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戦史、歴史
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234 『保元物語』「白河殿を攻め落とす事」に次の記述があるそうです。
<敵、魚麟に懸かり破らんと擦れば、御方、鶴翼に連なりて射しらま(負)かす>
200騎の源義朝が「魚麟」の構えで挑み、対する28騎の源為朝が「鶴翼」の構えで射返したという、そうです。
ところで、「鶴翼」とは、敵に対峙して鶴が翼を広げるように左右に長く広げた隊形に配置する陣形ですね。
疑問に思うのは.200騎に対して、わずか28騎が左右に開いたら、薄すぎて各所で破られてしまう、と危惧しますが、どうでしょうか?

park12abc

  1. この時代の戦はまず矢戦と言って、お互いに矢を打ち合うことから始まります。これが終わるまで、相手陣に突撃するようなことは作法に外れるので、普通はしません。そう考えれば利にかなっていると言えます。
    PT


  2. PT様へ
    早速のご回答ありがとうございました。
    <まず矢戦>があるのですね。
    ところで、矢戦が終わったら、200騎の魚麟に対して28騎の鶴翼は、各所で薄すぎるような気がしますが。
    park12abc


  3.  「保元物語」の主人公ともいうべき源為朝が豪の者であることは否定しませんが、身長7尺(2m10cm)、左腕が右腕より4寸(12cm)長いという記述からして、かなり虚構が混じっている様子です。その28騎にしても、「四面楚歌」で有名な項羽の最後の戦いで従う者28騎とあるのを受けたのではないかといわれるぐらいで、史実ではないと思われます。したがって、この軍記物の作者が鶴翼、魚鱗と書いているとしても、そう書いているだけではないかと思っています。
     なお、「白河殿を攻め落とす事」は下記のURLに現代語訳つきで収められていますので、興味があれば御覧下さい。
     http://cubeaki.dip.jp/hogen/hogen-2/hogen2-2.html
     
    hush


  4. hush様へ
    早速のご回答ありがとうございました。
    いつもお世話になっております。
    「保元物語」は<かなり虚構が混じっている様子>ですね。
    中国の古典を利用して、<この軍記物の作者が鶴翼、魚鱗と書いている>だけなのですね。
    park12abc



233 関ヶ原合戦の補給兵站について質問です。
東軍西軍合わせて18万の兵員(諸説あり)の兵糧(兵の食糧や軍馬のまぐさ等軍事物資)の輸送はどの様にして美濃の関ヶ原まで届けられたのでしょうか?
東軍は東海道の諸大名の協力、西軍は瀬戸内の海運と大阪城の物資集積で臨んだように思いますが。
最後の大集積所の大阪から関ヶ原まで約150km。東軍はよく解らなかったのですが、東海道の補給路も江戸時代ほど整備はされていなかったでしょうし、
同時期のヨーロッパの大国でも数万人の兵隊を進軍させるのに四苦八苦しています。(欧州の軍では4頭立ての馬車でで1tの物資を輸送)
それでも陸路はほとんど補給に適さず海運と河川運輸と陸路では従軍商人と現地での略奪で賄っていましたし。
もし自軍の部隊でも先に進軍路を進まれていれば(先行した部隊に略奪されるため)略奪されていない他の進軍路を選ばなければいけませんでした。
この事は鉄道網が敷かれ、近世(ほんのある程度)ましになりましたが。16〜17世紀、欧州は10万人を超える野戦による大戦争は無かったように記憶しています。
なぜ日本では大軍が馬車も無く(道が悪くていわゆる荷馬に駄載、江戸時代の絵で馬一頭に米俵3俵、戦国時代は米1俵=60kgではなかったかと思いますが、まあ仮に1頭180kgしか運べません)
もし明治36年に採用された一頭立ての三六式輜重車が有っても(調べても改良型の三九式輜重車しか出てきませんでしたが)
220kgしか輸送できませんし、そもそも補給部隊の兵卒、軍馬で物資は減ります。
両軍は欧州と違いどの様に10万の軍隊に軍事物資を運んだのでしょうか?
M・v・クレフェルト「補給戦─何が勝敗を決定するのか」を読んで思いました。
最初、組織論かなと思い。社会、組織、時事Ans.Qに質問しましたが歴史的なものかもしれないとも思い、こちらにも質問させて頂きました。
回答はどちらでも構わないのでよろしくお願いします。
通りすがりです

  1. どうも文書が阿呆のように長すぎですね、
    要は西洋で大軍を動かすのに四苦八苦していたのに、日本の兵站(ミリタリーロジスティクス)では関ヶ原まで東西両軍が10万近い兵をを動かしていたのか。
    (西洋東洋とわず16世紀〜17世紀の戦場での補給方は略奪が多い)その違いが知りたかったのです。

    通りすがりです



232 ニューギニア砲兵隊戦記の野砲兵第26連隊第3中隊の昭和十八年十月十八日の戦闘ですが、この中隊は渡河してきたオーストラリア軍に射撃を次々と命中させ、渡河したあと凹面にへばりついていた敵兵もこの砲兵の射撃で全滅が確認されましたし、対岸に潜む敵兵も撃つ目標が無くなるまで作業中隊及び隷下歩兵小隊の誘導で一通り射撃して多数の機関銃を破壊しており、「今までの鬱憤はこれで一度に晴れました」とかなりの打撃を与えたと考えられます。
河は太股ぐらいの深さで、パニックを起こした敵兵の一部は転んで多数が流されました。この渡河戦の砲兵隊の判定は、攻撃してきたオーストラリア軍二百名のうち半数以上が流されて下流で溺れた」「(射撃陣地からは観測できない為、20名の損害を与えたことは確実と控えめに見積もる砲兵に対し)何だ、それだけか、機関銃や迫撃砲など多数あったぞ、渡河してきた敵は河に流され、溺れて下流のよどみに浮いた屍体が多数あったと報告されたぞ」と説明していたことから、この時期には珍しく日本側の快勝だったことがうかがけます。
この日の歓喜嶺の陣地に攻撃を仕掛けたオーストラリア軍の戦死傷者を知りたいです。
げしゅたぽ

誰か答えて下さい。

231  イギリスではハリー王子夫妻の公務引退宣言で騒ぎになっていますが、お騒がせの大先輩であるウィンザー公夫妻について二つ質問いたします。

@ リスボン滞在の夫妻をシェレンベルクSS少佐が誘拐しようとしていたという説がありますが、シェレンベルクの証言以外に証拠はあるのでしょうか?
A ウィンザー公夫妻は王位復帰を狙ってナチスと内通していたという説は有名ですが、当時のイギリス政府は内通説を信じていたのでしょうか。
 それとも、疑惑があるので、とりあえずバハマヘ移したのでしょうか。 

