ちょっと気になると夜も眠れない。 艦船関係 Ans.Q どうでも良いことなのに…、誰か助けて! |
1258 |
ドイツ海軍の空母グラーフ・ツェッペリンの艦首甲板、飛行甲板、艦尾甲板の色は、私の知る限りデッキタン(木張)という説と、ミディアムグレイ(鉄張)という2つの説があり、プラモを作るにあたり悩んでいます。当方未見の洋書・写真集等で正解をご存じの方がいらしたら、どうか教えてください。 備後ピート |
私も作りますがプラモ製作は楽しいですよね。その筋の博物館から依頼されたのならともかく、おおかたは個人的趣味で如何様にでも作れますし。
F社から出ている大鳳や五十鈴のように「諸説あるので」と2仕様販売されているように「2つ作る」・・もしくは「ご自身の気分で好きな方を作る」、でいかがでしょうか。
「ドイツ 空母」、「空母 グラーフ・ツェッペリン」、「Carrer Graf Zeppelin Color」と検索(画像)するだけでも3秒ほどでたくさん情報が出てきます。
(“模型”の色味でざっと見たところでは「茶系6:グレー系4」ぐらいに思えますが)
Wikiでは→『グラーフ・ツェッペリンの飛行甲板は鋼製で、木の厚板で被覆され』とあり、そこに掲載されているシュパイアー技術博物館に展示の大型模型は茶系です。参考までに。
ジョナサン2
1257 |
錨鎖の長さは規定(最大100mとか)があるのでしょうか? 安井 賢一 |
https://www.mlit.go.jp/notice/noticedata/sgml/1998/64998621/64998621.html 第8条並びに別表
hush
ちゃんと規定があるんですね(当たり前と言われれば当たり前ですが)。。
安井 賢一
1256 |
第一次、第二次大戦を通じてドイツ海軍の大型艦船は装甲艦(ポケ戦)を除いて三軸推進がその特色となっていますが、グラーフ・ツェッペリン級空母のみは四軸推進を採用しています。 これは未知の艦種であるため、参考にした日本海軍の空母赤城の機関配置をそのまま踏襲した結果でしょうか?既存の重巡の機関構造を流用して、20万馬力で35ノットの速力を発揮するには、三軸推進では不可で、結果として四軸推進にせざるを得なかったのでしょうか。この3→4の計画軸数の変化には特に詳しく記された理由を見たことがないので何らかの技術的飛躍があったのではないかと思うのですが、特に軸数の変化の理由は記されていません。 グラーフ・ツェッペリンが旧来の伝統を破って四軸推進を採用したのは「これが真相だ!」というような経緯をご存じでしたら、どうぞ教えてください。 備後ピート |
元自
備後ピート
駄レス国務長官
したがいまして、専門家である長官閣下のご説明でよろしいかと思っております。
hush
仰せの通りH42,H43,H44はディーゼル・タービン併用で4軸で20万馬力超です
なお米のアイオワ級とミッドウェー級が5.3万馬力×4軸ですからWW2期の実用上限は大体こんなモノでしょう
駄レス国務長官
遅まきながら調べましたところ、やたら軸馬力の大きなことで知られるイタリアのコンドッチェリ軽巡シリーズで、1軸当たり5万〜5万5千馬力ですので、大体このあたりが技術的限界だったのでしょう。
しかし今度はカタパルト装備している空母で35ノットもの合成風力いるか?と思ったのですが、対艦砲装備から見て個艦で敵巡洋艦等と交戦することを想定していたのでしょう。
備後ピート
空母の高速力は合成風力を作り出すためのものではありませんよ。
おうる
1255 |
昭和12年に重巡洋艦足柄がイギリスを訪問した際 イギリスのメディアから居住性の悪さ故に 「飢えた狼」って評価されたのは有名ですが 実際のところ、妙高型の居住性(あるいは快適性)って 具体的にどういうところが悪かったのでしょうか? まさか中世の黒人の奴隷船並みなのでしょうか? 天手力男 |
