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ふさわしくない内容でしたら、削除して下さい。 中国史に詳しい方が多数おられるものと思い、質問します。 「万里の長城」についてです。 一般には、無駄な物であるように言われている万里の長城ですが、 曲がりなりにも2000年以上、「障害物」として存在しています。 建設の労力と天秤にかけた場合、その軍事的価値は低いものだったのでしょうか? また、テムジン軍と金軍の戦いでは、「万里の長城を越えた」と言う表現が見られますが、 金軍は長城を中心とした防衛線を引いたと考えていいのでしょうか? 宜しくお願いします。 どんべ |
内容としてはめちゃめちゃふさわしいですが、「戦史・歴史」のコーナーに書くべきでしたね。
画龍点睛を欠く。
Ansに移りますが、
軍事的価値は非常に高いものだったと思います。
長城完成の後は、それ自体が抑止力となって、
匈奴の侵入は(以前と比べて)格段に少なくなったし、
その後の歴史をみても、異民族の大規模な侵入は元・清など、本当に数えるほどです。
ただ、質問のご主旨にあるように労力と価値を天秤にかけるとなると、異論をお持ちの方、多々おられると思います。皆様のご意見をご開陳いただければ幸いです。
長城を中心とした防衛線を引いた云々については、まず間違いないでしょう。
今そこにある有効な防御構造を利用しない手はありませんから。
少なくとも長城は、最終防衛ラインとして設定されたはずです。
勝井
BUN
いくら?
勝井
金によって南方に追いやられる前、明の首都は北京であり、八達嶺以南は平地ばかりで大きな川も無いことから、戦略的重要性も高かったと思います。山々が連なっていて狭い峠道しかなく、そのままでも防御拠点になる所に長城を造ることによって、さらに堅固性を高めたという見方もできるが。一度行ってみるとよくわかります。
アリエフ
SHI
どうでしょうか? ヒツジはもともとガレ場は得意なので、
ヒトが先に到達・制圧して、壁を半ば崩せばヒツジも越えられるでしょうから。
はたの
ンガを使ってあるのは北京周辺や防衛策源地の都市周辺などの重要部分だけ
のはずです。(万里の長城全体の詳しい調査はされていないと思います。比
較的調査のしやすいところだけが写真で紹介されています。)明代の修復で
もすべてが八達嶺のように頑丈に作られているわけではありません。明代の
長城でも黄河の湾曲部以西ではかなりぞんざいなつくりであるそうです。地
勢上侵入しやすいところは限られていますので、明代の修復でもそのような
ところがだけが重点的に改修されたと思います。(遊牧民でも行軍するため
には補給車両は必要なので道路が必要なのです。漢民族の軍と比べると補給
量が少ないだけで、やはり輜重部隊は必要なのです。実際には騎馬隊だけで
戦闘するのは先鋒部隊や機動部隊のみと考えたほうが正しいと思います。
(どんなに補給を無視したところで遊牧民に略奪はつきものですので略奪品
を根拠地に運ぶときには車両がいるのです。)
長城は明代以前は重要部分でもせいぜい「版築(堅固な土塁)」だったと
思います。河西回廊の北方に漢代(前漢)の長城あとがありますが、土とあ
しのような草を交互に積み重ねた構造です。推定では作られた時の高さは1.5
m程度だったと考えられています。漢代の長城は決して堅固なものではなく、
せいぜいテリトリーを区別する観念的な存在で、遊牧の羊を入れないため程
度のもので軍事的というよりもむしろ警察的な感覚のほうが近いと思います。
また、後漢になって行政が行き届かなくなると北方遊牧民が部族単位で洛
陽の都のつい近所まで浸透してきて、高級官僚の娘が誘拐されて王の側室に
されたなどという記録もあります。実は彼らは長城の北から来たのではなく
もともと山西省内に古くから居住していたようです。つまり、実際には万里
の長城で漢民族と遊牧民との住み分けがなされていたわけではないのです。
かなり後世になって漢民族の人口がかなり増えてきて、その結果遊牧民が長
城外に押し出されたというのが事実だったと思います。その時期はおそらく
明代から清代にかけてではないでしょうか。(詳しい証拠がないので推測、
旧満州では清代になってから大挙漢民族が政府の禁令を破って移住してきま
した。そんなところから類推。)
