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239 戦国時代の毛利氏に関するいわゆる「毛利の高陣」という言葉には、私の知る限り、

1.常に敵より高所に布陣する毛利氏には警戒せよ(吉田郡山城の戦い、厳島の戦い)という畏敬的な意味

2.毛利氏はいつも山の上に陣取って様子見に終始し,いざという時に間に合わず不覚を取ってばかりいる(備中高松城の戦い、関ヶ原の戦い)という侮蔑的な意味

の2種類の説があるのですが、本来の意味(同時代に一般に流布していたもの)はどちらが正しいのでしょうか?
備後ピート

  1.  毛利の高陣という言葉は初めて聞いたので、手元の電子辞書で検索をかけてみましたが、この語はもとより、高陣すらもヒットしません。また、ネット上でも29件のヒットしかなく、地元でしか使わない言葉ではないかと思います。
     もし、その想定が正しいとしたら、地元の英雄を悪く言うわけはないので、当然、1の意味だろうと思いますが、この語の出典が不明です。したがって、戦国時代にあった言葉かどうかが不明です。
     もっとも、ネット上には、毛利軍学の中にあり、元は孫子の謀攻編だという記述はあります。しかし、謀攻編の中にそのような記述はありません。修櫓というような語はありますが、この櫓は大型の盾であって、高いところに城をというような意味ではありません。また、虚実篇に敵雖高塁深溝という語はありますが、管見の限りでは、孫子にそのような記述は見当たりませんし、虚実篇の記述も慣用的な表記です。
     毛利軍学についても、それを書いた書があるのかと思って調べたのですが、見当たりません。
     違っていたら御免なさいですが、後代、毛利の偉業を称えようとして作った語ではないでしょうか。
     もしそうなら、山城を造るのに、わざわざ低地に造る者はおりませんので、当たり前のことを仰々しく言っている理由にもなろうかと思います。
     
    hush


  2.  1は、謀攻篇にあった語を引用した際に、カヴァーしていない文字を使用したようで、文字化けを起こしたものです。
     可能であれば、削除してください。
     
    hush



238 ふと気になったので質問させていただきます。
バターン半島攻略戦やコレヒドールの戦いで、96式24cm榴弾砲や96式15cm加農砲を使用した独立重砲兵第二中隊についてです。
彼らはフィリピンの戦い以後戦史にはまったく出てこないのですが、これは解散したということでよろしいんですかね? 個人的な想像では臨時松岡中隊と同じく各原隊から人員を引っこ抜いて兵器を与え、作戦終了次第原隊に戻されたように考えております。
みかん段ボール

  1.  戦史叢書第2巻比島攻略作戦 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=002# 290コマに5月19日大陸命第634号により独立重砲兵第2中隊を満州の第3軍の編組にありますので、解散はしていないですね。
     その後のこと等は、 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/CrossSearch 独立重砲兵第二中隊を調べると比島を含めて5冊出てきますので、そのどこかに出ていると思います。
     
    hush


  2. 17年5月21日の南方軍命令で満州に派遣、関東軍司令官隷下に...
    17年末の関東軍地上兵力増加予定表に牡丹江重砲に編入と有り、ソ連参戦時の兵力概見にも記載があります。

    poran


  3. 解散はしていません。終戦時の所属は第3軍で終戦時の所在地は満州の八道河子です。ソ連軍とは戦闘をすることなく終戦になったようです。
    Taki


  4. 独立重砲兵第二中隊の部隊略歴です(18フレームから)。
    https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12122426700
    こちらの資料では終戦時の所在地は図們となっています。この方が正しいでしょう。

    Taki



237 陸軍の飛行第53戦隊、千早隊に関して書かれたサイトまたは資料などはありませんでしょうか?
イギリス人の知人に訪ねられネットと過去ログを漁りましたが特に見つかりませんでしたのでご助力いただきたく思います。
toe

  1.  今は翻訳サイトがかなりよくなっているので、適当なページを英訳してはどうでしょうか。
     
    hush


  2. >1 ご返答ありがとうございます。
    残念ながらそれらしいサイト自体1つ2つほどしか見つけられなかった上に彼は震天制空隊の英語版wikiを作成中で、見たところ私の探し出せる情報はすでに持っているようなのです。ttps://en.wikipedia.org/wiki/User:Imp_dean/sandbox
    toe


  3.  戦史叢書第19巻「本土防空作戦」 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=019# の219コマあたりから記述がありますので、このあたりかなと思います。
     ただ、コピー&ペーストができないと思いますので、大変だろうなとは思いますが。
     あと http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/CrossSearch で横断検索ができますので、こちらを使うという手もあります。
     
    hush


  4.  なお、横断検索で飛行第53を調べても出ませんが、飛行第五十三では出ますので、付記しておきます。
     
    hush


  5. 再三に渡りご丁寧なご回答頂きありがとうございます。
    御礼遅くなり申し訳ありません。
    toe



236 WW2戦時下における工業体制について。
英米(特に米国と)日独(特に我が国)の差というのは、ズバリ具体的にはどういった要素に有ったのか?

初めて質問させて頂きます。

戦史界隈に片足を突っ込んでみて初めの方によく見る
『日本やドイツ、特にドイツは工業技術でも優れた工作機械等もあったかも知れないがこと我が国においては、例え優秀な装備を作ったとしても、それらを支えていた工業体制というのはお粗末で前時代的なものであった』
といった主張は、有名な部品規格や互換性が“なかった”とする俗説や三式戦のハ40問題を筆頭に様々な主張の理由付けとされています。
しかし我が国が未だ手工業的な体制を脱却しなかったといった主張もある一方で、当時の生産体制をBUN先生のお話を拝読させて頂く等しつつかじっていく過程で
・どうも我が国にもそれなりの総力戦の生産体制や規格を社会的、工業的に構築はしていたらしいこと
・最新兵器に対する“職人の手作業”は連合国側にもあったらしいこと(これはイギリスはともかくアメリカはあったのか)
等のイメージを漠然と掴み
それでは我が国とアメリカのいわゆる“基礎工業技術”とやらは世間一般で言われているほどではないのか、と考えつつ
されどやはり詳しい方々が“アメリカの兵器は細部を見た時にため息が出る”等々仰られているのも拝見しつつ
中々実態はどういった差が具体的にあったのか、今ひとつピンと来ません。

日本より先に産業革命を達成し総力戦体制も既に一度経験した英米と我が国の間では、やはり“言われているほど”ではないにせよ、何かしらがあったのだろうと思いつつ、その何かしらが分からないのです。
逆に我が国やドイツがそれなりに画期的だった部分、英米に劣らなかった部分もお教え頂けたら有難いです!

長文になり申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。
ねお少佐

  1. 初めてこちらの板を使わせて頂いておりますので、カテゴリー違いの質問だ等がもしあれば、そちらもお教え頂ければ幸いです。
    ねお少佐


  2.  生産量の圧倒的な差です。
     たとえば、アメリカのM4戦車は4万9000両製造されており、ソ連のT34の5万7000両に次ぐ数値を達成しています。これに対し、ドイツのIV〜VI号戦車を合計しても1万6000両であり、日本の97式戦車は2100両に過ぎません。
     航空機に関しても総生産数が1万機を超えたのは日本では零戦のみですが、ドイツはBf109とFw190で5万機弱、これにJu88の1万5000機が加わります。これに対し、アメリカは戦闘機がP51、47が各1万5000、P40が1万4000、F4U、F6Fが各1万3000、P38、P39が各1万で計9万機、爆撃機がB24が1万8000、B17が1万3000、B25が1万で計4万機です。また、イギリスはスピットファイアーとハリケーンで3万9000機です。
     つまり、ドイツはともかくとして、日本の兵器生産量は圧倒的に低いのです。
     これだけの差が生まれたのは、日本の工業体制が貧相だったからです。軍事技術としては優れたものがあったかもしれませんが、日本全体としては、繊維産業を中心とする軽工業しか発達していません。その上、インフラの整備が遅れており、国民のほとんどは電話をかけたことはなく、伯父が自動車免許を持っていたため、兵役を免れたぐらい、自動車免許は特別なものでした。当然、車がほとんどないため、主要国道すらほとんどが舗装されておらず、名古屋の三菱から岐阜県の各務原飛行場まで牛車で運ばざるをえないという状況すら生まれています。
     これに対し、ドイツはナチスの時代にアウトバーンの建設を行い、フォルクスワーゲンの生産に乗り出しており、アメリカの自動車の登録台数は1920年代に2000万台を超えています。イギリスもアメリカの数分の一の保有台数ですが、世界2位です。また、アメリカは五大湖周辺の鉱業と大西洋岸、メキシコ湾沿岸の工業を運河と河川交通により結んでおり、ドイツもスウェーデンの鉄鉱石と国内の製造業を、バルト海と河川交通で結ぶ同様のシステムを持っています。日本の敗戦の要因としては、海上輸送が崩壊して原料と工場を結べなくなったことが挙げられますが、ソ連の崩壊も、軍事にすべてをつぎ込んで、インフラの整備維持を怠ったことに原因を求める人もいるぐらいで、輸送力は重要な問題なのです。
     その結果として、大破したB29に別の機体の部品を持ってきてもくっつくが、零戦は無理であるということになるのだと思います。たしかに1921年に日本工業規格(Japanese Engineering Standard:JES)が定められており、航空機のような精緻なものは、そのようなものがないと危なくて飛ばせるものではないとは思います。しかし、その後の20年間で規格が定められたものは520種余りしかなく、1941年の臨時JESにより、かなり簡略化されていますし、そもそも、当時の日本の工業力がその要求に応えられたのかという疑問があります。その上、戦時中の熟練工の減少と原料不足、さらには輸送力の低下により、ネジ1本でも合いそうなものを探して鑢掛けをしてという状況が生まれ、そのような結果に結びついたとしても不思議はないと思っております。
     戦時中のアメリカの艦艇を見ていますと、どうも美観というものに欠ける気がします。技術的にも特別なものがあるわけでもないようです。ただ、簡単に造れる上に頑丈です。そして、彼等はそれで戦争に打ち勝ったわけで、本質的な技術というのは、そういうものかもしれないと思います。
     
    hush


  3. hush様
    御丁寧な回答、有難うございます。
    前半仰る通りです。

    我が国の兵器生産において、生み出された品の“強さ”“性能”がいかほどのものであったかの議論はあれど、その生産規模やそこから生み出される量産数が英米独ソらと比べて勝っていたといった議論は(一部海軍要素等の例外を除けば)基本的には有り得ないでしょう。
    我が国はまずは“圧倒的物量”を有する敵に対し劣勢であった、という前提はまずは共有しうると思います。

    後半の規格問題、例えば
    >大破したB29に別の機体の部品を持ってきてもくっつくが
    >零戦は無理であるということになるのだと思います。

    >戦時中の熟練工の減少と原料不足
    >ネジ1本でも合いそうなものを探して鑢掛けをしてという状況が生まれ
    等のお話について、素朴な疑問として、では英米はこうした問題に悩まされる事がなかったのか、アメリカはヤスリをかけなかったのか、とは思うのです。
    令和21世紀の現代プラスチック製品ですら削ってやらないと凸が孔に入ってくれないなんてのはままある話ですから、いくら“基礎工業技術”と言われても80年前の米国の工業製品が本当に何の塩梅もなく組み換えられていたのか、日本人だから元敵国の内輪の話は聞かないだけなのか、とは思うわけです。(もちろん金属製品、まして軍に採用されてるものですから規格のうちに公差等はあるとは思いますが。)

