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159  ハイマン・リッコーヴァー (Hyman Rickover) は「原子力潜水艦の父」として米国内では一応偉い人物として扱われているようです。しかし、谷光太郎「米軍提督と太平洋戦争」を見ますと、この評価は正しくない、とされています。彼は、狷介、傲慢、狡猾な人物で、本当の功績者の名を抹殺し、自分が偉いのだと思わせるため歴史も書き換えた、と言います。その本当に偉い人物の名を知りたいのですが、本を手放したため、わかりません。古本屋で買えばそのうちわかると思うのですが、今現在知りたいので、もしお分かりの方いらっしゃいましたら教えてください。
電気戦艦

  1.  まず、お断りしておきたいのは、この本を持っていませんので、何とも言えませんが、ちょっとお伝えしたいことがあります。
     一つは、この本は電子書籍版が出ていること。
     もう一つは、 https://search.showakan.go.jp/search/book/detail.php?material_cord=000040102 にある、同書の目次にリッコヴァーの名がないことです。
     潜水艦関係ではロックウッドの名前が出ていますが、戦後すぐに引退した人ですし、あまり関係ないと思われます。
     谷光氏は、他にもアメリカ海軍関係の本を多数書いておりますが、同書に載っているということでよろしいのでしょうか。
     疑問に思いましたので、失礼ながら書き込ませていただきます。
     
    hush


  2. hush様 どうもありがとうございました。やはりこの本をもう一度きちんと読んでから質問すべきでした。もう一度読んでみようと思います。
    この本の目次に彼の名前が出ていないのは当然です。誰か指揮官について述べたところで、付随的にマッコーヴァーについて記してあったような気がするのです。その人物は何か悲劇的な最期を遂げた人かもしれません。
    今回は、ひょっとして自分の錯覚か、加齢に伴う妄想かもしれません。もう一度よく調べてみます。

    電気戦艦


  3. >2
     なるほど、それは失礼しました。
     
    hush


  4.  市立図書館に本がありました。
     528ページに「ロックウードは、(中略)文字通り「ミスター潜水艦」だった。/ところが、原子力潜水艦の誕生とともに、戦時中に建艦局の技術大佐だったハイマン・G・リッコバーが原潜の父と呼ばれ、ミスター潜水艦と呼ばれるようになった。ロックウードは苦々しい思いでリッコバーの活躍を眺めた。原子力潜水艦「ノーチラスが進水したのは一九五四年。/ロックウードが死んだのは一九六七年六月。」とあります。
     ロックウッドの項目しか見ていませんが、一応、報告しておきます。
     
    hush


  5.  ざっと目を通したところでは、リッコヴァーの名は、ロックウッドのところにしかないようです。
     
    hush


  6. hush様 迅速な調査をやっていただき、深甚の感謝を申し上げます。私の記憶も半分くらいは正しいようで、少し安心いたしました。リッコヴァーはcrazyな人物ですが、蛮勇を奮って原潜の実物を短期間で建造したということで、評価を得たようです。しかし、原潜のアイデアは自分が考えたとか、全海軍が反対する中で自分だけが頑張ったというようなお話を作ってきました。以下の文献は参考になりました。
    US Naval Institute Proceedings (September 1967 ) 中のbook reviews ”Down To The Sea in Subs” (Lockwood の著作です)


    電気戦艦


  7. >6
     たしかに https://www.usni.org/magazines/proceedings/1967/september/book-reviews-and-book-list には、そのようなことが書かれていますね。
     大木毅著「戦史の余白:三十年戦争から第二次大戦まで」https://sakuhinsha.com/history/30106.html という本を読んでいると、ロンメルが独断専行により北アフリカのイギリス軍を攻撃し、対ソに必要なリソースを食いつぶしていったようなことが書いてあり、見方も随分と変わったんだなと思っております。
     
    hush


  8. >7 hush様 ありがとうございました。独断専行とは日本の参謀のことだけかと思っていましたら、外国にも例があるのですね。リッコヴァーとの関連でマンハッタン計画のグローブスのことWiki
    で調べると、日本への原爆投下についてはトルーマンに十分説明せずかなり勝手にやったとあります。詳しく説明しているとひょっとして、中止されるのを恐れたのでしょうね。
    電気戦艦



158 カーチス・ルメイ空軍大将に日本政府が勲一等旭日大綬章を授与したことについては現在でも激しく批判されています。
ところで彼にはフランス政府もレジオン・ドヌール勲章を授与していますが、彼は戦時中フランス各地も爆撃しているわけで、授与について疑問視するフランス人はいなかったんでしょうか?
アイゼンハワーやパットンと同じくフランス解放者として素直に評価されてるのでしょうか。
ウィキペディアフランス語版は特に怨み節のような書きぶりはありませんでした。
酔来亭天福

