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艦船関係
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1091 金剛級戦艦は、二次改装の結果、直結式から減速機つきタービンとなりました。スクリューも大きくなり、回転数も増加しています。この時、スクリュー軸も新しいのになったのでしょうか、それとも古いままだったのでしょうか。
電気戦艦

  1. 強度計算上は軸径は伝達トルクの立方根に比例しますので新旧のトルク比を見てみましょう
    ・原型 19,600shp/290rpm=約67.6 (内軸)
    ・改装 34,000shp/316rpm=約107.6
    ・トルク比 107.6/67.6=約1.59
    ・立方根 約1.17
    つまり17%増で充分安全率の範囲内ですから交換しなくとも大じょうVです
    駄レス国務長官


  2. >1. 駄レス国務長官様 どうもありがとうございました。私も初等材料力学の本もう一度読み、「捻りを受ける円柱の最大せん断応力はトルクに比例する」ことを確かめました。今回の事例では、最大せん断応力の比がトルク比、すなわち1.59であると考えた方がよろしいかと思いました。そうすると安全率が当初の約0.6になるので、最初10なら6、最初5なら3になりますが、どうでしょうか。
    電気戦艦


  3. 横から失礼します。トルクを伝える回転軸は、許容剪断応力を下回るように軸径を定めます。

    駄レス国務長官様の言われる「立方根 約1.17」は、材料が同じ場合に同じ剪断応力となる軸径の比率になります。

    従って剪断応力の比率は、電気戦艦様の言われた通り、1.59倍になります。当初の設計時点の剪断応力が許容応力の60%以下でないと「許容応力」に収まりません。

    正確には設計時の剪断応力が分からないと判断が出来ませんが、通常の設計では軸のサイズアップが必要となる増加です。

    付け加えると「安全率」とは、「破断応力」を「許容応力」で除した比率です。3を用いる場合が多いですが、設計対象により大きく変わります。私の知る範囲でも、1.1から12まであります。
    タンジェント


  4. 済みません間違えました
    改めて「軍艦機関計画一班」を見ると金剛の推進軸の恒数(安全率)は
    原型
    ・内軸 4.63(16,700shpに対し)
    ・翼軸 4.78(15,300shpに対し)
    ゆえに第二次改装後は
    ・内軸 2.27(34,000shpに対し)
    ・翼軸 2.15(34,000shpに対し)
    と2以上となりますので交換しなくとも大じょうVと判断されたんじゃないでしょうか
    ちなみに「海軍造船技術概要」では扶桑伊勢両級の軸系存置が明記されてます 
    駄レス国務長官


  5. >3.,4. タンジェント様、駄レス国務長官様 どうもありがとうございました。どうも、安全率が実質2以上あったので、よしとされたようです。確かに、タービンからは捩り振動はないし、スクリューは流体中の回転ですから、衝撃荷重もあまり考えなくていいということであったと思います。
     関連した質問ですが、金剛型も扶桑型も当時開発後まもないミッチェル型推力軸受を採用していたと思います。改装後も存置されたのはどの部分まででしょうか。推力軸受までか、最前部中間軸までか、どうなのでしょう。
    電気戦艦


  6. >5.
    原型は直結タービンで推力軸承は推進器推力とタービン内推力(反動蒸気の軸方向分力)の差分を受ければ良かったのに対して改装後は歯車減速装置が介在しますから推力軸承は推進器推力全部を受けねばなりませんし機関の力量増大によって推進器推力自体も増大しますから新規設計(艦本式)となったんじゃないでしょうか
    駄レス国務長官


  7. >6. 駄レス国務長官様 どうもありがとうございました。私は、推力軸受はタービンの後ろ(船尾側)にあるとばかり思っていましたが、どうもそうではないようで、改装前の金剛型の場合船首側についていました。またダミーピストンという釣り合いのためのものもありました。これを機会にもう少し詳しく勉強してみます。
    電気戦艦


  8. 小生学生の卒業研究で疲労をやりましたのでちょっと気になることが有りましたので感想だけを述べさせてもらいます。
    推進軸と言うのは、片持ち梁だと思います。
    スクリューも大きくなったのでその重さが過重となるので曲げのクビフリによると同時に始動時や加速減速時にトルクと合成した振動過重になる筈です。
    疲労による破壊と言う場合その安全率というのは通常よりかなり高い。
    特に定速で運転し続けるより負荷の変動がある場合は更に大きくなります。
    そして、結構長期に使われている場合は疲労による傷がある筈なのです。
    疲労の場合この傷が成長せず破壊に至らないのですが、過重が増えているこの場合、軸の表面状態が気になる。
    傷に力が集中するからですが。
    そんなに長く使うことがないから無視されたのでしょうか?
    青江



1090 第二次遣独潜水艦伊号第八は、1943年12月無事呉に帰還しました。積荷には、高速魚雷艇用エンジンのダイムラー・ベンツ社製MB501がありました。このエンジンは、L3.88m, W1.58m, H 1.71m, 4,220kg という大きさでした。このように大きなものは、通常の魚雷搬入口からは中に入れられないと思うのですが、実際はどうだったのでしょうか。
電気戦艦

  1.  「日本海軍潜水艦史」(1979同刊行会)によると飛行機格納筒に収めています。
     
    hush


  2. hush様 どうもありがとうございました。飛行機格納筒のことは全く思い浮かばなかったです。このようなもの作る能力があったのですから、緊急脱出カプセルの開発すればよかったと思います。帝国海軍の精神風土からは無理だったでしょうが。
    電気戦艦


  3.  緊急脱出カプセルについては、昔の「世界の艦船」にSUB SUNKというタイトルで折田善次元海軍少佐が詳しい連載をされていましたね。
     
    hush


  4. >3. hush様 どうもありがとうございました。『世界の艦船」バックナンバー揃っている場所で読んでみます。
    電気戦艦


  5. >4
     そういうものが揃っている所があるというのは羨ましいです。
     SUB SUNKは1960年代後半に数年にわたって連載されたはずです。
     
    hush


  6. >5. 実はまだどこにあるか確かめてはいません。目安はつきましたので、そのうち訪れようと思っているところです。
    電気戦艦


  7.  1で示した書籍によると、海大III型にダイヴァーズ・ロックが搭載されたが、艦外に出た者が上部ハッチを閉鎖する必要があるため、1938以降は魚雷取入口を艦内で開閉できるようにして緊急脱出路にしたそうです。
     救難ブイも装着されていたそうですが開戦直前に不慮の浮上を恐れて撤去したそうです。
     また、アメリカがモムセン・ベルを使ってダイヴァーズ・ロックからの救出に成功したことから、呉工廠で同様のものを試作したが、本格実験には至らなかったそうです。
     なお、呉には脱出訓練塔があったとのことです。
     したがって、朝日の改造も含めて、可能なことはやっているように思われます。
     緊急脱出カプセルについては、ロシアの潜水艦以外に装備したものがあったかどうか(SUB SUNKをまだ捜していません)。
     海上自衛隊でも、艦内からは個人脱出法に頼っているのが現状で、レスキュー・チェンバーを使うほうが、容積の小さな潜水艦の場合は一般的なのではと思っています。
     
    hush


  8. >7. hush様 多くの情報ありがとうございました。 日本海軍もそれなりに考えていたのですね。世の中落ち着いいたら、関連印刷物読みたいです。
     一般的に、水圧がかかるところから物を分離するのは難しそうですね。潜水艦の船体は水圧で非対称に変形するので、水深50mと100mではと条件が違う気がします。
    電気戦艦



1089 某ブラウザゲームでふと思ったのですが、
ニミッツ級航空母艦に零戦・99艦爆・97艦攻を
同数搭載するとなると最大何機搭載可能なのでしょうか?

