    戦域が狭いから、こちらの兵員の密度も高く、かつ敵の火力密度も高くなる、敵の穴も見つけようにも見つからない、攻める側にとってこれほど不利な要件はありません。
    件の日本兵の遺体の山の様に重なる写真をどの様にお考えでしょうか。

    戦域が広いと、それだけで火力密度が低下するのはいうまでも無いでしょう(ソ連が広大な突破正面当たりにどれだけの火力を用意しなければならなかったかも知られている話です)
    それに広ければどこから仕掛けてくるか分からない上に、広いとその分だけ防御が手薄になりますから、迂回や突破点を作るのがまだ容易(狭ければもっと強固な防衛戦を作られてしまいます)
    大陸の日本軍は必ずしも火力に優っていたか??とは言えませんよね。中国軍の機関銃・迫撃砲の凄まじさは日本軍が身をもって体験しています。広大な大陸で中国軍に対し夜陰に紛れて行動し、戦闘群(半小隊)単位での疎開戦闘を進めたのだと思われます。
    日本の月産の砲弾を1日で使い切る様な準備砲撃や火力支援をしても、トーチカの破壊には至らず壊滅的に被害を受け撃退されたWW1のイギリス軍なんて事例もあるのですから、火点はなるべく多くを避けて通るに努める越したことはないと思われます。戦域広いとそれだけ間隔も広がり穴も作りやすいと思うのですが…。
    なので密集とはその一つに過ぎません。戦域の狭さこそ突撃失敗の要因の一つでしょう。密集するしない以前にあの突撃はする前から失敗が決まっていたと思います。狭いと守備範囲も狭くて済むんですから。極端な例え話ですがあの場所が十数倍に開けていれば、日本軍は安易に侵入を済ませた事でしょう。
    パンジャンドラム


  14. 一木支隊の闘いは攻撃と捉えていましたから書きませんでしたが無謀な攻撃だったと思います。

    正確な情報が得られていなかったのが大きいのかと思いますが、指揮官の判断を疑う所が多々有ります。

    まずは、戦力が結集する前に攻撃した。
    次にイル川を越えていった斥候将校の殆どが戻らなかったのに進撃した。

    更に、敵に押し戻されたのに再度、イル川を越えようとした。これに寄って敵に後方に回り込まれて壊滅したかと思いますが。
    暇人


  15. 連投失礼します。
    単刀直入に例えると、扶桑型戦艦のバイタルパートが広くて装甲が薄くなるのと同じですかね。
    陸戦でも戦域が広いとその分敵の防御も手薄になる(その分より多くの兵力を必要としてしまう)、考えるまでもありませんよね

    >>14
    一木支隊長は指揮官としての能力を疑うところではありますが、そもそもフィールドが海兵隊有利だったと言わざるを得ません。ジャングルが多く、攻撃可能な正面が狭過ぎます。
    確かに後から見れば戦い方も褒められたものではなく、それに続く川口支隊の様に、やはりジャングルを迂回して虚をつくべきでした。
    本来なら三部隊に分散して別々の三方向からの同時打撃すべきで、それぞれがお互いの陽動であり弾除けであります。攻撃地点は多ければ多いほど敵はその対応に追われますから好ましいです。
    しかし必ずしも正確とは言えない測量と劣悪な通信環境をもってして、ジャングルで多くの部隊は方角を見失い攻撃は大失敗に終わります。こちらも作戦としてはいくらか褒められたものでは無かったでしょう。とにかくジャングルさえなく、抜け穴は大いに越したことはありません。

    有り得ない話ではありますが、これが果てしない平野での戦闘であったなら、いくら火力をもってしたところで海兵隊の砲弾・機関銃弾が尽きるのが先です。広い平野にいくら砲弾を落としたってポツポツ雨にしかなりません。
    日本軍の攻勢正面が狭いから、迎え撃つあの程度の火力でも「密度が高かった」んてす。トータルの降水量が大したことなくても、局所的に降ったらどうでしょう。関東全域に雨が降ったとして、その全てを東京にのみに振り注げれば15倍にもなりますよ。簡単な話なんです。

