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135 ミッドウェー海戦当時、CV-5空母ヨークタウンの副長は2人居たのでしょうか?

後にCV-14タイコンデロガの艦長となるDixie Kiefer
後にCV-10ヨークタウンIIの艦長となるJoseph James Clark

どちらも、ミッドウェー海戦時のCV-5ヨークタウン副長であるという記述がありまして、混乱しております。
GUY

  1.  http://www.jacklummus.com/Files/Files_R/rear_admiral_joseph_james_jocko_clark.htm
     によると、ヨークタウンの副長だったクラークは1942年1月2日に大佐に進級し9月24日に護衛空母スワニーの艦長になっています。
     一方、キーファーのほうは、
     https://usnamemorialhall.org/index.php/DIXIE_KIEFER,_COMM,_USN
     1942年2月11日までライトの副長を務めた後にヨークタウンの副長に転じています。
     したがって、正解はキーファーとなりますが、仰るようにWikipedia日本版のクラークの項目にはミッドウェー海戦時に副長であると書かれています。しかし、英語版にはそのような記載がなく、これが混乱の一因ではないかと思っております。
     
    hush



134  いわゆる『蝦夷共和国』の創設を支援したジュール・ブリュネ仏陸軍大尉について質問いたします。
 wikipediaによると、ブリュネは日清戦争に協力したとして1895年に明治政府から勲二等旭日重光章を贈られていますが、具体的にどのうような貢献をしたのでしょうか?
 『坂の上の雲』には、ブリュネが28サンチ榴弾砲の導入に貢献した旨の記述があったと思いますが、『坂の上の雲』は手元になく、検索してもヒットしません。
 ブリュネは元々明治政府の敵だったのですから、よほどの貢献をしたとおもいますが、どなたか情報をお願いします。
PIAT

  1.  このあたりはよくは存じませんが、榎本武揚あたりが活躍したのではないでしょうか。
     
    hush


  2. 大した知識は持ち合わせておりませんが、手持ちの資料に拠れば、
    ・明治12年の砲兵会議で本邦火砲の独立が検討された折、ブリュネーがフランスから大山元帥へ、日本では国内で材料を得られる青銅製火砲を製造すべきでイタリア式青銅製火砲の採用を薦める内容の建白書を送り、これがきっかけとなり青銅砲身の七糎野砲、山砲を採用する事となった
    ・この青銅砲の製造に当たっては、ブリュネーの紹介でイタリア陸軍のグリロー砲兵少佐を招聘して技術指導を受けたが、グリローに海岸砲の種類と製法を諮詢した際に、彼が二十八糎榴弾砲を含む鋳鉄製火砲を選定した
    という流れのようです。
    七糎山野砲は、日清戦時点では既に新式とは言えないものでしたが多用されており、戦勝に貢献した兵器の一つと看做されたのではないでしょうか。
    ブリュネーの受勲については、日清戦への貢献という面では、建白書を送り七糎山野砲の制式、兵器の国産独立を後押しした点かと推測します。
    大瀬千早


  3. hush様 回答ありがとうございます。
     榎本武揚は大河ドラマ等では大きく取り上げられなかったのですが、年末時代劇『五稜郭』では主役になっており、里見浩太朗が榎本を演じていました。
     岡田真澄がブリュネを演じていましたが、ブリュネは当時30歳位だったのに岡田真澄は50代で、「年とり過ぎやろ!」と思ったのを覚えています。
     ところが、陸軍参謀総長になったブリュネの写真を見ると、晩年の岡田真澄によく似ているのに驚きました。

    大瀬千早様 くわしい情報ありがとうございます。長年の疑問が解けました。
     私は資料が読めず、小説やネットで得た知識の裏付けがとれないので、皆様には多いにお世話になっています。

