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宝塚のほうに「ゼロ戦墓地」と呼ばれるものがあるそうですが詳細を ご存知の方いらっしゃいましたらおしえてください なんでも本尊?が実寸大の零戦のレプリカらしいのですが・・・・ 松平 |
- はい、近所にすんでおります。
宝塚市宝梅にある聖天寺(しょうてんじ)というお寺のお墓のところにちいさな慰霊館(?)みたいなものがあって、そのうえに乗っかっています。
ご本尊じゃないとおもいますけど・・・・・・。
ちなみに、墓地には特攻隊慰霊碑とか、特効隊員の墓碑とかがけっこう並んでいます。
慰霊館の中に疾風の写真があったりとかします。
零戦のレプリカは近くまでよってみると「?」な感じですが、結構よく出来ています。たぶん52型のつもりだと思います。
鐘突き場へ登るところの横のフェンスを乗り越えると入れますよ〜
アクセスは阪急電鉄「逆瀬川」駅から阪急バス「光が丘北」行きにのって「聖天寺した」で降ります。そこから鳥居(なぜ寺に鳥居が?)をくぐってまっすぐ境内を突き抜ければ見えます。
というか、通ってた中学校のウラだし。
居眠り将軍
- 居眠り将軍さん、大変ご丁寧なレスありがとうございました。
今度、ぜひ行ってみたいです。でも慰霊の施設なら物見遊山でいくべきでは
ないかもしれないですね。お参りできる方法を考えてみます。
ゼロ戦はテキサンか何かを改造したんですかね?それともフルスクラッチで
作ったのかな?
松平
- プラ製でしたので、ただの原寸大模型だと思います。
学校帰りに久しぶりに見に行ってきましたら、意外と絵になる光景でしたよ。ただ、期待して行かれるといささか気の抜けるものかも知れませんが(あんまり大したものではないです)。
ちなみに、4年程前にも路上でそこへの道を聞かれました。意外にも隠れた名所(?)のようで、稀にですがカメラを持った人がいます。
昔はあの回りで隠れんぼしたものです。
居眠り将軍
- 場所は、居眠り将軍さまのおっしゃる聖天寺(宝塚聖天=了徳蜜院?)の墓地?(宝塚市営?)内の一廓にある約20〜30m高の小山の片側の斜面ほとんどを占有しています。
『飛行機』は、小山の頂上近くに建設されたコンクリートの一階建ての建物の屋上から細い鉄骨を何本か建ててその上に 「如何にも飛行中であり、この小山を超低空でかすめて飛び越えているところ」 と言う風に見えるように配置されています。実際に、もしプロぺラが回転いて、爆音が聞こえたら、そのように勘違いしてしまいそうな、極めて考えられ効果的に配置建設されています。これは並み大抵の物ではないぞ、と言う感じです。
『飛行機』は、素人の私が観ても、3秒で確実に『零戦』と、自信を持って言える形のものです。しっぽもちゃんと尖がっていました。素人の私のレベルでは、極めてよく出来た模型に見えました。昔の映画のいい加減な零戦などと比較するのは、大変に失礼と言えるレベルだと思います。もちろん、BUN師匠や片さまのような本当のプロにかかれば、いろいろ難点は有るかも知れませんが。型については、素人の私には「三二型では無いだろう」としか言えませんでした(ピトー管?や20mm砲もはっきり確認できました。五二型かとも思うのですがそれにしては機首のエンジン部が少し細いように観えました。黒色のためか?)小山の麓から歩測で測ったところでは、翼巾約11mでした。誤差を10パーセントとすると、ほぼ実物大と言える範囲内ではないでしょうか。材質については、残念ながら零戦に近づく道が急な坂でかつ笹の生い茂る巾50cmほどになっており、かつ雨上がりの為と、私の靴が革底で極めて滑りやすく危険と判断しましたので、模型まで山を登るのを諦めました為に確認できませんでした。塗装は極めて綺麗で、維持、管理の良さをうかがわせます。
コンクリートの、建物の内は、鍵のかけられた入り口の小さな窓から覗いて見るに、薄暗い部屋の中央には、等身大よりやや小さ目の木像=多分、観音像? があり、周り3方の壁には、遺影と思われる写真や、飛行機、基地の写真や絵など沢山掛けられています。
麓の最も大きな字の石碑には、『飛天光明之珠海』と記されています。
そして、その横の碑にはなんと『甲飛十期之碑』 と記されていました。これを見た時は、さすがにびっくりしました。よく見るとその右側にやや小さく『神風特別攻撃隊の魁』とあります。小さな文字の碑文が続き、『甲飛十期会』とあり、末尾に『題文 谷一枝』とあります。これは、「第一神風特別攻撃隊 敷島隊」の搭乗員、『谷暢夫 一飛曹 甲飛十期』の御遺族の方、おそらく御令室か、お嬢様ではないのでしょうか。
地鎮祭は、平成 5年 11月 7日 となっています。
以上より、私は、これらの施設は、『甲種十期会』が、建設された戦没者慰霊のための施設と考えました。
時間が無く詳細を聞き込んだりすることは出来ませんでした。
