203 |
仏教徒やキリスト教徒の日本兵も、やっぱり死んだら靖国送りなのでしょうか? “2ヶ所以上の場所に同時に存在することができるのは神だけで、たとえ霊や天使であっても不可能”というのが神学上の常識だそうなので、寺で祭りつつ神社で祭ることはできないと思うのですが―― WW2参戦国の中で、独・英に次ぐ呪術・魔術大国である日本が、このような問題を放置しておくわけがありませんし、いったいどのような解決策がなされたのでしょう? FIX |
リスト教学」のことを指しますが、それでいいのでしょうか?また、魔術の
ことが出てますので、おそらく二次大戦中にナチスの黒魔術とイギリスの白
魔術の魔術合戦があったという話も知っての上の話ですね。日本ではこの手
の話は興味本位でなされることが多いのですが、キリスト教徒やイスラム教
徒の間では命のやり取りになりかねないことがらなのです。私は無神論者で
はありませんが信心はしないという立場です。この際、真剣な話ということ
で話を進めます。
一般の日本人の場合
仏教の教義では本来は(教義を正しく考えると)靖国では祭れません。恐
らく、日本以外の仏教徒ならその立場をとると思います。ただし、靖国に祭
るのではなく納骨するだけであれば可とするかもしれません。しかし、日本
の場合はちょっと事情が違うのです。最初に仏教が伝わったときには仏教の
受け入れをめぐって流血があったことは、日本史の時間に教わったと思いま
すが、奈良時代の末頃神仏混交という理論ができまして、神や仏は同時に別
の神格持つことができるということになりました。実際、ヒンズーの「神学」
では神の化身という考えがあり、ある神はまた別の神格を兼ねることができ
るとされています。仏教もヒンズー教の影響を受けておりますから教義の中
にはこれを裏付ける部分があります。実際、ヒンズー教では釈尊は最高神の
化身の中の一つとされています。しかし、中国や朝鮮は「原理主義」なので
あまりこの点については受け入れられなかったようです。最初に「神学」と
は・・・と言ったのはこの点を指しています。
以上からわかる通りにいわゆる日本人の「神学」では特定の信心をしてい
る人以外は靖国合祀は神学(=教理)上の問題とはならないのです。また、
日本の寺社は国家の危急の時には積極的に怨敵調伏を行っています。元寇の
ときの「敵国降伏(てきこくごうぶく)」などは有名です。実際、二次大戦
でも皇室ゆかりの寺社では「敵国降伏」をやっております。ルーズベルトが
死んだものそのせいだと言っている関係者?もいます。ところが、おそらく
戦犯問題のかかわりで口を閉じてしまったのだと思います。
神道や仏教の諸派は基本的には平安時代から王法(国家権力)には従う立
場をとっています。むしろ国家の意向を先取りして先棒を担いでいたという
のが事実だと思います。また、官憲は1930年代に国家の意向に抵抗の姿勢を
しめした宗派に対しては強力な弾圧を行っております。京都の綾部の「大本
教(神道です)」などは神殿までも官憲の手で爆破!されています。また、
日蓮宗系諸派は大体は国家主義には迎合的でしたが、創価学会は伊勢神宮の
奉斎を拒否したため特高警察の拷問で初代会長牧口常三郎が獄死しています。
天皇制に対しても軍部の真の意図は「天皇機関説」です。明治憲法の天皇大
権を利用して軍部独裁をするための手段でした。その証拠に軍部の意図に反
するなら昭和天皇の廃位どころか暗殺までもたくらんでいました(この件に
ついては昭和天皇自身が言い残していたと思います)。皇室崇敬の念が篤い
とされた軍人でも皇室に対する忠誠であって、昭和天皇個人に忠誠を誓って
いたわけでもないようです。あの皇室崇拝の念が篤いとされている石原莞爾
でさえもそのような雰囲気があります。ですから、原理主義を取れない日本
の宗派は靖国合祀に関しては自分の教義の方をあわせると思います。こんな
事実の積み重ねが靖国合祀問題だと考えてください。
日本のキリスト教徒の場合
ところがキリスト教徒の場合はなかなか難しくなります。まず、注意が必
要なのは合衆国では戦死者は国立墓地に「合葬」されているのは周知の事実