     ブリュネを興味を持ったのはNHK『歴史への招待・外人部隊 戊辰を行く』でしたが、『ラスト・サムライ』のオールグレン大尉以上に数奇な軍人人生だったと思います。

    PIAT



133 お久しぶりです。
現在、知り合いの方の軍歴等を調べているところです。

そこで、疑問が出てきました。

昭和13年3月に満22歳で獣医部少尉になった方が、昭和18年9月に獣医部中尉になって、退役(予備役編入?)することは、一般的なことでしょうか。


その時代背景への理解が乏しいので、この経歴がごく普通のことなのか、それとも、非常に特異なことなのかが、わかりません。

ましてや、日本陸軍の獣医将校のことは、どこを調べても、ほとんど詳しいことは分かりません。

もし、お分かりになる方がいらっしゃったら、お教えいただければ幸いです。
よろしくお願いします。

ブドリ2世

  1.  確認したいのですが、その方は少尉任官の5年後に中尉となって予備役に編入されたのでしょうか。それとも、予備役に編入された時にはすでに中尉だったのでしょうか。というのは、通常、士官学校卒業の場合は概ね1年で中尉に進級します。これに対して、たたき上げ、つまり一兵卒から昇進を重ねてきた人の場合は、もっとかかるようだからです。
     22歳で少尉ということは、たたき上げではないと思います。帝大卒なら中尉になると思いますので、専門学校卒業で獣医見習い士官を経て少尉任官という道筋ではないかと思います。
     もし、この推測が正しいのなら、任官後5年間も少尉に留まっていたというのは長すぎると思います。しかし、途中で中尉に進級し少尉任官後5年で予備役に編入されたというのなら、特異であると思えません。
     もっとも、陸軍は詳しくありませんので、間違っていたら御免なさいですが、どなたも回答されないので、僭越ながら書き込ましていただきました。
     
    hush


  2. ご回答ありがとうございます。
    実は、この方のお子さんが、ご尊父の戦時中のことを知りたくて、調べているところなのです。
    しかし、ご尊父は、戦時中のことはほとんど語ることなく、亡くなってしまったとのこと。
    取り寄せた軍歴証明書には、以下の記載があるばかり(プライバシーに関わるところは伏せて書きます)。

    ・昭和10年3月 ××農学校獣医畜産科卒(満20歳)
    ・昭和11年9月14日 連隊本部所属
    ・昭和11年11月10日 二等蹄鉄工長
    ・昭和11年12月26日 終末試験合格
    ・昭和12年1月10日 現役第×連隊入隊
    ・昭和12年4月16日 一等兵獣医幹部候補生
    ・昭和12年7月18日 甲種幹部候補生合格
    ・昭和12年7月10日 騎兵第一連隊幹部候補生招集
    ・昭和12年9月10日 騎兵第一連隊幹部候補生招集終了
    ・昭和13年3月31日 獣医部少尉
    ・昭和18年9月5日 獣医部中尉
    ・昭和40年3月31日 退官

    これ以外の記述はありません。
    なので、どのタイミングで予備役編入になったのかも不明です(なので質問の記述も私の類推です)。
    どうも、軍医獣医と言うあまり一般的ではない経歴の方なので、軍人さんの経歴では、読み取ることができないことだらけなのです。