    女工の動員規模や時期、金属なんかの物資統制なんかをみてもいくら資源大国工業大国とて相応の苦労はしたのではないか、とも思います。

    元々の質問とは主旨も変わりますが、こちらも如何でしょうか。
    ねお少佐


  4. >いくら“基礎工業技術”と言われても80年前の米国の工業製品が本当に何の塩梅もなく組み換えられていたのか

    或いは仮にこれが例え一世紀前とてアメリカ工業製品の当たり前だとするならば、それがアメリカ以外の国には出来なかった、というのも何となく理解しかねます。

    第一次で総力戦を米国以上に一層しっかりやってきた英独や、1930年代くらいまでは欧州や米国とも工業製品の輸出入もガッツリやってきてたであろう日本が、兵器ではない体制の部分でアメリカと差が空くとすれば、何か個別のよほどの事情があったのかとは思うのです。
    ねお少佐



  5. >いくら“基礎工業技術”と言われても80年前の米国の工業製品が本当に何の塩梅もなく組み換えられていたのか

    或いは仮にこれが例え一世紀前とてアメリカ工業製品の当たり前だとするならば、それがアメリカ以外の国には出来なかった、というのも何となく理解しかねます。

    第一次で総力戦を米国以上に一層しっかりやってきた英独や、1930年代くらいまでは欧州や米国とも工業製品の輸出入もガッツリやってきてたであろう日本が、兵器ではない体制の部分でアメリカと差が空くとすれば、何か個別のよほどの事情があったのかとは思うのです。
    ねお少佐


  6. >3-5
    >アメリカはヤスリをかけなかったのか
     戦前、アメリカの工場を訪れた日本人が、なぜヤスリが置いてないのかと聞いたという話があります。それに対して、どの部品でもきちんと嵌まるので、その必要はないと答えられて驚愕したそうです。
    >女工の動員規模や時期、金属なんかの物資統制
     アメリカの女性は機械になれています。たとえば、シンガー・ミシンは1913年の1年間だけで250万台を売っておりますが、戦前の日本でミシンを保有していたのは富裕層だけです。そして、戦後まで既製服というものは存在しませんので、服地を買ってきて自分で縫製ということになりますので、アメリカの女性は頻繁にミシンを使っています。これだけでもずいぶんと違うでしょうし、仰るように1次大戦の総力戦で女性の社会進出は盛んでしたので、かなり日本とは状況が異なります。
     金属統制はアメリカでもありましたが、2で申しましたように、アメリカは五大湖周辺に巨大な鉱床を持っています。輸入に頼るしかない日本とかなり状況は異なります。
    >1930年代くらいまでは欧州や米国とも工業製品の輸出入もガッツリやってきてたであろう日本
     ちょっと意味が分からないのですが、日本が1930年代まで工業製品の輸入を大量にやってきたという意味でしょうか。もしそうなら、民需に関しては異なります。
    >アメリカ工業製品の当たり前だとするならば、それがアメリカ以外の国には出来なかった…
     欧米では普通のことだったと思いますが。
    >何か個別のよほどの事情があったのかとは
     大量生産、大量消費というものが日本に根付くのは田中角栄以降です。つまり、それまでの日本では大量に消費する者がおりませんでしたので、他品種少量生産が中心でした。部品にヤスリがけをして嵌め込むというような製法でよかったのはそのせいです。
     
    hush


  7.  他品種少量生産→多品種少量生産
     失礼しました。
     
    hush


  8. 戦後の例になりますが米国連邦規格GGG-G-60だと最小作業公差は製品公差の80〜89%、1955年のJIS BO402では56〜80%になってます。戦前はもっと差があったのでは.....

    それから考えると7粍7の92実包の外径が7.90〜8.21粍 米軍の7.62粍のM2実包の外径が7.80〜7.82粍だったのが理解できます。

    poran


  9. hush様、poran様、引き続き回答ありがとうございます。

    hush様、ミシンの件確かにそうですね。
    自動車等にもよく言われる話ですが、昭和10年代等の段階ではまだ国や富裕層に対してしか機械を売り込む市場を広げられていなかった現実があるというのは、あったと思います。

    >大量生産、大量消費というものが日本に根付くのは田中角栄以降です。
    国民の文化面からの視点で言えば、確かになかなか日本人は大量消費を美徳面では意味嫌う等、むしろ対極の民族性を有しているかも知れません。面白いです。
    安易に民族文化と経済、軍需生産を結びつける物言いも(マルクス経済学的見方等でないのならば)学説としては不味いかとは思いますが、間接的一因の可能性の話で行けば、確かに我々はずっと“大量消費の戦争”は嬉しくないと思う精神を維持し続けてるコミュニティなのかも知れませんね。


    >日本が1930年代まで工業製品の輸入を大量にやってきたという意味でしょうか。
    ややこしい文章失礼しました。そのつもりの発言です。

    大正くらいまで“舶来品”を有り難がり、“和製品”を劣等なものとする風潮は(民需製品だから特にかも知れませんが)、それなりに国民に共有されていたようです。
    日本の製品は欧米のそれとも互角以上にやりあえるという認識がしっかり湧いたのは軍事ではノモンハンや大東亜戦争が始まってからで、民間一般だとどうも1970年代くらいからなのかな、と。
    裏を返せば、つまりこうした外国製品を優秀とする認識を国民が持つには、それなりの国民規模の需要を満たす“舶来品”の民需製品が和製品がまだ未成熟なうちから流通しなくては有り得ないのではないかと思いまして。

    特に自動車等になると昭和11年の自動車製造事業法以前はシボレーとフォードが日本の自動車需要を独占してたと言われるような有り様ですから、富裕層相手が中心とはいえ、日本人7000万の舶来品需要はそれなりのものであったと思いました。
    ちなみに輸出については民需筆頭に第一次大戦の特需景気から一気に拡大して延々続いてるような、こちらも何となくの認識です。
    ねお少佐


  10. poran様
    >それから考えると7粍7の92実包の外径が7.90〜8.21粍 米軍の7.62粍のM2実包の外径が7.80〜7.82粍だったのが理解できます。
    まず自分の“公差”の知識理解が甚だいい加減なものなのですから、貴重な資料をご提示頂いてて申し訳ないのですが…。
    そもそも実包の外径とは7.7mmや7.62mmより大きいものなのですね。基礎中の基礎かとは思いますが、大変勉強になりました。

    その上で、アメリカのM2が0.01mm単位の数値幅なのに対し日本の九二式のそれが0.1mm桁に跨がってるのが気になりました。
    これは当然“小さければ小さい方が望ましい”数値幅なんでしょうか?


    ねお少佐


  11. >9
     鄭重な御礼を賜りありがとうございます。
    >そのつもりの発言です
     実は民需だけでなく、軍事面でもそうで、戦艦大和の主砲は、このためにドイツから輸入した機械がなかったら製造できてません。装甲もそうです。また、海軍が1937年から41年の間にアメリカから工作機械や航空機部品は邦貨で8592万、陸軍も1939年に大阪造兵廠等で使用する工作機械のために4000万円を準備していますが、幻に終わった東京オリンピックの総予算が3100万円だというのを考えると、いかに巨大な金額かが分かると思います。にもかかわらず、工作機械のすべてを輸入品でというのは無理で、国産品も使用せざるを得なかったのですが、精度や能力の点で大きな差があったのです。
     しかし、工作機械の輸入がなかったら、日本の軍事産業など成立しなかったわけです。実際、戦時中に開廠した、したがって、ほとんどが国産の工作機械を使っていたと思われる、鈴鹿海軍工廠(今、ホンダの工場になっています)で製造していた航空機用の機銃と弾は、ほとんど実用に耐えなかったといわれます。また、ドイツを訪問した伊号潜水艦も、騒音がひどく、ドイツ側を呆れさせたという話もあります。しかし、ここで使用された潜水艦は伊52以外、完成こそ戦時中ですが、開戦前に起工されたものです。
     これに対し、日本の輸出品目の大半は繊維関連で、一部機械類の輸出はアジア各国が中心です。欧米を中心とした世界標準の中では、国民の意識はともかくとして、日本の工業というのはかなり下に見られていたはずです。
     ノモンハンは、当時の日本では敗戦だと捉えられていたと思います。一般ではおおっぴらには言えなかったと思いますが、軍部の衝撃は大きく、その後、ソ連への侵攻を行っていません。戦車は鉄条網で動けなくなる、装甲は簡単に撃ち抜かれるのに、相手の戦車を撃ち抜くことができないので、火炎瓶を使っての攻撃しかなかったからです。しかし、これを改善するためには戦車の馬力を大きくし、装甲を強化し、砲を強力にしなくてはいけないのですが、そこへ注ぎ込むための予算も、国内工業もなかったわけです。
     では、日本の製品、多分、これは艦艇や航空機のことだと思いますが、太平洋戦争の時点で欧米に並んだかというと、これも疑問なのです。たしかに、大和や零戦は優秀な「製品」であったと思います。しかし、レーダーは当初の段階ではありませんでしたし、B29が登場すると、その飛行高度に達することのできる国産戦闘機はあったのでしょうかとなるのです。
     また、旧日本海軍が建造した駆逐艦島風の機関は40kg/cm、蒸気温度400゚Cですが、アメリカのフレッチャー級駆逐艦のそれは43.3kg/cm、454゚Cです。そして、島風は1隻のみの建造ですが、フレッチャー級は175隻を戦時中に完成させているのです。
     これに対し、ドイツはMe262やV2、ヴァルター・タービンのような新機軸を打ち出しており、レーダーも開戦時には使用しています。しかし、日本はドイツから導入したマウザー砲の生産はできませんでしたし、最初の御質問にあったハ40も同様です(別のところで書きましたが、伯父はそのハ40の不調により中国上空で脱出しています)。
     国民の意識はともかくとして、当時の日本の工業力などというものは、アメリカやドイツ、そして、多分、イギリスから見ても下位にあったと思うのです。そして、現在の世界に冠する日本製品というイメージも、日本を含むアジアだけの話であって、2017年にドイツで行われた品質イメージ調査では、1位がドイツで、日本はフランス、アメリカと同点の8位だったりします。
     なお、1970年代に就職した私のイメージでは、また日本製品のイメージは安い、悪いだったように思います。
     あと、第1次大戦の特需以降は、戦間期の日本経済で調べてもらえれば分かりますが、ひどい状態です。そして、日本人7000万の舶来品需要と書かれていますが、当時の日本人の収入を考えれば、需要はほとんどありません。
    >日本人は大量消費を美徳面では意味嫌う
     私は逆だと思っています。海外では、一つのものを実に長い間使用します。もっとも、この板でそのようなことを論議するのは場違いも甚だしいので、それ以上は書きませんが。
     
    hush


  12. >小さければ小さい方が
    この場合の外径とは弾丸の外径です、有る程度以上にバラツキが有れば当然弾着も違ってきます。

    ノモンハン事件の記録では、薬莢寸度の製作も問題があり、37粍と13粍砲の弾薬筒で2割が装填できなかった原因の多くが薬莢起縁部2糎位の過大であったと記録されています。
    10加も300発中20発が装填不能だったとの記録も有ります。

