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中島飛行機と川西航空機との間には「ただならぬ因縁」とやらがあったそうですが、一体、具体的に両社の間には何があったんですか?
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- 関西で数々の事業を起こした実業家・川西清兵衛は、海軍を退役した中島知久平が「飛行機研究所」を設立したことを知り、この事業に投資することにしました。大正7年に日本発の航空機メーカー「日本飛行機製作所」が設立し、清兵衛が社長に、知久兵が製造を担当することになりました。
- ↑(続き)創業1年で従業員は300名にもなり、陸軍からの受注も受け、経営は順調だったが、その矢先に、知久兵は社長の清兵衛に相談なしに総額150万円ものエンジン購入を決めてしまいました。これがもとで、技術屋の知久兵と経営者の清兵衛とのあいだに経営の主導権をめぐり対立が生じ、結局川西が事業から手を引くことになりました。
- ↑(続き)中島知久兵はその後、三井物産と提携し、中島飛行機製作所として事業を再開しました。川西は、その後しばらくの間紡績機械を製造していましたが、若い技術者達が飛行機を造りたがり、清兵衛はそれを受け入れ、川西機会製作所の倉庫で飛行機の設計、製造がはじめられました。
- ↑(続き)そして川西の航空機部門も、コンテストや艦上戦闘機の試作で技術力が認められて、昭和3年、川西機会製作所飛行機部は川西航空機として分離独立したのです。以上のことは紫電改びっくりデータ99の謎(二見書房)第4章79に詳しく出ています。(U―2K)
- 訂正です。下から3番目の「機会」は「機械」の間違いです。すみません。(恥さらしのU−2K)
- いや、お見事です。私も答えようかと思ったんですが、中島知久平の開業時に川西が経営参加し、その後不仲になっte手を引いて・・・ぐらいしか知らなかったので。(SADA)
- いや、お見事です。私も答えようかと思ったんですが、中島知久平の開業時に川西が経営参加し、その後不仲になって手を引いた・・・ぐらいしか知らなかったので。(SADA)
- げげっ、再び訂正です。最初の部分の「日本発」は「日本初」の間違いです。申し訳ありません。(赤っ恥U−2K)
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