安井賢一

  1.  1945年に就役し92年に退役した空母ミッドウェーの新造時の搭載機数が136-145機、ベトナム戦争から退役時のそれが68-80機だそうです。これに対し、冷戦期のニミッツ級の搭載機数は約90機と現在の70機前後より多いわけですが、冷戦期のニミッツ級と退役時のミッドウェーの搭載機を比較すると32-13%増ということになります。この数字をミッドウェー新造時の136-145機に掛けますと13%増だと153-164、32%増だと180-191という数字になります。
     一方、瑞鶴の搭載機数が72+12機ですので、ミッドウェーは約2倍乗せられたという計算になります。したがって、比率だけ考えるとニミッツ級には当時の日本機が300-400機載せられるということになります。
     もっとも、当時のアメリカ機は翼を畳むとかなりコンパクトになりますし、日本艦のそれと違って、格納庫の設計が単純で搭載機数が増えています。しかし、瑞鶴とほぼ増大のエセックス級の搭載機数が91機ですので、常用72機と比べると2割減という数字が出てきます。これをニミッツに適用すると360-480機という数値が出てきます。
     もちろん、これは計算上だけのことで、たとえば、搭載機がそれだけになると搭乗員も整備員も増えるので、それでどう変わるかとかいろいろな要素を加味する必要もありますし、数字に弱い私ですので、とんでもない間違いをしている可能性もあります。したがって、あまり真剣に取られても困るのですが、一つの目安として示しておきます。
     しかし、本当にこれで合っているのだろうか…とても心配です。
     
    hush


  2.  2割減を入れたらあかんような…
     
    hush


  3.  あかん、145x0.8x1.32=153やん。
     すいません。
     
    hush



1088 第二次大戦時のフランスのダンケルク級戦艦1番艦のダンケルクと2番艦ストラスブールの艦橋の形状が大きく異なることはこの板の識者の皆様には周知の事実と言ってもいいかと思います。
これはダンケルクの使用事績を受けてストラスブールの艦橋を改修した結果なのか、初めから2種類の艦橋デザインの案があって比較検討のため別々の形状を採用したのか、それとも他の全く別の理由があるのか、ご存じの方がいらっしゃったらどうか教えてください。

備後ピート

  1. 世艦「フランス戦艦史」に述べられてますよ
    駄レス国務長官


  2. 駄レス国務長官様。世界の艦船「フランス戦艦史」「第二次大戦のフランス軍艦」をようやく読みました。フランスの戦艦(艦隊型装甲艦、戦列艦)や重巡の場合、1隻の建造期間が長く、先に就役した艦の実績を建造中の艦に躊躇なく取り入れることを是としている風がありますね。その結果として後期艦は微妙に艦様が異なってくると(あるいは改修を導入するから建造期間が長くなるのかな?)。

    それなら1番艦ダンケルクもストラスブール同様に改装してくれればいいのに、そうはしないのがフランス海軍の奇妙なところ。風雲急を告げる欧州では、改装のため新鋭艦を一時的にでもドック入りさせるだけの余裕がなかったのかも知れませんね。
    備後ピート


  3. P80写真キャプションに「艦橋が2層で、ひとつは司令部用」と書かれていますよ
    駄レス国務長官



1087 フェッテエインガー式流体接ぎ手について調べていましたら以下のサイトに会いました

   https://requestforproposal.fandom.com/wiki/Gran_Princesa_de_los_Cielos-class_cruiser

これによれば、スペイン海軍が第一次世界大戦前に、ドイツのフルカン社に7,800排水トンの巡洋艦2隻を注文しましたが、戦争が起きてからドイツが建造中のこれらを接収しました。完成後、これらはドイツ海軍の Lauenburg と Bu(ウムラウトつき)tow になり、そこそこ働きましたが、最後はスカパフローで自沈しています。
私の疑問は、なぜこれら2艦の名前が、蒸気推進研究所「独逸軍艦 機関部データ集」に掲載されていないのか、ということです。お分かりの方おしえてください。
電気戦艦

  1.  存在しないからでしょう。
     艦歴だけみると、ブルンマー級敷設巡洋艦のもののようですが、この巡洋艦がスペインの発注したものというのは、寡聞にして存じません。
     
    hush


  2. hush様 どうもありがとうございました。私もひょっとして、架空のものかもと思っていましたが、やはりそのようでスネ・断定していただき助かりました。
    電気戦艦


  3. そこ架空艦コンペのサイトみたいですよ
    駄レス国務長官


  4. >3
     そうですね、相引型軽巡洋艦なんてものもありますからね。
     ま、権威ある蒸気推進研究所で取り扱うものではないですね。
     
    hush


  5. >3. うまく担がれました。タービンにフルカン継手を使うなどは、かなり知っている人ですね。
    電気戦艦


  6. 矢崎信之『舶用機関史話』に簡潔ですがこの減速装置に触れた個所があるのはご存じでしょうか?
    お調べになっているのでしたらご参考までに。

    kimurada


  7. 古い専門書で内丸最一郎「蒸気タービン」丸善・改訂版or再訂版もそこそこ詳しいのでおススメします

    >4.
    まいど恐れ入ります
    駄レス国務長官


  8. 石狩型戦艦艦型図として戦艦「扶桑」の40cm砲搭載改装案が採用されているのがなんとも。
    Ranchan


  9. >6. ありがとうございます。矢崎さんのこの本の名前は知っていましたが、読んではいませんでした。そのうち読みます。こんなことまで書いてあるとは貴重です。
    >7. ありがとうございます。内丸さんのこの本も中身は詳しく読んでいませんでしたので、また読みます。それにしても内丸さんの書いた本はどれも簡潔明瞭で、図面もしっかりしています。日本の機械技術者の勉強のために多大な貢献をなされた人でした。

    電気戦艦



1086 巡洋艦夕張に付いてお聞きします。
機関をシフト配置にしたり、機関室を単純に二つにした場合どのくらい長く成るのでしょうか?
又、その場合には主砲を連装四基単装二基にするのは可能でしょうか?
速度もどのくらいに成るか?教えて下さい。
青江