    なお、この方は、昭和18年に結婚して、満鉄に入り、奉天、新京、チチハルを転々としたと、この型の奥さんが話していたそうです。


    また、満州にいた頃、また招集を受け、戦後数年で復員したとのこと。
    戦後はずっと公務員で、1969年に亡くなられたとのこと。


    この方のお子さん(と言っても60代後半)が、自分の父のことを知りたいと思っていらっしゃるので、現在、いろいろと調べているのですが、何とも判然としません。


    なので、こちらの碩学の皆さんのお知恵・知識を拝借したく思っております。
    よろしくお願いします。

    ブドリ2世


  3. >2
     亡父より2つ年上の方ですね。亡父は新京(現在の長春)で敗戦後抑留されていますので、どこかでクロスしているかもしれません。また、相方の伯父の義父も満鉄にいたそうです。
     それはともかくとして、軍歴証明書から読み取れることを少しですが書き記したいと思います。
     農学校ですから、専門学校ではなく、実業学校となるのかもしれません。大半の農学校は大半が高等学校になっていますが、東大農学部のように大学になったものもあります。
     獣医畜産科ということは、獣医学校の範疇になると思いますが、これは14歳以上で高等小学校卒業程度の学力を有する者が入学資格で、修業年限が4-5年ですので、20歳での卒業というのに概ね合っているようです。
     その学科の中に蹄鉄がありますが、Wikipediaの蹄鉄の項の中に、「陸軍は蹄鉄工を重視していた。役場の兵事係は、蹄鉄技術を持つ民間人を事前に登録、動員時には優先的に召集令状を送って蹄鉄工の確保に努めた。蹄鉄工は軍隊では優遇された存在で、准士官である特務曹長待遇の蹄鉄工長まで昇進できた」と、書かれています。したがって、卒業後1年で蹄鉄工長となっているのは、優遇された結果なのかもしれません。
     また、東京都世田谷区代沢に陸軍獣医学校があり、ここで獣医の資格を取られたのではないかと思っています。
     あと、終末試験というのは、予備役士官になるためのものだそうで(詳しくはWikipediaの「幹部候補生(日本軍)」を御覧下さい)、これに合格後甲種幹部候補生試験に合格して幹部候補生になります。したがって、この幹部候補生になった時点で、現役ではなく、予備役です。
     そして、日中戦争が始まっていますので、地元連隊での兵役の終了と前後して召集されたということでしょう。これが騎兵第1連隊での召集ですが、同連隊は習志野の騎兵第2旅団に属しており、同旅団の属する第1師団は旧満洲に展開していたので、この方もそちらに派遣されたと思われます。その具体的な場所は不明ですが、黒河省(現在の黒龍江省北西部)ではないかと思います。
     https://okigunnji.com/2012/11/28/post-1274/ によると、予備役将校の進級は現役よりも進級しにくい状況にあったそうですが、それでも少尉から中尉には2年から2年半だそうです。したがって、この方が少尉任官後5年半もかかったのは異様に思えますが、これは軍役についていないからでしょう。つまり、召集終了以降は予備役将校ではあっても、民間、多分、満鉄にお勤めになっていたということだと考えています。ですから、召集解除の半年後に予備役少尉、その5年半後に中尉というのは位階が進んだということであって、軍と行動をともにしていたというわけではなく、それゆえに進級がなされていないということでしょう。
     敗戦直前に旧日本軍は旧満州で根こそぎ動員を行っていますので、この際に召集を受けたということなのでしょう。ただ、軍歴に残っていないということは、ドサクサの中で記録が残っていないという可能性もありますが、満鉄の職員であるため、実際には召集を免れたということではないでしょうか。もしそうであるのなら、獣医であるがために、中国側が帰してくれなかったという可能性もあります。
     なお、既に解散していますが満鉄会というものがあり、そちらのHPを見ると、メイル・アドレスが記されていますので、こちらでお聞きになられるという方法があるかもしれません。
     ともかく専門外のことなので、調べるのに随分と手間取りましたし、間違いもあろうかと思いますが、御寛恕戴ければ幸甚に存じます。
     
    hush


  4. hush様
    丁寧な回答、ありがとうございます。
    専門外の陸軍の制度についてお調べ頂きまして、恐縮しております。

    1943年以降の結婚後の生活は、本人の奥さんが同行していたので、少しは履歴がわかるのですが、それ以前のことは、この軍歴証明書しか資料がない方です。

    なので、お教えいただいた点、特に「幹部候補生になった時点で、現役ではなく、予備役」という点が、大変に参考になりました。


    この方、出身地は東京や関東ではない地方の方。
    なので「第一騎兵連隊」に配属された可能性を考慮していませんでした。
    こちらの方も、調べてみようと思います。


    ご本人がほとんど何も語らずに亡くなられたため、お子さんがいろいろと調べてみたそうです。
    ただ、師団・連隊・大隊という軍事用語の基本的な意味から知らない方なので、多少なりとも知っている私がお手伝いすることとなりました。

