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戦国時代に関する質問ばかりですみません。長篠の合戦で織田・徳川連合軍が用いたという「馬防柵」に関してなのですが、「鉄砲三段打ち」とは異なり実在したという事ですね。しかし武田軍側が背後または側面から回り込めば「馬防柵」の意味はなくなると思うのですが。それをしなかった武田軍側がマヌケだったのでしょうか?そうされることを予測しなかった織田徳川連合軍側もマヌケな気がします。 葡萄家 |
- 長篠の合戦のことをどの位お調べになられましたか?
容易に側背に迂回できる地形ですか?
まっ平らな平原のど真ん中に馬防柵を築いていたのですか?
TETSU29
- 本長篠駅からJR飯田線に乗って数駅の間、窓から眺めていれば、この辺がいかに起伏・変化が多い地形かよくわかります。幅も数キロ程度か。そして、織田・徳川連合軍は武田軍の数倍の戦力で戦い、周辺の山にも部隊を配置したのであり、寡勢の武田軍が織田・徳川の隙間を突き背後に回りこむことは難しかったと思います。
アリエフ
- 武田方の山県昌景隊は、実にそれをやろうとして大損害を出したような気がするのですが。
武田側から見て左翼端からの迂回を試み、しかし連子川の渡河点で阻止されたような。
とにかく、馬防柵は最終防衛ラインとして作ったもので、主陣地線は連子川にあります。長篠合戦図屏風を見ましょう。川を前に、柵を背に鉄砲隊が布陣しているはずです。
空壕あり土塁ありで、しっかりとした野戦築城を施した陣地を連子川沿いに作り、それさえも抜かれたときのことを考えて馬防柵を作ったというところではないでしょうか。
まなかじ
- 長篠の合戦はテレビや小説等ではとかく鉄砲と馬防柵がクローズアップされますが、それ以外でも信長は用意周到な準備で自軍に有利な状況を作りだしてます。(兵力差、武田軍を自信過剰にさせ設楽高原におびきだす・・・等)
件の馬防柵については川沿い2000メートルに渡って空掘りを掘り土手を築き、さらに馬防柵を三重に張り巡らし、その後ろに鉄砲隊を待機させ柵外側面にも300挺の鉄砲隊を置いたとあります。
現に武田軍の山県隊が側面へ迂回しようとしましたが徳川軍大久保隊に押し返されたのことです。ちなみにこの働きを信長が賞賛しみずから褒美まで与えてます。
百戦錬磨の信長が背後をつこうとする武田軍に対する備えをおこたっていたとは思えず、信長が設定した戦域に武田軍が誘い込まれたことが大きな敗因だと思います。
信玄亡き後の武田軍にしてみれば相手が悪すぎたということでしょうか。
ゆゆゆ
- 地形も険阻ですし、兵力も織田・徳川連合軍が圧倒的でした。そのため、馬防柵などの野戦築城陣地は織田・徳川連合軍が勝利を得るために必ずしも必須の条件ではなかったと思われます。また、馬防柵が本当に障害物として使われていたのかということにも疑問があります。同時代のスペイン軍が火縄銃使用時に支持架を使用していたことを考えると、照準をしやすくするための補助装置であった可能性もありますね。
アクスブリッジ