  1. まずは平賀アーカイブ「軍艦夕張防禦及兵装略図」で同艦の機関区画の概要を把握してください
    機械室は元から前後2室で前が両舷機うしろが中央機の3軸配置です
    機関区画は87フレームから191フレームまでの104フレームで区画長は垂間長が254フレームで131.712メートルですから比例計算で約54メートルってとこでしょう
    後室のほうが若干長いのは補機類をこちらに多く収納してるためでしょう
    シフト配置にしたくとも主缶は8基ですから2対1には分けにくいですね
    元々全缶全機配置の3軸艦をシフト配置にしようってのが無理なんじゃないでしょうか

    あといつも思うのですが建艦計画では先に「主砲○○センチ○門で○○ノット云々」ちゅう要求が先に来てそれに合わすべく機関計画を立てるので思考順序が逆じゃないでしょうか
    駄レス国務長官


  2. ありがとうございます。
    なるほど、駆逐艦の樺と同じ様な機関配置でしたか、すると、前室二基の機関を後室に移し缶を四基づつ二つの機部屋に分けて機関室の位置に一つを移動しその四基の缶の間にセンターの軸を通すことが出来れば、長さをはほとんど変わらずにシフト配置にはできそうですね?
    ただし、バランスや缶の配置の解決が出来ればですが。
    青江


  3. どうしてもシフト配置にしたいんならせめてイズムルードみたく前機2・後(中央)機1とするのが妥当でしょう
    缶は前6・後2で全力時は前室から後室に少し融通するとか
    いずれにしても2本煙突は避けられず甲板有効面積は減りますね
    駄レス国務長官


  4. >3.訂正
    × 缶は前6・後2で全力時は前室から後室に少し融通するとか
    ○ 缶は前4・後4で全力時は後室から前室に少し融通するとか
    駄レス国務長官


  5. 同じく平賀譲デジタルアーカイブ『Arrangement of machinery』の4コマ目も夕張の機関配置を検討する上で参考になると思います。
    kimurada



1085 連投質問失礼します。今世界の艦船「ドイツ戦艦史」を読んでいて疑問に思ったことを質問します。

この本の中で第二次世界大戦のドイツ主力艦のうち、シャルンホルスト級戦艦は第一次世界大戦で未完成に終わったマッケンゼン級戦艦(大巡)をタイプシップとして設計・建造されたと記載されています。

転じてビスマルク級戦艦の場合は、第一次大戦中に完成したバイエルン級戦艦を(特にその防御要領は再現といってよいとか)タイプシップとして設計・建造されたと記載されています。

そこで質問ですが、タイプシップが異なるということは、厳密な意味でビスマルク級はシャルンホルスト級の拡大改良型とは言えず、両者の艦影が似通っているのは帝政時代以来のわざと外見を似せてデザインするドイツ式欺瞞手法の結果に過ぎないのでしょうか?

タイプシップの問題は依然この板でかなり執拗な議論がなされていたので、この際できるだけ多くの識者の皆様のご意見を伺いたいと思う所存です。
備後ピート

  1. まずは折角教えて貰ったウィキの活用から始めては如何でしょうか
    駄レス国務長官


  2. 困ったな…。一応ウィキペディアのシャルンホルスト級、ビスマルク級の記事は読んだ上で、細部はともかく決定的に本質が納得できる内容がなかったので質問したのですが…。
    駄レス国務長官様でも正しい答えが出せないとなると、その他の方々からの解答も期待できないかな…?
    備後ピート


  3. ご期待に沿えず残念でした
    駄レス国務長官


  4. 少なくとも「機械の時代」の軍艦にとって外見は艦の基本構成を現し
    同じ技術水準の建造・運用主体ならそのまま機能を推測出来ます。
    艦の外形を揃えているという事は、
    細かい級では無くその外見の「形」こそが遍くタイプシップという事であり
    「に過ぎない」とする事こそ間違いでは?
    にも。


  5. 調べてから書くべきなのでしょうけど、
    帝政期ドイツ・ライヒのバトル・クルーザーは人名、
    クルーザーの付かないバトルシップは地方(邦国?)の名前、ですよね。
    一方ワイマール→ナチ期の新戦艦ではクルーザー無しのバトルシップであっても人名付けてる。
    にも@追加。


  6. 拡大した時点で決定的に異なるのだから「厳密な意味での拡大改良型」という概念自体がナンセンスでは。
    「タイプシップ」とは(一義的には同じクラスの)手本或は参考にした船を指し、一方で実際に船に実装される技術は同時代のクラスの異なる船と共通する。
    シャルンホルスト級がマッケンゼン級を、ビスマルク級がバイエルン級を、それぞれタイプシップとして建造された事と、
    共に同じ時代の船であるシャルンホルスト級・ビスマルク級が、後者は前者を拡大改良した関係で在る事に、何の矛盾が?

    にも@追伸。


  7. >4
     外形が似ているということと、タイプシップということは、そこまでの相関関係はないと思いますが。
    >5
     多分、シャルンホルストやグナイゼナウという命名は、艦種ということもあるのでしょうが、1次大戦の有名艦の襲名というのが大きいと思います。だから、重巡洋艦にザイドリッツやリュッツォーなんてつけたのだと思うのですが、O型巡洋戦艦が実現したら、フォン・デア・タンとかモルトケとかつけたのかなと思っています(ヒンデンブルグは許可されないでしょう)。
     ただ、艦名と質問との関係性がよく分かりませんが。
     
    hush



1084 訳あって(船舶の)バルジの起源について調べています。世界最初にバルジを装備したのはいつの時代、どこの国のどういう船なのでしょうか。一応いろいろ調べてみたのですが、調べ方がまずいのか私には判明しませんでした。
そこでこの板の識者の皆様にお伺いする次第です。よろしくお願いいたします。


備後ピート

  1. 「調べ方」としての入り口

    ウィキペディアで「バルジ」の項を引く。
     ↓
    載ってない。
     ↓
    ウィキペディアで「バルジ」の項に「他言語版」でとりあえず「English」を選択する。
     ↓
    Google翻訳で日本語にしてみる。
     ↓
    「第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の海軍魚雷に対する対魚雷バルジ、受動的軍艦防御」というのがそれっぽい。
     ↓
    その項「Anti-torpedo bulge」を引いてみる。

    必要なら、その頃で出典元、参考文献として挙げられているものに当たってみる。
    これで解決しないでしょうか?