以下ゴミですが、私としてはマジです。不思議な事です。今日(2001/09/15)夕刻、私が、宝塚ホテルに、若葉ひろみさんなど、宝塚歌劇団のOGの皆さまのショーを観に出かける事は2ヵ月以上前に決っていました。約一週間ほど前に松平さまが、質問をたてられました。「ゼロ戦墓地」を、零戦の墓場(はかば)と解釈した私は、「うさん臭い怪しげな話だな」と判断しましたが、一応は検索をかけてみました。結果は私の判断を支持してくれるようなものしかありませんでした。その為に、もう忘れかけていましたところ、数日して、いねむり将軍さまから場所のくわしい回答がありました。調べてみると宝塚ホテルからは2kmは離れていないようですので、「それじゃあ、ついでにどんな零戦か見るだけでも行ってみるか話のネタにぐらいはなるだろう」と考えておりました。今日、昼過ぎは、大阪は天気もよく、十分に時間に余裕を持って出かけましたが、最寄の駅に着くまでに雨が急に降り始め、宝塚に着くと大雨でした、零戦墓地行きはあきらめて、ホテルのレストランで、野菜サラダとパンを食べて時間をつぶしていました。一時間ほどしてふと外を見ると雨は止んでいましたので、すぐにタクシーに乗り出かけました。
もし、今日、私が宝塚に出かける予定が無ければ、もし松平さまが、明日以降に質問されていたら、もしいねむり将軍さまが、この間に回答をくださらなければ、もし私が自宅を出ようと思った時刻に雨が降っていたら(もう15分早く雨が降っていたら)、宝塚で雨が止むのがもう30分遅ければ、これらのうちもし一つでもそうなっていれば、上記のことを皆さまに御報告出来なかったでしょう。わたしは、特攻隊についても、浅学無知ですが、ただ強い思い入れは、あります。なにか不思議な力が、私をしてこの報告を皆さまにさせたのだと思います。不思議な力が何かはわかりませんが。
それにしても、こんなに大切な大事な、慰霊碑の事を、このサイトの皆様をしてさえも(もちろん私を含めて)、回答のつかなかった事実は、いったい今の日本どうなっているのでしょうか。ほんとうに心配になりました。
くだくだと、すみませんでした。でも書きたかったのです。すみませんでした。そして有難うございました。
最後にもう一つ、どなたかお教えくださいませ。『飛天光明之珠海』とは、どういう事なのでしょうか? よろしくお願い致します。
roht
- rohtさん、大変長文のレポートありがとうございました。
現場に近づくにはそれなりの装備が必要ですね。でも墓地に山登りみたいな
格好で行くわけにもいかないのでこまったものです。
さいしょ、てっきり「ちょっと電波」か「ウヨ」な人が作った「特攻マンセー」
施設かな?と思ったりもしてたんですが、ぜんぜんそういうことではなくて
ご遺族の方たちが作ったものだったのですね。
原寸大のプラスティック製レプリカですか・・・ かなり大掛かりな仕事だった
のでしょうね。それならもう少し記録などがあってもよさそうなものですが・・・
松平
- 下記アドレスに記載あります。他の特攻隊関連にも詳しいので一度のぞいてください。写真もあります。地域別索引の兵庫県から探すと分かりやすいです。
http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/
(殉国の碑)
ogurenko
- >5
スニーカーであればらくらくと登れます・・・・・・個人差もありますが。
難題はその坂を上りきった上にあるフェンスでして、これを無理矢理乗り越えるのがまた一苦労でした。
わざわざあるフェンスを乗り越えるよりは、お寺の住職さんにお願いしたほうが早いかもしれません。
(かつて、むりやり乗り越えようとしてシャツを破きました)
>4
いつでしたか、建物の鍵が開いていて中に入ったことがあります(まだ小学生くらいのとき)。
入って左手のところに疾風(もしくは紫電改)の写真があったのが印象に残っています。昔は周辺の墓地も草がぼうぼうに映えていたんですが、3〜4年前に綺麗に草が刈られ、零戦がいっそう引き立ち待っています。
やっぱり慰霊碑だからでしょうか、夕暮れ時になると何とも言えないもの悲しさがただよってきます。
いま考えたら、私が始めて聖天寺に参ったときからあります(ざっと1数年まえ)から、よく手入れされたですよね。
「甲飛十期会」という会の存在についてはまったく知りませんでした。零戦にばっかり眼が行っていたせいでしょうか。
もう少ししっかりみてくれば良かったです。
居眠り将軍
- すいません、訂正です。
「零戦がいっそう引き立ち待っています」
→「零戦がいっそう引き立っています」
「1数年まえ」
→「十数年まえ」
居眠り将軍
- >4
谷一枝さんは谷暢夫さんの御母堂です。ちなみに谷暢夫さんは享年20才、独身のまま散華されました。
土屋
- 9> 土屋二飛曹さま。有難うございます。思慮不足でした。皆さん本当にお若かったのでした。
御母堂さま、今もご生存されておられるなら、もう白寿ぐらいのお歳でしょうか?いつまでもお元気であられますように。
6> ogurenkoさま。有難うございます。わたし、「ゼロ戦墓場」「宝塚」でしか、検索できませんでしたので、このHPにいけませんでした。ただこのHP、私の記憶にあり、私のお気に入りにすで入っていました。おそらく、「西尾常三郎」少佐で検索をしていたのだと思います。この零戦の写真も、多分見ていただろうと思いますが思い出せませんでした。
このHPの写真の零戦、左翼の20mm砲は、確認できるのですが、その外側のピトー管、右翼の20mm砲はっきり確認できません。しかし私の見たものでは、どっちも確実に確認出来ました。修理されたのだろうと思います。
松平さま。居眠り将軍さま。ご教示、御縁有難うございました。
roht