ですが、「合葬」と「合祀」は区別が必要なことです。キリスト教の教義で
は体はあくまでも魂の容器で、人格の本質ではありません。ですから、私は
「合葬」だけなら教義上の問題は起こらないと解釈しています。ところが、
靖国は「合祀」ですから、これは魂の問題となります。
実際、明治のころ「内村鑑三不敬事件」が起こっていますが、簡単に内容
を言えば「神と天皇とどちらが偉いか」ということです。この事件が起こっ
てからキリスト教諸派特にプロテスタント系諸派は特高警察の弾圧対象にな
ったはずです(実例が思い出せないので)。恐らくカソリックある程度は柔
軟に立ち回ったと推定しております(ナチスやムッソリーニとの関係を思い
出せばよろしいでしょう)。まあ、実数としてはプロテスタント諸派の人数
なんてたかが知れていますし、決して大同団結する人たちではありませんか
ら。きっと、熱心な信者でも宗派への弾圧のことを考えれば泣く泣く「合祀」
にしたがったのではないでしょうか。
また、ついでに言いますが、昭和になってからの日本は決して魔術大国で
はありませんよ。国家主義が貫徹されるうちに魔術の根源になる歴史的な習
俗が官憲の手によって息の根を止められています。特に日本国開闢以来綿々
と伝わってきたさまざまな習俗が新生活運動のため全国各地で廃絶させられ
ています。まあ、何といっても一番大きなもの「夜這い」の禁止でしょう(
真剣な話ですよ。夜這いを許したら兵隊が安心して戦場に行けませんから。)
これらは日本の国家を戦争マシーンと化するための方策でした。伝統的な習
俗からのエネルギーを断たれれば呪術・魔術なんてやせ細って威力を失うも
んですよ。イギリスの例でも国家のためというよりも自分の自由のために魔
術を使ったのだと思います。その結果何人かの魔女が命を落としています(
肺炎を起こすのを承知で真冬に裸で術を行いました。裸でやらないとききめ
がないそうで)。やはり、崇高な動機なしでは行というものは維持できない
のではないでしょうか。
tk
お見事です。
まなかじ
ておりました。純粋に教義上の話をします。FIXさんの言っている神はあきら
かに天地創造の神ですね。(普通日本でいう”神”はキリスト教の場合は霊
ということになるのかな?)日本語でいう”神”とは全く違ったものです。
神道では祭るとは神格を与えることです。つまり、”神”になるというこ
とは祭る対象にするという意味です。神仏習合の理論からすれば他教を信心
していることと、神道で祭られることとは全く矛盾しません。神道の教義上
全く問題がないのです。また、神道の場合その人(霊?)の都合にかかわら
ず祭祀者の都合だけで祭るものなのです。
もしかすると、勘ぐれば戦死した者に含むところがあれば怨霊化するかも
しれないというという懼れの気持ちもあったのかもしれません。神道の祭り
の重要な柱の一つとして怨霊の霊鎮めがあるのです。祇園祭も基本的には霊
鎮めです。
ただ、他教を信心している者が自分にかかわりがない所でかってに祭られ
るということは非常に気持ちの悪いことです。特に正統派のキリスト教徒で
は偶像崇拝が禁止されているのに、自分が崇拝の対象(=偶像)にされると
は筆舌に耐えがたいほどの苦しみだと思います。
いつも、長い回答で申し訳ないと思っていますが、今の日本は宗教に対す
る無関心のため宗教に復讐されている状況だと思いますので、自分の能力の
限りでできるだけ正確に答えたいと思っています。
tk
ですが、やはり祭られる教徒の側では問題があることもあったのですね。
宗教問題に“これで完璧”というような解決策は無い、と。
ご説明ありがとうございました。
FIX
『プライベートライアン』の冒頭にも出てきたノルマンディの米兵の墓地。それこそ無数の十字架が整然と並んでいますが、中にかなりの割合で頭が『ダビデの星』になっている墓標が混じっています。では仏教徒はどうなるのかとふと思ったのですが、その場の雰囲気がそういう野次馬根性の観光客を拒否しているように思えてきて早々に立ち去りました。
SHI
ので、どこかで確かめられないものでしょうか。
tk