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私の祖父は戦時中は内地勤務で、長野県上田市のあたりで何かの建設に関わっていたとのことです 祖父は、当時としては珍しく車の免許を持っており、宿舎と現場の往復の際には隊員の乗ったトラックを運転していたと言っています(荷台に乗せられるのに比べ、運転席は非常に快適だったそうです) ここで疑問なのですが、部隊に兵士を配備する際、それぞれの持つ資格・技能などは考慮されるのでしょうか? 宜しくお願いします 鍋島 |
- 最近の日経新聞に元・有名ホテルのコック長の手記が載っていたが、彼がまだ駆け出しだった頃、徴兵されて中国戦線に従軍したとき、主に第一線部隊の炊事担当として勤務したそうです。もちろん、時には機関銃を撃つこともあったが。徴兵される前に、前線の炊事業務で苦労しないようにと料理のコツを職場の先輩から特別に教えてもらったり、上等品の包丁を出征祝いにもらったとか。
やはり、外国語能力も含めて特殊ないしは貴重な技能・資格はある程度考慮されると思います。
アリエフ
- ついでながら上田市のあたりというと、ひょっとして松代大本営建設工事ではないでしょうか?私の父がこの辺の出身で、上田の旧制中学に通っていた頃、学徒動員で松代大本営の工事に狩り出されたという話を聞いた事があるもので・・。
アリエフ
- 徴兵檢査合格者は、體格性能により兵科兵種が決められますが(背が高くて目がいいのは騎兵、がっちりしてるのは砲兵など)、同時に職業や特技によっても決まります。例えば大工や河船頭は工兵とか。
また入隊後に中隊人事掛は徴兵署より交付される各兵の身上調査書に基づき職業や特技、経歴を把握しており、一期の檢閲が済んで特業・戰時命課を決める時に、それを参考にします。(特業とは、喇叭、衛生、炊事、工務など特技。戰時命課とは、出征部隊における各兵の役割を予め決めておくもの。特に砲兵部隊など、細かい役割分担が重要な部隊では、聯隊長附乗用自働車運轉手や第何番砲の第何番砲手、聯隊段列第何番彈藥車の中馬馭者などと、綿密に決められていた)
自働車免許は、戦前は非常に貴重な資格で、所持者は、だいたい輜重兵部隊や捜索聯隊の自働車運轉手になったようです。(なにかの間違いで歩兵部隊にいくと云う例外もありましたが)
自働車部隊では、免許所持者は即戰力として重宝され、また自働車に触ったこともない初年兵の教育要員としても活用されたとききます。
あるめ
- 便乗質問で申し訳有りませんが、よろしくお願い致します。
かって友人のお母さんお聞きしたのですが、『知人の医師が、医師として徴兵されるのを拒否して普通の一兵卒として徴兵された事が有る。』とのお話でした。こんな事は、可能だったのでしょうか?有り得たのでしょうか?
roht
- >4
実際にあったようです。特に戦争末期には医師免許を持っていながら軍医を志願しないものはあえて一兵卒として招集したそうです。これを俗に「懲罰召集」と呼んでいたそうです。ここら辺のことは「軍医サンよもやま物語」(関亮:光人社NF文庫)に簡単に書いてあります。
TETSU29
- TETSU29さま 有難うございます。本当にそんな事有ったのですね、長い間本当かどうか半信半疑でした。
roht
- 丁寧な御回答、有難うございました 長い間、気になっていた疑問が解けました
自動車免許の貴重さというところでは、人口8000人ぐらいの田舎町では、10人ほどしか所有者がいなかったとのことです 医者と同じぐらい貴重なんですね
余談ですが祖父は80近くになった今でも元気に車を運転しています 長生きして欲しいです
鍋島
- 昭和始め頃までの陸軍軍醫は、全ての醫師免許所持者のうち徴兵檢査合格者(甲種でなくとも乙種丙種でも合格です)を、すべて軍醫豫備員として短期教育し、戰時に大膨張する衛生部要員の需要に充てる準備をしていました。(歩兵聯隊で1ヶ月間兵営生活を体験させ(軍醫候補生の看護卒・看護手)、軍人としての動作と常識を身につけさせ、さらに「見習軍醫」(一等看護長)として軍醫學校で軍陣醫學の講習を受け、衛戍病院で実務見習の後、豫備役三等軍醫に任官させる。時代により多少、制度に変化あり)
したがって、お医者さんといえば、必ず軍醫の資格をもっているのが、當時の常識でした。戰争末期には、軍醫が不足して町医者の老先生まで軍醫少尉で応召されましたが、こういう人は號令が旧式で、「かしらー中」のところを「かしらー右」と云いました。
さて、
たてまえ上は、志願の形をとっていたので、軍醫候補生になるのを拒否することもできました。そうすると一般の兵科の兵卒として勤務しなくてはならなくなり、お医者さんの二等兵がいることになりました。もっとも醫師は専門學校以上の卒業生なので、幹部候補生志願(豫備役少尉になれる)もできたのですが、これは現役兵に応募資格が限られている制度なので、補充兵役や國民兵役からの(現役での入營生活を送らなかった)応召兵は、ずーと兵隊さんだったようです。兵隊さんと将校の生活は、雲泥の差があり、それがハタから見ると「懲罰」と受取られたのでしょう。
自己の信念に従って敢えて将校とならなかった人は、軍醫のほかにも、一般兵科にいて、それを描いた小説、有馬さんの「兵隊やくざ」に出てくる関東軍最古参泣く子も黙る4年兵の上等兵殿(幹部候補生試驗受験拒否者)がそれです。落ちこぼれの暴れ者二等兵とコンビを組んで暴れまくる痛快ピカレスクですが、當時の、そういう人の心境を活写していて興味深いです。勝新・田村主演の映画シリーズになって、ビデオがあるので、ご覧になった方も多いと思います。
けれども、末期の軍隊では、幹部候補生試験の答案を白紙で出しても合格となった例が多くあり、それだけ初級将校が不足していたのですね。
あるめ
- あるめさま、いつも有難うございます。今後とも宜しくお願いい致します。
roht
- あるめ、さまのご回答のとおり、私の祖父は昭和11年に慈恵医大をでてすぐ陸軍にとられました。ただ聞いたところでは、速成教育のあとたちまち北満に配備され、どんどんと、中隊軍医長、連隊軍医長、とやらされたそうです。医者が、特に新しい卒業生の知識が役に立ち、このような結果となったようです。結局20年、足掛け9年で師団軍医長となり、終戦時階級は少佐、ポツダム昇進で中佐となりました。陸軍にいながら殴ったことも殴られたこともなかったそうで、1発の弾丸も撃たなかったそうです。もっとも当時としてはデカイ185センチの大男でしたが。最後はラボールの南にとりのこされ、医者として病院の栄養確保をめいじられ、農家出身の衛生兵とサツマイモつくっていたそうです。海に手榴弾放り込んでサカナ、は、最初成功したけど後でサカナもかしこくなったのかダメだったそうです。
つまらない回答ですが、何かの足しにしてください。
まるき