PIAT

  1.  とりあえず以下のWikipediaを御覧になられてはと思います。
     https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Willi
     その翻訳
     https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Willi&prev=search
     
    hush



230 WW2期ではソ連も日本と同様の無降伏主義を採用しており捕虜やその家族には当局による苛烈な報復が行われていた、とのこですがそうすると同様捕虜になりそうになった将兵が後難を恐れて自決する、というケースも独ソ戦などであったのでしょうと 。
七ポンド

  1.  現代のロシアは自殺大国として知られているのですが、何冊かですがロシアの小説を読んだ感じでいくと、捕虜になりそうだから自殺するというようなメンタリティーはないとは思います。自殺のために銃弾や手榴弾を使うのなら、敵兵に向けるではないでしょうか。むしろ、自殺のためにそのようなものを使用する、あるいは、こちらのほうが多いと思いますが、使用させるという日本軍のほうが異様です。
     実際、独ソ戦では550万人ものソ連兵が枢軸軍の捕虜となったと言われ、その中にはスターリンの長男も含まれています。
     もっとも、その約60%が捕虜になってからナチスに殺されているのですが、日本軍捕虜4万人に対して、その多さが捕虜になるなという命令がいかに無効であったかを示していると思います。
     
    hush


  2.  むしろ、徹底抗戦を叫ぶ政治将校を自分たちで殺して部隊ごと投降した例もあるくらいなので・・・

     そもそも日本の無降伏は日中戦争で捕虜になった日本将兵が拷問された挙句に殺されてボロボロの状態で捨てられるような事例が頻発した結果なので、捕虜になったら死ぬ方がマシと思えるような目にあわされるという認識が下地になってます。
     当時の中国軍同様に捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していないのなら、投降よりも死を選ぶという発想自体出てこないのではないでしょうか?
    おうる


  3. >2
     旧日本軍が無降伏主義を前面に押し出したのは「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱を受けず」としたのが原因だろうと思っています。このため、兵士は家族に累が及ぶのを恐れたこともありますが、自殺を強要されたケースも多いのは、戦史を紐解けば分かることだと思います。
     日中戦争でというのは、日清戦争のことではないでしょうか。当時、第1軍司令官だった山県有朋が「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と訓令しているからです。この時、日清両国とも捕虜の処刑は一般的であり、日本軍は旅順口での虐殺事件を欧米に非難されたことから、日露戦争でのロシア軍捕虜に対する扱いは鄭重を極めていますが、樺太ではロシア軍捕虜180名を処刑しています。
     なお、「捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していないのなら」ということですが、1で書きましたように、ナチスはソ連軍捕虜の60%を殺害しています。
     
    hush


  4. ソ連軍というより帝政ロシア軍のことですが、中央アジアやオスマントルコとの戦争でのロシア人捕虜の扱いから、虜になるなと言われたという話を聞いたことがあります。
    タンジェント


  5. >>3 >日中戦争でというのは、日清戦争のことではないでしょうか。

     日清のは良く存じませんが、日露戦争やWW1で日本軍による捕虜の扱いは国際法に則って公正なものだったのに、WW2になって何故ガラッと変わったのか?と疑問に思い少しですが調べたことがあります。明確に断定しうるほど強力な回答は得られませんでしたが、日中戦争(WW1後)での中国に捕虜となった日本兵が・・・という理由を主張する文献等をいくつか目にしました。そのうちの一つ、野村実著「山本五十六再考」の中では具体的にこれがきっかけではないかという事件まで絞り込まれていましたが、本当にそうなのかどうかの検証はしてません。

    >なお、「捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していないのなら」ということですが、1で書きましたように、ナチスはソ連軍捕虜の60%を殺害しています。

     実際にどうだったかよりも当時のロシア人がどう認識していたかが重要だと思います。WW2以前のロシアはドイツと比較的友好的な関係にあったように記憶しています。ドイツ人がロシア人捕虜をどう扱うかがまだ知られていなければ、「捕虜を酷い目に合わせるような敵が欧州に存在していない」のと同じでは無いでしょうか?
     仮に知られていたとして、その「酷い目」の程度がソヴィエト共産党の自分たちに対する扱いと比べて大差なければ問題に思わないかもしれません。
    おうる


  6. >5
     「日露戦争やWW1で日本軍による捕虜の扱いは国際法に則って公正」だった理由は、それが西洋人であったからだと思っています。というのは、幕末に結ばれた不平等条約からの脱却が日本の悲願だったからです。したがって、この国がいかに文明的であるかを示す必要がありました。このため、日露戦争における日本のロシア軍捕虜に対する扱いは、欧米が賛嘆するほどに鄭重でした。また、WW1時には、不平等条約の改正にようやく成功したばかりで、ドイツに対しては戦闘らしきものもありませんでしたので、その流れでいけました。ただ、シベリヤ出兵については、尼港事件の余波もあり、これは余り日本では知られていないようですが、いまだにロシア人の憤激をかうような事態は起きていたようです。これは、共産主義革命により、ロシアが欧米列強とみなされないと考えられた部分もあったのかもしれません。
     欧米に対してはそうでしたが、中国と李氏朝鮮ならびに韓国に対しては、その苦しんだ不平等条約を結ばせたぐらいですので、そういう配慮は少なかったようです。したがって、日清戦争ならびに日中戦争においての捕虜の扱いは、双方とも誉められたものではなかったと思っています。ですから、仰るようなことは起きていたでしょうし、それがきっかけになったというのもありえる話だと思います。ただ、その萌芽は、日清戦争、もしかしたらその前まで遡るのかもしれないと申したまでです。
     ロシアとドイツの良好な関係は、双方の皇帝が親戚だったからだと思っていますが、領土問題はあり、内実はどうだったのかなと思っています。しかも、ロシア革命とドイツの敗戦により、それすらも崩壊します。もちろん、独ソ不可侵条約というものはありますが、これとても日本に政変をもたらし、世界中に衝撃を与えた事件と記憶されているぐらいで、両国民の相互信頼に結びつくものではなかったと思っています。
     実際のところ、ヒットラーは「我が闘争」の中で、「東方生存圏の獲得」 と「スラブ民族の奴隷化」を明言しているのですから、相互信頼などありえないでしょう。また、ドイツ諸邦はナポレオンのロシア侵攻に参加させられており、飢餓に苦しんだ中で、捕虜の取扱いを云々できる状態ではありませんでしたし、ジュネーブ条約後においても、あの時代の小説を読んでいるとどうだったのかなと思います。
     たまたま、亡父がソ連に抑留されておりますので、戦時捕虜の扱いについては関心はあります。ただ、この点については、人によって言うことがかなり違います。これは、歴史認識、あるいは思想信条によりますので、水掛け論に近い部分があって、あまり触れたくはない部分ではありますし、質問から離れていきそうなので、このあたりで。