つまり、時代によって場所によって長城の構造や民族の居住状態が違うと
いうことは時代によって長城の戦術的戦略的な意義が違っていたと考えるべ
きなのです。一つの時代を取り上げて全般を論ずべきではないのです。
そうすると、軍事価値ですが、結論から言うと私の考えでは明代を除いて
軍事価値はなかったと思います。つまり、抵抗線にはなれなかったというこ
とです。漢代の長城守備の記録がありますが、長城は抵抗線ではなく哨戒線
であったことは明白です。一定の距離ごとに監視拠点があり、監視兵が配置
されていました。さらに、監視拠点を統括する軍事都市とも言うべき拠点が
何箇所かあり、それらを拠点に近代の兵学で言うところの機動防御的発想で
の防御がなされていました。ところが明代になってから明軍が機動戦術をと
らなかったので、要塞線を構築するといった発想に転換したのです。(宋軍
も明軍と同じような発想をしていました。しかし、宋の国境は長城を抵抗線
しするのではなく、交通の要所に要塞都市をつくるといった方法で行ってい
ます。)ただし、領域的な観念としてはかなり重要だったと思います。やは
り、観念的には長城は「夏(中華=世界の中心)」と「夷(=野蛮人)」が
住み分ける境界線だったのですから。
また、「長城を越えた」と言う表現ですが、原資料をみないとはっきり言
えませんが、西方国境を指していうのならばこれまでの説明から防衛線の機
能は全くといってないことがわかるはずです。たとえ地勢上有利な占地を行
ったとしても部隊を養うだけの資源の確保ができない地域なのです。漢代は
同じ地域でも強力な官僚機構を作り物資の補給を行ったようです。また、宋
代に西夏と同様の地域で防御戦闘を行っていますが、有能な文官が補給問題
を解決できたから可能だったと思います。金代にはそれだけの力はなかった
と思います。
また、歴史書の原本には「万里の長城を越えた」とは書いていないと思い
ます。「長城を越えた」のはずです。今で言うと内モンゴルと外モンゴルの
境あたりに元と金の国境がありました。そこに金が長城を作っています。で
すから、その場合は厳密にいうと「長城」であっても「万里の長城」ではな
いのです。そんな場所ですから機動防御はできても抵抗線を作って防御でき
るところではありません。
おそらくここで言っている「長城」は西部国境のことを指していると思い
ます。原資料では西部国境の話として出てきていると記憶しています。そう
であれば実際の防衛線は旧西夏国境内ですので長城の南側になります。です
から、ここで言う「長城を越えた」という言葉は中国の領域内に入ったとい
う観念を示すか、(「金」は中国の歴代王朝に含まれています。)または、
地理的に場所を示すための手段と考えた方がよいと思います。この時点では
金軍はかなり歩兵化されていたと思いますので、宋軍と同じように要塞で交
通線を遮断することで、騎兵の侵入を許しても補給を妨害して最終的には撤
退を強いる戦略をとったと考えられます。
tk
金については良質な記録が少ないので正確にものを言うときには困るので
すが、(普通、歴史学の常識として「宋史」「金史」「元史」は史料価値が
著しく低いとされています。)歴代の中国王朝は他国と国境を接するときに
は(中国の王朝は国境などという観念を持たないのですが、現実には国境で
す。)それぞれ歩兵の行軍距離で2〜3日程度の無人地帯を作っています。宋
と金の国境も故意に無人地帯が作ってあって、水脈には毒なども入れていた
ようです。(原資料にあたっていないので)金と元も草原ですが長城(東方
国境)をはさんで無人地帯を作っていたという記録があります。西方国境に
ついてはあまり記録がないようです。
そのため、宋と金、宋と元が交戦した際には双方が自分で作った無人地帯
のため、お互いに自分から手を出したほうが敗北したようです。金も元も中
国領内を領土としたあとからは歩兵の割合がかなり増えています。(元寇の
際にも攻めてきたのは「元軍」ですが、実際の部隊編成は旧宋軍と高麗軍の
歩兵です。)あえていえば、一次大戦の塹壕戦を思わせるような状況になっ
ていたのです。
元軍の直属兵は騎馬ですが、騎馬兵だけでは土地の占領はできません。元
の騎馬兵は乗馬弓兵と乗馬歩兵をかねていましたが、兵の絶対数が少ないた
