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秀吉や清盛など日本の政治家はなんで危ない奴を遠くに置きたがるのでしょうか。近くに置いておいたほうが監視しやすいと思うのですが alphabette |
- 秀吉→徳川家康の江戸移封,清盛→頼朝の伊豆への流罪ということで考えると従来の地盤からの分離です。移封と流罪を同一に考えることは難しいですが,家康の場合強固な地盤を持つ三河・遠江から引きはがすことそのものが目的であり遠くにやることが目的ではありませんでした。頼朝については源氏そのものはリーダーとなった頼政を牛耳っている以上,京都にいて反平家のリーダーに祭り上げられるのを警戒したのだと思います。
山奥の人
- ついでながら流罪に遭うと事実上死んだも同然です。後醍醐天皇でさえも隠岐では(少なくとも記録に残っている限りは)何もしていませんし、流罪先を地盤に大復活を遂げた頼朝は恐らく唯一の例でしょう。
山奥の人
- 頼朝の場合、源氏の本来の拠点である関東に近い場所に流罪となったというのは幸運でしょう。いかに伊豆より京に近いといっても、四国や九州などの西国(平家の勢力が強い場所)に流されていたら、おそらく再起不能だったと思います。
A-140
- 頼朝の場合に限定して話します。
保元の乱と平治の乱は、いずれも京都の支配を巡っての短期間の市街戦で決着がつきました。このような戦いでは、京都から遙か離れた東国にいるものは圧倒的に不利です(政治情勢にほとんど影響を与えられない)。流罪人頼朝が、東国で軍をあつめても、それは京都の政治にほとんど影響力を持たない(せいぜい平将門の乱程度の騒ぎしか起こせないだろう)と、清盛は考えたのだと思います。
まあ、「次の戦争」を予測するのは極めて難しいという一つの例でしょう。
カンタニャック
- 追加
家康の場合も、秀吉は「京から遠ざける」という意識を持っていたのではないかと思います。
カンタニヤック
- 頼朝について、池宮彰一郎の小説「平家」(日経新聞連載中)によると、清盛は彼が流された蛭が小島を絶海の孤島だと考えていて、よもや伊豆国府のすぐ近くとは思いも寄らなかったのではないかとある。流罪に立ち会った平家関係者の中には、正確な場所を知っている者は当然いただろうけど、平家の系統である北条氏が彼を始終監視しているから安全だと考えていたようで、この北条氏が裏切ったことが清盛の最大の誤算ではなかったかと思う。
ところで、政権にとって危険な人物を政権の拠点、政治経済の中心地の近くに置いておく位なら、即、処刑しているだろう。ただ重要人物を都で処刑すると、その支援勢力からかえって強い反発を招きかねず政権のイメージも悪くなる。その人物にもよるのだろうが、遠流にしてある程度自活できるだけの生活を保証しつつ外部との情報連絡を絶ち、反政府勢力の自然分裂・解体ないし個別撃破を図るのがむしろ賢明なやり方かもしれない。ナポレオンも二回、遠流になっているしね。
アリエフ
- 近くには自分の側近・信頼できる有力武将を置くことになるから、遠くへ追いやるしかないんですが……。秀吉でいえば、家康を関東移封した上で、その周囲に子飼い大名を配して警戒の任にあたらせていましたし。
これをさらに押し進めたのが家康で、主要地域とその途中経路になる要所要所に親藩・譜代を配して、江戸を幾重にも守る布陣を敷いていますね。
tac
- ご回答ありがとうございました
alphabette