https://www.zakzak.co.jp/article/20210824-SRB5CKJCCJOWBKXHXGG6QIE6QE/
を見ておりますと、乗員1人当たりの便器の数にも差異があります。
hush
あと、1960年代に子供時代を過ごした我々の世代は、高度成長期以前の日本を垣間見ているわけですが、海の向こうにはアメリカという国があって、5qの距離でも車で行くし、水など飲まずにコーラを飲んでいると聞いて、嘘だと思っていました。粗悪な靴下にすぐに穴が開き、それに布を当て、さらにそれに穴が開くのを繕うという生活だったからです。
戦前の冷害で娘を売るなどということがあった時代、きちんと食べられるというだけで、充分という人もかなりいたかもしれません。したがって、これは欧米から見た居住性の悪さということになります。
なお、どうでもいい話ですが、大西洋奴隷貿易が盛んになるのは15世紀以降ですので、中世ではないと思われます。
hush
UK
匿名
質問は「妙高型の居住性(あるいは快適性)って具体的にどういうところが悪かったのでしょうか?」であって、その理由ではないと思っておりますが。
>4
アジア歴史資料センター、リファレンス・コードB02030916800に司令官小林宗之助少将の「英帝戴冠式及観艦式に参列して」という文章がありますが、その5ページの最後に、シンガポール在泊中に「イーグルは女性を思わせるが、足柄は狼(ウルフ)のやうである」と或る人が言ったとあります。これが出典のようですが、或る人が何人かは書かれてありません。
「飢えた狼」云々が、日本で独り歩きしたものであることは、ここに書き込むような人なら知っておられるだろうと思って、触れずに書いております。
ご了解いただければ幸いです。
hush
1254 |
英国レナウン級巡洋戦艦(レナウン、レパルス)の改装において、レナウンは対水雷防御(バルジ)、レパルスは対弾防御(装甲帯)と、重点対応を異なる改装を行ったのは、両者を比較検討して最適解を導きだそうという英海軍の意図が働いたのでしょうか? 備後ピート |
誰か答えて下さい。
1253 |
WWIのドイツ海軍で、英海軍のレナウン級、アドミラル級巡洋戦艦の建造計画を受けて、戦時急増計画でヨルク代艦級巡洋戦艦の4番艦が追加計画(着工とはまた別)されたとしたら、仮称艦名はそれまでの順番から、「ブリッヒャー代艦」となったのでしょうか? 備後ピート |
備後ピート
1252 |
WWIのドイツ海軍で、英海軍のレナウン級、アドミラル級巡洋戦艦の建造計画を受けて、戦時急増計画でヨルク代艦級巡洋戦艦の4番艦が追加計画(着工とはまた別)されたとしたら、仮称艦名はそれまでの順番から「ブリッヒャー代艦」となったのでしょうか? 備後ピート |
1.ヴィクトリア・ルイーゼ代艦 → マッケンゼン
2.フライア代艦 → プリンツ・アイテル・フリードリヒ
3.ブリッヒャー代艦 → グラーフ・シュペー
4.フリードリヒ・カール代艦 → Aもしくはフュルスト・ビスマルク
つまり「ブリッヒャー代艦」は直近で使用済みですんで仰せのような可能性は薄いかと
駄レス国務長官
閣下、ただ、ヨルク代艦級の艦名として http://www.german-navy.de/hochseeflotte/ships/battlecruiser/yorck/index.html は、Yorck、Ersatz Gneisenau、Ersatz Scharnhorstとしています。Ersatz Yorckではなく、Yorckとしたソースは不明ですが、エムデン以下、戦没したばかりの艦名がすぐに踏襲されていることを考えると、仰られるようにブリッヒャー代艦はありえないとしても、襲名した可能性はありえるかもと思っています。
