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父は昔からよくイースター島の石像モアイの話をします。数ヶ月前にWAR BIRDS を知った遅れてやってきた軍事マニアの息子(僕)が今日改めて質問しました。「どうしてモアイを知っているのか?」父の答えは「昭和17年頃、絶対秘密だと言う事で軍艦旗をおろし、艦名を消した友鶴(?)でイースター島沖に停泊し、めがね(双眼鏡?)でさんざん観察したからだ。今でも作戦目的が分からない。」と言います。当時、父は水雷科の先任OR次席下士官だったとの事ですが、それでも知らされなかったとの事です。この作戦目的をどなたか、ご存知の方、又は手がかりを」お知りの方、教えてください。 gsz |
- そこにいるドイツ兵を、、、俺が悪かったですハイ
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- 友鶴は、あの有名な事件(事故)で、戦争が始まる前に沈んでます。で、モアイ像のあるイースター島は南太平洋の僻地にあって、戦略的に何も意味がないはずです。それを考えると、どうも記憶違いがあるのではないかと思います。別の艦で、何か有名な遺跡のある南洋の島を偵察したのではないでしょうか?
そもそも、イースター島のモアイ像は、フリモアイ(モアイ倒し戦争)でその殆どが倒されてしまいました。わずかに残ったモアイ像も、後にキリスト教宣教師によって破壊されてます。現在のような状態に復元されたのは、戦後になってからの話です。
また、モアイ像は、原則として海を背にするように建てられてます。例外的に無事に倒壊を免れたモアイ像があったとしても、イースター島沖からの双眼鏡の観察で、印象に残るとは思えません。
gszさんのお父様が、何か遺跡のある島を偵察したのは事実でしょう。けど、それはイースター島ではないと思います。
ツカドン
- ↑友鶴は例の事件の後で復旧されています。沈没したのは昭和20年3月24日ですね。
A-140
- >3
うっかりしてました。そうでしたよね。ちゃんと復活してました。訂正、どうもありがとうございます。
ツカドン
- こんにちは、特に情報提供できるものは持ち合わせていないのですが、興味深い話しなので、書き込ませて頂きます。
まず、仮に友鶴がイースター島まで航海したとして、どのよううにして航海したかが問題です。
昭和17年当時、日本軍の勢力範囲で最もイースター島寄りの拠点は、マーシャル諸島のタラワだったと思いますが、仮に友鶴がタラワから出航したとしてイースター島までおおよそ8千キロあります。
友鶴の航続距離は巡航14ノットで3000海里(約5千5百キロ)、燃料(重油)搭載量は290トン。
友鶴がタラワ出航時に燃料を満載して、イースター島までの往復航海を行うには、最低でも550トンの燃料補給を行うことが必要。この燃料補給をどうするか?
仮説1 潜水艦で行う。
昭和17年当時の代表的大型潜水艦である海大6型の航続距離は1万8千キロで、燃料搭載量は442t、この潜水艦がタラワから出航して、イースター島までの中間4千キロ付近で友鶴に燃料補給した場合、潜水艦が往路に必要な燃料を差し引いて240トン程度の燃料を友鶴に補給可能。だとすれば、友鶴が潜水艦から燃料補給を受け、往復航海するには最低でも2回以上の燃料補給が必要となる。
仮説2 仏領ポリネシアのいずれかの泊地で燃料補給を行う。
世界地図を見ていて気が付きましたが、タラワ、イースター島の間には仏領ポリネシアがあります。昭和17当時仏領ポリネシアがアメリカの勢力圏にあったかどうかは不明でずが、フランスはビシー政権下でもあり、必ずしも連合軍側についていたわけでもないでしょうから、可能性の一つとしてあげてみました。