  1.  父親がフランス人ですし、フランス各地の爆撃も焼夷弾を使うようなものではなかったからではないでしょうか(イギリス空軍は使用していたが、アメリカは欧州では使わなかったと、そのフランス語版Wikipediaにあります)。それに、フランスが勲章を贈ったのは、ベルリン空輸等の功績が理由だと思っています。
     
    hush


  2. ありがとうございました。
    ベルリン空輸の功績でフランスが勲章を授与したのですね。

    ノルマンディー以降連合軍の空爆でフランス民間人が2万人以上亡くなったそうですが、日本のそれは二桁ちがいますので、フランスの被害は霞んじゃっているのかもしれないですね。
    酔来亭天福


  3. >日本のそれは二桁ちがいます
     自治体が把握しているのが30.7万人ですので、一桁違うですね。
     もっとも、義理の祖母なども戦没者名簿に載っていなかったように、名前が分かっているのは60%程度のようです。
     フランスへの空爆の場合、町に入った連合軍に食って掛かったフランス人もいたようですが、ド・ゴールは自由フランスの出身ですから、抑え込んだのでしょう。
     
    hush


  4. ありがとうございます。一桁間違えました。

    ノルマンディー上陸作戦75周年の時、フランス民間人の爆撃被害や米兵の蛮行等暗い面もあったとの報道を見たことがあります。
    ルメイがフランスから勲章をもらっているとたまたま知って、フランスではどう思われているか気になったのです。
    米兵の蛮行はアイゼンハワーが責任者ですし、爆撃はそこに陣取ったドイツ軍が原因ですから、批判されるとしてもまずアイゼンハワーの方が先でしょうね。
    酔来亭天福



157  信長が朝倉義景、浅井久政・長政親子の頭蓋骨を宴の席で並べたのは有名ですが、裏切った身内にその首を取られて信長に差し出されている義景と違い、朝倉親子の首はどのように信長のもとに入ったのでしょうか。
特に久政は落城数日前に腹を切っており息子長政が、その首を落城後に敵の手に落ちるような場所に置いておいたとも思えません。
タブ

  1.  Wikipediaで申し訳ないですが、「久政は小丸を守ったが、8月27日夜羽柴秀吉が京極丸を落としたため、長政の籠もる本丸と分断されることとなった。小丸が先に陥落し、久政と浅井福寿庵が切腹、久政に仕えた舞楽師鶴松太夫も追って切腹した。翌日長政も自刃し浅井氏は滅亡した」と https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E4%B9%85%E6%94%BF にあります。「信長公記」を確認していないのですが、これが正しければ、久政の首を長政が回収するのは難しかったということになります。
     
    hush


  2. インターネットによると、三人の首を宴の席で晒したことに関する一次資料は無いそうです。
    変人


  3. >2
     確かにそうです。
     ただ、 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d991e0970f2752b1abb0f89a38b9fd7e4b29ccf7 には「『信長公記』によると、信長は宴席の酒の肴とすべく、朝倉義景、浅井久政・長政父子の頭蓋骨を薄濃にしたという」とあります。「信長公記」を確認していないのですがと書いたのは、このためなのですが、実は未だに確認していません。
     もちろん、「信長公記」を信用していいかというと、当事者とはいえ、後の記憶ですから悩ましい所ですが、森乱を蘭とするような江戸時代の改竄はない分、ある程度信用はできると思っています。
     あと、「浅井三代記」にも同様の記述があるとあります。
     
    hush


  4.  確認しました。
     「信長公記」巻七(一)
    義景浅井下野浅井備前三人首御看之事 天正二年甲戌 正月朔日 京都帰国面々等在岐阜にて御出仕有各三献にて召出しの御酒有他国衆退田の已後 御馬廻計にて 古今不及承珍奇の御肴出候て又御酒有去年北国にて討とらせられ候
    一朝倉左京太夫義景首 一浅井下野 首 一浅井備前 首 已上三ツ薄濃にして公卿に居置御肴に出され候て御酒宴各御謡御遊興千々万々目出度御存に任せられ御悦也
     「浅井三代記」巻第十八 浅井長政最後之事
     この長政の首と義景の首とを肉をさらし取朱ぬりに被㆑成安土にて其翌年より正月の御礼に参上せらるゝ大名衆へ御盃の上に御肴にそ出にける
     https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98 https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E4%B8%89%E4%BB%A3%E8%A8%98/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB#a-18-6 より引用。
    hush


  5. >1 ウィキの長政や浅井家等には目を通していましたが久政の切腹時は読み落としていました。
    落城直前に自決したのなら織田方の兵に首を見つけられたかも知れませんね。
    長政も最期まで戦い抜き敵が目前に迫っての自決だったので首が織田方に渡ったのでしょうか。
    タブ


