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はじめまして星野といいます。 戦史関係はまったくの素人ですが、よろしくお願いいたします。 理由あって第二時大戦におこった「カティンの森の虐殺」について調べております。 質問ですが、この事件はナチスドイツにより世界に公表(配信)されたと思うのですが 当時の米・英国はソ連に対して事件の真相究明等の申入れをしたのでしょうか? 特に亡命ポーランド人の多くいた英国の態度を知りたいのですが… 星野 |
- たしか米国はこの事件に対して言及は行っていないはずです(少なくとも第二次大戦中には)。
当時、米国はソ連と同盟(と言うより対独共闘)状態にあった関係上、ソ連批判、あるいは批判と取られかねない発言は極力控える様にしていました。
また当時の米国内では、ソ連(の共産主義)批判はドイツ(ファシズム)に対する利敵行為だ、といった考えが主流になっていたそうです。
人見 忍
- 参考になるかどうか分りませんが、児島襄氏の『ヒトラーの戦い』にカティンの森の虐殺に関する記述があります。文春文庫版では5巻目(全10巻)に36ページほど述べてありますが、米英政府の反応はほとんど述べられていなかったと思います。
masaki ogasawara
- 人見さん、masakiさん
早速の御回答ありがとうございます。
大国の利害に謀殺された将兵が哀れです。
星野
- 光人社の「君は第二次世界大戦を知っているか」からですが、ポーランド亡命政府が国際赤十字に調査と真相の究明を以来した際に、「反対はしなかった」というだけのようです。
12式戦爆
- 筑摩書房「ワルシャワ蜂起1944」1989年の第1章「3大国とポーランドに以下
のような記述があります。一部省略して書きますと。
”1943年4月26日にドイツ国防軍からの「カティンの森の殺戮」が発表された
後、ポーランド(英国にあった亡命政府)とドイツはジュネーブの国際赤十字
に対して事件の全容を調査するよう要請した。それに対しソ連政府はポーラ
ンド政府がナチスと協力してソ連を口汚くののしり、領土的譲歩を勝ち取る
ためにソ連側に圧力を加えているといって非難した。
こうして、両国間の相互理解が必要とされたときに、ソ連・ポーランド両国
政府間に広くて深い裂け目が公然となった。チャーチルはなんとかそうなら
ないように努めたが無駄だった。”
1944年8月の悲劇的なワルシャワ蜂起までの間、英国政府はソ連政府とポー
ランド亡命政府の間でなんとか、協力関係を築こうと努力しています。しか
し、「カティンの森の殺戮」の件は引っ込めるよう提案しています。その部分
を引用すると。
”1944年7月30日、ミコワイチェフ(ポーランド首相)は、モスクワに到着した。
英国大使が待ち受け、以下の諸点について受け入れればスターリンとの取り
決めを結ぶのに役立つだろうと提示した。
1.投稿者省略
2.投稿者省略
3.カティンの森での殺戮はソ連によってなされたとする主張を何らかのかた
ちで撤回すること。
4.投稿者省略”
質問者への回答としては、英国はソ連に対して事件の真相究明等の申入はし
ていないです。
CEDERMT