    それと米国からの工作機械は中古の機械で価格が安く貧乏国向けであったのですが、量産/精度的には不利であったと思います。

    バネ鋼はにスェーデンからの輸入品を使用しており、輸入が途絶するに従い国産品に換えましたが性能は不十分で発動機の弁バネの故障の遠因となり、98式固定機関銃(ラ式)は復座スブリングが原型通りに出来ず終戦まで工場の一角に放置される状況でした。(一式37粍機関砲も同様だったのでは無いでしょうか)


    poran


  13. poran様
    >米国からの工作機械は中古
     それは存じませんでした。また、スウェーデン鋼の輸入の件等、興味深い情報をありがとうございました。

    >弾丸の外径
     銃身にはライフルと呼ばれる溝があり、弾丸はそれに食い込む形で発射されるため回転し、直進性がまして命中率が高まります。このため、弾丸は銃身の溝の山と谷の間の直径でないといけないわけですが、あまり差があると12で書かれているような問題が生じます。”実包の外径とは7.7mmや7.62mmより大きいものなのですね”と質問者の方が書いておられるので、念のために書いておきます。
     
    hush


  14. hush様、poran様引き続き有難うございます。

    hush様
    >海軍が1937年から41年の間にアメリカから工作機械や航空機部品は邦貨で8592万、陸軍も1939年に大阪造兵廠等で使用する工作機械のために4000万円を準備していますが
    この金額は、poran様のほとんど中古でかつ量産や精度面では劣っていたというのと合わせて初めて伺えました。
    勉強になります。

    工作機械についての『よく聞く話』としては、日本は戦前本当に必要なお高い工作機械だけは“少数を”“後の敵アメリカから”購入していた、という話がありますが、ある意味真相は逆だったのですね。

    潜水艦や駆逐艦の設計思想、或いはB-29に対して我が戦闘機や電探が十分な性能を有していたかについて等は様々な方のお話も伺いつつで私自身は少し別の考えを有しておりますが、貴重な御意見有難うございます。
    確かにそうしたお話も“基礎工業力の結果悪かった”とするお話において欠かせないエピソードな感があります。
    また別場でお話伺えたらと思います。

    >1970年代に就職した私のイメージでは、また日本製品のイメージは安い、悪いだったように思います。
    議題からは逸れますが(質問者が申し訳ないです…)、有難うございます。
    主観同士の話になってしまいますが、私は日本製品の品質の高さを十分宣伝されるようになってから(しかし不景気の中)この国に生を受けた世代の者ですので、こうした周りから伺える環境の認識のズレのお話は貴重です。
    ねお少佐


  15. poran様
    スウェーデンの鋼のお話、勉強になりました。
    ちなみにバネ鋼の“性能”とは、何でもたらされているのでしょうか。含まれている成分等ですか?

    >この場合の外径とは弾丸の外径です、有る程度以上にバラツキが有れば当然弾着も違ってきます。
    丁寧なご回答有難うございます。
    となると、我が九二式実包のそれは米軍のそれに比べて、少なくとも実包だけをみれば着弾がばらつく可能性があるということですか。
    (設計思想上の副次的産物なのかも知れませんが)命中精度の高さを特に宣伝される九二式重機の弾薬なので、理論上の話なのかも知れませんが意外な気もしました。

    >ノモンハン事件の記録では、薬莢寸度の製作も問題があり、37粍と13粍砲の弾薬筒で2割が装填できなかった原因の多くが薬莢起縁部2糎位の過大であったと記録されています。
    >10加も300発中20発が装填不能だったとの記録も有ります。
    こちらについて同世代のアメリカやドイツ、イギリス、或いは敵ソ連のカノン砲や対戦車砲等と比べた時に、向こうはどの程度の“バラツキ”があったのでしょうか?
    そもそも寸法や形の不良成型品なら出荷前の時点では弾かれないものなのですかね?
    ねお少佐


  16. 工作機械の件ですが、こちら昔に何かしらで『イギリスもドイツ製の工作機械使ってたんだから(ソースは不明)、兵器もそうだが工作機械まで非自陣営の製品であることを求めてそれを優劣批評の軸に据えるのがおかしい』みたいな話を聞いた気がするんですが
    その話が本当だとしたら、逆にアメリカやドイツが他国からわざわざ輸入してまで使いたかったもの等は何かしらあったのかな、という疑問も少し湧いてはきます笑
    ねお少佐


  17. 国産のバネ鋼はどうしても同様なものは作れず、反発力/耐久性がかなり落ちて98式は連発が出来なかったそうです。

    >出荷前の時点では弾かれない
    検査が甘かったのでしょうね、88式高射砲の砲架にグリス孔が無く、戦場で砲をつり上げて脚にグリスを充填した話もあります。

    他国ではそれほど寸法のばらつきは無かったのでしょう。
    我が国は99式小銃からやっと製作図方式になったのですが、工場が違うと互換性が無かったそうです。

    poran


  18. >14
    >日本は戦前本当に必要なお高い工作機械だけは”少数を””後の敵アメリカから”購入していた
     それは戦後の話ですね。戦前も模倣していたでしょうが、原材料と精度の関係で同品質のものはほとんどできなかったのではないでしょうか。それが、戦後、私等の上の世代が頑張ったというのもあるのですが、軍事に傾注しなくなったというのも大きいと思います。軍事産業は、秘密ばかりですから、特許を公開して他に転用するということがありませんので、どうしても広がりに欠けるからです。そして、その結果として、日本のVHSヴィデオの軸受けの精度は大陸間弾道弾のそれより高いとか、TVのゴースト対策として開発した塗料の性能はステルス機のものより高いという評価に繋がったわけです。
     したがって、今、中国や韓国が日本の技術を模倣してと怒っている人が多いですが、同じことを戦後日本がやってきて、アメリカは怒っていたのだろうなと思って可笑しく思うのです。
    >周りから伺える環境の認識のズレのお話は貴重です
     そう言っていただいて幸いに思っています。
     私等の子供の頃は日本は貧しくて、靴下に穴が開くと、布を当てて、さらにそれに穴が開いたのを履いているという時代でしたので、隔世の感があります。
     さて、そんな昔話をしていると違うところでやってくれと怒られますので、スウェーデン鋼の話を書きますが、あれは最高品質の鋼だそうです。
     日本は火山国ですから、産出する鉄鉱石に硫黄や燐等の不純物が混じります。そして、硫黄が混じると、鉄は非常に弱くなるのです。ところが、スウェーデン北部、キルナ鉱山で取れる鉄鉱石は不純物をほとんど含まないのです。それをドイツは大量に輸入し、戦時中も中立国となったスウェーデンと交渉(恫喝?)して輸入し続けたわけです。それを、兵器の重要部分、たとえばバネに使ったわけです。
     http://www.warbirds.jp/kakuki/sanko/99gun_slow.gif
     上記を見ますと、銃弾が発射された後、装填位置にまで戻すのにバネが使われているのが分かると思います。そして、毎分300発としますと、毎秒5回バネが動くとなりますが、普通のバネではすぐに駄目になってしまいます。
     この複座バネの品質が、日本製のものはあまりよくなかったわけです。
     pporan様が12で書いておられる弁バネというのは、今はアチャラ語でバルブスプリングと申していますが、燃料や空気をシリンダーの送り込んだり、排出するために弁を開閉するものです。
     http://www.warbirds.jp/kakuki/sanko/hosi_slow.gif
     上記の図には描かれていませんが、シリンダーの中で混合気が爆発した途端に外に噴出するなんてことがないように弁が設けられております。その弁を本来の位置に戻しているのが弁バネですが、車のエンジンでも掛けただけで1000回転ぐらいにはなります。つまり、毎秒17回転です。航空機用のものはもっと回転数が高いのではないかと思いますが、最高速度を出すためには、この弁バネが回転数に追随できないと駄目なのです。
     そんなことは知っていますといわれそうですが…。
     
    hush


  19. >17
     すいません、製作図方式でなかったということは、38式は実物を見ながらということでしょうか。
     さすがにそれはないだろうと思うのですが、もしかしたらと思ってお聞きする次第です。
     
    hush


  20. >16
     特許の問題が絡みますので、作りたくても作れない場合もあるのです。
     もちろん、戦時中なんだから特許なんてという考え方もあろうかと思いますが、欧米では契約は絶対ですからね。
     http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc200.html
     上記の合成アンモニアの話なんかは面白いですよ。
     しつこくて御免なさい。
     
    hush


  21. hushさん、>13.18で筆たらずの書き込みのご説明有難う御座います。

    製作図の件、一寸筆が滑りましたが99式までは製作図の公差/公隙の指定が不十分で到底互換性を持つ製品が出来なかったようです。
    上がってきた部品を一個ずつ現品あわせで鑢を掛けて組み込んでいました。

    航空機では製作現場に検査具の供給が出来ずやむを得ず大きめに鋳造して鑢がけをして組み込んだとの回想があります。

    poran


  22. >21
     早速の御返答ありがとうございました。
     99式から互換性が出てきたというのはそういう意味でありましたか。しかし、工場が違うと云々というのは、興味深いというより、うなってしまう話ですね。
    >説明
     すいません、多分、質問者の方も御存知のことだと思うのですが。
     
    hush


  23.  20で紹介した記事ですが、読み返すと、面白おかしく書きすぎですね。なぜ、戦時中、フォードはドイツで生産を継続できたのかという観点で調べて出てきたのを紹介させてもらったのですが、陰謀論めいてました。
     申し訳ない。
     
    hush


  24. ごめんなさい、普段回答者なのですが、所謂一般的な兵器生産を合算して語ってしまうと、総じてアンフェアな比較にならざるを得ないという事を付随させていただきます!