  6.  同じウィキでも長政の項目では「現在では久政の死の翌日に長政が自決したのは間違いが定説」だそうです。

     同時代の記録を一次資料とするなら、記録に無いのは宴で頭蓋骨を並べたことでなく頭骨を杯にして酒を飲んだという話ではないでしょうか。
    タブ


  7. >6
     3で当事者とはいえ、後の記憶ですからと書いたように、「信長公記」も二次資料です。
     頭骨を杯にして酒を飲んだという話は4で引用しました「浅井三代記」の「正月の御礼に参上せらるゝ大名衆へ御盃の上に御肴にそ出にける」をもとに膨らましたものです。
     
     
    hush



156  航空機製作者として有名なドイツのフーゴ・ユンカース(Hugo Junkers) は、熱工学でも仕事をした人で、1892年にはカロリーメータで特許を取り、またガス瞬間湯沸かし器の開発でも成功しました。戦前の日本では、ドイツ製のユンケル式石炭ストーブが高級品として販売されていました。このストーブは、貯炭式のもので、石炭が燃焼して下方に落ちるとともに上方から石炭が自然に火床に落ちてくるものです。このストーブの名称から、おそらくH.ユンカースが考案したものであると推察できるのですが、はっきりとそう記述したものがありません。どなたかもっと詳しく教えていただけないでしょうか。
電気戦艦

  1.  ユンカース社のwikipedia https://de.wikipedia.org/wiki/Junkers_%26_Co. を見ますと、彼がストーブの製造を行っていたとはあるのですが、それはガス・ストーブであって、石炭ストーブは記述にありません。
     そこで、ユンカースではない可能性を加味して調べていくとJuker + Ruhという会社がありました。この会社はミシンの製造で有名だったようですが、 https://www.junker-home.com/de/de/junker-entdecken/historie には、ストーブの製造もしていたとあります。ただし、これもガス・ストーブです。
     一方、ユンケル式石炭ストーブの画像を探して2点ほど見つけましたが、社標等は見つけられませんでした。
     したがって、問題の石炭ストーブがユンカースのものか、カール・ユンカーによるものか、あるいは、全然違うものかは不明ですが、とりあえず報告だけしておきます。
     
    hush


  2. ご質問のユンケル式石炭ストーブは、>1にありますJunker & Ruh社の製品だと思われます。
    https://sts.kahaku.go.jp/tokutei/pdfs/0417.pdf には、日本初の貯炭式ストーブ、福禄石炭ストーブの開発時にユンケルストーブが参考とされた事と共に
    ユンケルストーブの画像があり不明瞭ですがJunker & Ruhの社名が確認できます。
    https://www.lokalkompass.de/bedburg-hau/c-kultur/der-kohleofen-meiner-jugend-junker-und-ruh_a1710178 やhttps://www.kleinanzeigen.de/s-anzeige/antiker-ofen-vintage-junker-und-ruh/2575492406-240-19610 に
    Junker & Ruh社の社名が確認できる石炭ストーブの画像がありますが
    上記PDFの画像のストーブと形状が酷似しています。
    又、 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/4/12/4_12_1135/_pdf
    には独逸式ユンケル、ルー型との記載があります。

    石炭ストーブそのものに関しては
    上記の通り、福禄石炭ストーブの参考になった事、
    >1にてhush様ご紹介のサイトの記載にある通り、Junker & Ruhにて連続燃焼式(貯炭式)石炭ストーブを販売していた事、
    その開発が、https://www.fiddlebase.com/german-machines/junker-ruh/ によると、米国に移住したカール・ユンカーの兄のもたらした知見で1879年頃になされた事
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/11/10/11_1386/_pdf
    によると日本で販売されていたのは、ドイツ特許のアメリカ資本による上海での製造品だった事、
    以上からユンカースは関係無いであろうと推察される事しか分かりませんでした。
    ご参考になりましたら幸いです。
    根性の無い履帯


  3. 根性の無い履帯様
     フォロー多謝。
     同じものを見ているのに社名を確認できませんでした。
     老眼はいけませんね。
     
    hush


  4. hush様、根性の無い履帯様
     いろいろ教えていただきありがとうございました。確かに銘板に Junker und Ruh とありますので、飛行機のJunkers とは別であることがはっきりしました。ユンカースが熱工学方面の仕事をしているというので、つい同じかと思いましたが、やや早合点でした。彼は、全金属機とか全翼機のような先鋭的な仕事をした人ですから、従来技術の延長にあるストーブの開発とは関係ないのでは、と判断すべきでした。
     そうは言っても、今回新しいことがわかったのはよかったです。重ね重ね御礼申し上げます。
    電気戦艦