    海兵隊の火力は大した事なく、あの狭い範囲に砲兵・歩兵砲を集中できたからこそ高火力と成せたのです。
    とにかく太平洋のこんな島が、日本軍の想像を遥かに超えていたという事です。
    本来なら海兵隊相手にこの様な負け方はしないところです。
    パンジャンドラム


  16. >15
    自分が餓島戦に思ったのは、海岸線沿いに押せなければ、他でも同じだろうでした。

    迂回した物の、重火器は送れず。兵士は疲弊。
    連絡の取り決めが悪かったのか、突撃のタイミングが合わずに壊滅。

    これって、要するに、ヘンダーソン飛行場の影響力が弱まるとか、我が軍の兵站がまっとうに機能出来れば出来たのでは無いでしょうか。

    ガ島戦は、攻められてからは終始敵軍有利だったと思います。
    ヘンダーソン飛行場の無力化が出来なかった事と、兵站が出来なかった事こそが敗因と思っています。
    暇人


  17. 各位

    後から知られた情報に基づいた「ああすれば良かった」論は意味がありません。
    物事の検証のやり方そのものが間違っていますよ。
    BUN


  18. 陣地の構築はただ漫然と火点を置くだけでなく、火点の前に敵が誘導されるように障害を置きキルゾーンを設定するところから始まります。
    これを大規模にやるか、既成の地形や建造物を利用するか、は程度の問題でしかなく、密集隊列で突撃(第二次世界大戦ではあり得ませんが)しても散開隊形で突撃しても上手な陣地は同じように作用します。
    広がれたから良い、ということはありません。
    広がれば個々に制圧されてしまうだけのことです。

    BUN


  19. いえ、本来ならば3人の海兵隊員に200人が殺傷される様な日本軍ではありませんが。
    やり手な防衛線構築能力の米軍を更に厄介にする正面の狭さを見逃す事は出来ません。むしろこっちの方が本質でしょう。
    あれだけのスコアを出すからには米軍の戦術に加えて日本軍の状態も無視出来ません。
    やはりイル川でなく果てしない平原ならあの様な戦果を期待するのは難しいでしょう。
    広野にいくら弾を落としても、ポツポツ雨にしかなりません。ソ連軍がどれだけの広大な正面で単位面積当たりを確保する為にどれだけの砲兵火力を必要としたかは知られている話だと思うのですが。弱体な海兵隊一個師団にそれができましょうか。
    あれが十倍あれば十倍の時間か十分の一のクオリティしか出せないですし、防衛線が伸びればそれだけ敵の防衛線の大半は空振りに終わりますよ。
    敵が上手かどうかとは独立している要素ですので、同様の作用は期待できないでしょう。あくまで上手な敵を更に厄介にする正面の狭さです。
    パンジャンドラム


  20. BUN様も防衛線の規模に関して、「程度の問題」といくらか拍車をかけた事を認めるところなのですから、見る側の視点の違いによるものだと思われます。
    私も、海兵隊がいくらか「火点の前に敵が誘導されるように障害を置きキルゾーンを設定」していたり、防衛線構築に関して上手な事は認めた上で、本質は正面の狭さにあるとしているわけです。別に海兵隊が米陸軍やドイツ軍ソ連軍日英軍などのそれに比べていかに上手いか?、はあまりも一概に言える問題ではないですし、そもそも防衛戦闘に関してその様な事は当然のごとく行われる、セオリー通りのものであります。だから特筆して海兵隊が一枚二枚上手だったとはならないでしょう。
    一方攻勢正面の狭さに関しては、今更考えるまでもない、ただの一般論です。偉そうにいっていますが、本当に常識レベルの大したことない話を私は大真面目にしているに過ぎません。満州獲得に際して、日本がかかえた8千キロの国境線が如何に守るのに苦しい長さとされていたかは、それこそ全有識者の認めるところであり反論の余地が見出せません。
    パンジャンドラム