以上単純な理屈での推論を述べてみました。友鶴のイースター島の話しが本当かどうが確認するには、上記仮説1、2が史実としてありうるか?そういった観点からもアプローチできそうな気もします。日本軍がイースター島付近の海域で活動していたことなど初耳で、にわかには信じられない話しですが、日本軍がオーストラリアに上陸した史実も近年明らかとなってきており(秦郁彦著)、あながち簡単に否定できる話しでもないとの印象も受けました。
野次馬
- ↑の「仏領ポリネシアで燃料補給」の線は無いのではないでしょうか。同じ仏領のニューカレドニアは連合軍の補給基地だったはず(豊田穣氏が収容されていたキャンプがあった)、また仏領ポリネシアのタヒチは、映画「南太平洋」の舞台になっていたと思いますが、やはり連合軍の基地になっていたはずです。
Sampon
- ↑というより、潜水艦で途中燃料補給するくらいなら、潜水艦で偵察すると思う。そのほうがよっぽど隠密偵察の目的に叶う。
Sampon
「友鶴」と「昭和十七年」というのが「正しい」と仮定します。
その当時の「友鶴」の所属等の変遷に関しては、必ずしも私の手元の資料では
明らかにし得ませんが、断片的にはある程度のことが分かります。
まず、二月五日附で第二十四特別根拠地隊がアンボンにおいて編成され第二南
遣艦隊に編入されていますが、その際に既に友鶴はその編制に含まれています。
三月十五日の蘭印部隊第一段作戦第四期兵力部署によるN攻略部隊(西部ニュー
ギニア戡定作戦)の兵力部署中第一軍隊区分の「主隊」に友鶴は区分され、引
続き行われたS攻略作戦(小スンダ列島戡定作戦)の兵力部署(五月七日)におい
ても主隊に区分されています。その間、昭和十七年四月十日の戦時編制改定時
には、南西方面艦隊麾下第二南遣艦隊二十四特根の指揮下にありました。また、
七月上旬に実施されたT作戦(タンニバル諸島方面戡定作戦)においてもT作戦部
隊(指揮官二十四特根司令官)中主隊に区分されており、昭和十八年一月一日現
在における南西方面艦隊の兵力中、二十四特根の編制に友鶴は含まれています。
これらの間の友鶴の所属や行動の詳細は小生手持ちの資料では明らかにし得ま
せんが、かなりの期間に渡り南西方面に在ったことはほぼ確実です。
一方、インドネシア方面にはイースター島のモアイと類似の石像が見られると
の話もあります(この部分は受け売りですので、ご確認を)。
小生の邪推ではありますが、もし上記の「インドネシア方面にイースター島の
モアイの類似の石像がある」というのが事実なら、質問の件の石像はイースター
島のそれではなくて、インドネシア方面にあったいずれかの島の石像のことで
はないかと想像致します。なお、海上から見えるような場所にこの種の石像が
置かれているような島の存在までは確認し得ませんでしたので、ここでは推測
の域に留めておきます。
これ以上の詳細は、時間の関係で調べがつかない等の門外があり、他の方にお
任せいたします。
なお、あまり本質的な問題ではないですが、
>マーシャル諸島のタラワ
タラワはギルバート諸島です。
今泉 淳
- >時間の関係で調べがつかない等の門外があり
「門外」じゃなくて「問題」でした。
今泉 淳
- 1.環太平洋のモアイ像
たしかに、環太平洋の島々にはモアイ像に類似したものがいくつかありますが、モアイ像のような巨大なものはないはずです。しかも、あんなに点在している島はないでしょう。
2.ラストバタリオン説
これは川尻徹氏という人の説ですが、日本とドイツから5000人づつ選抜し、ラストバタリオンという部隊を編成し、大戦中に戦死を装い南米や南極の秘密基地に移ったとのことです。(ドイツのラストバタリオンは実在するようですが、日本のはどうなのかな?)もし、この説が正しければ移動中の補給拠点としてイースター島を視察したのではないでしょうか?