    鉄道で拠点間を結べる、大陸間の軍備と、1941年以降海・空戦闘が雌雄を決する様になってる日本だと、軍備の形が全然イレギュラーなのです!
    ですので、あやゆるリソースの、輸送船と航空機に向けた傾斜が行われており、正面兵力(所謂、火砲・戦車等)に割けるリソースは、不経済であります。
    それらは、海空戦闘が勝敗を分ける中で、どのみち敗北すれば海の藻屑と消えるか、弾薬燃料の補給がなく置物とかしてしまうのです。
    だから、湾口・飛行場拠点を巡る戦闘といった、海空戦闘に寄与する範囲での陸軍兵力ということになりますので。主力はあくまで海上戦闘であることを、お忘れなきよう。

    実は日本の航空機製造は、1944年はイギリスを超えているんですよ。
    1944年は日本は28180機の生産を記録して、ドイツ・ソビエトがそれぞれ4万程度ですから、十分な戦時体制と言えるではないですか。
    1939年からの合算ですと、ドイツが117881機であるのに対して、日本は79123機なんです。
    もちろん、性能面で見劣りするものであったのは、事実。
    だけど、量ベースでの生産体制という意味では、日本も効率化著しかったのです。
    輸送船も同様で、戦前戦中に多くの艦船が供給されました。戦闘消耗が激しすぎるため、一時期一時期を切り取ると、同時に用意できた数が少ないというだけで、トータルの生産実績でいえば、戦前の段階で既に600万トンの世界有数の商船団に至っていた日本が、19年単独だけで175万トン以上も生産するのです。

    アメリカは別格としても、諸外国全般と比較して、凄まじく劣っていた体制かというと、ベクトルが違うだけでありあんまりな比較です。
    日本はそこまで、生産体制が悪くなかったというのが、海空方面の生産体制で言えることです。

    げしゅたぽ


  25. 普段回答者→普段質問者
    げしゅたぽ


  26. hush様、poran様、それにげしゅたぽ様
    有難うございます。

    hush様
    >日本は火山国ですから、産出する鉄鉱石に硫黄や燐等の不純物が混じります。そして、硫黄が混じると、鉄は非常に弱くなるのです。
    こちらは初耳です。
    鉄鉱石は古くは八幡製鉄所から始まり終戦まで、近代日本は中国大陸で産出されたもので鉄工産業を営んでいるという認識でした。日本で産出される鉄鉱石(?)というのがあり、それも用いられていたという事でしょうか。そうであれば私自身そもそも小学生の地理から『日本は鉄鉱石は産出されない』と習ってきてたままの知識なので、意外です。

    ちなみに、ニッケルやクロムの産出でこれの産出地が自国領内にない日独が苦しんだ(装甲の合金からターボチャージャー云々に至るまでの材料として)、またそれに変わる代用合金を開発した、というのは良く聞きますね。
    そもそも大元の質問をした理由も、いわゆる『日本の治金技術が劣っていたから』とする言説・評価も、蓋を空けてみたら案外日本の科学力のせいなんじゃなくて材料ないからなだけじゃないのかと思ったりしたが故でもあるんですね。
    同じく金属資源のないドイツの本家DB601のBF109と『治金技術が悪かったから』『故障率が高い』とされる三式戦のハ40は、具体的にどこがどう設計構造や使用される技術や生産体制として違ってたのか、そもそも結果統計としてBF109や英米ソなりの液冷戦闘機に比べてなお著しくよく壊れていたするデータの客観的根拠があるのかなと。
    ニューギニア戦線なりの非内地の三式戦がボロカスに言われるのは、あくまで日本陸海軍の他の戦闘機なり爆撃機なりと比しての話ですから『まともに整備体制のない過酷な環境での液冷戦闘機とはそうなるものなのだ』と言われるならまだしも、『ハ40が悪い、日本の技術が悪い』となると、その具体的な根拠が掘れば掘るほど分からなくなってる感じです。

    >ところが、スウェーデン北部、キルナ鉱山で取れる鉄鉱石は不純物をほとんど含まないのです。
    >それをドイツは大量に輸入し、戦時中も中立国となったスウェーデンと交渉(恫喝?)して輸入し続けたわけです。それを、兵器の重要部分、たとえばバネに使ったわけです。

    有難うございます。これはスウェーデンの技術、ドイツの技術が噛む余地はなく、原材料が製品の差の大体を決めてしまってる、と解釈した方がよろしいのでしょうか?
    ねお少佐


  27. poran様
    >製作図の件、一寸筆が滑りましたが99式までは製作図の公差/公隙の指定が不十分で到底互換性を持つ製品が出来なかったようです。
    >上がってきた部品を一個ずつ現品あわせで鑢を掛けて組み込んでいました。

    有難うございます。
    こちら質問からややズレて、第二次世界大戦時期から離れかねませんが、九九式の前といえば三八式ですが、同世代のGew98やM1903、モシンナガン等含めてはどうだったんでしょうね。
    第一次世界大戦前からヤスリや職人組み立てを淘汰してた国はなかなか想像がつきませんが、仮にあれば制度確立の格差は大きいですね。
    ねお少佐


  28. げしゅたぽ様
    >実は日本の航空機製造は、1944年はイギリスを超えているんですよ。
    >1944年は日本は28180機の生産を記録して、ドイツ・ソビエトがそれぞれ4万程度ですから、十分な戦時体制と言えるではないですか。
    >1939年からの合算ですと、ドイツが117881機であるのに対して、日本は79123機なんです。

    具体的かつ丁寧にありがとうございます。
    しっかり力を入れていた分野では量産体制自体もそれなりの結果を出していたのですね。英国の生産量を凌いでいるというのは凄まじいと思います。44年辺りの量産は逆に英国は何か色々大変かも知れませんが。
    ねお少佐


  29. >24
     ええ、日本も頑張ったんです。小学生まで動員して兵器を作らせたぐらいですから。ただ、質は別としてと仰られてはいますが、焼玉機関まで使用した日本の戦時標準船とアメリカのリバティー、ヴィクトリー・シップを同列に並べられてもとは思っています。
     https://ja.wikipedia.org/wiki/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%88%AA%E7%A9%BA#第二次世界大戦中の各国の航空機生産数
     たしかに1944年の日本の航空機生産数はイギリスを越えていますが、アメリカが充分すぎるぐらい生産していますし、もしかすると、もうその頃にはイギリスは戦後を見越していたのかもしれません。
    >26
     御免なさい。日本国内の鉄鉱石は、ないわけではないですが、産出しないといってもいいでしょう。したがって、産出する鉄鉱石がではなく、鉱物がです。
     硫黄や燐は微量でも鉄を弱くするのですが、これは、石炭はもとより炉材に含まれても影響が出るぐらいなのだそうです。このため、硫黄や燐の成分は0.035%以下に抑えるとなっていたそうですが、戦時中の大量生産の中でどこまで守られたかは不明です。
     もっとも、輸入した高級な鋼材を使用した場合、職人芸的な素晴らしいものも作っています。たとえば、アメリカでは38式歩兵銃の評価が高いのも、そのせいだそうです。ただ、職人芸的に素晴らしいからといって、量産性に富むわけではないのは当然のことですが。
    >材料ないからだけじゃないのかと
     当時の日本の治金技術がどうだったか知りませんが、空冷星型の航空エンジンに関しては進んでいても、大馬力のものは作れていませんし、欧米で主流になっていく液冷直列についてはほとんど経験がありません。
     ハ40は、その液冷直列で、11で述べた伯父は、飛行中に突然エンジンが止まって死にかけたわけですので、日本にはこの手のエンジンは時期尚早だった、鋳造技術がなっていないと言っていました。
     もちろん、一航空将校、一操縦士の言うことですが、工業学校、今でいうと工業高校しか出ていないのに、大卒の人と競争しながら、某財閥系会社の工場長までなっておりますので、私としては、耳を傾ける価値があると思っています。
     数年前、飛燕を再生するというので、各務原まで行って見てきましたが、あのエンジンはオイル漏れがひどかったようで、入れておいた潤滑油が暖機中に無くなるほどだったそうです。そして、それは最後まで直らなかったようです。多分、伯父の機体も、オイルが無くなって焼付けを起こしたのだろうと思いますが、Bf109は背面飛行をしてもオイル漏れなど起こさなかったそうです。また、イタリアでもアルファロメオで生産されていますが、管見の限りではそのような話は聞いておりません。
     日本の魚雷で一番高価な部品は気室だそうです。ニッケルクロムモリブデン鋼という高級材料を使っているということもあるのですが、削り出しだからです。つまり、金属柱の内部を削って、薄い殻のボンベを作っているのです。なぜ、そのような手間のかかることをやったかというと、鋳造して溶接という方法では200気圧という高圧に耐えられるものができなかったからです。しかし、200気圧というと、スキューバ・ダイヴィングに使うボンベと同等なのですが、あれを削り出しで作っていたら庶民には手が出ません。
     しかし、この削り出しという技法は、一点ものならいざ知らず、大量生産には向いておりませんし、無駄も多いです。逆に、大量生産に一番向いているのはプレス加工だと思いますが、日本は、この点が一番遅れていたと思っています。削り出しでも鋳造でも、工具と技術があれば何とかなるでしょうが、プレスは機械が必要だからです。しかし、欧米は精密プレスで大量の武器を製造していたのです。実際、Gew98もM1903もプレス加工された部品を使っています。
     代用合金にしても、ドイツと日本では随分と異なります。たとえば、薬莢、あれは加工しやすい銅を使いますが、銅は高いのです。アメリカみたいな鉱物資源国は使い捨てですが、日本の場合、自衛隊でも回収しているぐらいです(別の意味もありますが)。ところが、ドイツは軟鋼をプレス加工して作っているのです。戦後、共産圏でこの技術は継承されたようですが、当時の日本で軟鋼をプレス加工して薬莢を作れたかというと、かなりの疑問なのです。当時のドイツの精密プレス技術は世界最高峰だったのですが、それでようやくものにしたものだからです。
     また、長くなって申し訳ないです。
     
    hush


  30. hushさんは非常にお世話になっている方であり論戦は望みません。ですがこの話題ではちゃんと一貫した根拠を持って臨んでおります。

    しかし何もアメリカと互角とまで言ったつもりもその必要もありません。
    戦時標準戦のかくあるべきは何か?
    リバティ船があまりに未熟な溶接技術と鋼材のために千以上の脆性破壊を起こした話を僕も貴方も、時期尚早だとは言いません。
    仮に作ったうちの一部が壊れたとしても、その何倍も作れるならその方が良く、そして戦争中の短期間さえ持ってくれさえすれば良い。最初から戦後の運用など度外視している、あくまで一般の船とは違うんです。
    それが非情なるも戦時規格というものであり、これを大規模に達成できたのは日米なんねす。当時のこれを僕は非合理的とは思いません。
    これらの必要がない大陸国家との比較はアンフェアである事を皆さまに伝えていきたい。
    これが日本の戦術標準船です。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%88%B9
    げしゅたぽ