    お教えいただいたことを調べていこうと思います。
    また、不明な点等発生したら、質問させていただければ幸いです。

    貴重な時間を使っていただき、高度に専門的な内容をお調べ下さり、本当にありがとうございます。
    心より感謝いたします。

    ブドリ2世


  5. この軍歴証明書の記載の
    ・昭和11年9月14日 連隊本部所属
    ・昭和11年11月10日 二等蹄鉄工長
    ・昭和11年12月26日 終末試験合格
    と云ふところは昭和12年の間違いではないでせうか
    週末試驗は幹部候補生の試驗と思われますし、二等蹄鉄工長は伍長相當の階級で幹部候補生課程を終った時の階級かと。聯隊本部所属は聯隊獸醫室勤務だと思われます。12年に現役入營二等兵が軍歴の最初で、11年9月〜12月の記述がその前にあるのは矛盾するので。
    獸醫将校になる資格は獸醫師免許取得者或いは取得豫定者なので、
    ・昭和10年3月 ××農学校獣医畜産科卒(満20歳)
    にある「農学校」は舊制専門學校の事と思われます。その場合の卒業年齢は20歳なので符号します。(實業學校たる農學校の場合は15歳が卒業年齢)
    昭和13年に豫備役獸醫少尉に任官し、その間應召復員があったのかどうかは記述がないので判りませんが、18年に豫備役獸醫中尉で進級に5年かかっているのはその間ずっと在營していたのではないと推測されます。
    あるめ


  6. 訂正 「二等蹄鉄工長は伍長相當の」 → 「二等蹄鉄工長は軍曹相當の」 でした。
    あるめ


  7. ご回答ありがとうございます。
    お返事遅れて失礼しました。

    この「昭和11年」の記述は、知り合いより見せて頂いた通りで間違いないです。
    ただ、そう考えると、矛盾がなくなります。
    後で知り合いに確認し、この記述に関する元資料を確認してもらって見ます。


    また、昭和13年に予備役獣医少尉任官となり、18年に予備役獣医中尉と5年の期間がかかっていることも、在営していなかったという可能性もあるのですね。
    お教えいただき、ありがとうございます。


    それから、ここで疑問があるのです。お教えいただければ幸いです。
    昭和13年に、予備役獣医少尉に任官する、つまり、現役の獣医少尉にならないことは、一般的な事例でしょうか、それとも、かなり特殊な事例になるのでしょうか。

    中国との戦争が始まっており、戦場でも獣医が必要な時期ではなかったのでしょうか。
    素人考えでは、皆目見当がつきません。


    この方のお父さんは、戦中の自分の経歴をほとんど語らなかったため、今、このお子さんが、その時代の家族の歴史を知りたいと考えて、いろいろと調べているのです。

    しかし、通り一遍の資料だけを読んでも、それが一般的なことなのか、非常に特殊なことなのかが、判断が付きません。

    皆様のお知恵を拝借できればありがたく思います。
    よろしくお願い致します。

    ブドリ二世


  8. 幹部候補生出身の場合は獸醫少尉に任官した時點で豫備役となります。現役になる場合は現役志願する必要がありますが、別に難しい事ではなく初級将校の數が足りないので軍も大歓迎だった筈です、この方の履歴には役種が書かれてないので、豫備役か現役かが判りませんが、もし現役志願した場合は戰傷病氣職務不適の他には退營の理由は無くずっと在隊だったと思われ、進級も豫備役より早かったと思いますが、中尉進級に5年かかっていると云ふ事は、どうも豫備役の儘だったのではないかと思います。
    當時は初級将校不足であったので中等學校卒業以上の學歴がある現役兵は全員が幹部候補生試驗を受けさせられ、戰争末期となれば白紙答案を出しても合格となる状況でしたが、幹部候補生課程を終えて豫備役少尉となっても現役志願するのは限られた例になるのではと推測されます。なんとなれば既に軍以外に職を得ている場合それを捨てて軍の職に専念する事になるからです。
    軍から見れば現役は正職員で一生面倒を見る要員、豫備役は臨時アルバイトで必要な時だけ雇傭と云ふ位置附けで、殆どの人は豫備役となるのが普通でした。例えば軍醫の場合、醫師免許のある人は徴兵検査合格者全員が豫備役軍醫となり、その中で依託學生(學士以上)・生徒(得業士)(軍から學資補助を貰って在學していた)であった人は現役となり何年かを軍で御礼奉公或いは生涯を軍に捧げる事になっておりました。現役或いは豫備役軍醫にならない場合は兵科の二等兵となりました。
    軍以外に職を得て居る人は豫備役である方が都合がよく、現役志願をする人は餘程軍が氣に入っているか愛國者である場合でせうから、當時は軍醫や獸醫と云った免許持ちは豫備役である状態が多く、またそれが普通と見做されていたのではないでせうか。町のお醫者さんや村の獸醫さんは全員が(餘程故障があって徴兵檢査不合格を除き)豫備役軍醫や豫備役獸醫であった筈です。
    むしろ豫備役から現役志願する方が特殊と思われます。
    あるめ


