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織田信長の伝記読んでて疑問に思ったことがあります。 なぜ信長はあれほど徹底的に本願寺(一向一揆)を攻撃したのでしょう?逆に本願寺側があれほど激しく、執拗に(最後は手打ちにしちゃいましたが)織田政権に抵抗したのはなぜでしょう?また戦国大名のような整備された武力を持たなかったはずの本願寺があそこまで戦えたのはなぜでしょう? 古い話ですいませんが、詳しい方ご教示お願いします。 雑賀孫像 |
- まず、本願寺、比叡山などは我々が普通イメージする宗教団体ではなく、当時最大の「利権団体」であったという事です。寺院の建てた関所は数知れず、市や座の利権の多くも寺社は握っていました。そして、金のあるところには武器、人が集まります。当然、その金はいわいる市民に対する重税であったわけです。
また、雑賀さんの言う「整備された武力」がどの程度か分かりませんが、当時の兵士の多くは半農半兵で、そう意味では宗教で団結した一向宗の方が強いでしょう(信長は職業兵士を組織していましたが)。
つまり、「抵抗勢力の徹底的な打破」を信長は行ったと考えれば良いのではないでしょうか。
あと、この辺の事は「逆説の日本史」戦国野望編に詳しく書かれてあります。かなり面白い内容で、お勧めの本です。
12式戦爆
- この時代の一向宗勢力というのは、一向宗で結びついた中小の豪族(野武士)や地域の有力者、本願寺寺院からなる勢力が戦国大名化したものと考えた方が良さそうです。そして、戦国大名自体が他の大名に対抗するために、相手の大名の近くにいる一向宗勢力と結びついたり、支援を与えたりしている。
また戦国大名と言っても様々であり、甲斐武田氏の場合、実は武田氏の統率力はそれほどのものでなく豪族の連合政権に近いようなものだったという。信長の場合、甲斐や信濃に比べれば先進地域である尾張、美濃を押さえていたから、専制君主に近いような統率力の下、整備された武力を持つことが可能だった。そして、信長だけでなく多くの戦国大名にとって、一向宗は利用することもできるが厄介な勢力であったわけ。
また、足利将軍が武田や各地の一向宗勢力と呼応して信長包囲網を造ろうとしたことも、信長と一向宗との対立が激化した原因でしょう。家康も若い頃、三河一向一揆に苦しめられている。秀吉や家康による天下統一がなった後、本願寺等の寺社を押さえ、検地や刀狩を実施して武士と農民を明確に区分する政策は、一向一揆防止対策という要素が強いと思います。
アリエフ
- 便乗質問を失礼します。
当時の一向門徒は、本願寺の指示に、ほとんど従っていたのでしょうか。私の
浅い理解では、必ずしも本願寺が信長に対する抵抗を指示しても、一向門徒が、
全面的に従っていたようには思えないのですが。本願寺が指示しても、従わない
一向門徒は結構いた(南近江にも一向門徒は、当時の記録によると結構いたそう
ですが、本願寺の指示に従って、全面蜂起はしていないと思います。これは、当
時の記録が不正確なためでしょうか。孫引きのうえ、記憶なので間違っていたら
本当にすいません)との理解でよろしいでしょうか。
山家
- 3>
蜂起についてですが
アリエフさんが
>一向宗で結びついた中小の豪族(野武士)や地域の有力者
とおっしゃっているように、
信長に反抗したのは
信長の支配地域の旧勢力の残党(武士)
との連合勢力とかんがえて良いと思います。
信長の同盟者、家康の場合、
かなり早期に自分の領土の寺社勢力と武士勢力
の繋がりを断つことで
以後の寺社勢力の蜂起を難しくしています。
木
- どうも、ありがとうございました。
山家
- まったく素人考えですが、「お寺」とか「門徒」というよりは、最近で言えばタリバンやアルカイーダ、もう少し昔だったらレバノンのキリスト(イスラム)教派民兵○○派のような「武装宗教政治勢力」をイメージされたほうが理解しやすいかも知れません。
タリバンだったら信長も必死で潰そうとするだろうし、戦国大名にも充分対抗可能かと。
実際に加賀国は一向宗が支配していたそうですし。
学問上は「暴論」かと思いますが、現代の「お寺」や「門徒」というイメージを保持されるよりは上記の先輩諸兄の明示された分野や分権を研究される上で理解が進むように思いますし、理解度が高くなれば私の「暴論度」も分析可能のように愚考します。
江戸幕府では、寺社奉行の方が江戸町奉行や勘定奉行よりも格上で、老中などを目指す有力譜代大名の登竜門となっていたそうです。
(後二者は旗本職)
江戸幕府になってもなお、宗教勢力の制御に権力者が腐心していた様子がうかがえますね。
SAW