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499 第二次大戦で
ドイツは何故レニングラードを攻略できなかったのでしょうか?
もしくはなぜ本腰を入れて攻略をしようとしなかったのですが?



カレイ

  1. 本調べてもわかりません教えてください。
    カレイ

  2. 総統の指示を守ったから、と言う回答でどうかな?学研から出ているカレル・パウルの独ソ戦の本(最近、文庫本にもなっている)読んでみてください。そもそも戦線が広大過ぎる上に、41年の開戦から10月頃にかけて、レニングラード・モスクワ方面とウクライナ方面の何れかに、終始、戦力を集中させることができなかったことが、最大の問題点だったと思いますが。
    アリエフ

  3. そうだったんですか・・・モスクワやスターリングラード、クルスクより難易度が
    低いような感じがしますが、ありがとうございます。
    カレイ

  4.  41年夏の段階では、ホートの第3装甲集団を北転させていることからもわかる通り、レニングラートをないがしろにしているとは思いません。秋になったら、ドイツ軍の最大関心事は「タイフーン」ですから、レニングラートから装甲兵力を引き抜くのもしかたがないでしょう(対比:ミッドウェイ作戦と同時にアリューシャン作戦を行った日本軍がどういう評価を受けているかご存知でしょう?)。それでも冬にかけては、レニングラート完全包囲を目指してはるかティフヴィンまで侵攻し、赤軍の必死の反撃を受けて泣く泣く後退しているのですから、やる気はあったと思います。
     冬から春にかけては、何波にもわたる赤軍の反攻への対処・再反撃で忙しく、とてもレニングラート攻略にかかる余裕はありません。夏になって、ようやく余裕ができたので、セヴァストーポリを陥としたマンシュタインの第11軍を呼び寄せて、攻略作戦を計画しています。ところがまたもや赤軍の攻撃があり、その対処に夏じゅうかかってしまいます。
     気がついたら秋で、その間に南方でちょっと困ったことがあったので、マンシュタインは去って行ってしまいました。
     このように、ドイツ軍は常にレニングラート攻略を目指して努力していたのです。それでもレニングラートが陥ちなかったのは、赤軍も必死に反撃して、ついに攻撃を阻み通したからだと言えるでしょう。この間の赤軍の損害は、想像を絶する数にのぼっています。
     41年の夏の段階でレニングラート攻略ができなかった理由は、「電撃戦と要塞都市攻略を同時に行うことはできない」ということに尽きるでしょう。電撃戦の基本は、「堅固な陣地は迂回する」ということです。迂回できない陣地は、歩兵が来るまで陥とせないのです。

    大名死亡

  5. 上で詳しく経緯が書かれておりますが、タイフーン作戦を実施しないか規模を縮小し、モスクワ方面への進出を優先し、装甲師団をレニングラード東方に進め、ムルマンスク方面からの輸送ルートと東からの同市への補給を遮断していれば、レニングラードは早期に落ちたかもしれない。41年夏のドイツ軍の戦略については各種の議論があるが、結果論になるけど、ドイツ南方軍がもっと迅速に進撃しウクライナ方面からの脅威を取り除いていれば、タイフーン作戦は不用だったかも。
    アリエフ

  6.  41年夏に関して、多少補足を。作戦/戦術的なことです。
     確かに、陣地化された都市でも、奇襲モーメントを保持したまま突入して占領できた事例はあります。南方軍集団のロストフや、アフリカのトブルク(ガザラ後の追撃戦)などです。しかしその場合は、周囲の敵がことごとく敗走しているか、著しい士気阻喪状態である場合に限るように思われます。現に、ロンメルの第一次攻勢の時のトブルクや、マンシュタインの第一次セヴァストポリ攻撃では、相当勢いのついていた攻撃側が、都市守備隊に撃退されています。
     翻ってレニングラートでは、周囲にまだ赤軍がうようよいる状況です。レニングラート軍管区の部隊は、兵力の余裕は少ないとはいえ、ほとんど前線の敗走の影響を受けていないでしょう。士気が低下しているとはいえ、ナルヴァやオラニエンバウムの大兵力も無視できません。ノヴゴロトにも敵の大兵力が残っています。
     この状況下でも、レニングラート強行突入はやればできるかもしれません。そうなったら、赤軍は軍管区単位の士気崩壊を起こして、ごっそり壊滅してくれるかもしれません。キエフのようにそうなってくれれば、賭けは大成功です。しかし、もしそうならなかったら、第4装甲集団はレニングラートに包囲され、救出する戦力もなく、北翼は崩壊するでしょう。
     これほどまでにリスキィな作戦を敢行できるのは、おそらくロンメルくらいなものでしょう。しかし、多少なりとも常識を重んじる司令官ならば、「突入したあと」のことを考えて、歩兵と第3装甲集団を待つでしょう。そしてそれが、史実の北方軍集団と第4装甲集団がとった策だったわけです。突入そのものの実現可能性よりも、そのあとのことの方が重要だったのでは、ということです。

    大名死亡


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