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24 22関連なんですが。

パイロットの飛行時間の目安ってありますか?
たとえば、飛行時間いくつだと、編隊空戦でほかのパイロットの迷惑をかけないとか、飛行時間いくつあればとりあえず編隊長ぐらいまかせられるとか。
あるいは、1941年日本海軍の母艦パイロットの平均値はいくつで、アメリカ海軍だとだいたい平均でいくつだった、とか。
ま、軽くでいいんです。軽くで。

FIX

  1. 平均値とかは判らんのだが
    モデルアートの真珠湾攻撃隊の搭乗員名簿を眺めると
    真珠湾で一番若いので操練56期かな?

    ぼけーと眺めた限りでは5航戦だと卒業後1年半
    他は2年強ぐらいの人が一番多いと感じられますね
    年間300時間+訓練過程150時間として
    5航戦で600時間、他は750時間ぐらいが若手レベル
    編隊長級は1500〜2000時間級に思う

    SUDO

  2.  ミッドウェイ作戦に参加した海兵隊第二二一戦闘機中隊のパイロットのうち17名は飛行学校卒業直後、
    その中には飛行学校卒業後の飛行時間が4時間、というのが居たとウォルター・ロードの本にはありますのう…。
    大塚好古

  3. 長文になりますが、飛行時間に関する記述をいくつか拾ってみました。

    先ずはQ22のSchumpさんのレスを再録。m(__)m
    >例:世傑より受け売り
    > 昭和18年10月入隊(陸士卒後)のある陸軍操縦士の場合、
    >  95中練  75時間(宇都宮飛行学校)
    >  97戦   10時間(ネグロス島訓練所)
    >  1式戦  10時間(第一戦隊教育隊)
    >  2式単戦 10時間(第47戦隊)
    >  4式戦  120時間(同上)
    >  合計   225時間(昭和20年8月14日まで)
    > ちなみに、2式単戦搭乗者となるには、当初800飛行時間の経験が必要とされていたところが、操縦者不足により昭和19年までには100時間程度まで基準を下げていたとのこと。
    > 同時期入隊のアメリカ海軍パイロットの終戦までの飛行時間が2000時間とのことですから、レベルの差は推して知るべし。

    岩本徹三氏(『零戦撃墜王』より昭和19年のトラック島での部分。)
    「三月にはいって、内地から、新しく平野大尉(分隊長)と中尉・予備少尉各三名が補充された。いずれも飛行時間百時間前後の未熟者である。
    私も霞ヶ浦を卒業したのは、つい先日のような気がするのに、数えてみると、はや航空生活十年である。いつのまにか古参となっている。飛行時間も八千時間を超え、離着陸回数は一万三千四百回に達している。」

    坂井三郎氏(『零戦の運命』)
    「あの時代戦闘機乗りになって二年以上、総飛行時間も七百〜八百時間となると、どうやら戦闘機操縦法が手に入ってくる。一千時間ともなれば立派なベテランだ。本物のエースというものは、このクラス以上のパイロットのなかから生まれる。」

    同じく坂井三郎氏(『丸』昭和46年12月号 )
    「複葉の九〇艦戦、九五艦戦、そして日本最初の低翼単葉の九六艦戦までは、飛行時間三百時間でどうにか飛行機がいうことをきき、五百時間で一人前の列機となり、千時間ではベテランといわれた。だが、機種が零戦にかわり、日本が太平洋戦争に突入してからは、飛行時間だけは急速なのびを示したが、戦闘機パイロットとしてもっとも大切な訓練回数と、経験年数は逆にすくなくなってしまった。しかし、経験のあさいこれらパイロットたちにも、戦争は出撃を要求した。」

    森拾三氏(坂井氏と同期の雷撃機操縦員。『奇跡の雷撃隊』より。)
    「そして、さらに一ヶ月、九四式艦攻による専攻機種教育もぶじにおわって、昭和十二年十一月三十日、第三十八期操縦練習生の課程を卒業した。このときには、飛行時間百六十六時間二十五分となり、十名の同期生といっしょに、館山海軍航空隊付きを命じられて、その日のうちに、霞ヶ浦の先輩たちに見送られて、館山空へ向かった。
    ・・・
    教官はいつもこういっていた。
    『‥‥一人前の操縦員になるには、はやく飛行機に馴れることである。だが、馴れることは、油断して事故のもとになる。飛行機乗りとして、生死の危険が一番大きいのは、少し上達してきて、生意気になった五百時間前後のころである』」