  5. >従来技術の延長にあるストーブの開発とは関係ないのでは、と判断すべきでした
     ユンカース社は https://de.wikipedia.org/wiki/Junkers_%26_Co. にありますように、熱量計、ガス暖房装置、中でも瞬間湯沸かし器の特許で知られた会社であり、ストーブ(ヒーター)も作っています。大学に移ってから、航空機の製造に移り、ヒトラーに疎んじられて会社を放棄したわけですから、ガス・ストーブの開発には関係が大いにあるように思われますが。
     
    hush


  6. hush様 >5.
     私も最初はhush様と同じように考えていました。ただ後になって考えると、同じストーブと言っても石炭を使うものとガスを使うものとはほとんど別物ですので、先の「反省」になったわけです。
     今回ネットなど調べてみますと興味深いことがわかりました。ユンカースは1895年デッサウに工場を作りました。このデッサウはのちに近代建築史上で大変有名な革新的教育機関バウハウスが置かれた所です。この校舎では暖房装置、湯沸かし器などでユンカースと大きな協力関係があったようです。またユンカース自身も建築に関心を持ち、steel house のようなものも作っています。
    電気戦艦


  7. >6
     石炭ストーブとは関係がないという意味なのですね。それなら、納得です。
     しかし、ストーブは英語ではHeaterで、Stoveは調理用具なのですね。
     
    hush


  8. hush様 >7.
    日本で石炭ストーブといえば普通はだるま型の純粋暖房用のものを思い出します。しかしアメリカなどでは coal stove といえば 暖房・炊事のためのcoal cooking stoveを意味することが多いようです。ネットの画像をみますと多種多様なものが出てきます。いろんな機能が備わっており、アイロンをいつも熱するための台がついているものもあります。coal range とも呼ばれます。日本の帝国ホテルでは1958年でも厨房で石炭レンジを使用していました。
    電気戦艦



155 岡本太郎氏の最終階級が少尉なのが気になって、どういう経緯で二等兵から士官にまでなれたのか分からず悩んでます。
父曰く、「乙種幹部候補生だったんじゃないか」とのことですが、戦時中でも二等兵から数年で士官になることは可能だったのでしょうか?
タローマン2号

  1.  戦時中だったからこそ将校不足で可能なのですが、岡本太郎は慶應義塾普通科を卒業しています。成績はビリでしたが、その順位が52番です。つまり、彼の時代、東京の中学校でもその程度の数しか学んでいないわけです。実際、1940年の旧制中学校進学率は7%で、現在の99%前後の高校進学率とは全然違うわけです。つまり、エリートなわけですが、彼は海外にいて1942年に徴兵検査を受けて31歳で入営という特殊ケースです。
     そういうエリートですし、海外事情に詳しい貴重な人物で、絵描きという特殊才能を持ち、父母共に有名人です。このため、兵員時代は苦労をしたようですが、上官の受けはよく、すぐに幹部候補生試験を受けられたと思います。この試験には部隊長の推薦が必要だからです。
     そして、合格後予備士官学校で教育を受けて下士官となったのなら、ポツダム少尉ぐらいにはなれます。
     
    hush


  2. ありがとうございます。
    なるほど、ポツダム少尉だったのかもしれないのですね。
    それと幹部候補生試験が、部隊長の推薦制なのは知らなかったので勉強になりました。
    タローマン2号


  3.  蛇足ですが、会田雄次氏の名著「アーロン収容所」によれば日本兵は戦後の海外の捕虜収容所に収容されている間も昇進は続いていたので、最後の方は全員下士官以上になっていたそうです。
    おうる


  4. >3
     それで軍曹だったはずの父親の最終階級が曹長になっていたのですね。
     その本は40年以上前に読んだきりですので、また、読んでみます。
     御教示ありがとうございました。
     
    hush



154  舞鶴地方隊総監、需給統制隊司令を勤めて1968年に退職された折田三郎海将ですが、ネット上の記録では海兵60期となっております。しかし、同期に折田姓の方もおりませんし、3人おられる三郎さんも2名が戦時中に死亡、残る1名は自衛隊に入っておりません。59期には西村三郎という人がおりますが、一等空佐で退職されています。61期には小島三郎中佐がおられますが、被曝して亡くなられています。
 したがって、経理21期の折田三郎氏のことかもしれないとは思っていますが、正しくはどのような経歴の方だったのでしょうか。御教示いただければ幸いです。
 
hush

  1.  wikipediaの舞鶴地方隊は2014年1月25日に、需給統制隊の載っている海上自衛隊補給本部は同年1月29日に前者は海経から、後者は出身校・期の記述なしから同一人物によって海兵60期に変更されているようです。
     もっとも、その理由は書かれていませんし、変更された方も最近はアクセスされていないようです。
     海経が正しいのなら、経理21期の折田三郎氏という可能性が高まりますが、どうなのでしょうか。
     
