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746 「藩」についてなんですが、江戸時代、「藩」という言葉は一般に終わらず、大名のところでは全然使われなく、一部の学者しか使っていなかったということを聞きましたが本当ですか?
また、「藩」というのは「行政区画」とは違うのでしょうか?
オーチー

  1.  日本史の講師に聞いてきたところ、仰るとおりだそうです。
     呼び方としては「○○家領」という感じだったそうで、「行政区画」というより「支配地域」といったところです。実際、領国の支配は概ね(例外はありますが)大名家が取り仕切り、幕府は大名家のみを支配していたわけです(天領を除きます。つまり、例えば庄内藩の農民は庄内藩が支配していたわけであり、幕府がそこに庄内藩を通さずに影響を及ぼすことはできません)。
     多分間違ってると思いますので、他の碩学の方の書き込みをお待ちしております。
    居眠り将軍

  2.  「藩」は行政区画というような生半可なものではなく、一個の独立国と見た方が適切だと思われます。幕府は一種の連邦政府のような機関(国連の方が近いか?)。
     藩は軍事・行政・財政・立法・司法といった大部分を独自に運営しています。
     幕府は藩の運営に関して直接関与できませんし、同時に責任も持ちません。
     生麦事件の後で英艦隊が薩摩藩を攻撃していますが、これは島津家薩摩藩という国家と英国という国家との戦争として、幕府も他藩も事実上傍観してます。長州藩の時も同様です。

     逆に藩主・領主は幕府(の下での平和)に対して協力する責任を持ちます。

     幕府の仕事に就くときは、その業務の必要経費は基本的に自腹です。
     時代劇でおなじみの北町奉行・南町奉行の場合、江戸の治安維持にかかった予算は、町奉行に就任した地方領主が自分の領地の収入から拠出していました。
     損な話に思えますが、領地の小さい領主は小さい仕事しか出来ないので、大きい役職をこなすことは名誉だったのです。
    おうる

  3. 下のサイトに詳しく述べられているが、江戸時代末期の藩政奉還に至るまで「藩」は公式の名称ではなかったということ。ただし、江戸時代中期には世俗で「藩」という呼び方が使われ始めていたそうです。
    で、藩というのは幕府が大名に知行地として与えたものであり(公式の呼称は「領分」「領地」又は「知行所」)、江戸時代初期には幕府の命令によって藩を統治する大名が頻繁に交代しています。お家取り潰しになった大名も結構いるわけだから、藩の運営に直接関与ではないにせよ睨みを利かせていたわけで。
    要するに藩は大名に与えられた知行地の単位で飛地を含む。それと大名家との関係だが、必ずしも藩=大名家ではない。例えば、分家を小藩又は極小藩として設けている例があり、その隣の本家が統治する藩と合わせて実質、全体で一つの大名家が統治している例もある(例、加賀前田家の本家・金沢藩約百万石の隣に、分家の大聖寺藩約十万石がある)。余談だが、陸奥南部氏のように本家と分家の仲があまり良くない例もある(八戸の方が本家だが盛岡の分家の方が大きくなってしまったとか)。

    http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huhanken.htm
    アリエフ

  4. 居眠り将軍さん、おうるさん、アリエフさん、恩に切ります。

    「藩」はまるでアメリカの「州」みたいですね。(「州」ごとに軍事・行政・財政・立法・司法が違う)
    「藩」の財政ってホント大変だったんだなぁ・・・

    そうすると「国(「武藏国」「山城国」とかの「国」)」の役割(意味)とはいったい?
    オーチー

  5. 2>ちょっと無理があるのでは?
    まず藩主の位置づけですが、そこの国王というよりあくまでその地域に幕府により封じられたに過ぎません。移封、改易命令に藩主は抗命できませんでしたし、してもいません。つまりその統治はあくまで幕府に委任されたもので独立国ではありません。

