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日本が太平洋戦争中、石油が不足して石炭を石油に変えて代用したと聞いたのですがどのように変えて使用したのですか? その効果は石油に比べてどうだったのですか? くーちゃん |
- 製造法に関しては戦史・歴史の554でも話題になっています。
以下、日経新聞社の『日本産業史1』354−356pより抜粋、
わが国で人造石油工業に関心を持ったのは太平洋戦争が始まるよりずっと早く、政府は昭和12年に「人造石油事業法」を制定し、人造石油への投融資機関として、「帝国燃料工業株式会社」を設立した。「満鉄」「朝鮮窒素」「宇部窒素」などはすでに一部企業化していたが、この法律以後「三井鉱山」「三菱鉱業」「日産」などもこの分野に進出、はなばなしい企業化が続いた。
満鉄では撫順の露天掘り炭層を追おうオイルシェール(2−6パーセントの原油を含む)の乾留技術を開発し、昭和14年には内地の原油生産量に匹敵する37万トンの生産をあげた。初期の朝鮮窒素や宇部窒素は石炭乾留法を採用していたが、生産能力は微々たるものだった。こうした方法とは別に高温高圧技術を駆使して、水素と石炭を化合させる石炭直接液化法(イー・ゲー社の開発)あるいは一酸化炭素と水素を反応させる石油合成法(フィッシャー法)などがドイツですでに実用化の段階に達していた。しかし当時の日本の技術では必要な高温高圧に耐える機械の製作や設備の操作が出来ず、直接液化法は工業化にいたらなかった。また「三井三池」や「北海道人造石油」などが工業化したフィッシャー法もコバルトを主成分とする触媒の不足に悩まされたこともあってわずか数万トンの油を合成したに過ぎなかった。ところが太平洋戦争の開戦当初,南方の油田地帯を占領できたため,燃料政策の焦点はむしろその処理に向けられ,人造石油政策のほうは足踏みした。昭和19年、戦局の悪化とともに再びその必要性が強調されて、「三池合成」、「尼崎人石」、「北海道人石」三社を統合したり、「宇部油化」など三社を帝国燃料鉱業の直営工場にするなどの手を打ったが時すでに遅く、現実の生産としてほとんどみるべきものが無かったのである。
生産量は、やはり同書の2万キロリットル単位のグラフから読み取ると、昭和15年2万4千キロリットル、16年4万2千キロリットル、17年6万8千キロリットル、18年9万6千キロリットル、19年12万8千キロリットル、20年3万8千キロリットル。
質は欄外によると、
人造石油は出来上がりは悪くなかったが、対爆性が低く、オクタン価40以下が多かった。自動車の燃料に使う場合、坂道ではノッキングを起こすので、天然揮発油かベンゾールを混ぜて使った。
そうです。
こちらも参考になると思います。
http://www.gas-enenews.co.jp/series/gtl/001129/gt001129.htm
http://www.gas-enenews.co.jp/series/gtl/001213/gt001213.htm
後は詳しい方からのツッコミを待ちましょう。
バツ
- 樺太の石炭低温乾溜というのもあります。(量的にはかなりの物です。)また製鉄業におけるコークス生産に副生するモーターベンゾールというのが歴史があり、なかなか疎かにはできません。
プリンス