日独ラストバタリオン説に関しては
「ノストラダムス戦争黙示」と「ノストラダムス複合解釈」共に川尻徹著
を参考にしてください。
GO
- 質問者です。
質問したのに1週間も空けてしましました。どうもすいません。こんなに話題になっているのに出張が多くて見ていませんでした。
一通り読んだ後、レスの内容を話さずに父に再度詳細を聞きました。
「停泊したのはイースター島。石像はほとんどが倒れていたが、斜めになって立っているものもいくつか確認できた。倒れたものもその顔を12cmのめがね(双眼鏡?)ではよく見えた。友鶴の艦長(艇長?)は今村艇長の次の人、名前はすぐには出てこない。(ちなみに今村艦長は今村将軍の息子(?)で、ジャワでは泳いでいる父親と同じ海域で戦闘行動していたそうです。)行動期間はほぼ1ヶ月。味方の基地より遙かに東という認識はあった。燃料補給は最低2回は受けた。補給はなぜか毎回、夜間に行われた。どうも日本の補給船(給油艦)ではないと言う事は漫然とではあるが、思っていた。艦長からは「この行動の件は門外不出。帰還しても他言は不要。」との指示が出ていた。やっぱり何だったのか分からない。戦友会でも話題にはなったが、「分からない。」となった。当時の機関科の先任下士官とは今でも年数回は電話をしているが、やはり「何だったのか分からない。」と言う。(ちなみに戦友会は皆、高齢(90歳近い人も多い)のためこの数年は開いていません)また、各個人の履歴書にも記載されなかったし、艦の行動記録としても残されなかったはずだ。」父は「誰か知っている人がいたら教えてくれ。」と言いますが、これは永遠の謎になるかもしれないと思います。
gsz
- まず、
>たしかに、環太平洋の島々にはモアイ像に類似したものがいくつかありますが、
>モアイ像のような巨大なものはないはずです。しかも、あんなに点在している
>島はないでしょう。
この件に関して、私も詳細を知りえないので、特に自説に固執するものではあり
ません。ただ、当時「友鶴」が南西方面部隊に所属していたことから考えると、
東太平洋方面を行動することが奇異に感じられたので、上記のような仮説を立て
てみました。
さて、一般にギルバート諸島以東の要地の偵察は潜水艦を用いて隠密裏に行うの
が通例であり、敵哨戒圏内を水上艦が航行することは、常識的に考えにくいと思
います。それがゆえに、小生をはじめて何人かの方が疑問を呈されたのだと思い
ますし、それが普通だろうと思います。
一方、
>停泊したのはイースター島。石像はほとんどが倒れていたが、斜めになって立っ
>ているものもいくつか確認できた。倒れたものもその顔を12cmのめがね(双眼
>鏡?)ではよく見えた。
とありますが、これは期せずして
>イースター島のモアイ像は、フリモアイ(モアイ倒し戦争)でその殆どが倒され
>てしまいました。
と符合します。これをして、「友鶴」がイースター島まで行ったことの決定的
証拠とはなりませんが、一応いわゆる常識で「否定」するのではなくて、一定
の可能性を考えるべきかとも思いました。
その意味で、断片的でも良いですからもうちょっと情報があると調査はしやす
くなるのではないかと思います。たとえば、すでにある情報にもヒントはあり
ますが、
>友鶴の艦長(艇長?)は今村艇長の次の人、名前はすぐには出てこない。(ち
>なみに今村艦長は今村将軍の息子(?)で、ジャワでは泳いでいる父親と同じ
>海域で戦闘行動していたそうです。)
手元の資料では友鶴水雷艇長の変遷は調べがつきませんが、「ジャワでは泳い
でいる父親と同じ海域で戦闘行動をしていた」とある以上、今村艇長の「次の
艇長」の時期を考えれば、当然件の話は昭和十七年三月(一日)以降だろうと
考えられます。また艇長の名前も、時間さえかければ補職年月日などを特定す
ることは不可能ではないと思います。
実は、「補給をどうしたか」に関して言えば、開戦直後であれば、第二十四戦
隊(報国丸、愛国丸)がギルバート諸島のはるか南東のツアモア諸島付近を行
動、最東で西経120度付近まで進出しているので、あるいはこれとの関連も考
えました。しかし、当時「友鶴」が南方部隊に所属していたことや上記の「今
村艇長の次の人」からして、この線も消えたことになります。もっとも、これ
とて開戦直後で警戒がまだ厳重じゃなかった時期だから可能だったのであって、
さすがに昭和十七年三月以降このようなことが可能だったかと言われれば、や
はり一般には難しいだろうと思います。だからこそ、多くの場合の要地偵察は
潜水艦をもってして行うのだと考えます。
ともかく、どこから行動を開始してどこで行動を終了したのかなど、本来南西
方面にある友鶴が東太平洋方面を行動するためには、絶対にパラオなりトラッ
クなり経由するはずですから、断片的にでも良いですからさらなる情報をいた
だければと思います。
ちなみに、「今村将軍」が「今村均」であるならば、「日本陸海軍総合事典」