もっとも、4番艦は計画すら存在していないので、架空のことを論議しても仕方ないのですが。
hush
はっしゅ先生(--)/
コチラの複数ソースでヨルク代艦 → ヨルク としたモノがなくエムデン(II)はもと「ニンフェ代艦」です
代艦名がそのまま正式艦名となったモノはライプツィヒ、ドレスデン、マグデブルクですが先代の戦没から進水まで二年ほどかかってますね
ブリッヒャー(II)が現れるとすりゃ少なくともグラーフ・シュペーが就役した後じゃないでしょうか
駄レス国務長官
尊敬する長官閣下
そうですよね。私も、「ヨルクとしたモノ」を見たことがなかったので、ものすごく疑問だったのですが、有名なサイトですからね。
>ブリッヒャー(II)
すいません、ビスマルク級コルヴェットにブリッヒャーがおりますので(III)なのですが、それはともかくとして、襲名されるとしたら、そのあたりでしょうね。
hush
1251 |
航空母艦「赤城」の大改装が予算不足のため徹底されず、旧式装備や雑な仕上げで我慢させられたのは有名なお話ですが、その後追加・再改装を行い「加賀」や翔鶴型などの他の正規航空母艦と装備や仕上がりを統一しようというお話はなかったのでしょうか?(もし大東亜戦争がなくとも「赤城」は退役まであの仕様・装備でいくつもりだったのでしょうか?) よろしくお願いいたします。 Ranchan |
今日の溶接構造、かつ船体や機関の補修技術が格段に進んだ時代とは異なります。
UK
すいません、だとすると、同じリベット構造の加賀でできたのはなぜでしょうか。質問は(加賀と同程度の)装備や仕上がりですので。
hush
UK
御回答ありがとうございます。
ただ、質問は他の空母並みに改装を行わなかったのでしょうかです。
つまり、太平洋戦争が始まらず、予算があれば、赤城は改装されたか否かであって、本格的なことができたかではありません。
艦船1230でも申しましたが、そちら様は問題文を勝手に改変して聞かれてもいないことを答えられているわけです。
もちろん、そういうことはよくあることですが、武器、装備全般930で質問者の方が呆れられた結果、その4で他の方が質問されても、おそらくは回答がないのではという実害が生じているわけです(そういえば艦船1230の20に関しての御回答もいただいておりません)。
このAns.Qの趣旨は、本来、軍事知識のデーターの集積にあったようですが、そちら様の御回答は、勝手に質問を捻じ曲げ、自分の知っていることを述べておられるだけのように思われます。
御理解いただければ幸甚に存じます。
hush
UK様が仰る「本格的な追加・再改装」「もし大東亜戦争がなくとも・・・」という件はおそらく米空母エセックス型のSCBシリーズのような大改装を想定しておられると思いますが、そのようなことはお伺いしておりません。
今まで拝読してきたUK様のご回答は「質問に対する回答は分からないけど、こんなことなら知ってるんだぞ」と言いたげなものが多いと思います。
その様な書き込みも結構ですが、まず質問にご回答された上でのこととされますようお願い申し上げます。
Ranchan
また高角砲の換装等の加賀と同様の改装を追加予算で行っていたとしても、加賀がそうであったようにミッドウェー海戦を生き抜けたとは考え難いですし、運よく中破程度で帰投できたとしても、その修理にはかなりの確率で艦上エレベーターの大型化を含むことになるので、翔鶴修理以上の設備・資材と日時を要し、それが完了したときは、もはや搭載する機体も搭乗員も足りない戦争後半期になっているかと思います。
エンガノ岬沖海戦に参加する囮空母が1隻増えるか、燃料不足で瀬戸内海で予備艦になって、米艦載機の的になるのではしょうか?