     御質問に対しては、質問者の方から、何のコメントも戴いておりませんので続けさせていただきますが、捕虜になるぐらいなら自殺するというメンタリティーがないというのは、キリスト教が大きいと思っています。というのは、その一つであるロシア正教でも自殺を禁止しているからです。もちろん、共産主義政権下では弾圧されましたが、ソ連崩壊後速やかに復活したように、かなりの信者を持っており、影響は大きいはずです。しかも、独ソ戦の頃には、親が、あるいは本人が信者であったケースも多かったと思いますし、国民全体に、自殺すれば神の裁きを受けるというのは染み付いていたと思っております。
     御参考になれば幸いです。
     
    hush


  7. >旧日本軍が無降伏主義を前面に押し出したのは「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱を受けず」としたのが原因

    昭和後期、平成初期には広く流布された通説でしたね。懐かしい。
    ただ、「戦陣訓」が制定されたのが昭和16年1月と歴史が浅いことから、当時から、例えば山本七平氏の「私の中の日本軍」等でその通説に対しての疑問は示されていたところです。

    両者の関連をどうとらえるかについては議論があるところでしょうが、「原因」というよりは(無降伏主義がもたらしたところの)「現象」と押さえておく方が無難なところでしょう。

    くーがー3



229  ファッションについて質問です。

 18世紀ごろの軍人の肖像画などを見ると、上着の前合わせのボタンを上の方だけ留めて下の方を留めずに前合わせを広げてシャツの腹の部分を露出させてる着方を見かけることがあります。

 あれは何という着方でどういう理由でどこでいつ頃から始まり、いつ頃終わったのか教えてください。

 先週、博物館の企画展で展示されていた明治時代の日本の写真で、日本人の学生(中学生か高校生)が学生服を同じように着ているのを見て気になりました。
おうる

  1.  アビ・ア・ラ・フランセーズhabit la francaiseとかジュストコールjustaucorpsと呼ばれるもののことでしょうか。
     
    hush


  2.  回答ありがとうございます。

     軍服や制服のイメージが強かったのでここで質問してしまいましたが、ロココ時代のフランスの男性貴族の衣服が由来のようですね。着方そのものに特に名称は無さそうです。

     軍服や制服と言うと着方について厳しく指導する印象がありますが、ああいった着方(着崩し方?)はいつ頃の時代まで残ったのでしょうか?
    おうる


  3.  この時代の軍人って、少なくとも指揮官は貴族で、誰がなんと言おうと好き勝手に着こなしていたと思うのです。また、上のほう、つまり、王とか、皇帝といった人達ですが、自分の配下の軍隊がきらびやかであるのを喜んでいたように思います。
     そして、戦闘になったら、相手を殺すより、捕虜にして身代金をせしめる。囚われた側も、それを恥とも思わず、捕らえた相手と晩餐を楽しみながら、身代金が送られてくるの待っている。そんな時代です。
     そういう風潮が変わっていくのは、傭兵が主流だった時代から、国民皆兵になったからだと思います。そうなると、真剣に相手を殺そうとしますから、着るものも動きやすいもの、統制の取れたものとなっていって、華美なものは目立つからいかんとかなるのではと思っています。
     もっとも、第1次世界大戦あたりの軍服などをみていると、けっこう派手なものもありますから、国によるのだろうなとは思いますが。
     服飾のことなど私に分かるはずもないのですが、デュマとか佐藤亜紀とか読んでいて、多少の興味はあります。それで、ちょっと書かしてもらいましたが、これが正しいかどうかは保障はできませんので、よろしく。
     
    hush



228 対外戦争の際に、戦闘指揮を執る所在地が移動・前進しました。
白村江の戦いでは、福岡県朝倉市に、
朝鮮出兵では、佐賀県唐津市に、
日清戦争では、広島市に。
しかし、元寇の時には、執権・北条時宗は鎌倉を動きませんでした。
なぜ、動かなかったのしょうか?

park123

  1.  防衛戦だからでしょう。
     
    hush


  2. 元寇以外は侵攻戦ですね。

    ところで、動く動かないの話ですが、元寇以外の戦いの時には誰が動いたのでしょう。
    執権ですから鎌倉に居るのが妥当かと思います。


    暇人


  3. 太宰府の存在をわきまえておくことも大事です。


  4. 4.hush様へ
    ご回答ありがとうございます。
    お礼が大変遅れ、申訳ありません。
    <防衛戦>なのですね。
    もし前線での戦いが不利になった場合、中枢部に波及することを避けている、ということですか?
    park123


  5.  元の来襲時、九州は幕府の統治下にはありません。尾張、飛騨、加賀以西は西国であり、訴訟時には六波羅探題が採決を行っていますが、天皇の統治下にあります。そして、文永の役の主戦力となったのは九州在住の武士たちです。また、弘安の役においても、異国警固番役となったのは九州に所領を持つ御家人です。つまり、幕府は、元の使いを斬ったりしていますが、西国のことは朝廷の領域であるというスタンスは崩していないのです。当然、時宗が前に出てくるはずがありません。もちろん、防衛戦ですから、天皇が出てくるわけもありません。
     しかし、それではまずいと、異国警固番役に東国、西国の非御家人を命じたり、鎮西探題を設けたりしていますが、これは弘安以降の話です。
     
    hush


  6. hush様へ
    再度のご回答ありがとうございます。
    お礼が再び大変遅れ、申訳けありません。
    初めて知りましたが、<九州は幕府の統治下にはありません。>なのですね。
    <主戦力となったのは九州在住の武士>なのですね。実は、以前から、なぜ、東国からの防人のように、全国から武士を動員しないのだろう、と訝しく思っていましたが、氷解しました。
    <時宗が前に出てくるはずがありません。>なのですね。
    私のようなうろ覚えの歴史(否他の知識も)は、危険ですね。

    park123



227  1898年のスペイン−アメリカ戦争(米西戦争)で活躍した義勇兵部隊である『ラフ・ライダーズ』について質問いたします。
@隊員はどのような人たちだったのでしょうか?
 私は冒険好きな銃愛好家や賞金稼ぎの集団のような印象があるのですが?
A隊長のセオドア=ルーズベルトは元海軍次官でしたが、軍隊経験があるように思えません。
 この戦争で名誉勲章を受章しているくらいですから、手柄を立てたと思うのですが、どのような方法で軍人の能力を身につけたのでしょうか?
 英語版のWikipediaには詳しい記事があるようなので、どなたか教えていただければ幸いです。
PIAT