    hush



153  多くの戦争映画にも出ていたアンソニー・クエイルはWW2時に20代後半で入隊しSOEやジブラルタル総督の補佐官等をしています。

肩書だけみると軍人なら出世コースというか割と優秀に思えます。

役者が20代後半で入隊して務まったということは実際には一般の徴収兵でも務まる内容だったのでしょうか?
トロッター

  1.  それはどなたでしょうかと思ったのですが、「戦艦シュペー号の最後」でハーウッド提督を演じた方のようです。それはともかくとして、戦前の彼は端役しか出ていませんが、ラグビー・スクールの卒業生です。全校でわずか850名の生徒ですが、全員が寮に入りイートンと並ぶ最高峰の教育を与える学校です。もちろん、経費は毎年数百万かかるとってもブルジョアな学校ですが、ここを出たということはオックスブリッジの卒業生の次ぐらいの学歴です。
     1985年にナイトになってぐらいですから貴族ではないと思いますが、第2次大戦時の士官不足で士官待遇で召集されたのでしょう。一般の徴収兵とは全然状況が違います。
     つまり、フランス語やドイツ語ぐらいは普通に話せ、ラテン語も大丈夫という人ですし、社交界に出ても問題ないわけですから、そういう仕事に向いているわけです。実際、イアン・フレミング、サマセット・モーム、グレアム・グリーン、ジョン・ル・カレ等戦時中に諜報員をやっていた小説家は多いです。一般の徴収兵の中には、文字も書けなかった人も多くいたはずですので、当然なのですが。
     
    hush


  2. 記憶モードですが、第2次世界大戦中の米国では、特別な才能を有したり役割を担う人には、相応の階級(あるいは相当する地位)を与えていたようです。学徒動員も我国より早くなされ、短期現役制度やこれに似た制度も早くからあったようです。
    UK


  3. アンソニー・クエイルは、経歴から見ると、ドイツの英本土上陸に備えた地域防衛義勇隊に入隊し、さらにそこから志願して実際に敵軍上陸が行われた場合にレジスタンス的な非正規戦を行う要員となっていたようです。
    また、(おそらく、そうした訓練を受けた結果として)その後に転じたSOEで、作戦を通じて深刻な心理的ダメージを受けたといわれ、どうもそれゆえにジブラルタル総督補佐官という職に回されたのではないかとも思います。
    というようなことで、彼の立場は「一般の徴収兵」ではなかったことになります。



  4.  なるほどそういった事情だったのですか。ありがとうございます。
    士官学校出でもなく若い頃に特殊部隊の経験があった退役軍人でもない中年に近づいた役者がSOEでユーゴスラヴィアで戦ったというだけでも不思議でした。
    体力的にもそこそこ優秀だったのですね。
     
     彼の役者としての資料やインタビューは簡単にたくさん見分できますが軍隊時代に関するものがなかなか探せませんでした。
    彼の軍隊時代の詳細は分かりませんが「アラビアのロレンス」の将校役などは経歴からすると はまり役だったのかなぁ。

     あと彼の階級が分かる方いるでしょうか?

    トロッター


  5.  https://www.staybehinds.com/john-anthony-quayle によると、1943年の階級はMajor(少佐)です。
     
    hush


  6. ありがとうございます。
    彼の経歴からすると実戦部隊で少佐とは凄いですね。
    トロッター



152 「シュトラハヴィッツ戦闘団」の長であり「戦車伯爵」の異名で知られるヒアイツント・グラーフ・フォン・シュトラハビッツ将軍について気になったことを質問します。

Wikiによれば、かの人物は帝政ドイツ陸軍の将校として第一次大戦に参加した後、ワイマール共和国陸軍に復帰して第二次大戦終了まで、第一線で戦闘に活躍し続け、ダイヤモンド・柏葉・剣付騎士鉄十字章まで授章しているわけですが、昇進してもその階級呼称は常に「予備役〜」となっています。

これはいわゆる「10万人の軍隊」に残された将校と、一度予備役になった将校を区別するためのものでしょうか?それとも単にWikiがドイツ語の「Der Reserve」を日本語の「予備役」と翻訳するのが不適当な印象を与えるだけなのでしょうか?このへんの事情についてご存じの方がいれば、どうか教えてください。
備後ピート

  1.  前者です。
     
    hush



151 少し気になったことがありまして、教えて頂きたく思います。

鎌田銓一陸軍中将が、1932年に工兵少佐としてアメリカの第一工兵連隊付としてアメリカ駐在に発令され、1934年までイリノイ大学、マサチューセッツ工科大学で学んだ時のことです。

その際、日常生活ではなく、かの国の軍隊の中で儀礼・式典等を行う際には、どんな服装をしていたのでしょうか。
「第一工兵連隊では大隊長待遇の隊付勤務をこなした」とWikipediaには書かれていました。