その後運よく大破着底・行動不能の大損害を免れたとしても、それはそれで戦後の核実験の標的艦に指定され、奇しくも太平洋の反対側で損害と改修を重ねて戦い抜いてきた、同時期の米空母サラトガと共にビキニ環礁の海底に果てる…というようなストーリを考えたのですが、これぐらいが「不沈艦」赤城が最も長く活動できる精一杯ではないかと考えます。
備後ピート
>十年式十二センチ高角砲を他正規航空母艦と同じ八九式12.7センチ高角砲に換装する
その面については、可能ならばしたかったでしょう。
赤城は必要な艦だからです。貴重な空母だからというのもありますが、そう簡単に代艦を建造できるようなものではないからです。
ただ、改造し終わったばかりの艦にすぐに取りかかれるかというと疑問です。予算よりも、日中戦争が始まったばかりだからです。
あまり、ifの話しはしたくないのですが、日本海軍の重要艦である赤城を戦列を引き離せるのなら、高角砲の換装と装備位置の変更ぐらいは行いたいでしょう。同時に、搭載機数の増加と、速力、航続力の増加ぐらいはやりたいとなります。
計画はなかったと考えられるほど、赤城はどうでもいい艦ではありません。
hush
>予算よりも、日中戦争が始まったばかりだからです。
>計画はなかったと考えられるほど、赤城はどうでもいい艦ではありません。
なるほど。
「赤城」が旧式装備のまま運用されたのは、後に戦艦「武蔵」があ号作戦参加のため高角砲増備をあきらめ三連装機銃で我慢したように「戦局の逼迫によるもの」と考えた方が納得できます。
Ranchan
予算と時間があれば加賀と同等の改装までやったのかもしれませんが
疑問点があります。
1.仮に改装するとして高角砲の手当は無理なく付いたのか?
2.動力も妥協を重ねたようなフシが見えますが
仮に乗せ換える希望のタービンの手当が付くめどもなかったのではないか?
加賀は速度を他艦に揃える為にやむなく最上級の動力に
積み替えた様に思いますが、赤城は改装後加賀より
数ノット速度が高いので必要性を感じなかったのではないか?
3.加賀と入れ替わりの改装だったがドックを開けないといけない等の
建造、改装計画の遅延が許されない状況などがあったのではないか?
4.41年ー42年はこまごまとした改装が多く、内地帰還、整備休養も
ほとんどせずに 真珠湾〜南方、インドと移動、再度内地に戻って
早々にMI作戦に駆り出されるなど改装する暇などなかったのではないか?
5.加賀の改装が新造艦一隻作れるくらいの予算がかかったとの事ですので
赤城を同じ金額で改装するなら新造艦に資材、予算を振り向けたほうが
空母一隻余分に作れるわけで、加賀の改装で懲りて
半端な改装になったのではないか?
当時どのドックで何が改装、建造されてたのかは当方わかりませんが
お役所仕事の予算消化の兼ね合い、ドックの空きはどうだったのかなど
別の面から調べると面白い推察が出てきそうな気がします。
ももんが
『昭和造船史』第1巻P692に
「機関部では、新造時のボイラのうち混焼のものを重油専焼に改造したのみである。新造時の技本式タービンと減速歯車は極めて良態で、そのままとされ出力も131,200SHPのままである。」
とありますのでご参考まで
(減速歯車は4軸とも米ウェスチンウハウス製)
駄レス国務長官
89式12.7cm高角砲は1300門以上生産されていますね。
>9-3
それが7で申したように、日中戦争の始まりです。
>9-4、5