  2. 片様、調べ方の詳細まで示していただきありがとうございます。ウィキペディアを活用する方法まで思い至りませんでした。
    私の場合英語力がネックになっているかと思いますが、お奨めの辞書とかあればいくつかでも教えていただければ幸いです。実は今英和辞典、英英辞典とも処分してしまってわが家には無いのです(学生時代に東京で買った古いものでしたが)。60の手習いですね。

    備後ピート


  3. 翻訳機能は今時は、インターネット・ブラウザに内蔵されていて、何語のページでも日本語で読めるはずですよ。


  4. https://www.researchgate.net/publication/229498414_Bulging_Warships

    要約を見ると、質問そのものなので、本文を入手すれば良いのでは。
    SJ在住者


  5.  http://hush.gooside.com/name/e/Ed/Edgar.html#anchor370826
     に書きましたように、イギリスのエドガー級防護巡洋艦が嚆矢です。
     
    hush


  6. >5.
    ウィキの「Anti-torpedo bulge」も同級に言及してますね
    駄レス国務長官


  7. >6
     そうですね。
     ところで、そこに書いてある4隻のバルジ装着艦の艦名ですが、グラーフトン、シーシュースは、その各項に記載があるので確かですが、残り2隻が分かりません。多分、うち1隻は被雷してもバルジで助かったと思われるエドガーだと思いますが、もう1隻はこの3隻がダーダネルスに派遣されているので、もう1隻派遣されたエンディミオンかなと思っていますが、確証を持てません。
     そこはお分かりになりませんか。
     
    hush


  8. バルジを後から装着するのは結構面倒な作業だったようです。バルジの上部がちょうど舷側装甲に当たるばあいは、取り付けるためにはタップリベットを使います。名前はリベットですが、リベットのように熱して打つものではありません。貫通しないボルトのようなもので、この場合、装甲板にネジ穴を作ります。装甲板は特殊鋼でできた大変硬いものですからそのままではドリルは使えません。附近を局部的に熱し、焼き戻すことをしました。以上は、陸奥のバルジ装着するに携わった矢田健二さんの話です(「写真集日本の戦艦」より)。足場の悪いところで、水平方向に孔開けますので大変だったと思います。大和級の場合は、最初からねじ穴の位置がわかっていますので、工場で孔を開けておけばいいのです。
    南極観測船「宗谷」にはバルジが取り付けられています。牧野茂さんが設計に関与したと言われています。バルジを船体に溶接で接合するのに苦労した、と聞きます。なお、バルジは全溶接ではなく、rivetも使われています。昨年12月確認しました。 
     電気戦艦


  9. >7.
    ご賢察のとおりです ↓
    http://www.northeastmaritime.co.uk/viewtopic.php?f=161&t=8707
    駄レス国務長官


  10. >9
     おお、素晴らしい、ありがとうございます。
     
    hush


  11. https://www.researchgate.net/publication/229498414_Bulging_Warships

    要約を見ると、質問そのものなので、本文を入手すれば良いのでは。
    SJ在住者


  12. すみまんせん。以前の投稿が残っており、二重投稿になってしまいました。
    SJ在住者



1083 アイオワ級戦艦の船体線図を探しています。
線図等の図面が載っている資料はありませんでしょうか?
苅田

  1.  こういうのならありますが、多分、もっと詳しいのが必要なんでしょうね。
     https://ussmissouri.org/learn-the-history/the-ship/as-built-blueprints#
     書籍ならあるのかもしれませんが、専門外です。
     
    hush


  2. Dulin,Garzke, Sumrall共著Battleships, United States Battleships in World War II. Naval Institution Pressあたり如何でしょうか

    駄レス国務長官


  3. 船体線図と言う事は外形曲線を示す図面という事でしょうか?
    上述の場合は一般配置図等と違って造船関係の書籍でも軍用艦艇では殆どないのでは……。
    一応世界の軍艦コレクションナンバー28のニュージャージーに船体正面からの船体線図が1枚掲載されていた記憶があります。
    元自


  4. ↑訂正、別の本だったのか見当たらなかったので一番下の行は無視してください、すみません……。
    元自


  5. >3.

    >2.にはこれ ↓ と同じ図が載ってますよ
    http://navgunschl.sblo.jp/article/188035905.html
    駄レス国務長官


  6. >3. など
     厳密にいうと、船体線図は船の外形をそのまま示すのではありません。溶接船の場合は、船の外形より外板厚みを差し引いたものが表されます。リベット接合で、内外張りになっている場合は、内側外板(下側になる外板)の内側の寸法で表されます。ですから実際の外形より20から30mm小さく表されます。
     アイオワ級戦艦の艦首あたりの写真を見ると、のっぺりしているので、溶接構造かとも思うのですが、裏側に目板を入れた付き合わせリベット構造かも知れません。現物を見れば直ちに分かる事ではありますが。とにかく船体線図だけでは外部の構造わかりません。
     いわゆる「大和ミュージアム」には大和の1/20模型があるようで、写真を見る限り舷側は全てのっぺりしています。これはあまり良くないと思います。松本さんの本にありますように、前の方は、流れの抵抗を減らすため、目板付き付き合わせリベット接合ですが、少し後ろに下がると重ねリベット接合になっているので、表面には段差が見えるはずです。模型にすると1mmほどのものですが、これも厳密に表現して欲しいです。なお、さらに後ろになると、舷側装甲部になりますからまた平滑になるでしょう。
     (写真だけで書いたのでもし間違っていればご容赦ください)

    電気戦艦


  7. ある有名ブログに私の投稿に対する指摘・感想などありました。皆様の誤解を解くために説明します。
    1. 「厳密にいうと、線図は船の外形を示すものではありません」という記述に対して、そのようなことは当たり前のことです、と言われています。この欄を訪れる人が全て、なんでも知っているわけではありません。他人の質疑応答を読みながら、簡単なことでも「ああこういうことだったのか」ということはよくあります。
    2. 線図の説明が「誤り」と指摘されました。線図がフレーム外側を基準に作っているのは知っていますが、通常はフレームの外側に外板が取り付いています。これを端折って船の外形を基準にしたような表現になりました。確かに正確な表現ではないです。また外板の厚みが場所によって変化することもありますから誤解を招きます。また、リベット接合の内外張りも、ちょっと文字だけでは分かりにくいです。要はフレームに段がある場合低い方と高い方のどちらを採用するかということです。
    3. 外板の構造が図面で分かると教えていただいたので、もっと調べたいです。
    4. 大和の1/20モデルの表面が「のっぺりしていて良くない」と書きましたが、感性の問題だとかたづけられました。私は、せっかくモデル作るなら、可能な限り技術的な努力の跡が見えるようにして欲しかった、ということです。大和の船体について記述した書物はほとんどなく、ただ松本喜太郎氏が昭和27年に出した本に、外板の取り付け方がすこし出ているだけです。ですから、艦首に近いところは、平滑ですが、後ろになると段々が現れる、ということを示すのは、意味があると思うのです。今のままだと、見に来た人は「ああすごい、でかいな」で終わりです。何も技術的に刺激を受けるところがありません。今までも世の中にあった1/100モデルと質的には同じです。せっかくお金をかけて、優秀な製作会社もあったのですから、計画者、企画者がもっと問題意識を持っていてくれたら、と感じた次第です。「あまり良くないと思います」という書き方が、一方的な決めつけだという印象を与えたかも知れませんが、そのようなことですので、ご理解ください。