日本陸軍の軍装だったのでしょうか、それとも、アメリカ陸軍の軍装だったのでしょうか。

もし、ご存知の方がいらっしゃったら、お教えいただければ幸いです。

なぜ、こんな疑問が沸いたかと言うと、最近、中華民国国民革命軍の蒋緯国が1936年ドイツに行き、1937年にドイツ国防軍に入隊し、ドイツ陸軍ミュンヘン士官学校に入学している話を呼んだ故です。
写真で見る当時の蒋緯国は、ドイツ陸軍の軍服を着用しています。

まず蒋緯国との比較で鎌田銓一工兵少佐の例も気になります。

それから、一般的に、自国政府あるいは軍から公式的な指示・命令で、他国軍に派遣あるいは入隊した軍人は、どの国の軍服を着用するのでしょうか。

ちょっと気になっているので、ご教授頂けると嬉しいです。

ブドリ2世

  1.  自衛隊の広報ヴィデオ https://www.youtube.com/watch?v=zjeIjxsaN9o や、防大からの留学生の写真 https://nybiz.nyc/topics/two-students-from-the-defense-academy/ を観ると、各国の服を着ていますね。international cadets west pointで検索をしても、同様です。
     もっとも、これが各国共通の普遍的なものかどうか存じませんし、肝心の戦前のことが分かりませんが、参考まで提示いたします。
     
    hush


  2. hushさま
    ありがとうございます。

    大使館付の駐在武官は、本国の軍服を着用することは、多くの写真で見て知っていました。

    でも、それ以外で他国の軍隊に派遣されて、その軍隊の軍務に就く場合は、どうなるのでしょうか。


    また、1945年8月以前に日本に派遣された他国の軍人さんは、どんな軍装だったのか。

    ちょっと気になっているのです。

    碩学各位にお教えいただければ、有り難いです。
    ブドリ2世


  3.  1899年のハーグ陸戦条約には交戦者の条件として「遠方から識別可能な固著の徽章を着用していることTo have a fixed distinctive emblem recognizable at a distance」とあり、制服の規定はありません。また、「敵の制服またはジュネーヴ条約の特殊徽章を濫りに使用すること」ともあります。
     この固著はdistinctiveの和訳ですが、現代でしたら、独特の、独自の訳されたと思いますが、何に対してかというと国と考えるべきだと思われます。遠方からの定義がなされていないので、どこまで離れて見えたらよいのか分かりませんが、制服ではなく、徽章が違えばよいことになります。
     ただ、航空機の国籍識別マークがはっきりと分かるように描かれていることを考えると、この徽章はバッジ程度ではだめで、emblemという英語から考えるに、たとえば、国別に着色した襷のようなものぐらいでないとだめではないかと思います。しかし、それでは発見されやすいという問題が生じますので、国別の制服となります。
     「他国の軍隊に派遣されて、その軍隊の軍務に就く場合」ということですので、御質問は、戦闘時とは限らないと思いますが、そちらに限るとその国の制服を着たのだろうなと思います。
     
     
    hush


  4. hushさま
    ありがとうございます。

    と言うことは、この条約から考えると、他国の軍隊に派遣された場合、元の国の軍隊の軍服ではなく、派遣された国の軍服を着用することになるのですね。

    そう考えると、ドイツ陸軍の軍服を着用する蒋緯国の写真も納得がいきます。
    鎌田銓一さんも、アメリカ陸軍に派遣された際には、アメリカ陸軍の軍服を着用していたと考える方が、納得がいきますね。


    分かりました。
    ありがとうございます。


    ブドリ2世


  5. >4
     日本語が変だったようです。
     戦闘時、自国の軍服を着たのであろうという意味で3を書いております。
     
    hush


  6. hushさま
    何だか読み違いをしていてすいません。

    そう考えると、観閲式や軍事演習の際の諸外国の駐在武官と同様に、自国の軍服で軍務に就いていたと考えた方が、良いようですね。

    その視点で考えると、鎌田銓一さんもアメリカで日本の軍服を着ていたと想定で済ますね。


    そうなると、中華民国の蒋緯国のドイツ軍の軍服という姿が、異例なのでしようか。

    その点だけが、ちょっとこの先も、確認していきたい部分になります。

    いろいろお教えいただき、ありがとうござます。
    ブドリ2世


  7. >6
     ですから、戦闘時はです。
     観閲式や軍事演習は平時です。
     そちらのほうは分かりませんが、戦闘時に自分の所属する国の軍服を着ていないと違反になりますよということです。
     
    hush


  8. 分かりました。
    ありがとうございます。
    ブドリ2世



150 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%AA_(%E5%BE%A1%E6%96%99%E9%A6%AC)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hirohito_Sirayuki.jpg

1 昭和天皇と白雪ですが、この時の鞍下の色がわかる資料はありますでしょうか。

2 この写真では大勒韁のみ保持しており、小勒韁は垂らしていますが、両方保持している写真もあり、技術的には両方保持できたはずです。小勒韁を垂らす「演出」の意図は何でしょうか。

