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日本では、対日石油輸出規制によって昭和十六年五月ごろから最大の供給国だった米国からの石油輸入が無くなり、石油確保のため、昭和十七年二月にオランダ領スマトラ島にあるパレンバンの大油田地帯を占領しました。(パレンバンには当時、世界最大級の製油基地があり、年間産油量は約四百七十万キロリットルで、当時の日本の国内消費量約四百万キロリットルよりも多かった) 日本が米国との開戦を決意する大きなきっかけとなった対日石油輸出規制当時の日本の石油輸入先とその量を知りたいのですが。 みや |
- インターネットで調べたものですが、現在日本は原油供給量の100%近くを輸入に頼っており、年間約2億5,000万 klもタンカーで輸送しています。(石油の消費量は単純に計算しても、当時の60倍以上にもなっています)
輸入先としては、アラブ首長国連邦が約30%、サウジアラビアが約20%、イランが約10%で、全体でも中東地域からの輸入が86.2%と極めて高い比率です。
当時、日本はパレンバンの油田地帯を占領しながら、安全に必要量を日本に輸送できなかったため、航空機、船舶とも燃料不足に陥っていたと言われています。
みや
- 「日本石油百年史」によると、
昭和14年、日本の原油の輸入合計18681バーレル、内、アメリカから16971バーレル(90.8%)、蘭印から595バーレル(3.2%)、樺太から1000バーレル(5.4%)、その他各地で115バーレル(0.6%)。
石油製品の輸入合計14799バーレル、内、アメリカから10198バーレル(68.9%)、蘭印から4229バーレル(28.6%)、樺太からは無し。その他各地から372バーレル(2.5%)。
合計として、輸入合計33480バーレル、内、アメリカから27169バーレル(81.1%)、蘭印から4824バーレル(14.4%)、樺太から1000バーレル(3.0%)、その他各地から487バーレル(1.5%)。
となってます。
この本では輸入元の石油会社別の数字も出てるんですが、割愛させていただきました。
別の本には、1930年代の話ですが、メキシコ、南アメリカ、バーレイン、アラビア、ルーマニアからも輸入していたと書いてあります。
また、中学の時の日本史資料集を引っ張り出したところ、輸入額の割合で、昭和15年でアメリカ77%、蘭印14%って数字もありました。
いかにアメリカへの依存が高かったか解りますね。
アメリカの対日石油圧迫は昭和14年末の「道義的禁輸」に始まり(日本には、幾つかの石油関連施設の導入がポシャっただけでしたが。←売れる物を「できれば売らないで」と言われて「はい、そうですか」といく商人はアメリカにもいなかったから。)、15年7月の国防強化促進法(National Defense Act)の成立で許可、制限、禁止などがなされ、その該当項目もだんだんと増え、16年6月21日には石油全てが輸出許可制となり、実質全面禁輸となりました。ちなみに、正式に全面禁輸となったのは、英米蘭ともに同年8月1日です。
また、南部仏印進駐により、16年7月27日に和蘭が英米と歩調を合わせて日本資産凍結の処置を取ったため、結局、契約予定量の半分で輸出がストップしてます。
それと、日本は時節を鑑み、15年5月頃から軍需資材の緊急輸入を計6回、次々と行っていますが、その内の3割が石油です。
ちなみに、1バーレル=158.934リットル。
tomo
- 早速の御回答ありがとうございます。大変参考になりました。太平洋戦争の戦記物はたくさん読み、開戦から終戦まで、各地での戦闘の様子を詳細に知ることが出来ましたが、「なぜ米国と開戦したのか」という根本の理由が納得できませんでした。現在にたとえて言えば、中東地域からの石油が完全に途絶えた事と等しいですね。これは日本にとって本当に重大、致命的です。昭和16年には、まさしくこれが事実となった訳で、その年に開戦に踏み切った理由も極めて良く理解できます。その他のいわゆる南方資源は枝葉であって、石油の確保こそ、そしてその輸送路の確保こそが開戦の最大の理由であると考えます。そうした観点に立つと開戦冒頭の東南アジアにおける日本軍の各作戦の意味合いが良く納得できます。
みや
- 現在の日本の石油供給量の90%近くが、紛争の多い中東地域から供給されている事を考えると、かつての技術力では、際立った成功をおさめなかった人造石油ですが、最先端の技術を利用してもう一度挑戦してみる必要性が十分にあるのではないかと思います。
みや