    電気戦艦


  8. 皆様ありがとうございます。
    船体線図から、推進と抵抗の関係を推測したいと思い、船体線図を探していた次第であります。
    苅田



1082 F15等の第4、第4.5世代の戦闘機は優れたレーダを装備していますが、敵のステルス戦闘機から自分や僚機に対して発射された長距離AAMを探知し、命中以前に自分のミサイルで撃墜したり、デコイを発射したりすることは不可能なのでしょうか。
UK

  1.  終末誘導の段階でロック・オンする必要はありますので、探知は可能だろうと思いますが、撃墜したり、ジャミングできるかは、相互の能力差の問題ですし、それを数値化できないので、回答は控えさせてもらいます。
     
    hush


  2. ここは艦船関係の項目ですが
    超音速


  3. 途中送信してしまいました。
    ここは艦船関係の項目ですが、このまま続けたいと思います。

    通常、敵AAMにロックオンされれば自動的に搭載ECM装置がジャミングを開始しますが、AAM側はジャミングされると妨害電波源追跡モードに自動的に切り替わります。
    そこで対策として、米軍では1990年代末からAN/ALE-50曳航型ECM装置が配備されており、空自では2012年からF-15用射出型ECM装置(J/ALQ-9A・B) が制式化されています。

    以上のことはベテランのUKさんなら当然ご自身で調べたりして把握されているはずなので、私質問意図を誤解しているんでしょうか。
    超音速



1081 江戸時代に発達した弁才船は、高い帆柱を持っていました。当初は一本物を利用していましたが、材料が得がたくなると、細い材料を集めて作るようになりました。このような物を松明帆柱と呼びます。広重の、名所江戸八景の「鉄炮洲稲荷橋湊神社」に描かれています。
 松明は、樹脂の多い松の根っこあたりを細かく割りまた束ねたものです。しかしwikiの、大阪市が復元した浪華丸についての記述は、厚板を4枚使い正方形断面図に仕立てたものを松明帆柱としていますが、間違いではないでしょうか。奈良東大寺大仏殿の主柱のようなものがむしろ松明に似ていると思うのです(船の箍の代わりに、太い釘を使っていますが)。
電気戦艦

  1. ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/conf/22/0/22_31/_pdf/-char/en

    フランス人中尉の報告に基ずくそうですよ。
    タンジェント


  2.  もしかすると、角柱の帆柱が不審のもとではないかと思っておりますが、丸柱ではなく、角柱を使うのは和船の特徴です。
     というのは、木は先細りですので、元口ではなく、末口にあわせて角柱を製作します。丸柱は、この角柱の角を削って多面体にし、さらに磨いて仕上げます。縦挽きの鋸や台鉋がなかった時代には、楔で材を割って作っておりますので、余計に大変なわけです。
     また、丸柱のほうが強度が弱くなり、手間がかかりますので、使用される場所は、ほぼ寺社に局限されていました。特に神社の場合は、祠の外側の部分は角柱、内側は丸柱と截然と分かれています。これは、内側が神の領域、縁側部分はその覆いであるという考えからです。
     ですから、丸柱を強度の求められる帆柱に使うのは有利ではなく、神仏の領域を侵すことでもありますので、あまり和船の帆柱には使用しません。もっとも、船霊の設置場所は帆柱を入れる筒柱に入れることが多いので、神仏の領域と言えないこともないのですが、帆柱自体は甲板の外側にありますので、祠と同様に考えられたはずなのです。
     ですから、広重の絵を拝見して、こういうものもあるのだと思ったわけですが、和船の帆柱は角柱が普通です。実際、琵琶湖博物館に収められている丸子船の帆柱は角柱です。もしかすると、松明柱になって、角柱でなくてもよくなったのかもしれませんが、疑問には思っています。
     https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00932/contents/0021.htm
     こちらに「杉の芯(しん)材に四方より槍の打物を打ちつけて、責込(せめこみ)と呼ぶ帯金を巻いて作る松明(たいまつ)柱が一八世紀前期に考案された」という記述があります。「槍の打物」というのがよく分かりませんが、「四方より」とありますので、浪華丸の帆柱の形状は一般的な角柱であり、それにあわせて再現されたということになるのでしょう。
     なお、1で紹介されたアドレスそのままだと、私の場合、きちんと表示されませんでしたので、 復元された菱垣廻船「浪華丸」の意義について で検索されたほうがよろしいかと思いますが、そのフランス人中尉の計測したという1968年は1868年、つまり明治元年の間違いです。その頃は、弁財船も多く残っていたので、簡単に計測できたと思っています。
     あと、松明柱というのは、寄木で作られた形状が似ているからついた名称だと思いますので、円柱か角柱かは、あまり関係ないと思われます。
     
    hush


  3. >2
    フォロー感謝、私の所からはあのアドレスで直ぐだったので、申し訳ない(此処の慣習で、記入は頭のhを省いています)

    「打物」には、大工用語で「平板」の意味があります。従って角柱だったと思います。(が、古語・死語に近いのでしょう。むしろ金槌などを指す事が多い。名残として「厚板すのこ6枚打ち」なんて表現があります。)

    なお「松明柱」には、「柱松明」または「柱松」の連想から来ている可能性があるそうです。
    タンジェント


  4. >3
     御教示多謝。
     どちらかというと、打物よりも槍のほうが分からないのですが、檜あたりの誤記ではないかと疑っています。
     
    hush


  5. あらら、先入観で「檜の打物」と読んでいました。「ヤリ」なら、正に「打ち物」そのものですね。
    タンジェント


  6. 皆様 ご議論ありがとうございます。私は、責込の形は丸い輪と思っていましたが、複数部材を束ねたものであれば、四角いものでも、松明帆柱と呼んだのかも知れません。もう少し調べたいです。広重の絵では、丸いと思っていましたが、四角に見えないわけではないので、参考程度です。洋式船では、部材を組み合わせたマストは、made mast あるいは built(-up) mast と呼ぶようです。基本は円柱形ですが甲板を貫くところから下部は正方形のようです。甲板との貫通部の隙間にくさびを打ち込んで固着するためのようです。
    電気戦艦



1080 1077の回答についている伊勢の動画についてですが
艦首の菊の紋章がないように見えます。
1 動画が不鮮明だがついている
2 攻撃中、または放置中に勝手に脱落した
3 実質、廃艦になった時点で菊の紋章を放置するわけにいかないので取り去った
4 戦後、金箔を剥がすために外した
5 米軍の戦利品、または伊勢関係者が記念品として持ち去った
くらいが想像できるのですが実際はどうなったのでしょうか?
タブ

