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ジョン・ぺインター氏という米国人より1944年7月5日ヤップ島を24機のB24が 破砕爆弾(クラスター爆弾)攻撃を行い1機を損失。 その1機に彼の叔父さんが 搭乗しており、当時ヤップ島を守っていた戦闘機の種類と部隊を教えて欲しい。 また、当時の情況がわかれば教えて欲しい旨の依頼がありました。 私は当時の情況からいって61航空戦隊に所属する261空の残存の零戦だと思い、(261空は6月の戦闘で大きな打撃を受けた)その旨回答しましたが確信が持てません。どなたか詳細が分かれば教えて下さい。 鈴木 |
- 鈴木宇三郎大尉の率いる265空の可能性が高いと思いますが、確証はありません。
菅野直大尉が分隊長を務めていた初代の343空も可能性はあると思います。いずれにしても、7月10日の201空への統合直前であり、断定は困難と思われます。
なお、戦史叢書「マリアナ沖海戦」によると、7月3日、B−24×22によるヤップ空襲の記載があり、同日のヤップの可動機数は8機(機種不明)となってます。
7月5日の空襲について記載はありません。参考になればいいのですが。
匿名
- そもそも戦闘機の邀撃によって撃墜されたのですか?
二六一空は全力でグアム島へ向かっているのでその日にヤップにいる可能性はほとんどゼロです。二六三空や三四三空はもちろん、二〇二空や二〇一空などの航空隊ですら六月一七日及び一八日ヤップ島発(グアム島着)の攻撃隊に参加していて消耗状況は激しいのが実体です。六月二五日の時点でヤップで邀撃に上がっているのは三三一空の零戦、シンガポール方面から移動してきた部隊です。こういう混沌とした状況ですから、どこの航空隊かは難しいかも知れません。
川崎まなぶ
- 川崎様、匿名の方、回答ありがとうございました。なお、B24が対空砲火で撃墜されたのか戦闘機に撃墜されたのかは本人も分からないとの事です。
鈴木
- 質問者の方の御発言の後に蒸し返すつもりもないのですが...
265空の戦闘詳報は、昭和19年6月1日〜30日の分ではありますが、図書館でも閲覧できる図書に掲載されています。
これによりますと、渾作戦に伴う第二攻撃集団の豪北移動により、fc×32が6月6日までにカウに集結しますが、米軍のサイパン上陸により先発のfc×6が14日にヤップに、本隊の15機が17日にペリリュー経由パラオのガドブス基地に復帰します(残りの11機は不明)。
14日にヤップに復帰した先発の6機は、翌15日彗星隊の直掩としてサイパン周辺の敵を攻撃し、自爆未帰還2機を出して翌16日ヤップに戻ります(3機)。
これ以外に265空の西カロリン方面からのマリアナ攻撃はなく、21日以降ヤップ、パラオ、ペリリューの上空哨戒に当たっています。
川崎さんが指摘された6月25日にはB24×21機のヤップ空襲に対して、265空だけで9機が邀撃戦に参加しています(201空は2機が被弾)。
翌26日もB24×19機のパラオ来襲に対して8機が交戦(201空、331空各1機被弾)し、以下、27日B24×19に対し8機、28日B24×40に対し8機が交戦と、西カロリン方面の防空に専念しています。
このことから、265空が7月はじめにも邀撃に当たった可能性が高いと判断致しております。
匿名
- 匿名さん
ありがとうございます。
こちら札幌在住のためなかなか防衛戦史研究室、国会図書館等訪問できないので 助かります。
鈴木