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589の便乗質問ですが。 日露戦争時、陸軍が脚気対策を誤り、大量の脚気患者を出したというのは、本 当でしょうか。作家として知られる森鴎外以下の陸軍軍医陣は、海軍軍医陣や欧 米医学界の忠告を聞かなかったため、海軍では、ほとんど脚気患者が日露戦争中 出なかったのに対し、陸軍では、露軍の記録にまで、日本陸軍は脚気が蔓延して おり、作戦に支障を来している、と書かれたほど、ひどく脚気が流行したそうで すが、これは事実でしょうか。森鴎外は、医学の勉強のため、独に留学までした はずで、陸軍軍医陣は、当時の欧米医学をきちんと導入していたと思うのですが。 どうか、よろしくお願いします。 山家 |
- 日本陸軍が日露戦争中脚気患者を出したのは事実です。
陸軍の公式発表数では患者数25万人(内死者約2万8千)だそうです。
当時、ドイツではローベルト・コッホにより結核菌等が発見され細菌学が発展、
病気の原因には必ず細菌が関係していると考えられていました。
その為脚気にも原因である細菌があると考えられていたのです。
(実際にはビタミンB1不足で発症します。)
この脚気細菌説は農学博士鈴木梅太郎氏が「オリザニン(ビタミンB1)が脚気に効く」という説を発表した後も根強く残ったそうです
森鴎外と脚気については検索をかけるとかなり見当たりますのでしらべてみては
いかがかと思います。
畝傍
- 欧米の医学をきちんと導入しなかったのではなくて、その当時の欧米医学を忠実に学びすぎた、とも言えそうですね。
言葉の綾かもしれませんが。
便利少尉
- まだこの当時(明治時代)は脚気の原因がはっきりとわかってなかったんです。いろいろな説はあったようですが。
ただ日本陸軍でも白米だけの主食よりは米麦混食の方が脚気の予防には効果がありそうだということは経験的に把握していたようです。その理由まではわかってませんでした。なので平時には米麦混合食だったため、それほど脚気は増えていません。
戦時には前線へ米と麦の2種類を運ぶのは補給の負担が大きくなるため、主食を白米にしてしまったことが日清・日露の両戦争で脚気が蔓延した原因です。
TETSU29
- とあるサイトの情報では、森鴎外自身は「麦ごはん」を食べていたそうです。
これは、明確な根拠なしに栄養状態の改善に効果のあった白米食を「官僚」としての森鴎外は変更できなかったのはないかと言う人もいるようです。
SAW
- >4
そのご意見、なかなか似説得力があると思います。当時、脚気治療のために麦ご飯を食べるというのは、民間療法の一種、つまり迷信の類と思われてた節があります。西洋医学を学び、しかも官僚でもあった鴎外の独断だけでは、無理だったのかもしれませんね。
ツカドン
- 私の記憶では、キャプテン・クックの航海等で、食事の改善により壊血病の予
防・治療が行われて以来、食事により、一部の病気は予防・治療が行えることが
分かるようになっており、日露戦争時には、欧米では、壊血病以外にも、脚気や
ペラグラ病については、食事で予防・治療が行えることが、医学界では通説にな
っていたと聞いたような覚えがあったので、質問しました。どうも、いろいろと
回答していただき、ありがとうございました。
山家
- ↑キャプテン・クックの航海に関しては、糧食にザウアークラウトとモルツを加え、寄港地で
野菜を積極的に購入する等の措置を講じた結果、壊血病が抑止されましたが、これにより
ザウアークラウトが評価された結果壊血病対策が混乱しただけ、という評価もあります。
実際に長期の航海時における壊血病の被害がほぼ根絶するのは英海軍が乗組員に対して
ライムジュースを支給するようになってからだったと思います。
大塚好古
- 既述かもしれませんが、欧州における医学においても、英国流の臨床医学と独逸流の病理医学によって対応が分かれていたのではありませんか?
森鴎外はドイツ留学ですので病原菌説を中心に検証し、海軍の高木軍医(氏名、階級失念)は英国留学により臨床(悪く言えば、症状が改善されれば原因は後回し)中心で、対処をめぐり陸海軍で論争を引き起こしたのではないかと思います。
吉村昭氏が高木軍医の本を書いていたとは思うのですが。
能登
- >8 海軍の高木軍医
フルネームは「高木兼寛」(タカギ カネヒロ)ですね。
麦飯の導入により脚気を予防したことから男爵に叙され「麦飯男爵」と呼ばれたそうです。
欧米ではビタミン学の先駆者として知られているそうで、南極には彼の名を取った「高木岬」があります。
宮代忠童という漫画家が「麦飯男爵 高木兼寛」という作品で彼の一生を描いています。
同じシリーズに「杉原千畝物語」、また坂井三郎氏の漫画(最近文庫化された)もあります。
本屋さんにあるかどうか分かりませんが、どれもお手軽に読めるのでお奨めです。
T216
- 森軍醫總監陸軍省醫務局長は、帝大閥。高木さんは、そうではなくて。。。と聞いたことがありますが、學閥も関係していたのでせうか。高木さんは北里系の慶應派だっけ?あれ?英國醫學だから慈恵だったっけ?
おまけに陸軍省醫務局の中も東京帝大と京都帝大に分かれていたようですね。そういうところも、陸軍が脚気細菌説に立ったままになった原因だったと思います。
帝大と慶應は終戦後の下山事件でも、死後轢断説を巡って双方意見を譲らなかったそうで、面白いですね。(面白がってちゃ不謹慎ですね。ごめんなさい (^^;
あるめ
- 補足訂正:高木男爵は英国の医学校留学者で、慈恵の創設者だったです。
あるめ