  21. ぜんぜん違います。
    いい加減な調べ方で決めつけてはいけません。

    一木支隊の攻撃は海兵隊の防御線に突き当たった最初の段階で鉄条網で封じられた砂洲を通じての攻撃を行い大損害を出した後、しばらく間を置いて支援火力と共に迂回攻撃を試みたことが海兵隊の記録から読み取れます。
    それが撃退された後に、海兵師団が最も危惧していた複数方向からの攻撃が無い、と判明し、海兵師団の支援砲兵(105o榴弾砲ではなく、海兵隊の75oパックハウザーです)が一木支隊に対して集中砲撃を開始したことで一木支隊の攻撃は完全に頓挫します。
    そこから海兵隊戦車隊の主力が渡河を開始してかなり慎重な迂回包囲を試み、さらに戦車隊の予備部隊が一木支隊残余のいる海岸沿いの林に蹂躙攻撃を開始したのです。
    一木支隊は攻撃の第一波、第二波までは組織的でしたが、それ以降は動きが極めて鈍く、そのまま夕刻までに現地点をほとんど動かずに全滅しています。
    これは一木支隊の指揮機能が早期に失われたことを示しています。
    一木支隊はもともと攻撃が無理であれば持久して後続を待つことが許されていた部隊です。
    攻撃失敗が明らかになった時点で後退、持久に切り替えられなかったことはそれ以前の何処かの時点で指揮機能が失われていたことを示唆しています。
    攻撃中止を命じられるほぼ唯一の存在だった一木大佐の戦死が疑われるのはこのあたりです。

    このような戦闘の経緯がありますから、攻撃正面が大陸の戦場に比べて狭い、広い、といった問題ではありません。
    兵力差があること、火力差があること、それを認識した時点で一木支隊は動けなくなっているのです。
    こうした戦闘はガダルカナル島に限らず、何処にでも発生する可能性のあるものなのです。
    BUN


  22. ですから二度の攻撃が頓挫した時点でもう正面の狭さの弊害が存分に出ていると思いませんか。
    大陸の戦場で如何にして日本軍は大軍を打ち破ってきたか、兵力や火力に優っていましたでしょうか。
    一木支隊の「無謀な突撃」は戦車隊の蹂躙攻撃以前から始まっているのですよ。
    一木支隊の壊滅原因は間違いなく指揮機能の麻痺にあった事は正しいでしょう。しかし一木支隊の敗北の本質はその指揮機能を失うまでの攻撃の過程にある筈です。
    なぜ3名の海兵隊員に200名が殺傷されたか。
    後の第2師団総攻撃で、ジョンバジロン軍曹率いる重機隊に多数の兵員が死傷させられた件もそうです。
    ガ島戦を総括する上でこれらの「なぜ」を無視する事はできません。

    因みに戦車隊の蹂躙に関してですが、一木支隊の片側は海なのです。海の方には迂回できませんし逃げられないのです。もう片側から後ろに回られたら逆回り以外に逃げられないのは当然です。あそこの海岸地帯がもっと広ければ一木支隊はいくらかそっち側に開けていたでしょうしいくらかの脱出もあり得たかもしれません。海岸という地形で攻める以上結果は同じですが。
    実際の戦場における戦闘というのは勿論「戦場」に大きく左右されます。
    海岸と平原、戦場が違えば結果はどうあれ二度として同じ経緯など断じてあり得ません。
    パンジャンドラム


  23. 仮に指揮系統が健全で攻撃を中止しおめおめと引き返したとして、結局、「イル川渡河戦」としては失敗で仕切り直しをはかるだけの事に変わりはありませんから、「突撃の失敗の原因」ではないわけです。指揮系統の状態いかんに関わらず。引くか引かざるかの違いでしかありません。
    そこからイル川渡河戦の突撃の成功につながるわけではありません。
    失敗の理由を求めるには遡る段階が後過ぎます。
    その後の壊滅があるかないかで質問者様のいう「無謀な攻撃」度合いがどれだけ軽減されるのでしょうか。
    もっと遡って言えば、あの狭い海岸を伝って攻める時点で、一木支隊の攻撃に活路はないと言っているのです。だからフィールドが大切なのです。
    広範囲で、かつ複数方向(努めて三方向以上)の突撃でないと難しい。
    ガダルカナルではそのどちらも困難を極めるのですから、勝算がない以上「こうすればよかった」とかいう話ではないのですよ。あの戦いを振り返って、攻めるには難し過ぎた島だと総括するのみです。
    パンジャンドラム