  1.  https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders
     こちらを見てください。
     
    hush


  2.  間違いました。
     https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders&prev=search
     
    hush


  3. hush 様 お礼が遅くなりましたが、翻訳を提供いただきありがとうございました。
    google翻訳は随分読みやすくなったのですね。
    数年前にwikipediaをgoogle翻訳にかけたところ、日本語が支離滅裂だったので、翻訳をあきらめていたのですが、これからは利用したいと思います。。


    PIAT



226  幕末〜明治の軍艦の扱いについて質問します。

 江戸時代は各藩ごとに武器の西洋化を進めており、小銃から軍艦までさまざまな兵器が輸入されています。小銃や大砲等の火器についてはほぼ全て明治政府に移管されていますが、軍艦については良くわかりません。
 幕府海軍の軍艦は最終的に明治政府に移管されていますが、各藩で保有していた軍艦はどうなったのでしょうか?
 いくつかの軍艦については民間で海運に使われたのは確認しています。銃器類のように海軍(明治政府)に納められなかったのは何か理由があったのでしょうか?
おうる

  1.  勝海舟の「海軍歴史」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845168 には、諸侯船譜として、各家(藩は基本的に明治になってでてきますので)の所有船の一覧が載っています。この一覧には漏れも多いのですが、これらは明治政府に献納されなかった船となります。では、なぜそうならなかったのかというと、海軍が欲しがらなかったからです。
     大船建造の禁の廃止により、各家は洋船の購入に走ったので、かなり程度の悪い船を、殿様ですので、言い値で買ったりしています。その後、徐々にきちんとしたものになっていき、国内での建造も始まります。しかし、津の藤堂家の神風丸のように、造ったがうまく動かなかったなんてものもあります。また、海軍創設の頃には、老朽化している船も多かったわけです。
     実際、大阪の海遊館のそばの天保山、あの沖(つまり、USJとの間)で1868年に最初の観艦式が行われていますが、その旗艦となった電流丸ですら、その4年後に献納を申し入れた時には、老朽しているということで拒否され、大砲だけを受け取っています。
     また、表を見ていますと、備考欄に備砲の数が記されたものがありますが、電流丸の10門が一番多く、ほとんどが数門です。掲載されていないもののすべてが武装していなかったわけでもないでしょうが、あっても1、2門というところではないかと思っています。まだ、軍艦と商船の境目がまだ不分明な時代ですが、老朽化していなくても、輸送任務にしか使えないものが多かったと思われます。
     しかし、海軍では役に立たないとみなされても、民間では貴重な輸送手段です。たとえば、広重の「東海道五十三次」の木版画を見ても、荷物を運ぶ牛馬の姿がほとんどありません。実際、東海道といえども、道幅が狭く、そのような用途には使えないのです。しかし、海上には帆掛舟が浮いていて、これが上方と江戸を結ぶ輸送路だと分かります。そういう中で、老朽化していても、大型の船は貴重な存在であり、収入源となりえたと愚考致しております。
     
    hush


  2. 回答ありがとうございます。

     一応、各藩の保有艦船を明治政府に納めさせようという動きはあったんですかね?
     江戸時代に海に面していた藩だけでも結構な数があり、そのうちどれくらいの藩が艦船を保有したかまでは存じませんが総数はそれなりにあった筈・・・それらがすべて「不要」とされたとしたらそれはそれですごい話ですね。
    おうる


  3. >2
    >各藩の保有艦船を明治政府に納めさせようという動きはあったんですかね?
     存じません。実のところ、「小銃や大砲等の火器についてはほぼ全て明治政府に移管」させたかどうかも存じませんし、占領軍が行うまで割と銃器類は民間にあったようですので、その典拠はどこにあるのか御教示いただければと思っているぐらいです。
    >総数は
     https://www.jp-history.info/warship こちらのサイトには幕末軍艦全140艦とあります。
    >「不要」とされたとしたら
     それらの船は華族となった諸侯の私有財産となったのではないかと思っておりますが、それを献納するかどうかは各自の判断でしょうし、すべてを献納されても、それを運用するだけの力が新政府にあったとは思っていません。
     というのは、それらの船を運用するには人員が必要ですが、財政難の時代、その人達に支払う給与を出せたかどうかは疑問だからです。したがって、新政府としても、電流丸のように献納を申し込まれても謝絶したように、取捨選択する必要はあったはずなのです。
     
    hush


  4. >総数はそれなりにあった筈…それらがすべて「不要」とされたとしたら
     新政府が所有した艦船のすべてが旧幕府のものであって、献納されたものはなかったという意味にお取りになっていないですよね。
     まさかとは思いますが、念のため、記させてもらいます。
     
    hush


  5. >>3
    >その典拠はどこにあるのか御教示いただければと思っているぐらいです。

     思えばそういう話を本で(日本軍の小銃に菊の御紋が刻まれるようになった経緯を説明する文章の中で)読んだことはありますが、事実かどうかは確認していませんでした。

    >>4
    >新政府が所有した艦船のすべてが旧幕府のものであって、献納されたものはなかったという意味にお取りになっていないですよね。

     さすがにそれはないです。
    おうる


  6. >5
     ありがとうございます。
     4に関しては、大変、失礼なことをうかがって申し訳なく思っております。御寛恕いただければ幸甚に存じます。
     
    hush



225 「武器、装備全般 787」によると、パレンバン空挺作戦では日本軍落下傘部隊は重火器を回収できず、多くの隊員は拳銃や手榴弾で戦ったとのことです。
 そこで質問いたします。
 油田を守備していたオランダ軍等は大砲・機関銃・ジープ等を装備していたはずですが、なぜ降伏したのでしょうか?
 よほど奇襲がうまくいったのでしょうか?