  1.  敗戦直後、連合軍がやってくる直前、不敬になってはいけないということで、呉工廠が各艦から艦首紋章を撤去し、焼却したと言われています。
     
    hush


  2. ありがとうございます。
    ところで焼却にしたということは木製だったのでしょうか?
    金属板を打ち出した物に金メッキしたと思っていました。
    タブ


  3. >2
     当初は砲金製だったようですが、艦の大型化に伴い、重量の関係でチーク材に金箔をはったものに変更されており、潜水調査で確認された大和のものも木製でした。
     なお、2014年に潜水母艦駒橋の紋章が現存していることが確認されましたが、これも木製です。これが、新造時のものかどうかは存じませんが、仮にそうであったとすれば、同艦の竣工は1914年で、直後に軍艦となっていますので、大正時代以前に変更になったということになります。
     
    hush


  4. 木製の御紋章に金箔を施したものです。
    戦艦「三笠」「陸奥」重巡「青葉」に取り付けられていた実物の菊花紋章が現存しているので、機会があればご覧になられるといいと思います。
    Ranchan


  5. すみません、かぶりました。<(_ _)>
    Ranchan


  6. >5
     いえいえ、三笠の艦内の保存されているあれが木製だとすると(だから、ダンス・ホールになるまで荒廃しても盗られなかった)、同艦内にある和泉のそれと合わせて、明治期には材質が変更になったということが分かって参考になりました。
     なお、上記以外に迅鯨、香取のものが現存していますことを付記しておきます。
     
     
    hush


  7.  あっ、6の香取は戦艦のほう、迅鯨は潜水母艦のほうです。
     
     
    hush


  8. 子供の頃、読んだプラモ雑誌かマンガの解説に金属板でできていると書いてあった記憶があり
    ずっと金属板だと思っていました。もしかしたら他国の紋章のことだったのかな。
    ありがとうございました。
    タブ


  9. >8
     1939年にウルグアイで沈み2006年に引き揚げられ19年に売却された装甲艦アトミラール・グラーフ・シュペーの艦尾のワシの像はブロンズだそうです。800ポンドと書いてありますので、約360sの重さがあります。
     
    hush


  10.  1966年に刊行された「造船官の記録」の中に収められた吉武有道技術大尉の「戦争末期の苦斗(闘)」の中に、艦首紋章の取外しの状況が描かれているそうです。吉武技術大尉はこの作業に参加しているそうですので、かなり信憑性のある記録だと思われます。
     手許にあります軍艦伊勢出版委員会刊「軍艦伊勢」(1979年)からの又書きになりますが、対象となったのは、榛名、伊勢、日向、天城、葛城、龍鳳、鳳翔、青葉、磐手、出雲、利根、大淀、八雲、鹿島、北上等だそうです。うち、真鍮製の出雲、磐手、艦首を海中に突っ込んだ天城を除き、比較的容易に取り外すことができたという記述があるそうです。
     出雲と磐手のそれが真鍮製であったとしたら、三笠や和泉の紋章が木製なのはなぜかという疑問が新たに生じるわけですが、私はその回答を持ち合わせていません。
     なお、菊花紋章は白布に包まれて2、3人で運び出し、工廠裏手の神社(伊勢名神社?)で焼却されたそうです。
     
    hush


  11.  金属製も金属板の打ち出しではなかったのですね。
    想像なのですが真鍮製は木製より劣化しにくいので廃艦から取り外したあとサイズの合いそうな新造艦に使い回したのではないでしょうか。
    タブ


  12. ケヤキ板ベースの御紋章を艦首上部にどのように取り付けたのでしょうか。鋼製ボルトを何本かを背面に埋め込み、先端部を艦体に差し込み、ナットで止めたと思います。ではボルトををケヤキ板に差し込んだ時に、抜けないようにする方法が問題です。板にきつめの孔を開け、ボルト先端のネジを回しながら差し込み、周辺はパテのようなものを詰め込んだのでしょう。
    電気戦艦


  13. >8
     もしかしたら、金張り、もしくは金箔押しというのは子供に難しいと判断して、そのように表記したのかなと思って、いろいろと調べた結果、爆沈した陸奥の紋章に関する調査では欅製で金箔が貼られていたそうです。
     ただ1987年に撤去された三笠の艦首紋章の写真を見ますと、割れ目や剥落した部分が目立ちます。それだけを見ると、金箔を使ったのかなとも思うのですが、戦後、ダンスホールや水族館として使用されていた時期もあるぐらい荒廃した三笠から、なぜ、金箔が盗まれなかったのかという疑問が生じます。多くの金属はガス・バーナーで切断され、甲板のチーク材すら薪や建材として盗まれたような状況の中で、紋章だけが被害を免れるということがありうるだろうかということです。
     実際、 http://acj.sblo.jp/article/45569226.html に1953年ごろに撮影された三笠の写真が掲載されていますが、これが着色写真でないとすれば、この当時も、現在と同じように紋章は金色に輝いています。これほど目立つものが残されていたのは、経済的には無価値なものであったとしか考えられません。
     したがって、これは金箔ではなく、金色の塗料で塗られていただけなのだろうと思います。
     もっとも、竣工時は金箔が貼られていたのかもしれませんが、波浪の影響が大きな艦首部ですので、保守管理を考えるとどのようにやっていたのかなと思います。
    >11
     三笠や香取の進水写真を見ますと紋章がついています。したがって、出雲、磐手もつけて進水したと思います。だとすれば、これらの紋章も現地で調達されたものである可能性が高いと思っています。というのは、三笠、香取はヴィッカーズ社製ですが、出雲と磐手はアームストロング社製だからです。もし、日本から持っていったのであれば、建造所によって紋章の材質が異なるということはありえないと思うからです。そして、現存する香取の紋章の写真を見ると、木製のように思われます。
     和泉は、アームストロング社製ですが、チリのエスメラルダとして竣工しており、紋章は購入後に日本国内で製造されたものであると考えられます。したがって、たとえば、浅間の艦首紋章が残っており、これが真鍮製であったなら、ほぼ確実ですが、木製か、金属製というのは、建造時期ではなく、建造所の違いによるものではないかと今は考えております。
    >12
     現存する香取、陸奥、青葉(10で紹介した文献に撤去後焼却とありますので、どういう由来のものか不明ですが)の艦首紋章を見ますと、正面に穴が開いており、青葉のには木栓らしきものが残っています。一木造りではないので、内部にナットを仕込むことも可能でしょうが、この穴を使って止めていたものと思います。陸奥の艦首は現存しており、設置孔も確認できそうですので、一致すれば、確実だと思っています。
     
    hush


  14. hush様 機会を見て実物を見ようと思います。とにかく風波が一番激しく当たる場所なので、取り付けもかなり工夫が必要でしょう。
    電気戦艦


  15. >14
     こんなのがありました。
     https://twitter.com/tamaya8901/status/531070756239601664
     駒橋の艦首紋章の実測図です。
     
    hush


  16. >15 大変有用な画像ありがとうございました。私は、14 でボルト数本をケヤキ台座に行き止まりで射し込むと推定致しましたが、今回の写真で埋木があることがわかりました。ということは、貫通ボルトを利用したということになります。ボルトの頭+座金が埋木の下にあり、館内からはナットで締め付けたのでしょう。

