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ルース・ベネディクト『菊と刀』の中に次のような一節があります。 西欧の兵士たちと日本の兵士たちとの間のもっとも顕著な違いは、確かに後者が俘虜として連合軍に協力した点であった。(中略)これらの連中は模範的な俘虜以上のものであった。長年軍隊のめしを食い、長い間極端な国家主義者であった彼らは、弾薬集積所の位置を教え、日本軍の兵力配備を綿密に説明し、わが軍の宣伝文を書き、わが軍の爆撃機に同乗して軍事目標に誘導した。(後略) このような事例が具体的に書かれている本・サイトありますでしょうか(特に最後のが気になる)?とりあえず『米軍テクニカルマニュアル1944』、『玉砕の軍隊・生還の軍隊』読んでみましたが、たいしたことは書かれていませんでした。 PS、この本、「事実」だけを読んでも充分に面白いんですが、間違った日本人理解にも一役かっているんだろうなぁ。 バツ |
- 『日本本土爆撃中の米軍機に同乗している、日本兵』みたいなキャプションの写真を何回か、丸?で見た事があります。いつも同じ写真でした。(左後方から機内の日本兵を写していたと思います。)
ogurenko
- 司馬遼太郎の本に、日本には敵に降伏したからには敵のために尽くすべきだとするような風土が元々有り、西南戦争時、降伏した西郷軍の捕虜が聞きもしないのに軍機をべらべら喋ってしまうので、危機感を覚えた山県有朋が「生きて虜囚の辱めをうけることなかれ。」的な精神主義を軍隊内に持ち込んだと有りました。(本名忘れました。最近こればっかりだ、惚けてきたかな…。)
捕虜になるな、と言っている軍隊が捕虜になったときの心得、権利・義務など教育しているはずもなく、その分、西欧の兵士以上にべらべらしゃべったことはありえると思います。
山奥の人
- 「菊と刀」については児島襄さんがいくつかの著書で考察されてます。
とりあえず、新潮文庫の「誤算の論理」あたりを見てみては。
まなかじ
- ゴミですが。
西洋のチェスでは獲った駒はそのまま放置されるが、
日本の将棋では自分の駒として使って良い、とか言いますね。
便利少尉
- 有名な話としては「魁男塾」の・・・ごめんなさい。
戦史を読んでいると所々でてきます。バツさんの具体的がどの程度をさすのか分かりませんがビル.D.ロス著「硫黄島勝者なき死闘」には捕虜となった衛生兵が米軍の道案内をしているという記述があります。
いおーじま
- ありがとうございました。本はまだ読ませてもらっていないのですが、ベネディクトも書いているように、捕虜となる教育をしていない以上そのような事態も仕方なしだと思います。
>5、このエピソード読んだときに一番に思い浮かんだのがそれでした(笑)。
バツ
- 1)1929年7月、捕虜の人道的待遇を細部にわたって定めた「俘虜の待遇に関するジュ一ネーブ条約」に調印した日本政府に軍部が、「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざる」ものとの理由で反対、結局、批准することが出来なかった。
2)太平洋戦争でも、日本政府がジュネーブ条約の「準用」を約束したにもかかわらず、軍部はこれを無視することもよくあった。
3)連合軍捕虜に対する取扱いも極めて過酷なものとなる事もよくあった。
4)従って、日本兵は捕虜となった時の権利や身の安全の保障が認められていることを教えられる事無く(捕虜になる事を禁じられているのだから当たり前)知り得なかった。すまわち、捕虜となった時の義務として、自分の氏名、階級、生年月日、所属部隊、は正確に言わないといけないが、それ以上の自国の作戦計画などの情報は言わなくてよいということ、またそれだけで自分の身の安全が保障されることをまったく知らなかった、知り得なかった。
5)したがって、自分達も捕虜になれば、自分達が捕虜を扱ったように過酷に扱われて当然だと思っていた。