  1. http://warbirds.sakura.ne.jp/BBS/gazo2/img/4727.jpg

    これを見つけました。
    が、今度は、紋章がなぞです。
    中心円が大きく、ふつうの十六菊ではないように見えます。
    六六


  2.  その紋章は十四葉一重裏菊と呼ばれるものです。いわゆる菊の紋章は十六葉八重表菊とされますが、これは天皇専用の紋です。皇后、皇太子や各宮家は十四葉一重裏菊を使用します。したがって、ここに十四葉一重裏菊が刻まれている理由は、昭和天皇が皇太子時代のものを使用していたか、皇太子時代の写真を使ったかです。しかし、天皇が皇太子時の紋章を使用するというのは考えにくいので、後者だと思われます。
     記事は比叡に乗って南九州へ等の記載から1935年のものだと分かります。また、タイトルにも天皇と書かれていますが、よく読んでいきますと「参謀本部に御貸下になった」とあり、11月5日は撮影日ではないのです。
     したがって、騎乗の写真をと求められてが、よいものがなかったのか、宮内省が皇太子時代のものを出してきたものと思われます。
     なお、大正二年皇室令第九号天皇御服ニ関スル件中改正案 https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000001752573.html なるものをみつけました。そちらの閲覧の6/15コマに馬具制式としていろいろ書かれていますが、紋章には興味があっても、馬に興味がないので、よく分かりません。閲覧(大判)で画像が見られますが、馬具はありませんでした。
     
    hush


  3. 詳細にありがとうございます。



  4. 関連して伺います。
    カラーのほうだと縦型肩章が萌黄に見えます。
    すると天皇にも兵科があり、それは騎兵だったのでしょうか。


  5. >4
     金色だと思われます。
     白雪は1926年に献上され、この年に大正天皇が死亡、翌年、即位ですので、写真はこの間、おそらくは26年の撮影です。この時、摂政宮でしたので天皇に準ずると考えれば2の大正二年皇室令第九号天皇御服ニ関スル件中改正案にいろいろと書いてある正衣に近いものをつけていたのではないかと思われます。だとすれば、そこにあるように金色でしょう。
     もしかすると、摂政宮の正衣の規定もどこかにあるかもしれませんが、服飾に興味がありませんので、正確なところはそちらでお調べください。
     
    hush


  6.  いらぬことを書きますと、萌黄は黄色ではなく緑に近い色です。騎兵 萌黄で画像検索してもらえれば、納得してもらえると思います。
     これは、黄という文字を使っておりますが、本来は萌葱で、浅葱とともに、葱の緑を表しています。そして、葱は「ひともじ」と女房言葉で申しますように、本来は「き」で、根+葱でネギと読むようになったものです。戦後、当用漢字の採用により葱という漢字が使えなくなり、黄で代用したもので誤解されている方が非常に多いですが、そのうちに新選組の浅葱にだんだら模様も黄色く塗る人が出てくるかもしれません。
     私の分からない馬の関係に大変詳しい方ということで、凄いなと思っておりましたのに、このような瑣事を申し上げて申し訳なく思っております。
     
    hush


  7. ありがとうございます。
    そっか、萌黄はもっと緑なのですね。手元の日本騎兵写真集の表紙の色ヤケに引きずられていました。




  8. >7
     つまらぬことを申しまして失礼致しました。
     昭和天皇の場合、即位前は歩兵士官の制服の着用が多いようです。
     兵科が規定されていたわけではないでしょうが。
     
    hush



149 お世話になります。
コレヒドールの戦いに参加した臨時松岡中隊の隊員は部隊解散後は戦車第七連隊に残ったのか、もしくは別部隊に異動したのでしょうか。また、戦後も生存した方はどれほどいらっしゃるのでしょうか。
ご教授お願い申し上げます。
みかん段ボール

  1. 解散後は戦車第7連隊の各中隊に編入されています。生存者が何人いたのか正確な数は知りませんが、戦後、松岡会と言う戦友会を結成しています。戦友会を結成したのですから、ある程度の人はいたはずです。
    Taki


  2. 回答ありがとうございます。
    各中隊に編入されたということは臨時松岡中隊所属の九七式中戦車も各中隊に編入させたと考えてもよろしいですかね。

    それと重ね重ね申し訳ないのですがTAKI様にご教授頂きたいのです。
    臨時松岡中隊の写真でよく出てくる637号車の高久伍長に興味を持ち調べても経歴がわかりませんでした。
    高久伍長の経歴、及び無事戦争を生き延びたのか気になっております。
    私個人的な興味の為に申し上げにくいのですが、ご教授お願い致します。

    みかん段ボール


  3. > 各中隊に編入されたということは臨時松岡中隊所属の九七式中戦車も各中隊に編入させたと考えてもよろしいですかね。

    そうです。これを見てください。637号車は松岡中隊の高久伍長車です。
    http://www.warbirds.jp/kunimoto/type51/97R-249.htm