戦時でしたら無理でしょうね。逆に平時であれば、軍縮条約が続いているので、それだけの金を出す理由が生じます。
hush
1250 |
過去問旧A&艦船3220、新A&Q艦船383、1121の関連質問です。 これらの中でネルソン級以降の英海軍主力艦の砲塔には、砲身基部を覆う防水カンバス覆いが無いことの質問と理由が記されています。 ところがこのたび初期のカウンティ級条約型重巡の何隻かは、主砲塔に防水カンバス覆いを装備して就役していることに気づきました。 具体的に写真で確認したのは重巡ケント、キャンベラ、ロンドン、カンバーランド、デボンシャー、ドーセットシャーの6隻です。 第二次大戦までに順次改良撤去されてはいるのですが、ここで防水カンバス覆いを採用したのは、例の仰角70度に及ぶMkI砲塔では当初内装式防盾仕切りでは十分なシーリング効果をあげられなかったからでしょうか? 仮にそうだとすると、仰角50度に改正されたMkII砲塔を持つドーセットシャーの場合(のちに改良撤去)はどうなるのでしょうか? 備後ピート |
誰か答えて下さい。
1249 |
過去問1164,1190,1202その他及びwikiの記事を読んでいて、疑義が生じたので、改めて質問させていただきます。 たびたびこの板でも話題に出ている(私が出している?)旧帝国海軍の空母赤城についてです。 前にも記載しましたが空母赤城の一段化した全通飛行甲板は、最先端部まで木甲板張りとなっています。同時期前後の日本空母は木甲板張りの範囲が狭く、先端部は鋼板張りになっています(例外は最終状態前の空母龍驤ぐらい)。 このことは以前の質問にも書き、BUN様をはじめとする識者の皆様のご意見ご説明をいただいたところですが、赤城の改装時期及び改装予算について知るにつれ、新たな疑問点が生じたので、くどいようですが確認の意味も込めて再度質問させていただきます。 そもそも赤城は大改装時の予算不足のために空母加賀のような12センチ高角砲の12.7センチ高角砲への換装、その装備位置のかさ上げ、艦首20センチ砲の後部砲郭部への移設を行っていないはずです。 そのような予算内情の中で、長門・陸奥の大正時代からすでに希少かつ大量入手困難であった甲板用チーク材(若しくは代用の台湾檜材)を惜しげもなく全通甲板全面に張っている(施工は結構雑だったようですが)ことが不思議です。金のかけどころが違っているのではないかと思うのです。 あるいは過去問にあった「艦首方向からの逆着艦」構想と、何か関係があるのでしょうか? 備後ピート |
もし、台湾檜ではなく、チーク材だとしても、産地や大きさ、状態等で大きく変わるでしょうが、兵器類とは桁違いの少額です。したがって、全通甲板全面に張っても換装される兵器類よりはずっと安くいけるのです。
hush
赤城の方式が以後踏襲されなかったのはなぜでしょうか?
私は艦載機の発展と大型化によって、逆着艦の可能性が非現実的なものになったからではないか?と思ったわけなのですが…。
末期のの空母「信濃」に至っては89式12.7センチ高角砲16門も備えながら、飛行甲板は木甲板の部分はなく、工事簡易化・迅速化のため全面コンクリート張りになっています。
艦船用木材の市場単価と、実際の大量調達性・入手性はまた別ではないかと愚考するしだいです。
備後ピート
とのことでしたので、あのように答えただけですが。
hush
飛行甲板が海面から高い赤城では許容されたものの、後続の艦では波を被りやすい範囲は木張りを廃したという流れで。
Hudzen-10
というのはどうでしょう?
