564 |
『陸軍大学卒業徽章(いわゆる天保銭)』についてお尋ねいたします。 1)相当に、しっかりとした文献でも、陸軍大学卒業徽章は、終戦まで陸大卒業生に授与されたようなニュアンスで書かれたものもあるのですが、「明治20年10月制定(勅令第53号)〜昭和11年廃止(軍令第3号)」と書かれた資料を見つけました。これは、間違いないと考えていいのでしょうか? 2)上記1)が正しい場合、制度はなくなったが、制度廃止後も慣例として陸軍大学卒業徽章が卒業生に授与(配布?)されたような事はなかったのでしょうか? 3)制度廃止後としても、もしも陸大卒業生でない士官が陸軍大学卒業徽章を着けた場合は、軍法違反とならないのでしょうか? 特別攻撃隊に陸大の卒業生が、おられたかどうか調べていくうちに、上記の疑問に行き当たりました。宜しくお願い致します。 roht |
- 1)は間違いないのではないでしょうか。既付与者が卒業記念章を軍服に着けることまでが禁止されたはずです。何か例外のようなものが見受けられるのでしょうか?形としては昭和十八年十月に設けられた隊長記章と陸軍飛行操縦術習得記章」が「天保銭」と似ていたとのことですが。
BUN
- BUNさま。有難うございます。
以前「陸大の入学条件」のご質問をさせて頂いたのは、これにからんででした。
実は、士官学校出身の陸軍航空兵のある中尉さんが、陸軍大学卒業徽章(いわゆる天保銭)を着けておられる写真があるのです。説明文には「右胸(ママ)についているバッチは、陸軍大学卒業者のみが付けることが出来た天保銭といわれる特別章だが・・」とありますが、うまく話しをぼかして陸大を卒業したとは書かれておりません。バッチは、小さくしか写っておりませんが確かに陸軍大学卒業徽章と思います。他のサイトで見た模造品の写真のそれによく似ています。陸軍飛行操縦術習得徽章は、手許にありますが(ただし下士官用か?)これとは違うようです。隊長記章は、見たことがありませんのでわかりません。撮影日時は昭和20年3月25日と思われますが、定かではありません。なおこ中尉さんは、私の調べた範囲では陸大は卒業されてはおられないようです。
roht
- 何回も何回も観た写真ですが、2>を、書き込んで後、この写真を観ていたら、もう一つ大変におかしい(不思議な?)事がこの写真にある事を、たった今、発見しました。ふつうには有り得ないと、私には思われる事です。心霊写真ではありませんが、なんだかこの写真の持つ謎が解けそうに思われてきました。合掌。
roht
- 3)は「異装」としてならば黙認されたのかもしれません。将校の身分(終身官)を持つ限りは、軍装違反で送検される事はないと思います。とっくの昔に改正されたのに、昔のままの肩章をつけ、兵科定色のついた立襟軍衣を着けている将校はいましたし(なにか主義があってそうしている場合や、至急の応召者が改正後の軍服を新調する時間がなかった場合など)、廃止された徽章類も自分のでなくとも、周囲の了解のもとに何かの記念や意思表示のために着けている場合があり得たと思われます。将校准士官以上の服制は規則で決ってはいるけれども、原則が私物なので、正規服制の「代用」として着ける限りは、わりとマイナーチェンジや異装がきいたもののようです。
あるめ
- あるめさま。ご教授有難うございます。
この写真は、特別な記念写真として撮られたものと思われますので、ご指摘
どうりかも知れません。もうすこし調べてみます。
BUNさまご指摘有難うございました。
『日本陸海軍航空英雄列伝』のなかに、『隊長章』の写真を見つけました。
見比べたましたところ、これに、極めて類似しております。
また着用部位も天保銭のその場所ではなく隊長章の着用部位に近いようです。
そうだとすれば、話は全く合点がいく事になります。もう少し調べてみます。
roht
- 当該写真は『陸軍航空隊の記録 第2集』28頁下段の、小西中尉と四宮中尉のものと思いますが、小西中尉が下げているのは第18振武隊長としての「隊長章」であり、陸大卒業徽章ではありません。他の写真では下げていないのに、このカットだけ下げている理由は分かりませんが。
小西氏は昭和18年5月、航空士官学校56期卒業。明野乙学を経て19年はじめ、調布の飛行第18戦隊に配属。そして19年12月5日、振武隊第1飛行隊長(のちの18振武隊)拝命という経歴ですが、陸大には行っていませんし、彼に限らず、56期生の場合には、年齢的にその可能性はないはずです。
残念なことですが、この写真の件だけでなく、『陸軍航空隊の記録 第1集、第2集』のキャプションは、何も知らない(としか思えない)人物が書いたお粗末なもので、真に受けない方が無難ですし、第2集の「B29に馬乗りになった男」という記事は、「作り話」です。
それから、「操縦徽章」は「隊長章」とよく似ていますが、戦時には将校は下げていません(下士官は下げていた)。
なお、本写真のキャプションには「将校クラブ」などとありますが、これは調布飛行場の将校集会所ではなく、両隊が宿舎としていた「日本郵船飛田給錬成場」の一室です。また、将校集会所にはピアノなどはありませんでした。当方の244戦隊ホームページ http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/ もご参考になさって下さい。
櫻井
- 櫻井さま有難うございます。
桜井さまのページには、昨夜お伺いいたしまして一応拝見させて頂きました。
(以前にも何回かお伺いいたしておりましたが、特に問題意識を持たずに拝見
いたしておりました。)
さらに、桜井様にもご質問のメールをその時点でお書きしたのですが、桜井様が、
『陸軍航空隊の記録』の、誤りを沢山ご指摘しておられのに、この事には一切
触れておられなかったので、更に、ご専門家の御意見もお聞きし再考してからと
思いメールの下書きに保存いたしました。)
この写真に私がこだわった訳は、時間のゆっくりあるときに、ちゃんとまとめて
もう一回書かせていただきます。
申し訳有りませんが、この徽章が 「陸軍大学卒業徽章」ではなくて「隊長徽章」 であるという状況証拠以外の確証をお持ちであれば、お教えくださいませ。
宜しくお願い致します。
roht
- 「状況証拠以外の確証」と言われますと、私もちょっと困りますが、これは、キャプションを書いた当人が一番知っているのではないでしょうか。
それはそれとして、小西氏の胸の徽章は、中央の「☆」の小さいことが印刷でもはっきり分かります。しかし、天保銭 http://plaza.harmonix.ne.jp/~ttn/tenpousen_001.htm は、「☆」が隊長徽章より倍ほども大きく、見た目にも違います。また、244戦隊史のために集めた写真の中に隊長徽章の写ったものも数枚ありますが、これらと比較してみても小西氏のものは間違いなく隊長徽章です。
飛行戦隊レベルには陸大出などおりませんので、私も陸大に関する知識などゼロに近いのですが、今回、俄勉強の結果、陸大本科の修業年限は3年(専科は1年。ただし大尉、少佐が対象なのでこの場合関係ない)だそうです。そうすると、56期生が乙学を終了した18年12月の時点で陸大に入ったと仮定しても(現実には有り得ないが)、終戦時でもまだ在校中となってしまいます。
どうも陸士と海兵を混同しているらしいことも合わせて、このキャプション自体が、ただの「思い付き」か想像で書かれているということが分かると思います。
櫻井