    高久伍長のその後については知りません。

    Taki



148 インパール作戦の事を調べておりまして気になったのですが、歩兵第214連隊 第三大隊長 田中稔少佐は作戦途中に罷免されているようですが、その後は生存されていたのでしょうか。
一等兵

  1.  死守命令―ビルマ戦線「菊兵団」死闘の記録という本を出しています。
     
    hush


  2. 早速の回答有難う御座います。生存それていたのですね、一読してみます。
    一等兵



147 ドイツ陸軍のヘルマン・ホート上級大将について質問します。

ホート上級大将は第二次大戦初期からクルスク戦の後まで、常にドイツ装甲部隊の第一線で活躍し、能力も実績も部下からの評判も十分だと思うのですが、元帥昇格が見送られ続けたのはなぜでしょうか?

大戦初期には格下だったロンメル、モーデル、シェルナーらに元帥昇格競争で抜かれまくっていますが…。何かヒトラーの受けが悪かったとかの事情があったんでしょうか?

備後ピート

  1.  キエフ奪還命令に抗議したとWikipediaにありますが…

    hush


  2. 1.フランス侵攻時 ホート→第15装甲軍団長 ロンメル→第7装甲師団長 シェルナー→第6山岳猟兵師団長

    2.バルバロッサ作戦開始時 ホート→第3装甲集団司令官 モーデル→第3装甲師団長 シェルナー→第6山岳猟兵師団長

    以上のようにホートは三人に先行しており、少なくともクルクス戦後、マンシュタインの後を受けて軍集団司令官に補任されて、同時に元帥に昇格といったところが妥当ではないでしょうか?

    しかしその前に、くだんのキエフ奪還命令問題が起こっており、ヒトラーに忌避されて軍権を剝奪されてしまっていたのだったと。

    私個人的にはグデーリアンとホートは十分元帥号に値する活躍と功績を有してると思っているのですがねえ…。 
    備後ピート


  3. 上記文字化けは「はく奪」が正しいです。
    備後ピート



146  陸軍省軍務局長在職中に暗殺された永田鉄山少将には「永田が健在ならば、第二次大戦は起きなかったであろう」との評価がありますが、どこがそんなに偉かったのでしょうか?
 確かに秀才で切れ者だったようですが、アメリカとの闘いを避けるために、大陸から手を引いたり、海軍を抑えたりすることができたのでしょうか?
PIAT

  1.  その評価はA級戦犯だった鈴木貞一陸軍中将が言った言葉のようですが、アメリカと仲よくしながら中国を領土化するというのは、無理でしょう。永田の評伝を見ても、その根拠が示されていませんし。
     
    hush



145 三川軍一中将ですが、戦後の記録がネットで調べた限りではありません。
取材拒否された証言すら無いのですが、彼が戦後取材を受けたことや、戦後どうしていたかの記録は無いのでしょうか?
木下

  1.  モリソンのインタヴューに答えていますし、「第一次ソロモン海戦の思い出」という文章も書いており、現在では光人社NF文庫の「重巡洋艦の栄光と終焉」という本に収められています。もっとも、第1次ソロモン海戦で、なぜ輸送船団を攻撃しなかったのかと聞かれ続けたせいか、そういうことは好まれなかったようではあるようです。
     
    hush


  2. hush様、ありがとうございます。
    早速調べようと思います。
    木下


  3. 元のツイートが見つからないのですが、晩年のインタビューとしてこんなのものがありました。
    直接は関係ないのですが、陸軍の方のギラギラとしたコメントと比べて海軍の両氏は枯淡さがあり、これだけ見ると海軍善玉論に与してしまいそうなのが怖い。
    https://mobile.twitter.com/Der_Batu/status/1364763233450528768
    バツ


  4.  何となく記憶にあったので蔵書を探してみたら昭和59年初版の朝日ソノラマ「サボ島沖海戦/リチャードFニューカム著」の巻末に三川中将のソロモン海戦の回想記が約6ページびっしり詰まった字で掲載されています。

     《私は自分がした戦争の話をすることは好まない。だから求められても今まで人にも会わなかった。この本の発刊に当たって出版協同社の社長と訳者が来て「国家と民族にこれほど大きな影響を与えた戦争なのだから是非の論は別として事実だけは明らかにしておく義務がある」と言われた。それには同感の点もあるので、ここに当時を思い起こしてみた。一部略。》
     と回想記の頭に書かれています。
    タブ


  5. 「丸」1963年12月号の巻頭「指定席」欄でインタビューに答えています。聯合艦隊からは突入を止められたこと、夜戦であれば2,3倍の敵ぐらい何とも思っていなかったことなど語っておられます。山本長官戦死後、横鎮長官代理をやったことなど貴重な証言でしょう。




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