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京都には「またも負けたか三連隊」という言葉が今でも残っているそうです。実際に、三連隊が「負けた」のは、どの戦場のことなのでしょうか。 七四野 |
- 3聯隊ではなく、8聯隊ではないでしょうか。(字が似ているので)
東京の3聯隊は平凡な部隊ですがボロ負けの評判はありません。歩兵でないとしても、3がつく特科部隊は名古屋師團となるはずなので、仰せの部隊は、きっと大阪歩兵8聯隊ではないかと存じます。
「またも負けたか8聯隊、これでは勲章9聯隊(くれんたい)」といって、西南役で京大阪の鎮台兵が西郷軍に連続ボロ負けした時から始まりました。
歩8は大阪北部の聯隊區からの徴兵で編成したので、豫備将校には商家のボンボンが多く、下士官兵も合理性を重んじ、精神論を信用せず無益な損害を嫌う風潮があり、他の鎮台兵の目には奇怪な部隊とうつったに違いありません。退却するのを恥とせず、「またチャンスあったら攻めていったらエエのんやさかい、しおもない無理しなや」と云う8聯隊には、兄弟聯隊として京都の9聯隊がおり、これがまた一癖もふた癖もある(そもそも大阪商人は近江からの出稼ぎ奉公人が養子となったのが多い)連中で、武家とは価値の置き方が違ったので、このような戯れ唄ができたと思います。
日清日露以降は、「まとも?」に戦っていますが(特に日露の南山の戰闘など)、太平洋戦争では、小隊長クラスの豫備役将校に入院続出が見られ、戰線停滞となると、ただちに「健康恢復」して原隊復帰するというありさまで、下士官兵が専ら奮戦した模様です。その下士官兵も文句タラタラで、小隊長の准尉以下「なんでこんなとこに来て、こんなメエにあわなあかんのや。どあほらし」とボヤきながら聯隊砲の分解臂力搬送などやっていたそうです。ヘンな帝國陸軍部隊だったのですね。大阪人の司馬遼太郎さんが戰車部隊で幹部候補生教育中に、ヘマをして遠くの倉庫まで馳歩を命ぜられた時には、やはり「なんでこんなコトしやなあかんのや、ぶつぶつ、ぶつ」とぼやきながら走っていたとは、一緒に走った同期生の証言です。京大阪人には精神論的な非合理的な行動に理性が耐えられない仕組みとなっているようです。
あるめ
- あるめさん、丁寧なご回答ありがとうございました。3連隊と記憶していましたが、ネットで調べたら3連隊は東京の麻布でしたね。それで、8連隊、9連隊は日華事変、太平洋戦争ではどの戦場で戦ったのでしょうか?
七四野
- 大阪8聯隊は4師團で、大陸を転戦した後、初期の比島攻略戰では大活躍でした。野間宏が初期の短編連作(?)で、兄弟聯隊の歩37歩兵砲隊の奮戦ぶり(?)を描いています。行軍途中の小休止では小隊長の准尉が巡り合わせの悪い自分の職務をウデウデとぼやくは、コレヒドール突入では、島に突入する発動機艇のへさきで、上等兵が恐怖の余りキャンキャンわめくは、と恐ろしくリアルです。その後タイで終戰となっています。
京都9聯隊は、大陸を転戦、特に最近では南京占領部隊ということで注目されました。レイテでも大奮戦。
あるめ
- 私の父方の祖父が、大阪8聯隊にいたそうです。父がその話しをすると『また負けたか8聯隊(大阪弁なので「ま」にアクセントが来ます。)』とよく言ってます。そのあとがあるとは知りませんでした。
ちなみに祖父は兵で、祖父の弟が士官だった為、『弟に敬礼するのは嫌である。』とのことで、上官に頼み他の部隊に転属させてもらったそうです。
ワレアオバ
- あるめさん、ワレアオバさん、どうもありがとうございました。弱兵と言われながらもレイテの激戦を闘った、ということは最後は玉砕したのでしょうね。黙祷。
七四野