  9. 訂正

    愛國 → 愛國者
    お醫 → お醫者
    あるめ


  10. あるめさま

    丁寧で有益なお答え、ありがとうございます。
    何しろこの方、ご家族には戦中の話を、何も語らずにかなりお若い頃に亡くなられています。

    ご家族の方たちも、皆さん戦後生まれのため、このあたりの事情は、なにも見当がつかないとのこと。

    軍歴証明書を取り寄せられることをお伝えしたのですが、書かれていたのは、上記の記述だけ。

    後は、他の資料を当たるしかないのですが、「幹部候補生」や「予備役」と言った当時の正解感覚の「常識」を知るすべがないために、皆様よりお知恵を拝借しました。

    この軍歴から類推すると、たぶん、幹部候補生課程を終えて予備役少尉となり、何らかの事情で5年後に中尉に進級したという経歴の方が、一般的な感じとなる訳ですね。


    ありがとうございます。

    大変に助かりました。

    さっそく、ご本人に連絡してみます。
    お答えいただいた皆様に、心より感謝いたします。

    ブドリ2世



132  1941年、ロンメル将軍を殺害を図ったたフリッパー作戦に参加して戦死し、ビクトリア十字章を授与されたジェフリー・キーズ英陸軍中佐についてご存知の方は情報をご教示願います。
 私は英語が読めないので、英語の資料を翻訳していただければ幸いです。

 私の知る限りユニークな経歴の英雄です。
  〇 海軍元帥ロジャー・キーズ男爵の長男
  〇 母はインド人
  〇 24歳で陸軍少佐
  〇 生還困難なフリッパー作戦に志願
  〇 戦死後に中佐に昇進。最高勲章ビクトリア十字章を授与される
  
PIAT

誰か答えて下さい。

131 次の人物はアナポリスの同期生同士でしょうか?

1:Jesse Bartlett Oldendorf と Theodore Stark Wilkinson
2:Thomas Cassin Kinkaid と Willis Augustus Lee
GUY

  1. 補足しますと
    1:スリガオ海峡夜戦の指揮官のオルデンドルフ提督と両用戦部隊指揮官のウィルキンソン提督

    2:第七艦隊司令長官のキンケイド提督と第三次ソロモン海戦第二夜戦指揮官のリー提督
    のアナポリスの卒業年次が同じであるのかを知りたく思い、質問させて頂きました。
    GUY


  2.  1は1909年、2は1908年卒業の同級生ですので、その通りです。
     
    hush



130 陸軍中野学校の出身だと思うのですが、名簿に載っているか調べられますか?
肥田普

  1.  「陸軍中野学校 中野交友会編」という本があるそうです。その中に名簿があるそうですが、ネット上の古書店でも出ていません。したがって、国会図書館へ行くしかないと思っています。
     もし、その方が近親者であるのなら、軍歴証明書を発行してもらうという手もあります。
     https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido04/index.html
     
    hush



129 戦争画家・松添健について質問させて下さい。
松添健画の絵葉書を手に入れたので、ブログかツイッターの載せようと思い、著作権について調べてみました。
絵画の場合は作者の没後50年経っていれば、著作権が切れるとのこと。
しかし、松添健氏について調べてみましたが生没年が分かりません・・・どなたか没年をご存じの方がおられましたら、ご教授下さいませんでしょうか?よろしくお願いいたします。
ポテ