  31. >30
     互角とは申しておりませんが。
     脆性破壊にしても、アメリカの場合、艦艇でも生じていたことで、戦時標準船だから危険を冒して溶接構造を採用したわけでなく、短期間持てばいいというスタンスで造ったわけでもないのです。実際、リバティー船の一部は、記念船という要素が強いのですが、稼動可能なものがあります。
     なお、イギリスは第1次世界大戦時にも戦時標準船を建造しており、それが間に合わせのものだけでなかったのは、後に旧日本海軍で使用された給油艦野間がその後身であったことでも分かります。野間は、民間に売却され日本丸と改名され、1933年に座礁しなければ、もっと使用されたでしょうし、国号を冠したことからも分かるように、当時の”造船大国”日本ですら、最優秀のタンカーだったのです。
     また、大陸国家のドイツは、第1次でも、第2次世界大戦でも、大量のUボートを建造していますが、第1次のものは日本の潜水艦の基礎となり、第2次最後のほうに出現したヴァルター潜水艦は、原子力潜水艦が出現しなかったら主流になりえたものでした。
     互角というのと、同列に並べるというのは、随分と違うものなのです。
     
    hush


  32. 皆様、ハ40には個人的な事故エピソードや良くないという話があるというのは、もちろんあると思うのですが、ここでは質問主は素材と技術との線引きを求めています。
    僕は、時期尚早だとは思いません、技術的には。
    皆さん、一旦前提を隅に置いてからハ40の開発を俯瞰して見て、そして前提に一旦戻って下されば、なぜあの当時ハ40の生産が可能とされたか、ちゃんと根拠あってのものだという話が理解できるかと、思います。
    渡辺洋二の液冷戦闘機飛燕 日独合体の銀翼
    によると、困難とされたフルカンの生産はオリジナルと完全同等のものができており、クランクケースやシリンダーに至ってはオリジナルを上回る品質のものだったということが明かされています。燃料噴射装置も当初は上手くいかなかったのですが、燃料噴射装置のノズル等川崎から三菱製に交換して三菱の技術者の改良でどんどん調子が良くなっていった、ハ40は日本の総力を挙げた国家プロジェクトであり、決して燃料噴射装置であっても日本の手に余ったという認識ではないのです。
    軸受けも精度の良いものを選別して使っていました。問題なのは意外と話にされませんが、これも素材の焼き入れ硬度不足の問題があり、スウェーデン産出の鉄鉱石を基にしたドイツが使っていたものとは、原材料からしてまるで違うのです。
    クランクシャフトもニッケル使用制限さえ無ければ、熱田ではいくらかマシだったといつ話です。
    時期尚早だというのは、結果だけ振り返ってみればそうかもしれませんが、これらの話は想定し切れなかった素材不足により、結果として失敗するに至ったというのが、僕の新しい見方です。
    日本の総力があまりにも杜撰すぎたと仰るには、これらの話は出来過ぎではないでしょうか。僕は戦時中の材料調達に制限されたが日本は十分な工業体制にあった、その一つとして数えても良いというのが、伝えたいことです。
    げしゅたぽ


  33. >32
     でも、オイル漏れを起こすエンジンはいただけないですね。
     
    hush


  34. >>31 互角であるか否かもこの話の争点ではなく、かつ同列に扱ってもいないと思うのですが。純粋にあるのはアウトプットの一点のみです。
    これだけの戦時標準船を作れたのは、日米だけです。
    あまり複雑な話をしているわけではないのです。
    戦時標準船は溶接を強行したのは、なにも溶接そのものが未熟だったとかいう話ではなく、溶接工程自体が杜撰なものが多く、多くの溶接不良が残された状態での出荷があったからです。リベットでも失敗はある、それと同じで、基本的に少なくない数の「手抜き」が出回ったのが事実です。それに、材料の方にも、品質のよろしくない代替材料が使われたりしたのも、日本?、いえ、だけではなく紛れもないアメリカの話です。
    英国は第一次大戦に注目しても、この話である第二次大戦では、日本ほどのアウトプットは出せておりません。海上護衛が世界で最も先進的であったことと、アメリカからの支援があったことが要因ですが、であればなおさらアンフェアな比較とならないためにも、日本の傾斜と他国の傾斜をはっきりさせておくべきなのです。
    げしゅたぽ


  35. >30、34
     日本もたくさん造った、だから”生産体制が悪くなかった”、”アメリカは別格としても、諸外国全般と比較して、凄まじく劣っていた体制”ではないということですが、大量生産に必要なのは生産品種を絞ることです。しかし、その日本の戦時標準船にしても、30でお示しになられたものを見るだけでも何種類あることやらと思ってしまいます。これに対し、たとえば、ソ連はT34戦車に、ドイツはUVII型潜水艦に、イギリスはマリーン・エンジンにというように、何らかに絞っております。
     こんな国力がない国だから、質で勝負しようというのは分からないでもないです。しかし、これだけ無茶苦茶に生産品種を広げてはいけないのです。私としては、敗戦があったから、平和でよかったねとなるのですが、戦争に勝とうとするのなら、これと思うものに全力を集中すべきなのです。そういう意味では、日本の生産体制は列国に比べて、かなり悪いほうです。
     また、戦時には材料の不足、低品質化、熟練工の不足による精度の不足等がおきますが、この面でも日本の対応は後手に回っています。複雑な凝った設計が多くて、生産が大変なのに、簡略化が遅れたのです。
     さらに、精密プレスがあれば簡単に成型できるものが、削り出しや叩き出しで造らねばならなかったので、熟練工が絶対に必要なのに、どんどんと徴兵していったという問題もあります。
     そういう中で、あれだけの数を造った。日本も頑張ったんだという私の詠嘆も、本心からのものですが、数ができればいいのかというのも、同様なのです。
     戦時中ですので、アメリカでも”手抜き”は多く発生します。品質の悪い材料も使わざるを得なかったのも事実です。しかし、日本の戦時標準船のように、船倉から空が見えたなどという話までは聞いたことがありません。

     第1次大戦のイギリスの戦時標準船を持ち出したのは、この時代から、イギリスはそういうことをやっていたということを示したかったからで、当然、第2次大戦もやっております。これをエンパイヤ型と申しますが、合計で500隻344万総トンとなり、これにその他の船舶を加えると、イギリスは第2次大戦中に1036隻731万総トンもの船舶を建造しています。これに対し、日本は太平洋戦争中に1303隻とイギリスよりも多くの船を建造していますが、総トン数は半分の338万総トンに過ぎません。
     
    hush


  36. >35 イギリスの総トン数が優っていたのは知りませんでした。それは素直に誤りを認めます。では、海洋国家のイギリスに負けていたから駄目なのか?ではないでしょうか。
    大陸国の独ソとはどのみち事情が違いすぎますし、造船大国イギリスの半分というのは凄いことではないでしょうか。
    腐される理由も、船としての機能を果たすという点において、いくらかが駄目でも一定数を供給できたアウトプットが明白である以上、支配的ではないと思います。

    hush様がそうであるとは、全く微塵も思っていませんが、航空機生産にしても、船にしても、それぞれ他海軍国・陸軍国に対して一桁違うかのように言われているのが、一般ではありませんか。
    航空機だとドイツと比べても7割弱の生産数を誇っている。列挙に並べても十分だと思います。
    げしゅたぽ


  37. >36
    >大陸国の独ソとはどのみち事情が違いすぎます
     ですが、戦時戦争体制という点では一緒でしょう。
    >造船大国イギリスの半分というのは凄いことではないでしょうか
     もちろん、そうです。ただ、戦争が始まる前にきちんと戦時標準船の設計図ができていて、開戦前から建造に着手していたら、簡単に追い抜いていたはずなのです。そして、船倉に仮の木甲板をわたし、ハンモックを並べただけのものではなく、きちんとした輸送船があれば、沈むたびに何千人も無駄に死ぬ必要はなかったと思うのです。私は、それに腹が立つのです。
    >いくらかが駄目でも一定数を供給できたアウトプットが明白である以上、支配的ではないと思います
     では、特攻はどうなるのですか。ドイツのように無線操縦の爆弾があれば、あんな死に方をさせる必要性はありませんでした。ところが、戦時中に熱探知型の爆弾を開発していたという人の言うには、電線の被覆が紙でできていたというのです。日本は、マレーシアを占領し、連合国側に天然ゴムの供給が止まっていたというのにです。
    >他海軍国・陸軍国に対して一桁違うかのように言われている
     そうなんですか。そんな馬鹿なことを言う人がいるんですか。もう少し調べてから言ってほしいものですね。
    >ドイツと比べても7割弱の生産数
     ええ、これでもう少しまともなやり方をしていれば、負け方も違っていたと思います。
     
    hush


  38. >>37 もちろん、細部の仕様、そして特攻の面では、その通りであるを否めません。
    いくらか合理化において遅れていたのもあるでしょう。実際に、壊滅的な損害を被ったという事実はあるのです。
    しかし、生産体制に関して言われているほどではないのは、アウトプットを見ていただければ、分かる、という事なのです。
    「イギリスの半分」とか「ドイツの6割強」と聞いて、「酷過ぎる!」なんて思う人は、居ないでしょう。前提として。
    それが、ああいうふうに言われるのは、丼勘定で1割とかそれぐらいのイメージの人が、めちゃくちゃに腐すんだと思います。
    実際、日本は陸軍海軍で分かれ陸海軍内でも多種多様な種類が存在しており、一種あたりの生産実績が少なくなるため、こう見られるのも仕方ない感はありますが。
    あれだけの大国の片割れでもあれば凄まじい規模なのです。
    トータルの兵器生産高では、欧米の半分程度とみるべきでしょう。

    あまりの弱体な工業国の戦いのそれでは、無かったというのがお分かりいただける筈です。僕の観測範囲が、そうなっていて、この様な事を付随せざるを得ないと思い、具体化させてもらいました。
    げしゅたぽ


  39. >38
     つまり、「ああいうふうに言われる」人がいるからということですね。
     ならば、これを最後まで読まれるような方ならば、そのようなことは思ってもいないでしょうから、よろしいんじゃないでしょうか。
     長時間、お付き合いいただきありがとうございました。
     
    hush


  40. >39 失礼、分かっている方々が集うのだから、ここにぶつけるべき内容ではありませんねしたね。どうかお嫌いにならないで下さい。。。場を汚してすみません。
    げしゅたぽ


  41. hush様、げしゅたぽ様ありがとうございます。

    hush様については御親族の方が現に三式戦の不調が故に命を落とされかねないところだったという事で、本当に貴重なお話を有難うございました。
    今回はこの議題ですから、パイロット視点もさることながら、生産者視点としての議論も出来れば良いと思っております。
    日本陸軍における御親族の様な目に遭われたパイロットは、果たして米陸軍のP-40やP-51、ドイツ空軍のBF109やイギリス空軍のスピットファイア、ソ連空軍のYak等の隊にはいなかったのか、俗説で言われるような話の実際、客観的な統計やデータを見たり考察を踏まえたりというお話が伺えたりすると良かったかな、と思っております。
    ねお少佐


  42. げしゅたぽ様
    溶接についてはリバティ船で事故が多くともそれが許容出来てノウハウを積めたアメリカ側と、第四艦隊事件(だったかな?)が堪えて保守的な体制を取りたかった、かつ電気溶接のコスパの悪さを嫌った日本側との違いだったというお話を聞いた事があります。
    鋳造にせよ溶接にせよリベットにせよ、何処の国でもやり方に得手不得手があったという話に落ち着く程度の差なのかどうかとは思ってます。(余談ですが戦車の鋳造技術はソ連が異常に優れていた、みたいな話も聞いた記憶があったりなかったり…)

