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私のおじいさんは横須賀にあった砲術学校で高角砲の撃ち方を習ったと言って ましたが、おじいさんは普通の兵卒でした。普通の兵卒でもこのような学校に 入っていたのでしょうか? 少年水兵 |
それに合格して、横須賀の砲術学校でそういうことを勉強されたのでは
ないかと想像します。すなわち、卒業までは無章の水兵ですが、普通科
を卒業すると、砲術のマークを持つ掌砲兵となるわけです。さらにその
先、高等科、特修科などがあり、下士官あるいはさらにその上の准士官
や特務士官などに進むためには必須の課程とも言えると思います。
この種の教育は、なにも砲術に限ったものではなく、各術科で行われて
いました。
今泉 淳
Sampon
伝統的な「砲術学校」で、これは艦船に搭載している大砲に関する教育を
中心に行っていましたが、後年館山砲術学校ができてこちらで陸上の対空
射撃とかそんなことを教育していたはずです(館山砲術学校が開校と同時
に横須賀のほうは「横須賀砲術学校」と名前が変更になっていたかも)。
通称は、前者が「横砲」、後者が「館砲」です。
よって、教育内容が違うわけです。
今泉 淳
もしかして、「たて」と「よこ」と対になるように、館山の地を選んだのでしょうか?
Sampon
はないのだと思います。
今泉 淳
Sampon
砲術学校の変遷を追うとこれまた結構長くなるので端折りますが、「海軍砲術学校」
は明治40年4月20日発足、以後昭和16年6月までその名称で存続しますが、陸上
関係砲術教育のために新設された「館山砲術学校」の開設とともに、「横須賀砲術学
校」と改称されました。それぞれの分掌内容は、
横須賀砲術学校:海上砲術の研究及び教育の規画に関する研究調査、体育の研究、海
軍士官異化に対する体育の研究規画に関する調査研究
館山砲術学校:陸上砲術及びこれに関連する海上砲術の研究並びにその教育規画に巻
する研究調査
となっています。陸戦隊関係戦術も館山の担任ですね。
その後昭和18年4月15日に「横須賀砲術学校長井分校」(予備学生、予備生徒教育)
を、昭和20年4月15日に練習生教育のために京都府栗田に「横須賀砲術学校栗田分
校」を開設、同日「館山砲術学校」を廃止し「横須賀砲術学校館山分校」と改めてい
ます。
今泉 淳
少年水兵
試験は国語、算数(数学)といったものなのかな。
少年水兵
が課されていたことが何かで読んだ覚えがありますが、これまた有名な文
献(ってゆっか戦記?伝記?)であるところの高橋孟さんの本には、主計兵の
場合(この場合は掌経理兵ですが)の試験の「実技」に関しての記述もあり
ましたよね。
今泉 淳