    電気戦艦


  17. >16 射し込むX 挿し込む◯
       館内x 艦内◯
    電気戦艦


  18. >16 14x 12◯
    電気戦艦


  19. >16
     ま、菊の紋章をぶち抜いてボルト止めするなんて、普通は考えないですから。私も、香取、陸奥、青葉の艦首紋章に穴が開いているのを見て、その意味に気づいた時には愕然と致しました。
     多分、最初は、海軍も納品された紋章を見た時には驚いたでしょう。しかし、海外の場合、艦首に王家の紋章をつけているわけでもありませんし、菊の紋章が何を意味するかが分かったとしても、海中に落下するよりましだと思うでしょう。ですから、このやり方が踏襲され、国産の時代になっても続けられたということなんだろうと思います。
     これが陸軍だったら、菊の紋章を粗末に扱ったと大変なことになったでしょうが、海軍は、その紋章のついた銃を、島を撤退する時に邪魔だから捨てよと言ったわけですから、らしいと言えば、らしいのですが。
     
    hush


  20. >19
    英国の船には船首像(フィギュアヘッド)を取り付けることが多かったですから、菊花紋章を取り付けることは、技術的には苦労無かったことでしょう。
    電気戦艦



1079 零式五連装魚雷発射管の重量を教えてください!

ながらゆき

誰か答えて下さい。

1078  昔の大砲は火薬の量を変える事で射程を調節してました(今でも榴弾砲や迫撃砲はある程度は装薬量調整しますが)が、艦載砲で火薬量を一定にして仰角で射程を調節するようになったのはいつごろからですか?
おうる

  1.  興味深い質問をありがとうございます。普段、そういうことをあまり考えないので、面白そうだ、調べてみたいという欲求が湧いてくるのです。
     ところで、艦砲は、帆船時代から梃子や楔を用いて仰角を調整しています。もっとも、これは相手の船体ではなく、帆走設備を狙うためのものですが、射程の調節のためと書いたものもあります。ただ、帆走時代の艦砲はピストルの射程を超えると命中しないと言われるぐらいですので、あまり意味はないでしょう。
     したがって、射程の調整に仰角が重要になってくるのは、砲身にライフリングが施された19世紀、特にアームストロング砲が登場する世紀末の頃ではないでしょうか。
     
    hush


  2.  回答ありがとうございます。

     確かに帆船時代の戦列艦が砲の仰角を調節していたのは存じていますが、あれは多分射程の調整というよりは、船の傾きの分を補正するためだったんじゃないかと思う次第です。

     ただ、帆船時代でも陸上目標に対する艦砲射撃はやっていますし、それなりに遠距離射撃になりますから、射程の調節自体が必要なかったわけでもないだろうとも思います。

     そういう場合でも火薬の量は一定だったんでしょうか?
     臼砲艦みたいなのはともかくとして、艦載砲で火薬量の調整をやめちゃったのはいつからなのか気になります。
    おうる


  3. 此処を御覧になりましたか。参考になるかと

    http://navgunschl.sblo.jp/article/126725437.html
    タンジェント


  4. あと艦砲ではありませんが、分離装薬を使う榴弾砲では、現在でも射距離に応じて装薬を減らします。

    http://www004.upp.so-net.ne.jp/weapon/propellant.htm
    タンジェント


  5. >>3,4 回答ありがとうございます。

    リンク先は知ってはいましたが、じっくり読んだことはありませんでした。参考になりました。

    一応、薬嚢を使う砲では装填する薬嚢の数を変更して強装/弱装に切り替えていたものがあったことは承知しております。
    現代の榴弾砲や迫撃砲でも装薬量を調節するものがある事も。

    質問で想定しているのはガレー船や帆船に積まれていたような鋳造滑腔砲で、松明で火をつけて発砲するような奴です。

    そういえば薬嚢はいつ頃から使われてたんでしょうか?
    16世紀末にグスタフ・アドルフが紙の薬嚢を使ったらしいという話はどこかで読みましたが・・・
    おうる


  6. 世界の艦船No.212号は、艦砲の今昔の特集の(1)ですが、筑土氏と堀氏(元海軍技術大佐)の往時の艦砲、射法、火薬等についての解説が記されています。これによると、17世紀には俯仰角を調節していたようです。17世紀のスエーデン軍艦ヴァーサ(wasa)の24ポンド青銅砲と砲弾と装薬の写真が掲載されています。
    なお、今日と異なり、海戦で装薬の量を調整して射距離を制御するのは困難だったと思われます。何しろ、1880年頃までは、発射時機(原文通り)は砲側の射手に任せ、弾着観測も射手や砲長が行っていました。
    US


  7. >>6
     回答ありがとうございます。

     帆船の場合は船体が左右に傾くので、風下側の砲は上向きにしないと海面撃っちゃうし、風上側は下向きにしないと上空へ飛んで行ってしまうので俯仰調節はかなり早い段階からやっていたであろうとは思っています。

     想像ですが一番最初に大砲を船に乗せた時は、陸上での大砲と同じ打ち方をしただろうと思うのです。
     だとすれば最初は火薬量の調節によって射距離を変えようとしたのではないかと・・・ただ、揺れ動く船からの砲撃は遠距離では当たらないし、陸上目標を艦砲射撃する場合はともかく、それ以外の対艦砲撃では必中距離に寄ってから撃つのが基本になっていきますし、火薬量の調整による射距離の調節という行為そのものがなくなっていったのではないかと・・・

     そのようなプロセスが実際にあったとするならば、それはいつ頃、どのように成されたのかが知りたいのです。
    おうる


  8. 1. 6: USをUKと訂正します。
    2.ガレー船をwikiで調べると、初期は弩級等を船首に備え、後に大砲が搭載されており、更にググっていくとそれらの大砲の詳細まで辿れます。これによると、海戦では砲弾の持つ運動量が問題だったそうです。更に後の時代の射距離の修正は装薬量の調節ではなく、(最初から)仰角の調節だったようです。ともかく、陸上と異なり、目標も撃つ方も動いていることによります。