の「今村均」の項には、一般に親兄弟子供が軍人であった場合は多くの場合に
その旨記載があるにもかかわらず、特に「今村艇長」の該当しそうな人に関す
る記述はありません(無いからと言って、「いない」というわけではないです)。
なお、昭和十七年七月十四日の戦時編制において、南西方面艦隊第二南遣艦隊
第二四特別根拠地隊所属、昭和十八年四月十五日の戦時編制でも同様でした。
ちなみにこの間、「昭和十七年七月上旬にT作戦が行われた」と書いたT作戦は
実際には実施が遅れ七月末に実施されており、友鶴も参加した旨資料にはあり
ます。また、友鶴は昭和十八年一月六日敵機の空襲による至近弾によって浸水・
航行不能となり、初雁に曳航されて十二日にアンボンに到着しています。実は、
この間の友鶴の行動は、小生の手持ちの資料にも何ら記載が無く、これ以上は
別の資料に頼らざるを得ません。
戦時編制上はこうであっても、軍隊区分によって他の部隊に属するということ
はあり得るので、自然に考えればたとえば南洋部隊などに軍隊区分で編入され
ていないかなどを考えてましたが、小生の手元の資料にはその形跡はありませ
んでした。そういう意味でも不可解な気がします。
ということで、もっぱら私としてこの件のみに時間を注ぐわけにもいきません
し、あるいはどなたかが有力な情報や資料を見出してくださるかもしれません
が、とりあえず私も以後留意してみる次第です。とりあえず、行動目的云々は
さておき、そのような行動を採り得る余地があったかどうかに関して、現存の
資料から考えるのが筋かと思っています。
今泉 淳
- 興味をもって拝見させていただきました。そのなかで幾つか疑問を持ちましたので書き込みさせていただきます。謎解きのヒントになれば幸いです。
私の所有する二次資料(光人社、日本の軍艦11)では、開戦前後からの艇長を抜き出すと、
16年4月10日、艇長 菅明次 少佐着任
17年6月30日、艇長 今村清文尉(今村清 大尉あるいは今村清文 大尉の誤植?)着任
18年1月30日、艇長 吉田宗雄 大尉発令
18年5月15日、艇長 羽生秀一 少佐着任
とあります。が、この資料、多分、全ての艇長の人事を記載していないと思います。
水雷艇友鶴がイースター島まで行ったのは戦闘が目的ではないようですが、わざわざ途中で補給する船を配置してまで行く程、重要な物資や人の受け渡しが任務だったのか。そのためには潜水艦では不適切?で友鶴だった理由。
友鶴に補給した船は何処の船か。太平洋戦争中、ドイツの仮装巡洋艦やUボートの中には太平洋まで行動し、日本に寄港した船もあるので、近くで作戦している仮装巡洋艦や補給船などが友軍の水雷艇に接触し補給した可能性もありえるのではないかと思います。
記録に残さないというのも気になります。例えば、日本の勢力圏の外に出るということでは、昭和17年ごろまではドイツと水上船舶を使って人や情報のやり取りを行っていたようですが、その際通常の手続きとして記録していないのかどうかは私は分りません。
masaki ogasawara
- 一点のみ。
>今村清文尉(今村清 大尉あるいは今村清文 大尉の誤植?)着任
今村 清(海兵61期)
ではないでしょうかね。海兵61期の少佐進級は、昭和18年に入ってから(昭和
18年6月1日が最早組)ですから、ちょうど大尉のころなので辻褄はあいます。
また、海兵出身者の61期前後数期の名簿をチェックしましたが、それらしき人
はいませんでした。もっとも、海兵61期には今村正巳もいますが。
水雷艇長への配員が、古参大尉もしくは若手の少佐が通例だったとしたら、そ
れとも整合性もとれます。ただしこれは、
>ジャワでは泳いでいる父親と同じ海域で戦闘行動していたそうです。
と一見矛盾しますが、「友鶴水雷艇長として」とは書いていないので、もし
かしたら「その当時の配置のときに」という意味かもしれないですね。
ということで、取り急ぎ報告まで。
今泉 淳
- 全くの専門外ですがとても興味深い話ですね。
すくなくともロマンはありますしかし、イースター島はそもそも島の周囲
には変な潮流があって島から出た船はいつの間にか戻ってきてしまう
ことがあるとか、優れた漁場が島の近くになく大勢の人間の居住は難しい
という話を聞いたことがあります。
確かに戦略的な意味は薄いむしろ無いといっていいような大洋の孤島に
なんの用があって潜水艦を派遣したのかは不思議ですね。
以下ゴミです
終戦直後にドイツから脱出して南米に逃げ延びたというナチスの残党の
話はよく聞きますが所詮ウワサなのでなんとも言えません。
ラストバタリオンにしてもそもそもこんな部隊があったのかさえ証明
されているわけではないのでどーにもならないのですが。
(アトラスが創ったゲームペルソナ2には黒幕として「ラストバタリオン」
が出て来ますが現実にはその程度の扱いでしかありませんからね)
トラバント