6)その過酷な扱いから逃れて自分の身の安全を守る為には、敵にゴマをするのも一つの方法であろう。よって敵のご機嫌を取るために、情報を漏洩する事になった。
(注)『わが軍の宣伝文を書き』 ただしこれは、すこしニュアンスが違うかも知れません。捕虜になった後、現実の戦況を知り、自分達の立場を理解し、友軍の戦友を助ける為に、なされた行為である可能性が極めて高いでしょう。現に友軍に投降を呼びかけるマイクを持ち、友軍に狙撃されてなくなった方も何人か(も?)おられたはずです。
以上に反し、連合軍の兵は、これらの権利をよく知っていた。従って日本軍の兵は連合軍に比べてよく情報を漏らすことになった。
roht
- この事(捕虜の敵に対しての情報漏洩利敵行為)に関しては、一冊全部この事について書かれた、立派な単行本があります。
約10年ほどまえに読みました。どこかに有るはずですが、今、見つかりません。抽象的な書名だったように思いますが、分かりません。掲載されていた写真は 1>ogurenkoさま、と同じ写真かも知れませんが、本土ではなかったように記憶しています??がはっきりはしません。もし出てきたらまた書きます。
roht
- >7,8
「自分達も捕虜になれば、自分達が捕虜を扱ったように過酷に扱われて当然だと思っていた。」
というのは多くの場合錯覚だったわけですが、連合軍の日本軍捕虜に対する扱いも必ずしも紳士的だったわけではありませんね。前線で米軍兵士が日本軍捕虜をどう扱ったか、ジョン・ダワーの「人種偏見」などに記述があります。この本に書いてあったか定かでありませんが、日本兵捕虜の監視を命じられた米兵が「ずっと見張っているのがつらい」という理由で射殺してしまったり、また捕虜を輸送中の飛行機から突き落としたりという事例があったそうです。
Sampon
- 9> そうですよね。戦勝国による、敗戦国人だけに行われた、C級、B級、いいえもっと言えば、A級、でさえ戦犯裁判って、いったい何だったのでしょうか。(最近、議論ボード2でも、よく似た話題がありましたが。)
roht
- 捕虜になった人の回想で「生きて捕虜になった等恥ずかしくて親兄弟に顔向けできない。家族の立場や、生活を考えるともう故郷へ帰る事はできないと思い、日本人である事を捨ててアメリカで生きていこうと思い米軍に協力した」と言うような意味のものを見た事があります。(ちなみにこの方は日本の放送の翻訳や通訳等をしておられたそうです)
こういった考えは戦陣訓が制定される前から有り、ノモンハン事変の捕虜にも帰国を拒否し、自分の意思でソ連に残った人が居たそうです。
申し訳有りませんが本のタイトルは覚えていません、わりと新しい本だったと思います。図書館で読んだと思うのですが・・・。
ごまめ
- ごまめさまの、↑がありましたので更に書きますと、「生きて日本軍に戻されたら、必ず殺されるであろうから絶対に帰りたくない。」という心理もありました。現に捕虜交換で戻された航空兵が、上官より拳銃を渡されて自殺を強要され、死んだ事も有りました。
また事実はどうかわかりませんが、手許の書籍には、「日本軍は、自軍の捕虜を、金銭をもって買い戻し殺した。」とか、「捕虜交換で、帰ってきた自軍の捕虜を機関銃の掃射で皆殺しにした。」とかいう事が、信じられており、「捕虜になっている間一番恐かったのは、捕虜交換で友軍に戻される事であった。」と書いている中共軍の捕虜になった方の手記が在ります。
中共軍が、出ましたので便乗質問させて頂きます。宜しくお願いいたします。
『中京軍の捕虜たいする扱いは、極めて人道的で立派であった。と聞いていますが、中共軍の日本軍の捕虜に対しての扱いを、非難したり批判した資料や文献は、ないのでしょうか? また国民党の捕虜にたいてはどうだったのでしょうか?』
roht
- >12
祖父に聞いた話です。終戦直後祖父の部隊は中国軍(多分国民党軍)に武器を引き渡したそうですが、このとき武器と一緒に中国軍に仲間入りしちゃう兵士が結構いたそうです。この話、ぼくはいまだに半信半疑ですがね。
この質問、正規に書き込みなおしてみては?それだけの価値があると思います。
赤頭