    また確かに江戸中期まで役職に付随する手当てはありませんでしたが、必要経費を全て負担していたわけではありません。江戸町奉行をとって言えば当然、与力、同心には幕府の扶持が宛がわれていて、それで手下の者たち(岡引などです)を雇っています。(とは言え役職としての手当てはありませんでしたが)また自身番は町で運営されていました。
    また吉宗により足高の制(役職在任中のみの加増)が採用になり、手当てが支払われるようになっています。
    山奥の人

  6. >5.
    となると、私が返した言葉はちっと見当違いですね。
    いやはや(^^;;)
    オーチー

  7. >4
    「国」は7世紀からの律令制による行政区画。
     国司以下の官僚がおかれ、律令制による地方統治の基本となる行政区画。奈良時代までは合併・分割などの変動があるが、平安時代以降は固定。
     鎌倉時代になると、朝廷が国ごとに置いた国司のほかに、幕府が国単位で守護を置いた。その後、朝廷権力の衰微と共に大部分の国で国司は有名無実化あるいは消滅していくが、守護は「守護大名」として地方権力の中心を担うようになっていく。
     戦国時代になると、守護大名も相次いで没落、国は行政上の意味を失うが、地理的な区画としては意味を持ち続ける。
     他方豊臣政権から徳川政権にかけては、現実の領地支配とは別に、朝廷の地位としての国司職(守、介など)が、武士達に与えられるようになる。また、一国(あるいは一国の大部分)を領する大名は「国主」「国持ち大名」と呼ばれるなど、地理的・官位的・名誉的意味での「国」は存続していた。
     なお、明治以後も地理的区画としての「国」は存続。府県に改められるのは明治10年代(それ以降も郵便物などでは「国」表示が長く使われた)。


    カンタニャック

  8. 藩という概念には二つの用例があり、一つは皆さんが上げられている支配領域です。もう一つその行政機構そのものを指して藩と呼ぶのですが、そして支配領域と行政機構は当然一体化しているわけですから厳密に区分して使われていたわけではなく、一体化させた概念としての藩もあったのです。
    後者の概念でいうと、藩とは戦国期の軍事組織を行政機構に移行したものですから、その構成員は戦時の軍役と同じく、所領の石高に応じた平時の職務を果たす事は当然の義務に過ぎません。(外様大名が幕府の役職に就けなかったのもこのためです。徳川家の戦闘組織にいるから幕府という行政機関に加わる事ができるのです。)しかし初期において所領制が崩れて扶持が宛がわれる武士が急増した事、その職能的な面が大きくなった事からこの建前はやがて崩れ、江戸中期よりその在任中に限った加増を幕府、藩ともに積極的に行って実質的な給料を支払うようになっていくのです。
    山奥の人

  9. >7.
    「国」は行政区画でいいんですね。分かりました。
    >8.
    「藩」って本当に複雑・・・

    「○○国○○藩の出身です」なんて使っていたんでしょうかね?
    オーチー

  10. >2
    町奉行は地方領主?
    この方面には詳しくないのですが、たしか町奉行は、
    旗本職だったはず。たとえ地方に知行地があるから
    と言って、旗本って単なる「地方領主」なんでしょ
    うか。それじゃあ、「旗本」じゃなく「地本」
    なってしまうんじゃないかと。(笑)
    旗本八万騎などと呼称されていたのは、将軍の
    親衛隊としての機能を果たしていたからであり、
    そのために江戸定府(交代寄会家とかいう
    例外はあったようですが。)してたような気が
    するんですが。
    大名職だった寺社奉行が大検使、小検使とかいう
    捜査官を家来から出していたのを見ても、旗本と
    大名の違いはあきらかではないかと。
    (ひょっとして町奉行と寺社奉行の形態を逆に
    勘違いされておられたのか。)



    SAW

  11. 参勤交代を行う旗本は「交代寄合家」の方が正しいよう
    ですね。
    三河以来の普代だった一般旗本とちがい、大名格に達し
    ない、文字どおりの地方小領主のことのようです。
    SAW


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