    飛燕の機体製造のお話も有難うございます。
    ねお少佐


  43.  えーっと、まだ書くんですかと言われそうですが、鄭重な御礼をありがとうございました。
     どうも、部品の完全互換性を達成した最初はアメリカのイーライ・ホイットニーの製造したマスケット銃だという話もありますが、実際にはスプリングフィールドM1842らしいです。その後、兵器産業からミシンやタイプライターのほうへ流れていったようですが、19世紀中葉のミシン工場の絵ではヤスリ掛けをする人が描かれています。したがって、工場からヤスリが追放されたのはフォードの製造工場のようですので、第1次大戦の直前、1913年のようです。また、自転車の部品については1890年代に業界標準部品が定められているようです。
     ただ、互換性のある部品という観点でいくと1800年に発明したイギリスのヘンリー・モーズリーのねじ切り旋盤にたどり着きます。もっとも、イギリスが完全互換性のある製品を生み出すのは第1次大戦中の兵器工場で、ドイツはそれより少し早いようです。
     溶接船体については、仰るように第4艦隊事件で見直されるのですが、軍縮条約の制限トン数の中で、日本では軽量化の観点から盛んに研究されています。ただ、コスト・パーフォーマンスが悪かったというのは聞いたことはなく、むしろ、建造期間の短縮に繋がるとして、戦時標準船の建造には全溶接構造が採用されています。
     そして、戦後日本の造船業の躍進を支えたのは、戦時標準船建造で培った溶接とブロック建造だったのは歴史の皮肉です。というのは、旧海軍の技術では建造期間、建造費ともに国際競争に打ち勝つことができなかったのです。
     もっとも、当時の全溶接構造だと、船全体が一本の棒のようになって、捩れを吸収する部分がないので、一部にリベット構造を用いて、力を分散させるようにしたと聞いております。
     
    hush


  44. マッキC.202のアルファロメオ モンソーネエンジンが機体に装備され始めたのは400号機以降のことで、それまでのC.202はドイツから供給されたDB601A-1を装備しています。
    アルファロメオ製に変ってからの故障多発により可動機/保有機の比率が日本の三式戦以下に落ちたことはかなり知られている事実だと思います。
    BUN


  45. >44
     フォロー多謝。
     
    hush


  46. hush様、それにBUN様、有難うございます。

    >したがって、工場からヤスリが追放されたのはフォードの製造工場のようですので、第1次大戦の直前、1913年のようです。また、自転車の部品については1890年代に業界標準部品が定められているようです。
    具体例からの御意見、有難うございます。
    フォードの生産概念が世界に波及していったという説はよく伺いますが、第一次世界大戦直前頃なのですね。

    >建造期間の短縮に繋がるとして、戦時標準船の建造には全溶接構造が採用されています。
    >戦後日本の造船業の躍進を支えたのは、戦時標準船建造で培った溶接とブロック建造だったのは歴史の皮肉です。
    有難うございます。感じられる量産のメリットはやはり、日米を通して同じだったわけです。
    コスパどうこうというのは、言葉足らずで失礼致しました。
    “電気”溶接ですから、日本の発電量(?)において電気を多様する工程を奨励する態度があまり好ましくなかったとする話、電気溶接も技術職即ち“熟練工”であるため薦め難かった話等を拝見したものです。
    お話して頂いている造船というジャンルにおいてもそのようなデメリットが感じられていたのか、そもそもそれがデメリットとして有り得たのか(特に発電量云々は)と言われれば、これも疑問なのですが…。
    ねお少佐


  47. BUN様
    >アルファロメオ製に変ってからの故障多発により可動機/保有機の比率が日本の三式戦以下に落ちたことはかなり知られている事実だと思います。
    不勉強で、初めてこのエピソードをお伺い出来ました。有難うございます。

    mc202もライセンス組として同じように不調に苦しんでいたのですね。アルファロメオ製の不調をもたらした主な要因は、我が国のハ40のそれと同じようなものなのでしょうか?
    ねお少佐


  48. いまさらですが、
    >24.
    ランカスター/ハリファックスのような四発重爆も、複葉の赤とんぼも同じく「1機」ですよね。
    超音速


  49. 超音速様

    議論遡ってのお話、ありがとうございます。
    ここまで色々お話伺わせて頂いてますので、古レスも多くなってますが、色々意見頂けるのは幸いです。

    確かに仰る通りですね。
    特に何処の国でも単発練習機等は、しばしば『戦力ではない』として生産カウントをされませんが、戦時下軍用機の大分の割を占めますからね。
    四発重爆のようなゴツい機体を大量生産していた連合と、ほとんど生産数のない枢軸では、確かにアンフェアかも知れません。

    ひとつの指標としては、げしゅたぽ様が出して頂いた生産数という視点も重要だとは思いますが。

    ねお少佐



235 戦国武将で大名になっても
けつの穴掘られるのが好きな武将を教えて下さい

偉くなると掘る専門になるのでしょうか

あざきえる

  1.  いっぱいいるんじゃないですか。
     詳しくはこちらをご覧下さい。
     https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%81%A8%E7%94%B7%E8%89%B2%E2%80%95%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E3%80%8C%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%A1%86%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9B%9B%E8%A1%B0%E5%8F%B2-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%B0%E6%9B%B8y-%E4%B9%83%E8%87%B3-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4800303036
     
    hush



234 『保元物語』「白河殿を攻め落とす事」に次の記述があるそうです。
<敵、魚麟に懸かり破らんと擦れば、御方、鶴翼に連なりて射しらま(負)かす>
200騎の源義朝が「魚麟」の構えで挑み、対する28騎の源為朝が「鶴翼」の構えで射返したという、そうです。
ところで、「鶴翼」とは、敵に対峙して鶴が翼を広げるように左右に長く広げた隊形に配置する陣形ですね。
疑問に思うのは.200騎に対して、わずか28騎が左右に開いたら、薄すぎて各所で破られてしまう、と危惧しますが、どうでしょうか?

park12abc

  1. この時代の戦はまず矢戦と言って、お互いに矢を打ち合うことから始まります。これが終わるまで、相手陣に突撃するようなことは作法に外れるので、普通はしません。そう考えれば利にかなっていると言えます。
    PT


  2. PT様へ
    早速のご回答ありがとうございました。
    <まず矢戦>があるのですね。
    ところで、矢戦が終わったら、200騎の魚麟に対して28騎の鶴翼は、各所で薄すぎるような気がしますが。
    park12abc


  3.  「保元物語」の主人公ともいうべき源為朝が豪の者であることは否定しませんが、身長7尺(2m10cm)、左腕が右腕より4寸(12cm)長いという記述からして、かなり虚構が混じっている様子です。その28騎にしても、「四面楚歌」で有名な項羽の最後の戦いで従う者28騎とあるのを受けたのではないかといわれるぐらいで、史実ではないと思われます。したがって、この軍記物の作者が鶴翼、魚鱗と書いているとしても、そう書いているだけではないかと思っています。
     なお、「白河殿を攻め落とす事」は下記のURLに現代語訳つきで収められていますので、興味があれば御覧下さい。
     http://cubeaki.dip.jp/hogen/hogen-2/hogen2-2.html
     
    hush


  4. hush様へ
    早速のご回答ありがとうございました。
    いつもお世話になっております。
    「保元物語」は<かなり虚構が混じっている様子>ですね。
    中国の古典を利用して、<この軍記物の作者が鶴翼、魚鱗と書いている>だけなのですね。
    park12abc



233 関ヶ原合戦の補給兵站について質問です。
東軍西軍合わせて18万の兵員(諸説あり)の兵糧(兵の食糧や軍馬のまぐさ等軍事物資)の輸送はどの様にして美濃の関ヶ原まで届けられたのでしょうか?
東軍は東海道の諸大名の協力、西軍は瀬戸内の海運と大阪城の物資集積で臨んだように思いますが。
最後の大集積所の大阪から関ヶ原まで約150km。東軍はよく解らなかったのですが、東海道の補給路も江戸時代ほど整備はされていなかったでしょうし、
同時期のヨーロッパの大国でも数万人の兵隊を進軍させるのに四苦八苦しています。(欧州の軍では4頭立ての馬車でで1tの物資を輸送)
それでも陸路はほとんど補給に適さず海運と河川運輸と陸路では従軍商人と現地での略奪で賄っていましたし。
もし自軍の部隊でも先に進軍路を進まれていれば(先行した部隊に略奪されるため)略奪されていない他の進軍路を選ばなければいけませんでした。
この事は鉄道網が敷かれ、近世(ほんのある程度)ましになりましたが。16〜17世紀、欧州は10万人を超える野戦による大戦争は無かったように記憶しています。
なぜ日本では大軍が馬車も無く(道が悪くていわゆる荷馬に駄載、江戸時代の絵で馬一頭に米俵3俵、戦国時代は米1俵=60kgではなかったかと思いますが、まあ仮に1頭180kgしか運べません)
もし明治36年に採用された一頭立ての三六式輜重車が有っても(調べても改良型の三九式輜重車しか出てきませんでしたが)
220kgしか輸送できませんし、そもそも補給部隊の兵卒、軍馬で物資は減ります。
両軍は欧州と違いどの様に10万の軍隊に軍事物資を運んだのでしょうか?
M・v・クレフェルト「補給戦─何が勝敗を決定するのか」を読んで思いました。
最初、組織論かなと思い。社会、組織、時事Ans.Qに質問しましたが歴史的なものかもしれないとも思い、こちらにも質問させて頂きました。
回答はどちらでも構わないのでよろしくお願いします。
通りすがりです

  1. どうも文書が阿呆のように長すぎですね、
    要は西洋で大軍を動かすのに四苦八苦していたのに、日本の兵站(ミリタリーロジスティクス)では関ヶ原まで東西両軍が10万近い兵をを動かしていたのか。
    (西洋東洋とわず16世紀〜17世紀の戦場での補給方は略奪が多い)その違いが知りたかったのです。

    通りすがりです


  2. 中央公論社刊「日本の歴史」No.13によると、石田三成が増田長盛へ決戦の2日前に宛てた書状には米を近江から運ばせていた旨記されています。
    また、別の文献によれば、東軍は、福島正則が豊臣家から預かっていた米(御蔵入れ地からの収穫?)20万石を家康側に供出したそうです。但し、この文献は捜し出せない。なお、秀吉の小田原攻め移行の東海道は、ある程度は車両を利用できたと思います。これも、捜し出せない。
    UK



232 ニューギニア砲兵隊戦記の野砲兵第26連隊第3中隊の昭和十八年十月十八日の戦闘ですが、この中隊は渡河してきたオーストラリア軍に射撃を次々と命中させ、渡河したあと凹面にへばりついていた敵兵もこの砲兵の射撃で全滅が確認されましたし、対岸に潜む敵兵も撃つ目標が無くなるまで作業中隊及び隷下歩兵小隊の誘導で一通り射撃して多数の機関銃を破壊しており、「今までの鬱憤はこれで一度に晴れました」とかなりの打撃を与えたと考えられます。
河は太股ぐらいの深さで、パニックを起こした敵兵の一部は転んで多数が流されました。この渡河戦の砲兵隊の判定は、攻撃してきたオーストラリア軍二百名のうち半数以上が流されて下流で溺れた」「(射撃陣地からは観測できない為、20名の損害を与えたことは確実と控えめに見積もる砲兵に対し)何だ、それだけか、機関銃や迫撃砲など多数あったぞ、渡河してきた敵は河に流され、溺れて下流のよどみに浮いた屍体が多数あったと報告されたぞ」と説明していたことから、この時期には珍しく日本側の快勝だったことがうかがけます。
この日の歓喜嶺の陣地に攻撃を仕掛けたオーストラリア軍の戦死傷者を知りたいです。
げしゅたぽ