PIAT

  1. この時期、日本軍はあちこちで上陸作戦を実施して、シンガポールは陥落寸前。
    空は64戦隊やら59戦隊が頑張っていたと思います。
    そして、オランダ本国はもはや亡命政権。

    パレンバンは完全に奇襲だった様です。
    守備兵が逃げ出した様な記述も見ます。当たり前の様な気がします。
    暇人


  2. パレンバン市街/製油所/飛行場に配備されていたのは蘭印軍一個大隊と歩兵2中隊で合計歩兵11ヶ小隊.機関銃7ヶ小隊.迫撃砲3ヶ小隊.野砲8門.装甲車7両.40粍高射機関砲2門と英軍対空部隊(砲数不明)と航空補助部隊だったようです。
    挺進部隊の降下の際、輸送機がロッキードだったため英軍のロッキードハドソン爆撃機と誤認し奇襲になりました。
    降下兵と略同数の物料傘が投下された為、兵数を誤認した可能性があります。
    降下した兵の攻撃と市街と飛行場間の交通が7名の兵により遮断された為、航空補助部隊の撤退と市街からの増援が阻止され、製油所/飛行場施設の一部を爆破出来たことから包囲を逃れるため撤退したのです。
    poran


  3. 暇人様 
     私は当初、本国を失ったオランダ兵がヘタレだったと思っていたのですが、英米軍も加わっていたことを知り、もっとがんばれなかったのか不思議に思って質問させていただきました。
     マニラやシンガポールの陥落が同じ頃であり、連合軍も手一杯だったのですね。

    poran様
     くわしい描写をしていただき、ありがとうございます。
     油田の守備隊は降伏したのではなく、油田に放火して退却したのですね。
     まさか攻撃部隊が小銃も持ってないとは思わなかったのでしょうね。
     
     最後にお尋ねしますが、連合軍は日本軍に空挺部隊があることを知っていたのでしょうか?
     
    PIAT


  4. 海軍が1ヶ月前にメナドに降下してますから当然知っていて、対空挺用の鹿砦が造ってあったそうです。

    poran



224 第三次ソロモン海戦にて、近距離で殴りあった霧島より、遠くで砲撃していた愛宕、高雄が多数の命中弾を与えたという説を聞きましたが、近距離より遠距離の艦の方が命中率高い事ってあり得るのでしょうか?
凡人

  1.  それはあるかもしれませんが、「戦史叢書南東方面海軍作戦<2>」 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=083# p206の航跡図や記述を眺めると、愛宕、高雄、霧島の順で単従陣を組んでサウス・ダコタに対峙しています。つまり、この3隻は近接していたわけですので、何をもって近距離だとか、遠距離だとかするのか分かりません。
     また、霧島はサウス・ダコタ砲撃中にワシントンの砲撃を受けたのですから、命中率が下がるのは当然です。
     その上、サウス・ダコタに命中した砲弾数は27発だそうですが、うち5発は霧島の主砲弾です。では、のこり22発は愛宕、高雄の主砲弾かというと、霧島は副砲も高角砲も発射しており、重巡洋艦も同様なので(もちろん、こちらは副砲はありませんが)、すべてが8インチ砲弾とは限らないのです。そのあたり、きちんとお調べになりたければ http://www.navweaps.com/index_lundgren/South_Dakota_Damage_Analysis_Hit_1-2.pdf に被弾状況が載っております。
     つまり、その説を唱えておられる方の理由が、私には分からないということです。
     
    hush


  2. 有坂純氏と言う方が、35cm砲弾6発、20cm砲弾18発、15cm砲弾6発、12.7cm砲弾1発であり、霧島は余り当てておらず、一方的にボコられたと言うのが定説らしいんですが、
    実際のダメージレポートには、35cm砲弾6発、20cm砲弾7発、15cm砲弾8発、14cm砲弾4発、13.7cm砲弾2発であると言う説を聞き、一体どちらなのだろうかと。
    凡人


  3. >実際のダメージレポート
     https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/w/war-damage-reports/uss-south-dakota-bb57-war-damage-report-no57.html
     には、”During the engagement described above, SOUTH DAKOTA sustained at least 26 projectile hits. It is estimated that one hit was 5-inch, six were 6-inch, eighteen were 8-inch and one was 14-inch.”とあります。また、命中箇所の概略図 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/USS_South_Dakota_%28BB-57%29_Naval_Battle_of_Guadalcanal_%2814-15_November_1942%29_damage_chart_%28U.S._Navy_War_Damage_Report_No._57%29.jpg もあります。
     これだと14インチ砲弾は1発しか命中しておらず、8インチ砲弾は18発となっていますが、霧島が3式弾をそのまま発射したということを知らずに作成したものではないかと思っています。
     どちらにしろ、御質問にありますような距離の相違はそれほどなく、途中でワシントンからの砲撃を受けたのだから、霧島の命中率が低くても不可解とは思っていません。
     
    hush


  4. 命中率=命中弾数/射撃弾数ですから、射撃弾数が不明なら命中率の議論はできません。36cm砲8門と20cm砲20門ですので、砲身数で20cm砲が2.5倍、射撃速度も考慮すると、愛宕、高雄の射撃弾数は、霧島の3倍以上あったのではないでしょうか。
    桜ヶ丘


  5. >4
      「軍艦愛宕戦闘詳報(第3次ソロモン海戦)」(アジア歴史資料センターC08030745200)によると、愛宕の主砲は徹鋼弾55通常弾6計61発を発射しています。
     霧島はもちろん、高雄の戦闘詳報も見つかりませんが、「戦史叢書」には霧島の発射弾数三式弾68零式弾22一式弾27発とは記されています。もっとも、これとてサウス・ダコタに何発、ワシントンに何発というのが不分明ですので、机上の空論であることには間違いありませんが。
     
    hush



223 以前第二次上海事変におけるウースン上陸作戦の戦死者を訪ねましたが、それに関連して質問です。
四行倉庫の戦いはどうなのでしょうか。
第二次上海事変における四行倉庫の戦いを描いた映画「八佰」が制作されて、気になったのですが、四行倉庫の戦いにおける日中キルレシオが末期フィリピン戦並に酷いですよね。
中国側の戦死者は10人という記録がありますが、中国側はこの数としても、日本側の戦死者が200人超というのが何に基づいたものなのか不明、いくら精鋭の88師といえど日本軍をこうも一方的に斃せたものなのでしょうか。
戦果報告が過大になるのは日中それぞれ常であり、これが中国側の戦果報告を元にしたものならば一考を要さねばならないと思いますが…
パンジャンドラム