  24. さしでがましいとは思うのですが、これ以上は議論ボードへ行かれた方が良いのではないでしょうか?
    本来の質問への回答も出そうにありませんし、質問者さんも困ってると思うですよ。
    がちょう


  25. その通りです。
    BUN


  26.  >パンジャンドラムさん 

     たくさんの参考になる御意見ありがとうございます。
    板野ファン


  27. ご回答ありがとうございます。
    多くの方から意見を聞けて大変参考になりました。
    知識が高まりました。ありがとうございます。

    大鳳



216 戦場掃除に関して質問します。日露戦争旅順攻略時などでは定期的?に休戦してまで戦場掃除(遺体回収)しています。日華事変や大東亜戦の戦記でも洗浄掃除について戦記に書いてありますが、第一次大戦などの会戦では桁違いの戦死者がでています戦場掃除はどのように行われていたのか資料なるような書物とありませんか?
my

  1.  アジア歴史資料センターで戦場掃除を検索し、1914年から20年で絞り込むと3点出て参りますが、うち1点は日露戦争の回想のようです。
     一時大戦で旧日本陸軍が戦闘に参加したというのはあまり多くはありませんが、一応、実施はしていたということでありましょう。
     もっとも、御質問が一時大戦時の欧州戦線を想定されたものでしたら、あまり役に立たない回答だと思いますが、戦場掃除の訳語が不明ですので、お許し下さい。
     
    hush


  2. https://youtu.be/oBrb2qPrpnA

    ガリポリ戰の例です
    あるめ



215 お世話になります。出典がはっきりせず大変申し訳ないのですがよろしくお願いします。塩野七海さんの作品なのは間違いないのですが、おそらくロードス島攻防記だと思います。その中にこのような記述がありました。「 ベネチア共和国海軍軍艦にはその軍艦を設計した設計技師が必ず乗艦する」です。
理由として損傷した場合に備えてとありました。
そこで質問なのですが、このようなことをして設計士の損失にはつながらなかったのでしょうか?
海戦に臨むという事は当然戦死したり負傷したりすることがあります。
熟練の設計士の損失は海軍にとって痛手だと思うのです。
そのような設計士を100人も200人も海戦に投入するというのは当時としては普通のことだったのでしょうか。
74式

  1. 「ロードス島攻防記」第四章より

    「ヴェネツィア共和国のエンジニアならばごく当たり前のことなのだが、築城技師でも造船技師でも、彼らが設計し建造した段階で、技師の仕事が終わったわけではない。船をつくった技師は、海戦に向かうその船にともに乗りこみ、航行中や戦闘前後の修理修復の、いっさいの責任をもつことになっている。」

    「設計技師」ではありません。乗り込んだのは多くの場合「造船技師」です。上級の「船大工」と言っても差し支えないかもしれません。

    職種がそこまで分化しておらず、設計士と船大工の境界は曖昧でしたから設計者が出陣した例もあるでしょうが、全くの新基軸の設計(ガレアス船など)が参戦する場合以外は、造船所の設計主任に当たる人物は、そうそう前線まで出てこない場合が多いです。そもそも人数がそこまで居ません。

    ただ、技官を乗せるというのはヴェネツィア共和国が特別なのであって、普通ではありません。というか他の国ではジェノバなどのイタリア都市国家以外には不可能でした。


    タンジェント


  2. タンジェント様
    乗艦していたのは造船技師だったのですね。本書を読んだのがかなり前でしたから、記憶が曖昧になっていました。申し訳ありません。やはり、設計主任ポジションの技師はそうそう前線には赴かないんですね。私もそんなにたくさんの設計士が前線に赴くと言うのは現実的なのか、と疑問に感じていました。長年の疑問がとけて大変助かりました。本当にありがとうございます。
    74式