誰か答えて下さい。

231  イギリスではハリー王子夫妻の公務引退宣言で騒ぎになっていますが、お騒がせの大先輩であるウィンザー公夫妻について二つ質問いたします。

@ リスボン滞在の夫妻をシェレンベルクSS少佐が誘拐しようとしていたという説がありますが、シェレンベルクの証言以外に証拠はあるのでしょうか?
A ウィンザー公夫妻は王位復帰を狙ってナチスと内通していたという説は有名ですが、当時のイギリス政府は内通説を信じていたのでしょうか。
 それとも、疑惑があるので、とりあえずバハマヘ移したのでしょうか。 

PIAT

  1.  とりあえず以下のWikipediaを御覧になられてはと思います。
     https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Willi
     その翻訳
     https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Willi&prev=search
     
    hush



230 WW2期ではソ連も日本と同様の無降伏主義を採用しており捕虜やその家族には当局による苛烈な報復が行われていた、とのこですがそうすると同様捕虜になりそうになった将兵が後難を恐れて自決する、というケースも独ソ戦などであったのでしょうと 。
七ポンド

  1.  現代のロシアは自殺大国として知られているのですが、何冊かですがロシアの小説を読んだ感じでいくと、捕虜になりそうだから自殺するというようなメンタリティーはないとは思います。自殺のために銃弾や手榴弾を使うのなら、敵兵に向けるではないでしょうか。むしろ、自殺のためにそのようなものを使用する、あるいは、こちらのほうが多いと思いますが、使用させるという日本軍のほうが異様です。
     実際、独ソ戦では550万人ものソ連兵が枢軸軍の捕虜となったと言われ、その中にはスターリンの長男も含まれています。
     もっとも、その約60%が捕虜になってからナチスに殺されているのですが、日本軍捕虜4万人に対して、その多さが捕虜になるなという命令がいかに無効であったかを示していると思います。
     
    hush


  2.  むしろ、徹底抗戦を叫ぶ政治将校を自分たちで殺して部隊ごと投降した例もあるくらいなので・・・

     そもそも日本の無降伏は日中戦争で捕虜になった日本将兵が拷問された挙句に殺されてボロボロの状態で捨てられるような事例が頻発した結果なので、捕虜になったら死ぬ方がマシと思えるような目にあわされるという認識が下地になってます。
     当時の中国軍同様に捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していないのなら、投降よりも死を選ぶという発想自体出てこないのではないでしょうか?
    おうる


  3. >2
     旧日本軍が無降伏主義を前面に押し出したのは「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱を受けず」としたのが原因だろうと思っています。このため、兵士は家族に累が及ぶのを恐れたこともありますが、自殺を強要されたケースも多いのは、戦史を紐解けば分かることだと思います。
     日中戦争でというのは、日清戦争のことではないでしょうか。当時、第1軍司令官だった山県有朋が「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と訓令しているからです。この時、日清両国とも捕虜の処刑は一般的であり、日本軍は旅順口での虐殺事件を欧米に非難されたことから、日露戦争でのロシア軍捕虜に対する扱いは鄭重を極めていますが、樺太ではロシア軍捕虜180名を処刑しています。
     なお、「捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していないのなら」ということですが、1で書きましたように、ナチスはソ連軍捕虜の60%を殺害しています。
     
    hush


  4. ソ連軍というより帝政ロシア軍のことですが、中央アジアやオスマントルコとの戦争でのロシア人捕虜の扱いから、虜になるなと言われたという話を聞いたことがあります。
    タンジェント


  5. >>3 >日中戦争でというのは、日清戦争のことではないでしょうか。

     日清のは良く存じませんが、日露戦争やWW1で日本軍による捕虜の扱いは国際法に則って公正なものだったのに、WW2になって何故ガラッと変わったのか?と疑問に思い少しですが調べたことがあります。明確に断定しうるほど強力な回答は得られませんでしたが、日中戦争(WW1後)での中国に捕虜となった日本兵が・・・という理由を主張する文献等をいくつか目にしました。そのうちの一つ、野村実著「山本五十六再考」の中では具体的にこれがきっかけではないかという事件まで絞り込まれていましたが、本当にそうなのかどうかの検証はしてません。

    >なお、「捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していないのなら」ということですが、1で書きましたように、ナチスはソ連軍捕虜の60%を殺害しています。

     実際にどうだったかよりも当時のロシア人がどう認識していたかが重要だと思います。WW2以前のロシアはドイツと比較的友好的な関係にあったように記憶しています。ドイツ人がロシア人捕虜をどう扱うかがまだ知られていなければ、「捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していない」のと同じでは無いでしょうか?
     仮に知られていたとして、その「酷い目」の程度がソヴィエト共産党の自分たちに対する扱いと比べて大差なければ問題に思わないかもしれません。
    おうる


  6. >5
     「日露戦争やWW1で日本軍による捕虜の扱いは国際法に則って公正」だった理由は、それが西洋人であったからだと思っています。というのは、幕末に結ばれた不平等条約からの脱却が日本の悲願だったからです。したがって、この国がいかに文明的であるかを示す必要がありました。このため、日露戦争における日本のロシア軍捕虜に対する扱いは、欧米が賛嘆するほどに鄭重でした。また、WW1時には、不平等条約の改正にようやく成功したばかりで、ドイツに対しては戦闘らしきものもありませんでしたので、その流れでいけました。ただ、シベリヤ出兵については、尼港事件の余波もあり、これは余り日本では知られていないようですが、いまだにロシア人の憤激をかうような事態は起きていたようです。これは、共産主義革命により、ロシアが欧米列強とみなされないと考えられた部分もあったのかもしれません。
     欧米に対してはそうでしたが、中国と李氏朝鮮ならびに韓国に対しては、その苦しんだ不平等条約を結ばせたぐらいですので、そういう配慮は少なかったようです。したがって、日清戦争ならびに日中戦争においての捕虜の扱いは、双方とも誉められたものではなかったと思っています。ですから、仰るようなことは起きていたでしょうし、それがきっかけになったというのもありえる話だと思います。ただ、その萌芽は、日清戦争、もしかしたらその前まで遡るのかもしれないと申したまでです。
     ロシアとドイツの良好な関係は、双方の皇帝が親戚だったからだと思っていますが、領土問題はあり、内実はどうだったのかなと思っています。しかも、ロシア革命とドイツの敗戦により、それすらも崩壊します。もちろん、独ソ不可侵条約というものはありますが、これとても日本に政変をもたらし、世界中に衝撃を与えた事件と記憶されているぐらいで、両国民の相互信頼に結びつくものではなかったと思っています。
     実際のところ、ヒットラーは「我が闘争」の中で、「東方生存圏の獲得」 と「スラブ民族の奴隷化」を明言しているのですから、相互信頼などありえないでしょう。また、ドイツ諸邦はナポレオンのロシア侵攻に参加させられており、飢餓に苦しんだ中で、捕虜の取扱いを云々できる状態ではありませんでしたし、ジュネーブ条約後においても、あの時代の小説を読んでいるとどうだったのかなと思います。
     たまたま、亡父がソ連に抑留されておりますので、戦時捕虜の扱いについては関心はあります。ただ、この点については、人によって言うことがかなり違います。これは、歴史認識、あるいは思想信条によりますので、水掛け論に近い部分があって、あまり触れたくはない部分ではありますし、質問から離れていきそうなので、このあたりで。

     御質問に対しては、質問者の方から、何のコメントも戴いておりませんので続けさせていただきますが、捕虜になるぐらいなら自殺するというメンタリティーがないというのは、キリスト教が大きいと思っています。というのは、その一つであるロシア正教でも自殺を禁止しているからです。もちろん、共産主義政権下では弾圧されましたが、ソ連崩壊後速やかに復活したように、かなりの信者を持っており、影響は大きいはずです。しかも、独ソ戦の頃には、親が、あるいは本人が信者であったケースも多かったと思いますし、国民全体に、自殺すれば神の裁きを受けるというのは染み付いていたと思っております。
     御参考になれば幸いです。
     
    hush


  7. >旧日本軍が無降伏主義を前面に押し出したのは「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱を受けず」としたのが原因

    昭和後期、平成初期には広く流布された通説でしたね。懐かしい。
    ただ、「戦陣訓」が制定されたのが昭和16年1月と歴史が浅いことから、当時から、例えば山本七平氏の「私の中の日本軍」等でその通説に対しての疑問は示されていたところです。

    両者の関連をどうとらえるかについては議論があるところでしょうが、「原因」というよりは(無降伏主義がもたらしたところの)「現象」と押さえておく方が無難なところでしょう。

    くーがー3


  8. 様々なご回答、コメントありがとうございます。日本軍の無降伏主義についても興味を持ってリサーチしているのですが捕虜になったことを理由に自決に追い込まれたのは1932年の空閑昇少佐のケースが初めてのようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E9%96%91%E6%98%87

    軍当局の方針や中国側の捕虜の処遇よりも世間の空気が決定的な役割を果たしたように読めます。
    七ポンド



229  ファッションについて質問です。

 18世紀ごろの軍人の肖像画などを見ると、上着の前合わせのボタンを上の方だけ留めて下の方を留めずに前合わせを広げてシャツの腹の部分を露出させてる着方を見かけることがあります。

 あれは何という着方でどういう理由でどこでいつ頃から始まり、いつ頃終わったのか教えてください。

 先週、博物館の企画展で展示されていた明治時代の日本の写真で、日本人の学生(中学生か高校生)が学生服を同じように着ているのを見て気になりました。
おうる

  1.  アビ・ア・ラ・フランセーズhabit la francaiseとかジュストコールjustaucorpsと呼ばれるもののことでしょうか。
     
    hush


  2.  回答ありがとうございます。

     軍服や制服のイメージが強かったのでここで質問してしまいましたが、ロココ時代のフランスの男性貴族の衣服が由来のようですね。着方そのものに特に名称は無さそうです。

     軍服や制服と言うと着方について厳しく指導する印象がありますが、ああいった着方(着崩し方?)はいつ頃の時代まで残ったのでしょうか?
    おうる


  3.  この時代の軍人って、少なくとも指揮官は貴族で、誰がなんと言おうと好き勝手に着こなしていたと思うのです。また、上のほう、つまり、王とか、皇帝といった人達ですが、自分の配下の軍隊がきらびやかであるのを喜んでいたように思います。
     そして、戦闘になったら、相手を殺すより、捕虜にして身代金をせしめる。囚われた側も、それを恥とも思わず、捕らえた相手と晩餐を楽しみながら、身代金が送られてくるの待っている。そんな時代です。
     そういう風潮が変わっていくのは、傭兵が主流だった時代から、国民皆兵になったからだと思います。そうなると、真剣に相手を殺そうとしますから、着るものも動きやすいもの、統制の取れたものとなっていって、華美なものは目立つからいかんとかなるのではと思っています。
     もっとも、第1次世界大戦あたりの軍服などをみていると、けっこう派手なものもありますから、国によるのだろうなとは思いますが。
     服飾のことなど私に分かるはずもないのですが、デュマとか佐藤亜紀とか読んでいて、多少の興味はあります。それで、ちょっと書かしてもらいましたが、これが正しいかどうかは保障はできませんので、よろしく。
     
    hush


  4. 恐らくベストのボタンの事かなぁ。
    18世紀頃の上着はそもそも下の釦は止まらないように出来ているのが普通なので。

    アンボタンマナーの始まりですよ。
    別に好き勝手に着ていたのではなく、飾り釦なのでしていないということです。
    18世紀頃、フリル付きのシャツが下火になってきたのが始まりで、19世紀に定着したものです。もちろん、全て止めるのも問題ありません。
    じゃんご