  1.  日本側の公刊戦史を管見したところでは、この戦いについてはほとんど記述もなく、日本側の被害者数についても海軍陸戦隊が数名の負傷を出したとあるのみです。したがって、第3師団の戦死者数は全くの不明というしかありません。
     ただ、戦史叢書第89巻204ページにある上海方面の旧日本軍の戦死者数を計算すると、10月14日から23日までが901人に対して、23日から11月8日までが4306名となっています。つまり、1日当たりの戦死者数が、前者では10人程度であったのに対して、後者では200人と大幅に増加しています。そして、Wikipediaの「四行倉庫の戦い」を見ると、中華民国軍は充分な兵器と弾薬等を持って、かつて師団司令部としても使われた堅牢な6階建てのビルディングにこもって4日間戦った末に撤退しています。
     これに対して、第3師団側は対岸の租界に銃弾が飛び込んではいけないという状況下にあり、航空機が使用できても爆撃も銃撃も自重せざるを得ない状況にありますので、一方的に狙撃された可能性があります。
     中華民国側の兵力は映画のタイトルにある800人ではなく、400人強だそうですが、それが1人あたり0.5人の日本兵を斃したとすれば、それだけで200人となります。
     もちろん、仰るように「戦果報告が過大になるのは日中それぞれ常であり」ますので、上記は単なる推定ですが、無茶な数字でもないとは思っています。
     
    hush


  2.  戦史叢書第89巻204ページは第86巻204コマ(387ページ)の間違いでした。
     http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=086
     失礼しました。
     
    hush


  3. 日本側のこの戦闘についての記録を見た事がありません。
    戦死200名だと戦傷者は4倍として800名位になります。
    当時激戦を戦ってきて兵力を失っている部隊がこれほどの損害を出せば、恐らく連隊が「全滅」と称されるような状態になってしまうでしょう。
    実際の攻撃部隊は1個大隊以下ではないのでしょうか?

    彼らは当時から抗日の英雄として宣伝された為かなり誇張されているのではないかと思います。
    第一次上海事変の際の「申報」の記事もかなり誇張がある様です。

    実際はどうだったのでしょうか?
    戦史叢書も大東亜戦争以前の戦闘は簡単な記述しか有りませんね。
    南京は偕行社の「南京戦史」が有りますが.....


    poran


  4. 御二方、回答感謝します。
    私の考えとしては、(何らの根拠なく)、キルレ1対20はおかしいだろ!なんですが、
    しかし400人が1人あたり0.5人殺害として見るのは何ら違和感はありませんね。

    しかしporan様も仰る様に、200人の殺害ならば、その何倍も負傷者があるはずであり、この場合200人で突撃して玉砕したとは考えにくく、大隊規模以上で攻めたと考えられます。
    つまりこれだけの規模の競り合いならば、200人の死者が出たなら日本側の記録にこうも残らないのは不自然であると思います。

    (根底にあるのは、私の日本軍に対する思い入れなんですが…。実際に逆ならどうとも思わないでしょう(^_^;) )
    パンジャンドラム


  5. >3
     非常に的確な御指摘をありがとうございます。
     ただ、前述のように10月23日から11月8日までの12日間で日本軍は4306名が死亡しています。これに9753名の負傷者を合わせると14059名もの損害を出しており、「9月までの日本軍第3・第11師団だけで死傷者は12388名にのぼり、第9師団は11月の蘇州河渡河までに12360名の死傷者を出した」という状況です。したがって、その伝でいくと1ヶ師団が「全滅」と称されるような状態であったわけです。もちろん、これは上海方面全体のもので、比較対照として好ましいものとは考えておりませんが、この戦いの様子は戦史叢書からはほとんど窺えません。
     日本側の投入兵力が1ヶ大隊以下であろうという推測に関しましても、きわめて妥当なものだと思っております。ただ、この戦いは、それまでの戦いと大きく様相が異なっております。
     一つは、欧米列強の租界に近く、各国の注視の中で行われていたということです。
     二つ目は、四行倉庫を守っていた中華民国軍がドイツ製の兵器によって充分な武装をしていたということです。
     前者については、早急に落とさないと、日本側の面子が立たないということになりますし、日中戦争で噂されている毒ガスの使用もできません。また、航空機も、艦艇もいながら、租界に被害が及ぶことを恐れて使用できません。
     後者については、それまで対峙した兵力がどれだけか不明ですが、装備不充分な中華民国軍により多くの死傷者が出ている状況です。ですから、新兵が多いといいながらも、装備充分な兵力にぶつかった時にどうなるかということを想像しますと、多くの死者が出たとしても不思議はないと思っています。
     両方とも、それまでの戦いで、日本側がほとんど遭遇したことのない状況です。そのような中で、日本側が1ヶ大隊程度の兵力で戦闘を開始したとしても、陥落できなかった場合、兵力を増強した可能性はあると思っています。そして、その場合、後の戦闘でも行われたように兵力の逐次投入がされた可能性もあろうと思っています。したがって、連隊「全滅」というような事態に陥ったとしても不思議はないと思っています。
    >4
     たしかに、四行倉庫の場合も、日本側の兵力も死傷者数も、戦史叢書は黙して語っておりませんし、「日中戦争全史」にも記載がありません。ただ、その名が、陸海軍ともに戦史叢書に記載されているのが、異例なのです。つまり、それだけの激戦が行われたということであり、死亡者も多かったのかもしれません。また、海軍側の負傷者数が記載されているということは、陸戦隊も参加しているということです。したがって、「200人の死者が出たなら日本側の記録にこうも残らないのは不自然」ではないと考えています。

     第16師団ですので、この後の南京攻略戦になりますが、伯父が頭部に銃弾を受けて負傷しております。鉄帽を貫通したものの、頭蓋骨に沿って銃弾が半周したので一命を取り留めました。ただ、後送されて、広島の陸軍病院で長く入院していたそうです。そういう関係で、関心を持っている部分ですので、専門外ですが、つい、大量に書き込んでしまいました。御寛恕いただければ幸いです。
     
    hush


  6. 戦史叢書をしまい込んでしまい、掘り出すのに時間がかかり申し訳御座いませんでした。
    支那事変陸軍作戦(1)には「海軍特別陸戦隊は27日閘北一帯を占領し、これが掃討を完了した」とあり、
    四行倉庫については中国の「抗戦簡史」の引用文中に「この際我が軍の撤退援護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する八百の勇士はついに孤立となったが、命により撤退しかつ英国の好意により租界内に退入した」とあるだけです。閘北は第三師団の戦場の大場鎮/蘇州川とは5Km以上離れています。