    ちなみに森氏は昭和13年12月の時点で『爆撃行九十六回、総飛行時間七百六十二時間十五分』ですが、列機を務めています。真珠湾では空母「蒼龍」乗り組みで分隊長の二番機を務め、この時の総飛行時間が「四千時間から五千時間」だったそうです。

    土井武夫氏(飛燕設計者)
    「陸軍の明野飛行学校の人は格闘戦の達人だったんだけれども、段々戦争が長くなると達人たちも戦死してしまう。そうすると今度は200〜300時間しか乗っていない人が戦争に出ることになる。飛行機もやはりそのようなものを作らなければならない。」

    ジャン・クーロー氏(ダッソー・ブレゲー社のチーフテストパイロット。『生還への飛行』より、同社のパイロットが、Tー33でのエンジンストップの体験を語った部分。)
    「そのときの飛行時間は」
    「T−33で二百か二百五十時間」
     クーローがぐっと乗り出す。
    「そう、そんなものだ(飛行時間のこと)。その頃が一番危ない。しかしそれを乗り切ると、もう怖くない。次はいつエンジンが停まっても大丈夫」
    (この場合はT−33以前にT−6での飛行経歴がありますから、総飛行時間数ではなく、機種への慣熟と訓練全体の進度を表す数字だと思います。レシプロ機ではありませんが参考までに。)

    ・・・坂井さんが端的に数字を挙げていますが、大雑把にまとめると、ベテランパイロットから見て、飛行機がいうことをきいてくるのが300時間、列機として使えるようになるのに500時間、戦闘機を『戦闘機』として使いこなせるようになってくるのが700〜800時間、ベテランと呼ばれるようになるのに1000時間、そして、超エースクラスになるためには数千時間以上の経験が要求されるようですね。以上挙げてみた範囲では大体数字に整合性がありますし、坂井さんの述べた数字と、陸軍の二式単戦操縦者の規定が大体一致しているのも、興味深いところです。

    しかしこの規定を100時間にまで引き下げたり、100時間のパイロットを前線に送ってしまうというのは、「もう飛べさえすれば誰でもいい」という、深刻なパイロット不足で切羽詰った状況を感じさせます。馬力の小さな現代の軽飛行機で「自家用」免許を取るだけでも、全米平均で77時間、日本だと100時間以上かかりますから、100時間で前線に送られてしまったパイロットは、とても「戦闘機乗り」として使える状態ではなかっただろうと思います。
    Schumpさんの挙げられた、昭和18年10月入隊のパイロットが、終戦までに200時間そこそこしか飛べない(実戦を含めて?!)というような数字が平均的なものだったとしたら、やはり大量養成のパイロットは全然間に合わなかったのですね。海軍でも、昭和19年10月の台湾沖航空戦の時には、比較的練度が高いとされた部隊でも、大半のパイロットが400時間未満だったそうです。こんな状態で数千時間クラスが操縦する戦闘機と実戦をやらされたら、もし仮に少々の機体性能の優位があったとしても、技量の格差をカバー出来なかったでしょう。

    開戦時の米軍にも、もしかするとそれに近いような状況があったのかもしれませんが、新鋭機の開発や空母の建造よりも、熟練したパイロットを養成するほうが時間がかかる事を考えると、徹底した救助体制を敷いて、パイロットの消耗を極力防ごうとした米軍の合理性を、痛感させられます。

    MITTU

  4. アメリカと日本じゃ練習機の数だけ比べても文字通り桁違いですからね…。初等(PT)、中等(BT)、高等(AT)練習機なんてそれこそ掃いて捨てるほどありますし、P-39Q, P-40N, P-47G などほんの少しいだけの戦闘機もゴロゴロ練習部隊に配備されていました。おまけに飛行場の数がまた桁違い、さらに雨なんてほとんど降らない南西部では一年 330 日以上飛行練習に使えます。アメリカがこうやって続々と育った搭乗員を潜水艦や飛行艇で積極的に救助していたのに対し、狭く雨がちで練習器材も不足しがちな日本でやっと育った搭乗員を次々に見殺しにしたんじゃ…。しかし経済的に無理を重ねて何とか対米戦を戦えるだけの兵器を揃えた日本には輸送や救助のシステムにまで回す資金がなかったことも理解できます。結局一度きりの「対米決戦」向けに用意した兵力をズルズルと持久戦に持ち込んだのが間違いだったのですよね…。
    ささき


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