Ranchan
1248 |
連投質問失礼します。昭和19年10月23日パラワン水道遭遇戦において戦没した第一遊撃部隊旗艦愛宕について質問します。 愛宕戦没時の電探装備状況について一三号、二一号については装備済とされていますが、二二号電探については私の知る限り資料によって装備済、あるいは未装備だったと諸説混交しております。 このあたりの真相について、この板の識者の皆様のご意見をお伺いするしだいです。 備後ピート |
(資料:「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」(作成:福井静夫氏))
Ranchan
備後ピート
紹介させて頂いた上記図で見る限り「愛宕」と「高雄」では二号二型電探の装備位置は同じです。
まあ略図ですので実際は微妙に違うのかもしれませんが。
Ranchan
また、愛宕には昭和19年以降高雄のように測距儀支筒両横に二二号電探を装備した明確な記録写真がありません。
備後ピート
備後ピート
1247 |
旧帝国海軍の空母赤城と加賀の比較において、(一段飛行甲板改装後の)格納庫前面の形状が前者は曲線、後者は直線の角型状と形態が異なっています。 これは両者の艦首の太さの違いによる、登載機数のMAX化を図った物でしょうか?それとも両者の最高速力の違いによる空気抵抗及び空気乱流への対応化(改装は赤城の方が後)なのでしょうか? 私が思い至ったのはそんなところですが、設計者の癖、その他「これが正解ではないか」というものをご存じでしたら、識者の皆様どうか教えてください。 備後ピート |
加賀改装→第四艦隊事件→蒼龍以降の建造・赤城改装、といった時系列は関係ないでしょうか。
片
備後ピート
1246 |
アメリカ戦艦サウスダコタ級の水中防御構造に関する質問です。本級では舷側装甲の延長として水中防御隔壁が厚さを減じながら傾斜して艦底に及んでいます。 牧野茂さんの「日米戦艦比較論」(戦艦武蔵建造記録 250ページ)によれば、この水中傾斜装甲部分は、「、、、アーマー相互を強力な継手で結合して一体のアーマーとしたという。」とあります。通常なら鋼の骨組み構造(フレーム+縦通材)に背板を張り、さらにアーマーを取り付けるのですが、この記述はそれとは違うようです。出来上がったものが、継手で連続した一枚板のように聞こえます。具体的な形が思い浮かびませんので、お分かりの方教えてください。 電気戦艦 |
電気戦艦
2.戦艦の分厚い装甲は、通常は棚板を用いて重量を支えます。大和型は上下の舷側装甲の重量を個別に支える構造としたため上下端面の接合が「工」型となったようです。さらに、爆圧への支持を鋲のせん断に依っため、不十分となりました。
3.魚雷の爆発により舷側装甲に作用する力は、引っ張りでなく船内方向への押圧です。大和の場合、水線下数メートルで爆発した魚雷の押圧は主に下部舷側装甲の上方に作用しますが、下部舷側装甲上端部を支持する鋲が切断されたということです。
なお、信濃の場合には、潜水艦から発射された大型の魚雷であり、多分調停深度も浅かったため、上下の装甲の接合部の鋲がせん断破壊され、上下両方の装甲とも接合部を中心に船内側に押し込まれたと思われます。
UK
魚雷爆発による押圧はその通りですが、結果的に鋼板が変形し丸くなると、内部には引っ張り応力が働くということが記述の趣旨です。
電気戦艦
1245 |
第二次世界大戦時、計画のみに終わったドイツ海軍のM級軽巡洋艦の15センチ連装主砲(4基計8門)は、ドイツの建造したナルビク級駆逐艦の前部15センチ連装主砲塔と同じC38砲架なのでしょうか?それともシャルンホルスト級、ビスマルク級の副砲塔の設計を流用した物でしょうか? ドイツは以前の軽巡において15センチ3連装砲塔を採用しているので、ここで連装に戻るのが不思議です。砲塔重量、バーベット径などの問題があったのでしょうか? 備後ピート |
理由としてはご指摘の2項目の他に製造容易性が考えられます
駄レス国務長官
備後ピート
あと、上の回答ですが、「コチラの文献」などではなく、きちんとソースを示すべきだと思いますが。
あ
Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946. P224, 225, 232.です
駄レス国務長官
1244 |