228 対外戦争の際に、戦闘指揮を執る所在地が移動・前進しました。
白村江の戦いでは、福岡県朝倉市に、
朝鮮出兵では、佐賀県唐津市に、
日清戦争では、広島市に。
しかし、元寇の時には、執権・北条時宗は鎌倉を動きませんでした。
なぜ、動かなかったのしょうか?

park123

  1.  防衛戦だからでしょう。
     
    hush


  2. 元寇以外は侵攻戦ですね。

    ところで、動く動かないの話ですが、元寇以外の戦いの時には誰が動いたのでしょう。
    執権ですから鎌倉に居るのが妥当かと思います。


    暇人


  3. 太宰府の存在をわきまえておくことも大事です。


  4. 4.hush様へ
    ご回答ありがとうございます。
    お礼が大変遅れ、申訳ありません。
    <防衛戦>なのですね。
    もし前線での戦いが不利になった場合、中枢部に波及することを避けている、ということですか?
    park123


  5.  元の来襲時、九州は幕府の統治下にはありません。尾張、飛騨、加賀以西は西国であり、訴訟時には六波羅探題が採決を行っていますが、天皇の統治下にあります。そして、文永の役の主戦力となったのは九州在住の武士たちです。また、弘安の役においても、異国警固番役となったのは九州に所領を持つ御家人です。つまり、幕府は、元の使いを斬ったりしていますが、西国のことは朝廷の領域であるというスタンスは崩していないのです。当然、時宗が前に出てくるはずがありません。もちろん、防衛戦ですから、天皇が出てくるわけもありません。
     しかし、それではまずいと、異国警固番役に東国、西国の非御家人を命じたり、鎮西探題を設けたりしていますが、これは弘安以降の話です。
     
    hush


  6. hush様へ
    再度のご回答ありがとうございます。
    お礼が再び大変遅れ、申訳けありません。
    初めて知りましたが、<九州は幕府の統治下にはありません。>なのですね。
    <主戦力となったのは九州在住の武士>なのですね。実は、以前から、なぜ、東国からの防人のように、全国から武士を動員しないのだろう、と訝しく思っていましたが、氷解しました。
    <時宗が前に出てくるはずがありません。>なのですね。
    私のようなうろ覚えの歴史(否他の知識も)は、危険ですね。

    park123



227  1898年のスペイン−アメリカ戦争(米西戦争)で活躍した義勇兵部隊である『ラフ・ライダーズ』について質問いたします。
@隊員はどのような人たちだったのでしょうか?
 私は冒険好きな銃愛好家や賞金稼ぎの集団のような印象があるのですが?
A隊長のセオドア=ルーズベルトは元海軍次官でしたが、軍隊経験があるように思えません。
 この戦争で名誉勲章を受章しているくらいですから、手柄を立てたと思うのですが、どのような方法で軍人の能力を身につけたのでしょうか?
 英語版のWikipediaには詳しい記事があるようなので、どなたか教えていただければ幸いです。
PIAT

  1.  https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders
     こちらを見てください。
     
    hush


  2.  間違いました。
     https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders&prev=search
     
    hush


  3. hush 様 お礼が遅くなりましたが、翻訳を提供いただきありがとうございました。
    google翻訳は随分読みやすくなったのですね。
    数年前にwikipediaをgoogle翻訳にかけたところ、日本語が支離滅裂だったので、翻訳をあきらめていたのですが、これからは利用したいと思います。。


    PIAT



226  幕末〜明治の軍艦の扱いについて質問します。

 江戸時代は各藩ごとに武器の西洋化を進めており、小銃から軍艦までさまざまな兵器が輸入されています。小銃や大砲等の火器についてはほぼ全て明治政府に移管されていますが、軍艦については良くわかりません。
 幕府海軍の軍艦は最終的に明治政府に移管されていますが、各藩で保有していた軍艦はどうなったのでしょうか?
 いくつかの軍艦については民間で海運に使われたのは確認しています。銃器類のように海軍(明治政府)に納められなかったのは何か理由があったのでしょうか?
おうる

  1.  勝海舟の「海軍歴史」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845168 には、諸侯船譜として、各家(藩は基本的に明治になってでてきますので)の所有船の一覧が載っています。この一覧には漏れも多いのですが、これらは明治政府に献納されなかった船となります。では、なぜそうならなかったのかというと、海軍が欲しがらなかったからです。
     大船建造の禁の廃止により、各家は洋船の購入に走ったので、かなり程度の悪い船を、殿様ですので、言い値で買ったりしています。その後、徐々にきちんとしたものになっていき、国内での建造も始まります。しかし、津の藤堂家の神風丸のように、造ったがうまく動かなかったなんてものもあります。また、海軍創設の頃には、老朽化している船も多かったわけです。
     実際、大阪の海遊館のそばの天保山、あの沖(つまり、USJとの間)で1868年に最初の観艦式が行われていますが、その旗艦となった電流丸ですら、その4年後に献納を申し入れた時には、老朽しているということで拒否され、大砲だけを受け取っています。
     また、表を見ていますと、備考欄に備砲の数が記されたものがありますが、電流丸の10門が一番多く、ほとんどが数門です。掲載されていないもののすべてが武装していなかったわけでもないでしょうが、あっても1、2門というところではないかと思っています。まだ、軍艦と商船の境目がまだ不分明な時代ですが、老朽化していなくても、輸送任務にしか使えないものが多かったと思われます。
     しかし、海軍では役に立たないとみなされても、民間では貴重な輸送手段です。たとえば、広重の「東海道五十三次」の木版画を見ても、荷物を運ぶ牛馬の姿がほとんどありません。実際、東海道といえども、道幅が狭く、そのような用途には使えないのです。しかし、海上には帆掛舟が浮いていて、これが上方と江戸を結ぶ輸送路だと分かります。そういう中で、老朽化していても、大型の船は貴重な存在であり、収入源となりえたと愚考致しております。
     
    hush


  2. 回答ありがとうございます。

     一応、各藩の保有艦船を明治政府に納めさせようという動きはあったんですかね?
     江戸時代に海に面していた藩だけでも結構な数があり、そのうちどれくらいの藩が艦船を保有したかまでは存じませんが総数はそれなりにあった筈・・・それらがすべて「不要」とされたとしたらそれはそれですごい話ですね。
    おうる


  3. >2
    >各藩の保有艦船を明治政府に納めさせようという動きはあったんですかね?
     存じません。実のところ、「小銃や大砲等の火器についてはほぼ全て明治政府に移管」させたかどうかも存じませんし、占領軍が行うまで割と銃器類は民間にあったようですので、その典拠はどこにあるのか御教示いただければと思っているぐらいです。
    >総数は
     https://www.jp-history.info/warship こちらのサイトには幕末軍艦全140艦とあります。
    >「不要」とされたとしたら
     それらの船は華族となった諸侯の私有財産となったのではないかと思っておりますが、それを献納するかどうかは各自の判断でしょうし、すべてを献納されても、それを運用するだけの力が新政府にあったとは思っていません。
     というのは、それらの船を運用するには人員が必要ですが、財政難の時代、その人達に支払う給与を出せたかどうかは疑問だからです。したがって、新政府としても、電流丸のように献納を申し込まれても謝絶したように、取捨選択する必要はあったはずなのです。
     
    hush


  4. >総数はそれなりにあった筈…それらがすべて「不要」とされたとしたら
     新政府が所有した艦船のすべてが旧幕府のものであって、献納されたものはなかったという意味にお取りになっていないですよね。
     まさかとは思いますが、念のため、記させてもらいます。
     
    hush


  5. >>3
    >その典拠はどこにあるのか御教示いただければと思っているぐらいです。

     思えばそういう話を本で(日本軍の小銃に菊の御紋が刻まれるようになった経緯を説明する文章の中で)読んだことはありますが、事実かどうかは確認していませんでした。

    >>4
    >新政府が所有した艦船のすべてが旧幕府のものであって、献納されたものはなかったという意味にお取りになっていないですよね。

     さすがにそれはないです。
    おうる


  6. >5
     ありがとうございます。
     4に関しては、大変、失礼なことをうかがって申し訳なく思っております。御寛恕いただければ幸甚に存じます。
     
    hush



225 「武器、装備全般 787」によると、パレンバン空挺作戦では日本軍落下傘部隊は重火器を回収できず、多くの隊員は拳銃や手榴弾で戦ったとのことです。
 そこで質問いたします。
 油田を守備していたオランダ軍等は大砲・機関銃・ジープ等を装備していたはずですが、なぜ降伏したのでしょうか?
 よほど奇襲がうまくいったのでしょうか?

PIAT

  1. この時期、日本軍はあちこちで上陸作戦を実施して、シンガポールは陥落寸前。
    空は64戦隊やら59戦隊が頑張っていたと思います。
    そして、オランダ本国はもはや亡命政権。

    パレンバンは完全に奇襲だった様です。
    守備兵が逃げ出した様な記述も見ます。当たり前の様な気がします。
    暇人


  2. パレンバン市街/製油所/飛行場に配備されていたのは蘭印軍一個大隊と歩兵2中隊で合計歩兵11ヶ小隊.機関銃7ヶ小隊.迫撃砲3ヶ小隊.野砲8門.装甲車7両.40粍高射機関砲2門と英軍対空部隊(砲数不明)と航空補助部隊だったようです。
    挺進部隊の降下の際、輸送機がロッキードだったため英軍のロッキードハドソン爆撃機と誤認し奇襲になりました。
    降下兵と略同数の物料傘が投下された為、兵数を誤認した可能性があります。
    降下した兵の攻撃と市街と飛行場間の交通が7名の兵により遮断された為、航空補助部隊の撤退と市街からの増援が阻止され、製油所/飛行場施設の一部を爆破出来たことから包囲を逃れるため撤退したのです。
    poran


  3. 暇人様 
     私は当初、本国を失ったオランダ兵がヘタレだったと思っていたのですが、英米軍も加わっていたことを知り、もっとがんばれなかったのか不思議に思って質問させていただきました。
     マニラやシンガポールの陥落が同じ頃であり、連合軍も手一杯だったのですね。

    poran様
     くわしい描写をしていただき、ありがとうございます。
     油田の守備隊は降伏したのではなく、油田に放火して退却したのですね。
     まさか攻撃部隊が小銃も持ってないとは思わなかったのでしょうね。
     
     最後にお尋ねしますが、連合軍は日本軍に空挺部隊があることを知っていたのでしょうか?
     
    PIAT


  4. 海軍が1ヶ月前にメナドに降下してますから当然知っていて、対空挺用の鹿砦が造ってあったそうです。

    poran



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