  1.  ブログのURLを入れたせいか、「エラー:書き込み内容に不適切な用語が含まれています」という表示が出てしまうので、”杉村春子といえば”で(””も必要です)検索をかけて欲しいのですが、すると、松添健の御親戚の人のブログが出てきます。
     今も書き続けておられるようですので、尋ねてごらんになられてはいかがでしょうか。
     
    hush


  2.  念のため補記しておくと、今も書き続けておられているというのは、ブログの作者です。
     なお、松添健については1958年7月に三菱長崎で進水した貨物船島根丸の絵葉書を描いているというのが、管見の限りでは、一番、最近のものです。
    hush



128 「人物に関する質問」というよりは「ソースをください」という主旨ですが、一応人物の話題なのでこちらで質問させていただきます。

日本語版Wikipediaのハインツ・グデーリアンの記事にある
>1948年6月17日に釈放された後は、アメリカ陸軍機甲学校で講義を行ったり、回想録を執筆して余生を送った。
の「アメリカ陸軍機甲学校で講義を行った」という部分ですが、他の言語版のWikipediaでは、当事国である英語版、彼の母国の独語版、いずれも彼の戦後の動向についてこのような講義をしたという記述はありません。
英語で「guderian after ww ii」等のワードでググって各サイトの彼の戦後の動向を見ても、英国軍人と交流をした、回顧録を執筆した、西独の再軍備計画に寄与した、といった程度で、このような講義をしたという記述を見つけられませんでした。
日本語でググると複数のサイトでヒットするものの、見つけられるものは件の日本語版Wikipediaからの引用か、仮にそうでないとしてもソースを確認出来ない記述ばかりでした。
インターネット検索だけでも駄目だろうと、とりあえず近隣最大書店で彼の戦後の動向が載っていそうな書籍を探しても、(そもそも彼の戦後の動向の範囲にまでカバーした書籍というものは都心遠征でもしない限り全然見つけられないものでしょうが)そのような講義を行った、なる記述は日本語で出版されている書籍で確認出来ませんでした。

なので、「彼がアメリカ陸軍機甲学校で講義をした」という情報について、正直なところ真偽を疑い始めています。
日本語版Wikipediaのこの記述の種本になったと思われるもの、あるいは信頼出来る文献でこの件について明記されているものがありましたら、教えていただけますでしょうか。
教えていただけて事実だと確認が取れたら、件の記事に出典を書くつもりです。
tellus

  1. 電撃戦 グデーリアン回想記/本郷 健訳 1974年フジ出版社 P477 訳者あとがきに、以下の記載があります。

    ここから引用

    敗戦後捕虜になり、のちアメリカ軍の戦車学校に招請される。そして長き体験から学び得た戦車戦術論を、かつての敵国将兵に伝授し〜

    ここまで

    555



127 ゲシュタポのユダヤ人課長だったアドルフ・アイヒマンSS中佐は敗戦後に国外へ逃亡し、ブエノスアイレスに潜伏していたところ、1960年にイスラエルの情報機関に拉致されてイスラエルへ連行され、裁判のうえ、1962年に絞首刑に処されました。

さて、ブエノスアイレスと在住でメルセデス・ベンツの工場に勤務する平凡な市民であるリカルド・クレメントをアイヒマンである見破ったのは、誰だったのでしょうか?
PIAT

  1. 私の知る限り、3つの説があります。

    @サイモン・ウィーゼンタール説
     ベストセラー小説『オデッサ・ファイル』には、「ウィゼンタールがクレメントの正体をアイヒマンだと見破り、イスラエル情報機関へ通報した」と書いてありました。
    ウィゼンタールはナチスの戦犯を追跡するハンターとして有名な人物で、映画『ブラジルから来た少年』で名優ローレンス・オリヴィエ扮するナチハンターのモデルのようです。

    A西ドイツの検事 フリッツ・バウアー説
    2017年に日本で公開された映画『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』によると、アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているとの手紙を受け取ったバウアー検事は、アイヒマンを西ドイツで裁判にかけようとするがとするが、各方面から妨害を受けたため、反逆罪に問われる危険があったにもかかわらず、イスラエルへ情報提供したとのことでした。
    この映画はドイツで多数の映画賞を受けています。

