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651  初心者の質問なのですが、よろしいでしょうか。
ガダルカナル島の戦いで、一木支隊の第一悌団が投入される前には基地建設隊や
守備隊が数千人いたと聞きました。よくガダルカナル戦史というと、一木支隊や川口
支隊などの戦闘あたりから詳しく綴られているような気がするのですが、それ以前に
真っ先に上陸時の海兵隊を迎撃したであろう、守備隊や建設隊の戦闘状況及び彼らの
その後の運命についてはほとんど情報がありません。生還者はいるのか、文字通り全
滅したのか、それとも一木支隊と合流したのか、全く分かりません。どうか教えてください。
はにまる

  1. 確か、ガ島には元々守備隊はおらず設営隊しかいなかったはずです。けど、その設営隊も米軍が上陸してきたら一目散にジャングルに逃げたとか・・・。
    河内っこ

  2. 現物が見当たらず、記憶モードでしか書けないことをお断りしておきます。
    光人社のNF文庫「ガダルカナル戦記(第I巻)」に少しだけ記述があったはず。
    一木支隊と一部が合流したんじゃなかったかと思いますが。
    確かその時はすでに飢えていたような・・・。

    KI-100

  3. 「ガ島在島の日本軍は2個設営隊2571名うち陸戦部隊280名、
    他に遠藤幸雄大尉を長とする第84警備隊派遣隊約150名」との用です。
    畝傍

  4. 便乗で教えて頂きたい。

    自分が調べた範囲では
    ガ島の部隊は
    第84警備隊ガ島派遣隊150名
    第十一設営隊(岡村徳長少佐以下1350名、内武装部隊約180名)
    第十三設営隊(門前鼎大佐以下1221名、内武装部隊約100名)
    となっています。
    但し、武装部隊が280名となっていますが
    拳銃や小銃で武装しているだけで戦闘部隊ではありません。
    ところが
    資料によると第3特別陸戦隊約百名が別に記述されているのもあり
    これだと陸戦隊は総計約250名となります。
    ですが
    ツラギの第84警備隊は
    呉鎮守府第三特別陸戦隊の1個中隊に
    第81警備隊の1個中隊を加えて編成されたものですから
    この呉鎮守府第三特別陸戦隊がダブって記述されているような気もします。
    この辺りがよくわからない(TOT)
    最初は
    8/16上陸に上陸した高橋中隊(113名)のことかと思ったりしたのですが
    しかし
    高橋中隊は横須賀鎮守府第五特別陸戦隊ですし
    よくわかりません。
    誰が教えて下さい。

    ちなみに
    海軍部隊は川口支隊の岡部隊と合流はしていますけど
    一木支隊とは合流していません。
    海軍の残存部隊はルンガ飛行場の西側のマタニカウ川左岸に撤退しており
    この地で戦闘をしています。
    また
    一木先遣隊はガダルカナル島タイボ岬に上陸して
    ルンガ飛行場東側のイル川河口付近で米軍と戦闘しています。
    しかし
    これは東西からの共同戦闘では御座いません。


    あきんど

  5. ああ
    文章が変です
    半分寝ながら書いてますから申し訳ない

    自分の質問は
    第三特別陸戦隊の正体と
    陸戦隊の総数は
    150名なのか250名なのか
    或いはそのどちらでもないのか
    これを教えて頂きたい。
    よろしくお願いします。

    あきんど

  6.  ほとんど情報や記述が残っていない、ということは生還者はいない、と判断しても
    よいのでしょうか。彼らは「ガ島」の最初期の戦闘に立たされたのですものね(涙)
    一木支隊の第一悌団ですら、数えるほどしか生還者はいないと聞きました。
    はにまる

  7. 当初の海軍部隊は全滅しておりません。
    とりあえず
    自分の知っている範囲で書きますと

    米軍の攻撃時に
    第十三設営隊はたまたまいつもより早く作業準備をしていたために
    混乱はしていません。
    よって、組織だって西方に撤退しています。
    彼等はマタニカウ川を渡河してクルツ岬西方の小川の線まで後退し
    指揮所を設置します。これがのちに海軍本部となります。
    一方、第十一設営隊の方は
    米軍攻撃時には、まだ寝ている時だったので一部を除き離散しています。
    但し、第十一設営隊長の門前大佐は第十三設営隊の撤退時に合流しています。
    その後、この第十三設営隊の陣地に
    第84警備隊や第八通信隊、離散していた設営隊員も逐次合流しています。
    十八日付の記録によりますと
    警備隊100名、設営隊員328名計428名、
    ルンガ岬の西方八000米以西を確保とあり
    そして
    設営隊約1000名飛行場周辺の密林中にあるも
    未だ連絡取らざる情況の如し。とありますから
    第十一設営隊と推測されるこの約1千人の離散した人達のことはわかりません。
    一部の方々が川口支隊や丸山師団に収容されたことは間違いないようです。
    そして、この人達の証言によると
    離散して隠れている場所によって
    運良く生き残ったと言うみたいですから
    餓死した人達も多かったのではと思われます。
    また
    小川付近に撤退した各種海軍部隊は
    高橋中隊の増援を貰い
    ガ島守備隊として再編され
    マタニカウ川付近まで進出します。
    その後
    この部隊は川口支隊西北部上陸部隊(岡部隊)と合流しています。
    これ以後のことは調べておりませんからわかりません。
    但し
    生還者は情況からして
    一木先遣隊の方々よりは居られるのではと推測します。

    あきんど

  8.  たくさんの詳しいご回答、有難うございます。
    あまり触れられない設営隊の方々のその後の運命、一木支隊の方々よりも
    生還者が多かったのかもしれないんですね。
     もしかなうのならば、生還者の方の手記なども読んでみたいと思います。
    はにまる

  9. 手元の資料で追ってみましたが、限界がありますので敢えて海軍部隊の
    詳細に関してはここでは書きませんが、手記の類ならば、丸別冊太平洋
    戦争証言シリーズ5「最悪の戦場」に、山宮八洲男「海軍第十一設営隊
    『戦闘日誌』」と題する、日記を元にした記事があります。

    それによれば、この人は昭和18年に入ってからカミンボより潜水艦で後
    送されたとのことです。
    今泉 淳


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