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ぺリリュー島戦で、守備隊は最後どのように玉砕したのですか? また、守備隊の中に関東軍がいたってのは本当でしょうか。 MFS |
- 「守備隊に関東軍がいた」のではなく、関東軍から引き抜かれた第14師団がパラオ防衛に転用され、その中の歩兵第二連隊がペリリュー島に配置されていたのです。
最後は、昭和19年11月24日に指揮官の中川大佐が自決し、連隊副官の根本大尉以下数十名が遊撃隊を編成して斬り込みを行いました。
もっとも主力とは離れた場所で生き残った将兵も数十名は居り、彼らは終戦まで(中にはそれ以降も)ペリリュー島に潜んでいました。
TETSU29
- どうもありがとうございます。
もっと勉強してきます。。。
MFS
- 守備隊の無線機の電池が残り少なくなったので、最後の突撃の際の合図を「サクラ、サクラ」と決めておいて、玉砕のときこの信号を師団本部に打電した、というのは有名ですよね。ペリリューでは攻略した米軍の死傷者が日本軍のそれを上回り、「天皇の島」という名を奉られたそうです。米軍が上陸した海岸は兵士の流血で色が変わったため「オレンジビーチ」と名づけられ、いまも地名として残っています。
Sampon
- ↓パラオ諸島で検索していた時に見つけました。
ペリリュー島攻防戦についてかなり詳しく載っています。
http://isweb5.infoseek.co.jp/school/cb1100f/rasinban2.htm
Take