    Bイスラエルの独自調査説
    朝日新聞日曜版に『世界花の旅』という連載があり、アスターの花について次のような記事がありました。
    ○ イスラエル情報機関は戦後アイヒマンの妻子の監視を続けており、妻子がアルゼンチンに移住した後も監視を続けた。
    ○ アイヒマンの妻子はリカルド・クレメントなる人物と同居をしたが、子供達はクレメントを「リカルドおじさん」と呼び、顔もアイヒマンとは違っていた。
    ○ 通常クレメントが花を買うことはなかったが、ある日クレメントがアイヒマン夫人の好きなアスターの花を買って来たので、不思議に思った監視員が資料を調べると、その日がアイヒマン夫妻の結婚記念日であることがわかり、イスラエル政府はクレメントがアイヒマンであると 確信した。

    @説については、イスラエル人スパイ小説家のマイケル・バー・ゾウハーが『復讐者たち』の中で、「ウィーゼンタールの宣伝に過ぎない」と否定していました。(立ち読み)だったので、これ以上は覚えていません) 

    A説については、新しい情報ですが、ドイツ(人および政府)は悪事はすべてナチスのせいにして、ナチスに反する人や行為をやたらと持ち上げる傾向があるように思うので、まだ判断がつきません。

    B説については、記者がブエノスアイレスを訪問し、かつてアイヒマン一家が住んでいた家の借家人にインタビューしています。
    インタビュー中に車で通りかかった中年女性について借家人が「あの人が家主のアイヒマンさんです」と述べた記述もあり、アスターの花をきっかけにアイヒマンの正体がばれたことについては、説得力がありました。

    PIAT


  2. ウィゼンタールが見つけたのだが彼は別の案件がありイスラエル当局に通報し、その後を引き継ぎイスラエル当局にお任せしたという形。お花の話しは有名な逸話ですが創作であるという説が有力。決め手は歯科治療の記録というのが有力。
    じゃんご


  3. じゃんご様

    お礼が遅れましたが、回答ありがとうございました。
    アスターの花の話は劇的ですが、フィクションでしたか。
    ちょっと残念です。
    PIAT



126 日露戦争旅順攻撃中、旅順が外と伝書鳩で連絡しているらしいことから、長岡少将の発案で、鷹匠がハトを妨害する試みがありました。これの陸軍側の直接の担当者は誰だったのでしょうか?

誰か答えて下さい。

125 すみません、次のエピソードの持ち主は雷帝イヴァンであってますか?

ロシア皇帝(←たしか、もしかしたら他の国の「王様」だったかも)はゴキブリが大嫌い。
街のレストランで1軒だけゴキブリのいない店があり、皇帝はそこがお気に入り。
ある日、店の主人に尋ねた「この店にゴキブリがいないのはどうしてだ?」
「陛下、ゴキブリが寄り付かなくなる仕掛けがあるのです。」
皇帝は喜んだ。それを真似すれば宮殿からもゴキブリが居なくなるに違いない。
「ぜひ教えてほしい。自分も真似したい」
「陛下、あのようにしておけばゴキブリは恐れて寄り付かなくなります」
店の主人が指さした場所を見た途端、皇帝は悲鳴を上げて店から逃げ出した。
そこには釘で柱に打ち付けられたゴキブリが死にきれずに足を動かしてもがく姿があった。
おうる

  1. ここは、軍事に関する質問をするボードです。
    UK


  2. ↑は、教〇か元〇師なんだろうか。 あーやだやだ。

    おうるさま、ピョートル大帝の逸話とするサイトがあります。
    ここの方がけっこう調べておられます。
    4式射撃装置


  3. >>2
    ありがとうございます。

    確かにピョートル大帝だったようです。
    ロシア皇帝の誰かだとは思っていたのですが、イヴァンで検索しても出てこないのでわからなくなっていました。
    助かりました。
    おうる


  4.  北海道にもいないゴキブリが、さらに寒いロシアにいるわけないでしょうし、フランス革命後にようやく登場するレストランが、ピョートルの時代にあるとは思えませんので、調べましたら、やはり違うようです。
     2の方の書き方からすると、わざとアドレスをお書きにならなかったのでしょうが、一応、書いておきます。