日本帝国海軍艦艇において、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各工廠におけるいわゆる「軍艦色」のグレイの色味が微妙に異なっていることは近年よく知られているところですが、原則所属鎮守府の艦艇は当該工廠の色味と考えていいのでしょうか?(大戦末期の多色迷彩塗装は除く) 例えば空母赤城は所属は横須賀鎮守府ですが、一段飛行甲板への大改装は佐世保工廠で行ったはず…。このような場合でも何度かの定期塗粧で横須賀グレイカラーに塗り替えられていったのでしょうか? また工廠でない民間造船所で建造された艦でも、竣工時には所属するであろう鎮守府工廠のグレイカラーを割り当てられ、塗装されていたのでしょうか? 備後ピート |
従って、新造なり整備なりした工廠や造船所の鼠色ペンキをその都度塗っていた・・・というだけで、「××鎮守府の艦だから××工廠色でなければならない」などということはないでしょう。
Ranchan
確かに工廠ごとの区別は昔には無かったもので、一律に「日本海軍軍艦色」の一択だったように思います。それで特段批評はありませんでした(何なら今でも)。
ただ模型メーカーの都合と言うよりは、モデラーの(軍港のジオラマなどを作る際の)考証が先にあって、その際の調色が面倒だと、メーカーがその要望に対応したといった流れだったと思います。
実際模型を組む側としては、経年による退色や前線での応急塗粧(レイテにおける武蔵の例)など考えていたらきりがなく、それでも軍艦色一色では見栄え的に何とも変化が乏しいので、工廠ごとの区別は私などはかえってありがたいんですけどね。
主観に流れてしまい識者の皆様のツッコミを受けそうなので、このあたりにします。
備後ピート
「お前は今まで塗った鼠色ペンキの色調を覚えているのか?」
と言ってみたい気も。
Ranchan
各艦の行動を整理してみても、大きな作戦が終わると、まとまって内海西部・呉に帰投し、そこで整備を受けています。そこにあった塗料を塗り重ねられていたということですね。
所属する母港と実際の外舷色とのあいだにはまるで関係がなかった、といってよいのではないかと思います。
片
片
一応念のためですが・・・
1.は模型用塗料のお話ではなく、実際に日本海軍が使用していた艦艇用ペンキのお話です。
Ranchan
ましてやモデラーというやつは、こと考証ということに関してはある意味ミリオタよりシビア―かつファナティックですからね。
備後ピート
言葉足らずでもありましたが、私の申し上げたことを誤解されているようですので。
日本海軍が存在していた当時、「各工廠によって『鼠色(軍艦色)』の色調に相違はありました。
主な理由は以下の通りです。
・日本海軍では艦の外部の大部分に塗る「鼠色(今で言う『軍艦色』)」を以下の通り規定していました。
外舷の塗装色「鼠色」は以下の通りとする。「白3:黒1の割合で混色」
ただし問題点として
・品質が悪く短期間で劣化し変色する
・工業規格が確立せず各色調を標準化できていなかった(例えば「ここで言う『白色』『黒色』とはどんな色のことを言うのか」が明確に決まっていなかった)
などがあり、「白色」「黒色」とされる色が各工廠に塗料を納入している業者により微妙に異なっていたことがあります。
ですので色調の異なる「白色」と「黒色」を混色して出来る「鼠色」は、当然様々な「鼠色」になります。
しかし日本海軍では全部ひっくるめて「鼠色」と呼んでいました。
ですので結論としては
・日本海軍では工業製品の規格制度の未確立、塗料の低品質などが原因で各工廠により同一色であるべき「鼠色(軍艦色)」がさまざまな「鼠色」となってしまっていた。
・しかし当の日本海軍ではどの工廠色も全部「鼠色」であり、「××工廠色」「○○工廠色」などと区別している訳ではなく、各「鼠色」の微妙な違いなど全然気にしていなかった。
・当時の塗料は低品質で、実際塗装しても数ヶ月で退変色するため短期間で再塗装せねばならなかったため、艦の「鼠色」はその度に変化していた。
従って、現在各模型メーカーが販売している「××工廠色」の類の模型用塗料は当時の各工廠で使用されていた「鼠色」を再現しているのかもしれないが、ピカピカの新造時や整備直後の再塗装状態を表す場合ででもない限り「××工廠色で塗装」などの「考証」は無意味である・・・と考えます(ぶっちゃけ自己満足なので、好みの「××工廠色」で塗装しておけばよろしいかと)。
Ranchan