め攻城戦は困難でした。城兵を誘い出して城外で撃破し、出撃兵が城に逃げ
込むのを追撃して城を攻め落とすことはできても直接の攻城戦はさけたよう
です。ですから、相手が最初から籠城した場合、城攻めは歩兵部隊にまかせ
るしかないのです。
ところが、攻城戦に十分なだけの乗馬歩兵を確保すれば機動戦闘ができな
くなるわけですから、馬糧の確保にかなり困ったはずです。清朝では騎兵が
戦闘のため移動した地域ではその年の税を免除したという話も聞いています。
ですから、
実際、明の長城は騎兵の機動戦闘のために何度も破られています。ただし、
その際には通商要求が目的で、領土の占領が目的だったのではなかったため
騎兵だけの侵入で歩兵を伴っていないので最終的に撃退が可能だったのです。
ですから、領土目的の侵攻戦では騎兵相手の防御戦でも、騎兵は前進できて
も歩兵が追従できないという状況を作ることが大事なのです。ですから、今
で言う縦深防御をとるしかないのです。したがって、機動する騎兵相手の抵
抗線での阻止戦闘はあまり有効ではないのです。
実際、宋軍が強力な元軍に対して有効に防御できたのは縦深防御を行い、
交通線を敵に確保させなかった点が大きいと思われます。
では、明軍がそれに気がつかなかったかというとそうではないと思います。
永楽帝はかなり有効に騎兵を使いモンゴル軍を撃破しています。また、その
後の騎馬民族の侵攻に対する戦闘の様子から考えると決して明の将軍たちが
騎兵に対して無知であったわけでもありません。それにも、かかわらず、東
部では長城という抵抗線方式をとらざるを得なかったのは人口増加により、
今までのような縦深防御の余地がなくなったのではないかと推定しています。
その証拠の一つとして人口の著しく減った西部国境では抵抗線による防御を
考えていません。直接の脅威がなかったからと言えばそうですが、後金軍
(清軍)はモンゴル部族と同盟関係にありましたので、西部国境からの侵攻
という可能性もあったのです。現実に西部を基盤にした李自成の蜂起によっ
て明は滅亡しています。
このように明は有効だから長城で防御したのではなく、やむをえずに抵抗
線による防御を行ったと推定するわけです。ですから、長城が軍事的価値を
持たされたのは明代の特殊事情によるもので、決して過大に評価するべきも
のではないと思います。(追記というには長すぎました。)
tk
相手に阻止線ではなく、要塞都市を基本にした縦深防御を行っています。明の
司令官は後金軍が攻めあぐねて消耗したときを見計らって逆襲するつもりだっ
たようですが、結局、明の首脳部の側があせって、圧倒的な大軍をそろえれば
勝てるとふんで司令官の首をすげ替えて出撃させましたが、ヌルハチ(清の太
祖)の天才的な用兵により完膚なきまでに粉砕されています。用兵の巧妙さと
カリスマ的魅力から考えてみればヌルハチはマンシュタインとグデーリアンと
ヒトラーを足して三で割らなかった人物のような気がします。
以上のように、機動予備軍があれば本来は長城は阻止線ではなく哨戒線とし
て用いるのが正しいというのが私の持論です。長城が不要であったかどうかは
歴史時には何度も改修されていますので不必要だというのは後知恵でしょう。
でも、実際に熱心に長城を補修したのは秦(長城は秦だけで作ったわけではな
いのです。当時の戦国列強が作ったものをつなぎ合わせて補修したのが秦なの
です。)・漢・明だけで決して2000年間連続して長城が軍事施設として使われ
たわけではありません。また、阻止線として考えたのは明だけ、しかも、その
明ですら河北省と山西省の部分以外では阻止線とは考えていなかったのです。
施設としての長城の価値を議論する場合は万里の長城だけではなく、ローマ人
の作った長城も比べて論ずべきだと思います。
tk
tkさん、長文の回答、大変だったと思います。ご苦労様でした。
「補給部隊の随伴は不可欠」という記述、当然の事なのに見落としていました。
どうも万里の長城を過大評価してはいけないようですね。
ただ、長城は単に「そこにあった」のでは無く、2000年(それ以上)の物語を
持っているのは確かなようです。満足しました。
>内容としてはめちゃめちゃふさわしいですが、「戦史・歴史」のコーナーに書くべきでしたね。
また、この手の質問をするかと思います。その際も宜しくお願いします。
どんべ