     アドレスを入れるとエラーになるので、ピョートル ゴキブリで検索してみてください。
     
    hush


  5. >>4
    はい、その通りでどうやら日本で創作されたエピソードのようですね。

    私も北海道にいないゴキブリがロシアにいるのか?と思いましたが、どうやらロシアにゴキブリはいるそうです。ロシア南部には昔からいて(ロシア南部原産の種もある)北部にはいなかったのですが、近代以降の集合住宅&セントラルヒーティングというロシアの住居環境がゴキブリの生息を可能にしたようです。(おそらく同様の理由から現在ではグリーンランドやアイスランドでも生息が確認されているそうです。)
    北海道にゴキブリがいなかったのも20世紀までの話で、青函トンネルと温暖化の影響で現在では北海道でも生息しているそうです。

    話がそれましたのでここまでにしたいと思います。
    おうる



124 イスラエルのバラク元首相について質問いたします。

バラク氏は元々特殊部隊の隊長で、1972年のサベナ航空ハイジャック事件や1973年のベイルート奇襲作戦では、得意の変装を生かして活躍し、「イスラエルで最も多くの勲章を受けた兵士」と言われています。
ところで、1976年のエンテベ空港人質救出作戦では、バラク氏はどのような役割を果たしたのでしょうか?
当時の人口が静岡県程度のイスラエルが総力を挙げた奇襲作戦にバラク氏が参加しないとは考えにくいのですが、ウィキペディアにも載っていません。
PIAT

  1.  Barak was also a key architect of the June 1976 Operation Entebbeと英語版のWikipediaに書かれていますので、何らかの役割は持ったようです。
     
    hush


  2. hush様 回答をいただき、ありがとうございます。

    「a key architect」という表現は面白いですね。
    architectには「建築家」という意味の外に、「設計者」「企画者」という意味があるようです。
    作戦立案に関わったのでしょうか。
    PIAT


  3.  鄭重な御礼を賜り恐縮致しております。
     ただ、 https://en.wikipedia.org/wiki/Ehud_Barak に書いてあることをそのまま転記しただけですので、よくは存じませんが、彼が立案した計画に基づいて実施されたということではないかと思っております。
     
    hush



123 およそ半年ぶりに人物について質問です。
実は私、二式飛行艇について調べて居て、「玉利義男」大尉なる人物の名前を見たのですが、私が調べて範囲では経歴がイマイチ分かりません。とりあえず終戦後も生存していたこと、海兵68期であることは分かったのですが、所属部隊や本人経歴と参加した作戦すべてについてどなたか知っている人は居ないでしょうか?
みかん段ボール

  1. 経歴などは全部わかりますが、ここに書くのははばかられます。http://naval.way-nifty.com/から私信できいてください。
    たく



122 日本海軍の艦爆偵察員について質問です。
赤城艦爆隊の西山強二飛曹
加賀艦爆隊の吉川克己飛曹長
同じく加賀艦爆隊の中島米吉飛曹長

上記の搭乗員の顛末についてご存知の方がいらっしゃれば、よろしければ教えていただけないでしょうか。

みかん段ボール

  1. 顛末とはどういう意味でしょうか。
    終戦時生存されてたかどうかということでしょうか。
    戦後の消息は答えられないと思いますが。
    平山


  2. 西山さんは19.10.14六三四空彗星隊で台湾沖航空戦で戦死
    吉川さんは攻三(私の知らないところで転勤がなければ)で生存
    中島さんは19.6.19マリアナ沖海戦で隼鷹から飛行隊長阿部善次大尉の偵察員として発艦、ロタに不時着し、終戦まで残留、のち復員生還
    平山



121 こんにちは! お世話になります! ヨーゼフ・”ゼップ”・ディートリヒ武装親衛隊上級大将のニックネーム「ゼップ」の由来を解説して頂けませんか? wikipediaでは記事がなく困ってます 宜しくお願いします
Ad.シュペー

  1.  ゼップSeppはヨーゼフJosephの短縮形です。英語の場合、ジョゼフJosephはジョーJo、JoeまたはジョーイJoeyとなります。
     
    hush


  2. こんにちは! こんなに早く回答がよせられびっくりです 解りやすく解説していただきありがとうございます!
    Ad.シュペー



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