214 以下の話を聞きましたが、史実ですか?
アメリカ海軍情報部は暗号を解読し、連合艦隊山本五十六が前線視察に出かけることを知った。
海軍情報部は司令部に対して「山本を殺害すべきか」と打診した。山本の後任により優秀な司令官が代わることを恐れたのである。
司令部は「ミッドウェイ海戦で山口多門が戦死しているから、もう優秀な軍人は残っていない。山本を殺害せよ」であった。


park12abc

  1. この話の出典を教えて下さい。
    UK



  2.  2010年の「週刊文春」に作家の保阪正康がそのように書いているというのは、Wikipediaの「海軍甲事件」の項に記載されていますが、本文を読んでいないので、どのようなソースに由来するものかは分かりません。
     したがって、これが史実かどうかなどということは存じませんが、そこに疑念が生じる余地があるとすれば、なぜ、戦後も60年以上経ってから出てきたのか、なぜ、山口多聞なのかということなのだろうと思っています。
     ただ、保坂は当事者への取材に重きを置く作者ですので、取材していく中で聞いたのだろうと思います。また、山口はプリンストンに留学しておりましたので、アメリカ国内に知人がいても不思議はなく、名前が挙がっても不自然ではないと考えております。
     
    hush


  3. UK様
    早速のご回答ありがとうございます。
    出典は、文藝春秋の10月号で、保坂正康が”昭和の軍人に見る「日本型悪人」の研究”のなかで記述しております。質問はその一部を要約(つもり)しました。
    暗号が解読されていたことは知っていましたが、下の2項目は初耳(不勉強で)でした。
    1.海軍が山本の後任を注意・警戒していた。
    2.海軍が山口多聞を優秀だったと評価していた。
    park123


  4. hush様
    早速のご回答ありがとうございました。
    1.<保阪正康>が以前同一の内容を書いていたのですね。
    2.<なぜ、戦後も60年以上経ってから出てきたのか>が不思議ですね。特別な資料でも見付けたのでしょうか。
    3.<山口多聞はプリンストンに留学しておりました>のですね。アメリカで知られていても不思議ではないのですね。
    park12abc


  5.  鄭重なお礼をいただき、恐縮しております。
     もう一つ付け加えると、山口多聞は在アメリカ大使館付海軍武官を勤めております。つまり、ハーヴァードに留学し、海軍武官を勤めた山本と似た道を辿っています。
     もっとも、在アメリカ大使館付海軍武官だった人物は他にもおりますので、なぜ、高須四郎とか、長谷川清という名前は出てこないのかという疑問は生じますが。
     
    hush


  6. 米国は我国の暗号を解読していただけでなく、そのことを秘密にする、あるいは我国に気付かれないようにすることにも細心の注意を払っていたと思います。山本長官の乗った陸攻を撃墜する為に多数のP−38を丁度時間に合わせてそれも長距離を出撃させれば、日本側に暗号を解読していることを気付かれる恐れがあります。そこで、上層部に判断をあおいだと思います。おそらく、その事に関しての話に日本側で尾ひれがついたのではないでしょうか。但し、小生の推測です。また、小生は、挙げられた文献に目を通してはいません。
    UK


  7. hush様
    再度のご回答ありがとうございました。
    <山口多聞は在アメリカ大使館付海軍武官を勤めております>なのですね。
    保坂の記述が史実とすれば、高須や長谷川などの人物を圧して、山口多聞はアメリカで高い評価を得ていたのですね。ミッドウェイ海戦は、アメリカでも大きな衝撃だったのでしょうか?

    park12abc


  8. 再度のご回答ありがとうございました。
    <日本側に暗号を解読していることを気付かれる恐れがあり>ます。そこで、<上層部に判断をあおいだ>というところまでは、知っていました。
    しかし、山口多聞云々という話は初めて聞きました。今ごろ現れたことは、<日本側で尾ひれがついた>のかもしれませんね。

    park123


  9. [8]については、UK様へのお礼でした。失礼しました。
    park123



[管理人専用]

管理者 F4U : Ans.Q v1.40 [Shigeto Nakazawa]