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軍人が任地に赴任する際、移動中の服装について何か規定が存在したのでしょうか?(軍服を着用する必要がある、あるいは着用してはならない、などです) 国、あるいは軍ごとの状況によって違うとも思いますが、今ひとつよくわかりません。教えていただけないでしょうか? A-140 |
- 中途半端な答ですが、海軍で人員(士官級)を南方に輸送するときは、階級章のない飛行服を着て飛行機に乗ったと聞きました。飛行機の搭乗員にも乗客の素性はしらされず、誰だかわからなかったそうです。ちなみに陸上では搭乗員は隔離されており、行き先や時刻に関する情報が洩れないようにしたと聞きます。
Vinegar-Joe
- 「任地に赴任する」は、在隊中の軍人が転勤する場合と、在郷軍人が応召して軍隊に赴く場合がありますが、将校以上は終身官なので、在隊中であろうと在郷であろうと、軍装ができます。また必要あれば命令指示ないし自己の判断で私服を使用することもできます。下士官兵は在隊者は軍装、在郷は私服です。(在郷の下士官兵は軍装が許されていない)
大正デモクラシー盛んな頃は、将校も世間の風当りを気にして、部隊に通勤する時は私服を用い、隊に着いてから着替えて軍装となる人もかなりいたと聞きます。
あるめ
- ↑2 関連しているかどうか分りませんが、大正3年にシーメンス事件などの汚職が発覚した後、海軍軍人=悪人というイメージで世間から見られ、海軍の軍人たちでは軍服を着て移動するのがためらわれた時代があった、というのを本で読んだことがあります。
masaki ogasawara
- ついでに思い出しました。同じ頃、東京市電に乗っていた軍装の将校の指揮刀が当ったといって、威勢のよい乗客に「なにしやがんでえ、あやまれ、この税金泥棒めが」と怒鳴りつけられたと云う悲惨な挿話を読んだことがあります。
明治時代と打って変って大正に入ると、娘は軍人にお嫁にやらない、なぜなら給料は安い(物價騰貴に追いつけない)、戦争になれば妻子を遺して戦死する、高等文官に比べて上がつかえていて進級が遅い(日露戦争中に士官學校生徒の定員を大幅に増やしたので)、陸大を出ないと聯隊長になれるかどうかも分らない、聯隊附佐官(中少佐)や軍法会議判士(少佐)、聯隊區司令官(少佐、のちに大佐)で後備役編入(定年退職)、へたすると大尉で豫備役編入(リストラ)と云うので、たいへんな軍人受難時代であったようです。
軍装もなかなか新調できず、特別大演習を機会にせめて階級章だけは新しいのにするのが精一杯、と云う貧乏さだったと聞きます。
あるめ
- 大変参考になりました。皆様、ありがとうございました。
A-140
- 旧海軍に限定します。「海軍服装令施行細則」によりますと、
第一條 高等武官准士官公務ヲ帶ヒスシテ勤務廳外ニアルトキハ規定ノ制服ヲ
著用セサルコトヲ得
とあり、公務によらず勤務庁以外にあるときは制服を着なくても良いと規定し
ています。では、赴任のための移動を公務とみなすかどうかというのは、何に
規定するところがあるのか分かりません。
ただ、たとえば瀬間喬「素顔の帝国海軍」(海文社)などを見ると、「…離着任
のときは通常礼装でないといけないが、赴任の途中の汽車や汽船の中はほとん
どの人が背広である。」などとあったりします。
また、阿川弘之「山本五十六」などにも引用されている三輪義勇「山本元帥の
想ひ出」にも、三輪ら霞ヶ浦航空隊の飛行将校が東京で遊んだ帰りに上野から
常磐線の二等車に乗ったところ、「私達以外には左前隅に一人の壮年の方が乗
つて居られた丈けで誰も居ない。(中略)フト此の壮年(と見ゆる)紳士を見ると、
始終私達を注視して居られる。服装及持つて居られた大型のスーツケースは洋
行帰りを思はしめるものがあるが、頭髪は短く、眼、口等何となく軍人だナと
直観せらるる人だった。」とあり、平服(プレイン)を着ているとは書いてない
ですが、軍服を着ていればこんな書き方はしないだろうとも思うので、霞ヶ浦
海軍航空隊への赴任途中の山本五十六は車中では平服だったのだろうと想像さ
れます。
したがいまして、転勤先への赴任途中においては軍服でなくても必ずしも良かっ
たのであろうとは言えます。ただし、これが海軍服装礼施行細則上どのような
位置づけになるのか、また別に定める規程があるのかは知るところがありませ
ん。上記の事実を解釈をすれば「赴任途中は公務を帯びているわけではない」
ということになるのかもしれませんが、これとて断定するものではありません。
今泉 淳