    同中国方面海軍作戦(1)には「陸戦隊は27日0430総攻撃開始、1800頃四行倉庫に追い詰めた残敵100の外各部の残敵を掃討を完了、敵の損害 戦死630 押収兵器多数 我が損害 重傷3 軽傷24 四行倉庫の残敵に対してはその後包囲態勢を取り降伏勧告をしたが応じなかったので、31日0145 砲撃制圧する一方、0300突撃隊が突入、残敵を掃討した」とあります。

    之等から見て、四行倉庫は海軍陸戦隊の戦闘であり、仏租界の傍らのため大した戦闘は無かったと思います。

    hushさん、ご親戚の方がご参加でしたか、鉄帽に沿って弾が一周して命拾いした話は時々聞きます、海軍陸戦隊上海戦闘記(昭和7年)に旧型ですが鉄帽の写真が載ってました。
    私の義父も戦傷者で亡くなったとき1cm位の弾片が3個お骨と一緒に出てきたのを覚えています。

    poran


  7. 成る程陸戦隊主体での戦闘ですか…
    陸戦隊は小火器不足で35式海軍小銃やイ式などで埋め合わせてしたりと涙ぐましい努力をしてかき集めていた印象があります。
    それに初戦からの連戦で一層に消耗して兵力面で陸軍より不利な面もあったのではないでしょうか。
    ともあれ帝国陸軍が一蹴されたかの様な戦闘でも、また喧伝されているほどの戦闘と言うわけでもない様ですね。激しい戦闘であったのは事実ですが。poran様有難うございます。

    またhush様も、陸戦隊の情報を提示して下さりありがとうございます。私なんてからっきし第3師団しか頭にありませんでした。
    あと鉄帽の件、伯父様の貴重な話をありがとうございます。血縁にあの激戦の経験者がいるとは凄いことです。私には血縁には日中戦争従軍者は居ませんが、地元では第9師団の壊滅で多くの未帰還者が出ました。あまりの戦死者の数の多さに祖父は、「親父が軍隊に取られるかもしれないのが一番怖かった」と私に回想しました。実際にはそれは起こりませんでしたが、きっと戦死者のあまりの多さが「出征からの死」に凄まじい現実味を帯びさせていたと今になって思います。

    鉄帽に関してはまた別に質問をしたいと考えています。ありがとうございます。
    パンジャンドラム


  8. 海軍陸戦隊の装備は陸軍より良いのです。
    陸軍は終戦まで小火器を歩兵以外は自衛用にしか配備していません。(砲兵1個大隊に騎兵銃50挺程度)
    それに対し海軍は砲隊も二重装備で小火器を装備しています。
    スマイサー・ベルグマン等の機関短銃も伝令の装備として上海戦でも実用しています。
    昭和20年に陸戦隊の装備を見た陸軍参謀が吃驚した話も残っています。

    但し主に陸軍から兵器/弾薬を購入していた為、陸軍の都合で兵器が不足する事は在った様で三国同盟を機にイ式を訓練用に輸入したり、九九式海軍銃を豊川工廠で月産5000挺量産したりしてます。
    上海戦では(陸軍も同じ状況ですが)手榴弾が旧式の着発式だったため土質では殆どが不発で苦戦した様です。

    閘北の戦闘は、陸軍の攻撃が進展し中国軍の主力が撤退を始めてから攻撃に移っており、潰乱状態の敵への追撃戦ですから戦果の割に被害が少ないのは納得できます。
    poran


  9. >6
     丁寧な解説ありがとうございます。土日、いろいろとありましたので、お礼が遅くなりました。
     Google mapで確認しますと、たしかに「閘北は第三師団の戦場の大場鎮/蘇州川とは5km以上離れています」が、陸軍作戦(1)のほうには、お示しになった数行前に、「26日、軍は大場鎮を攻略し(中略)27日、蘇州河の線に到達した」とあります。
     もちろん、味方打ちを避けるためにも、閘北は陸戦隊の担当とするというというのは首肯できる話です。ただ、陸戦隊のみであるとするのなら、死亡者0というのは、中国側が話を大袈裟にしたとしても、あまりに違いすぎるように思うのです。
     そうした時、「蘇州河の線に到達した」陸軍は、一切、何もしなかったということがあるのだろうかと思うのです。しかも、件の四行倉庫の戦いは、陸軍がその「蘇州河の線に到達した」27日に始まっているのです。
     もっとも、そのあたりを検証するには材料がありませんし、推定を重ねる話につきあわせるのも迷惑かと思いますので、このあたりで打ち切ろうと思っています。素晴らしい着眼点をお示しいただいたことに感謝申し上げます。

     なお、 http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/CrossSearch で、戦史叢書は公開されておりますので、付記いたします。

    >私の義父も
     末筆ではありますが、ご冥福を祈念いたします。
     
    hush



222 樺太の戦いにおいて、樺太の住民救出に参加した海軍艦艇をよろしければ教えてください。
日向

  1.  海軍艦艇となると特設砲艦の第二号新興丸ぐらいではないでしょうか。
     
    hush


  2. 回答有難うございます。


    日向


  3.  「証言・南樺太最後の17日間」(光人社NF文庫)の314ページに特設敷設艦高栄丸、機雷敷設艇石埼が敗戦直後に緊急疎開に参加したとありましたので追記します。
     大湊警備府には機雷敷設艦となった旧装甲巡洋艦常磐や駆逐艦がおりましたが、直前の大湊空襲で擱座しており、行動可能な艦艇は少なかったと思われます。
     
    hush



221 普仏戦争でプロイセン軍はフランス軍を開戦後40日余りで降伏させていますが、フランス軍の兵士は長期勤務の職業軍人だったのに、プロイセン軍は短期の徴集兵でした。
マクニール『戦争の世界史・下』によると、プロイセンの予備軍は「民間人が軍服を着ているに過ぎず、訓練と規律はフランスの長期勤務兵の部隊の水準にはとうてい及ばない」と書いてありました。
また、フランス軍はプロイセン軍のドライゼ銃より射程の長いシャスポー銃を装備していました。
プロイセン軍は兵士の質や装備で優れたフランス軍をどのような戦術で破ったのでしょうか?