    UK


  9. >7
     砲耳は15世紀からありますので、陸上の砲においても俯仰調節により射程を調整していたでしょう。もちろん、3で紹介されているように装薬量による調整も行っていたはずです。
     ただ、俯仰調節は1で申したように、重い砲身を人力で動かすため、梃子や楔を用いることになります。陸上の場合は、固定目標が多く、射撃間隔も悠長なものですのでそれでいいのですが、揺れる艦内では、船の動揺に追従させるのは困難で、適当な傾斜になった時を選んで砲撃を行っています。
     にもかかわらず、艦内で俯仰調節を行うのは、高所にある目標、たとえば相手の帆柱とか、崖の上の砲台を狙うという場合です。
     https://en.wikipedia.org/wiki/Naval_artillery#Artillery_ranges
     を見ていますと、18世紀の時点で全弾命中が期待できる近距離射撃は僅か5ヤード(4.5m)、4-5斉射で15-20%の命中が期待できる中間距離が30ヤード(27m)、1-3%しか命中が期待できない遠距離でも800ヤード(720m)でしかありません。
     滑腔砲の時代、7で書かれているように、ほとんどの海戦が中間から近距離射撃で行われていますので、射程を変えるというのはかなり特殊な状況でないとあり得ないと思います。その時、装薬の量を変えるのは当然でしょうが、3のリンク先にありますように「火薬量の調整による射距離の調節」がなくなるのは、20世紀前後ではないでしょうか。
     
    hush


  10. >>8、9

    回答ありがとうございます。
    おうる


  11.  砲身の俯仰による弾丸到達距離の制御は、しっかりした砲架の存在があってこそ可能であると思います。木造帆走軍艦の時代の様に、ロープで止めた木製の台車に砲身を置き、全体をクサビや金てこでカンで微調整する様では大したことはできません。しかも台車は剛性の小さい木造艦の甲板に乗っていますから。鉄製のしっかりした砲架ができる様になり、かつそれらをしっかりした船体に据え付けられて初めて仰角による距離調節ができるようになったでしょう。最初は錬鉄製だったかも知れませんが、ベッセマー法により、鋼が大量・容易に得られる様になった1870年代から近代的砲架の採用が普及してしたのではないでしょうか。
     英軍が鹿児島を砲撃したとき、アームストロング砲(?)を使った様ですが、絵で見る限り、昔ながらの代車方式に見えました。
    電気戦艦


  12.  11.の最後、代車方式は誤りで、台車方式が正しいです。
    電気戦艦


  13. >英軍が鹿児島を砲撃したとき、アームストロング砲(?)を使った様ですが、絵で見る限り、昔ながらの代車方式に見えました。

    横から失礼します。
    アームストロング110ポンド後装砲のことですね。レプリカがHMSウォーリアに展示されていると思います。
    砲架の形式はピボットガンというものです。
    レール状の台座(キャリエージ)の上を車輪つき砲架が前後移動し、台座は前端にピボットがついて旋回できるもので、1810年代には既に登場しているようです。
    俯仰角の調節はスクリュージャッキのようなものが使われます。

    ただし射撃戦術が本質的に変わってないと思われるので、ご質問の本題とは外れるものです。
    門外漢が失礼しました。
    超音速


  14. >13
     11は、1で私が書きました「特にアームストロング砲が登場する世紀末の頃ではないでしょうか」という文言に対するものではないかと思っています。
     ただ、9で申しましたように7のリンク先により、私の勘違いであったことは明らかですので、上記は間違いです。
     
    hush


  15.  御免なさい、14で書いた7のリンク先は3のリンク先の間違いです。
     年はとりたくないないです。
     
    hush


  16. >>11〜14 皆さん回答ありがとうございます。

     基本的に火薬量の増減による艦載砲の射程距離の調節自体がかなり非現実的であろうことは理解しています。

     火砲が船に搭載されるようになったのは14世紀ごろかららしいですが、当時あったのは棒火矢のような物でここで質問の対象としている大砲が登場するのは15世紀に入ってからです。
     15世紀半ばには砲耳が出来ていますが、車輪付きの砲架が登場するのは15世紀の末ごろまで待たねばなりません。
     船に本格的に大砲が詰まれるようになるのは16世紀からのことらしいので、案外車輪付きの砲架の登場が船への大砲装備のきっかけになっているのではないかと想像します。

     ただ、15世紀は砲耳のある大砲と無い大砲が混在していますし、16世紀に入ってからも砲耳のない射石砲が船に搭載されたような記録もありますので、火薬量の増減による射程の調節自体が全く行われなかったという訳では無いと思います(モンス・メグって結局、船上から撃ったことあるんですかね?)。

     しかし、質問は火薬量増減による射程の調節がいつまで行われたか?ではなく、火薬量を一定にして俯仰角調節によって射距離を調節するようになったのはいつごろからなのか?なので、答えとしては船が大砲を積み始めた当初からそうだったと、ここでは結論付けたいと思います。
    おうる


  17. >16 モンス・メグって結局、船上から撃ったことあるんですかね?
     Wikipedia日本語版にはグレート・マイケルに載せたという記載はありますが、英語版にはありませんし、”Mons Meg” ”great michel”あるいは”Mons Meg” ”michel the great”の組み合わせで検索をかけても思わしい結果は出てきません。そこで、日本語版の記述の真偽を疑うわけですが、この記述は2012年の最初の版からあります。ただ、すぐにこの記述に要出典という注記が入り、2015年にこれが消えています。そして、この注記を消した人物については、その「会話」を見る限り、多分に問題があるようです。したがって、Wikipediaにあるからといって、鵜呑みにはできないと思っています。
     計画は別として、大和の46サンチ砲、フューリアスの18インチ砲を超える艦砲が実装されたのかどうかというのは興味深いものがありますが。
     
    hush


  18. >>17 回答ありがとうございます。

     やはりサイズ的にモンス・メグが乗る場所が無いんですよね。

     中央の最上甲板は既に左右に砲座が設けられているし、船の全幅が11mしかないのに全長4mの大砲を乗せても装弾作業自体が困難でしょうし・・・かといって船首楼改造してもフォアマストがど真ん中を貫通してるはずなんでモンスメグが入る空間を確保できそうな気がしません。
    おうる



1077 伊勢型は航空戦艦に改装された際に、後部甲板に貼られていた木甲板を剥がさずに格納庫を設けたのでしょうか?
私は剥がしてしまったと思っているのですが、その場合甲板は何も加工されず鉄板が露出した状態だったのでしょうか?

よろしくお願いいたします。
ほりよし

  1.  https://www.youtube.com/watch?v=ywEnuZ8u4no
     私にはよく分かりませんので、実際に御覧になられてはおうでしょうか。
     
    hush


  2. >1.
    質問は飛行甲板じゃなくて格納庫甲板だと思いますけど・・・
    普通に考えて木甲板剥がさないとその上に恒久的な構造物は建てられないと思いますがその後に格納庫甲板としてどんな表面処理したかまでは残念ながら判りかねます
    駄レス国務長官


  3. >1
    すいません。格納庫内部が見えないので参考になりそうもないです。
    >2
    そうです。格納庫甲板のことをお聞きしたかったのです。

    ご意見ありがとうございます。
    ほりよし


  4.  大変、失礼致しました。
     
    hush



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