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文禄・慶長の役で家康は何故、軍役を免れることが出来たのですか。秀吉にとって家康の力を削ぐ絶好の機会であったはず。家康の反発を恐れたから?既に臣従してしまった家康にそんなことは出来なかったはず。歴史資料・小説にもそのことについて全く触れられていないのも不思議である。 越谷 |
- たしかに名護屋城在陣組として一万五千の兵を率いていますが渡海はしなかったようです。しかし渡海組は九州、四国、中国地方の大名や秀吉子飼いの大名が中心になっていますから、ただ単にいくら臣従しているとはいえ関東の家康を無理に渡海させる理由がなかったのでは・・・。
ゆゆゆ
- 黒田如水が戦果が思わしくないことに「これほどの戦の指揮がとれるのは自分か家康公ぐらいなのがわからんのか」と、秀吉に聞こえよがしに皮肉を言ってるので、秀吉自らが家康に行かせたくなかったんでしょう。そもそも負けるつもりで始めた戦じゃないですから。行かせたメンバーからして「力をそぐ」という方向の発想じゃないですしね。
アナーキャ
- 直接の答えにならないでしょうが「雑兵たちの戦場」という本を読んでください。
朝鮮攻めにはなんともやりきれない背景があったんです。
あかがしら
- 回答していただいた皆様に感謝いたします。自分が思うに家康に報酬を与えなくてはならなくなることを危惧したから−かといって江戸に留まらせて力を養わせるのも許せないのでとりあえず名護屋城に留め置いたのではないのでしょうか…。
越谷