PIAT

  1.  補足します。
     プロイセン軍は参謀本部が練りに練った作戦で鉄道を活用し、いち早く戦場に多くの兵士を送り込んだし、クルップ製の鋼鉄製後装砲はフランス軍の大砲よりはるかに優秀だったので、フランス兵は戦場に着いた段階ですでに不利な状況でした。
     しかし、フランスの古参兵ならば、塹壕を掘って砲撃をやり過ごし、射程のシャスポー銃で敵兵を狙撃する戦術が取れたと思います。
     
     プロイセン軍は歩兵戦闘でもフランス軍より優れていたのでしょうか?
     それとも、作戦と大砲の優越が歩兵の不利を補ったのでしょうか?
     

    PIAT


  2.  Wikipediaの「普仏戦争」の中に「ドイツの勝因」という項目がありますので、一度、お調べになってはどうでしょうか。
     
    hush


  3. hush様 wikipediaを調べてみました。
     
    『ドイツの勝因』は「参謀幕僚制・国民皆兵・動員制度・フランスの外交的孤立・武器」が挙げられており、武器については、小銃はフランスが上回っているが、大砲はプロイセンの方が射程・速射性ともに上回っており、フランスのミトラィユーズ機関銃は有効ではなかったと記載されていました。
     
    『プロイセンとフランスの軍事力』では、「フランスの戦術はシャスポー銃を使って塹壕戦を防御的に戦う事を重視していたが、ドイツ軍の戦術は包囲の形勢を作ることと、可能な限り常に砲兵を攻撃的に用いることを重視していた」との記述がありました。

    PIAT


  4.  私が普仏戦争にこだわる理由を申し上げます。
     
     プロイセンは人口・富・(当時の発想では)兵士の質でフランスに劣っていたのに、軍隊のありかたを根本的に変えることにより勝利しました。
     人口が減り、経済も衰えている日本の再生のヒントになるのではと考えました。
     日本では高齢者や主婦を労働者として活用することが必要になると思いますが、精神論では優秀な労働者にはなりません。
     「軍服を着た民間人」を世界一の精鋭にした方法を知りたいと思っていますので、資料の紹介もお願いします。
     なお、渡部昇一『ドイツ参謀本部』は持っています。
     
     

    PIAT


  5. >>3、>>4
     えっと・・・ご自分で書いててドイツ軍が勝つのが当たり前だったとは気づけないんですかね?
     逆にフランス軍が勝てた可能性を考える方が難しいように思えます。

     部隊を敵よりも高速で機動させて包囲を狙うのは野戦では当然のことですし、それを実現したほうが勝ちます。というか、それをいかに実現するかが参謀の仕事なわけで、それを実現できなかった側に勝利を期待するのは無理です。
     塹壕を掘って籠るのは籠城戦と同じで機動力を自ら捨てる行為であり、一部の部隊がそれによって敵を拘束して他の部隊で敵を逆包囲するというような場合を除けば、基本的に悪手です。
     ましてや歩兵の小銃がいくら優れようが敵砲兵を圧倒するなんてできるわけもありません。一つの兵器が優れているからというのは戦争の勝敗には期待するほど影響しません。

     実際、ナポレオン率いる大陸軍が他の欧州列強に勝利し続けたのも、兵器の性能云々ではなく部隊を高速で機動したからです。
     プロイセンは彼らに敗れてそのことを学び、フランスはそのことを忘れた・・・極端に大雑把に言ってしまえばそれだけのことのように思えます。
    おうる


  6. 普仏戦争、普墺戦争に関して時間がある時にでも
    https://ncode.syosetu.com/n3872bm/
    上記のサイトを読んでみるのも一興かも

    まさのり


  7. そもそもとして、シャスポー銃、意外と大した事なかったみたいですよ。
    当時の小銃でずば抜けて高性能などと評す向きもありますが、極めて脆弱と評される雷管固定法により、不発が多く軍用銃として信用なりません。
    軍用銃たるもの、兵士の命を預かるものです。ここぞという時に弾が出てくれなくては。
    確かに、イタリア兵や暴徒と化した市民を殺戮するだけの見るべき性能はあったでしょう。
    しかし、同じくボルトアクション同士、つまり本家ドライゼ銃と交戦したとしても、必ずしもシャスポー銃が優位に立ちません。むしろ私はいくらかの長射程よりも、シャスポー銃よりはまだ弾が出てくれるドライゼ銃に軍配が上がったのは必然であると考えています。
    以上、別の視点からの書き込みでした。
    パンジャンドラム



220 クルスクの戦いにおいて、「砲兵から見た世界大戦」という本には「ドイツ軍の攻撃開始直前に行われたソ連軍の対砲兵戦でドイツ軍砲兵が相当数やられ、ドイツ戦車部隊は火力支援を充分に受けられず、突破に失敗した」となっていますが、ウィキでは「若干の損耗と攻撃開始が少々遅れただけ」と大したことなかったように書かれています。
 実際、ソ連軍の対砲兵戦でドイツ軍にどのくらいの損害が出たのか、具体的な数字があれば教えてもらえないでしょうか?

REW

  1. こんにちは。
    クルスク会戦でソビエトに先手で砲撃されたのは、クルスク北部側のドイツ中央軍集団側だと思います。

    すいませんが、クルスク北部側の戦うドイツ中央軍集団側の本は、日本語では以下ぐらいではないでしょうか?
    ・「続・クルスクの戦い―戦場写真集北部戦区」
    ・「クルスク航空戦〈上〉史上最大の戦車戦―オリョール・クルスク上空の防衛 北部戦区」 (独ソ戦車戦シリーズ)
    あまりに少なすぎて、旧ソビエト連邦、パウル・カレルのような嘘つきドイツの話が、どこにまぎれているか公平に判断できません。

    たまたま蔵書している続・クルスクの戦い―戦場写真集北部戦区では、ソビエトの先制砲撃は大したことがない記載にしか見えません。
    (第9軍司令官モーデル上級大将に好意的で、4号戦車が250両ちょっとしかなく、3号戦車を殆ど失わなかったことに、記載の大きなフォーカスがあります)
    ですが、ソビエト側に未投入の4個の砲兵集団があり、7月10日以降のクトゥーゾフ作戦に大きな役割を果たしたのではないでしょうか?
    「砲兵から見た世界大戦」は、ここをフォーカスしているもかもしれません。ご存知の通り中央軍軍集団は、その後オリョールを放棄して後退しました。
    未投入の4個の砲兵集団は、控えめにも非常に強力です。質問にはっきり回答できず申し訳ございません。

    fairy_raspberry



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