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日露戦争時の第三軍に関しての質問です。 たまに第三軍の司令部は「総司令部等で要らないと判断された者ばかりが集まる無能者の集団」と書かれるのを見かけますが、それが事実だとして、そんなずさんな人事をやっていられる余裕が陸軍にあったんでしょうか?? 第三軍司令部の構成員を見ていると、そういった形跡は見あたらないのですが。構成員達は、伊地知参謀長以外は陸軍大学校出、しかも優等卒業者が多かったです。ほとんどが外国に留学しています。その経歴を見る限り、むしろすばらしい人材と判断されたはずでは? 私の考えでは、第三軍司令部が「無能者の集団」になったのは旅順陥落後だと思いますが・・皆様はどう思われますか? m |
私はその集団が何をしたか、何に成功しどんな失策を犯したか、には興味がありますが、無能だったかどうかについては全く興味がございません。
BUN
1.旅順の時 硬直したように同じ攻め方を繰り返した事、
2.奉天開戦で一時行方不明になった事
ですが、伊地知さんは果たして硬直だったのか?幕僚が硬直だったのか?
日本では幕僚が固いですから多少トップが良くても、硬直が直らんままダメな場合が多い長野県のダムは止められるか??
28センチ砲
というのが一般的評価であり私も賛成、
ただし無能者まで言ってもいいかというと、
他の師団、軍団が行っても同じ結果であった可能性もある。
なんで海軍はあんなに早く落とせ、落とせとせっついたんでしょう??
無理責めのもととなり大損害の元凶です。
実際は余裕があったのにーー
ということで無能の根拠は??
28センチ砲
ロシア第二太平洋艦隊がノシベであんなに長々と休憩するとは思わなかったからじゃないですか?
第三太平洋艦隊を待っていたといっても、こいつは完全に足手まといの御荷物艦隊だったわけですし、常識的に考えたら、ロジェストウェンスキーの本隊だけで急行すれば、あと3ヶ月は早く対馬に着いていておかしくないような気がしますが。
第三太平洋艦隊と合同するより、旅順の第一太平洋艦隊と合流する方を優先すべきだったような…勅命とあれば仕方ありませんが。
まなかじ
まず、最後の段落で言っている「無能者の集団」とは、「他の司令部で役に立たず(第三軍に)追いやられた者の集団、という意味です。
説明が足りませんでしたね。申し訳ありません。
旅順陥落後の第三軍司令部の編成を見ていると、そんな兆候が見られると思います。参謀長は結構いい人材をもらえたようですが。・・汽車から落ちたり、着任した時には重病人だった・・と大変でしたが。
ただ、後世において第三軍ばかりが明確に無能扱いされている事が疑問です。
別に第三軍が素晴らしいとは言いませんが、他の所だって、旅順攻略時の第三軍と同じように固定観念に囚われていた事があったろうに、というのは素人考えなのでしょうか?
最近は、後世で有能無能と判断されている基準は結果論ではないのかなあ、と思っています。
・・現実でもそうかな??
m
tomo
乃木希典は、連隊長、旅団長、師団長、そして軍司令官であったときの全部において実戦の経験をもつという陸軍八十年の歴史においても極めてめずらしい存在で、他の軍司令官と年齢を比較すると彼の出世の早さがわかります。
野津64歳 黒木61歳 奥59歳 乃木56歳
伊地知幸介は同期のトップをきって少将になっており、エリートコースをまっしぐらに歩いていた人物です。伊地知はその後、同期の長岡や井口よりも三年はやく中将になっています。
日露戦争の第一軍から第四軍および鴨緑紅軍の参謀長をつとめた人間は全部で九人で、その中で男爵になったのは、伊地知と第四軍の上原勇作の二人だけ。また日露戦争に出征した少将の中でもこの二人だけです。
参謀副長の大庭中佐も、同期の四人のうち半年から一年も早く大将になっています。
伊地知は病気になったため大将にはなれませんでしたが、第三軍の幕僚中、大庭・河合・菅野・井上・磯村、攻城司令部の奈良・吉田、そして最後の第三軍参謀長であった一戸兵衛をいれると、八人も大将がでており、こんなに大将がでたのは他にはありません。
これを見ると、第三軍の人材は非常に高く評価されていたエリートの集団といわざるをえません。
伊地知の旅順攻撃が後の軍部内で悪くいわれるようになった原因としては、
1 総司令部や大本営い対し、攻撃失敗の原因を弾丸の不足にありとし、きびしく弾丸の補給を要求したこと。
2 仲の悪かった井口が明治三十九年二月から大正元年十一月までの六年半の間に、陸軍大学校の校長をつとめており、そのときに旅順要塞攻城作戦の講義録(『機密日露戦史』)がつくられたせい。
などが言われています。
1などは、ある小説では、責任の転嫁のように書かれていますが、要塞を攻めるのに火力が必要なのはあたりまえのことですね。
celetaro
備蓄の算段も行なう)や運用方法の総元締めでした。平たく言えば砲弾の備蓄状況は、
知っていた筈なんですね。
それが、旅順戦では攻城砲の不足、砲弾の不足について本国や満州
総軍に文句を言います。台所事情の苦しい総軍としては、
まわしたくともまわせません。
貧乏の悲哀ですね。
このやり取りが続く内お互い感情が剥き出しになった模様で、
国会図書館に所蔵されている児玉源太郎の手紙には、かなりキツイ文句が書かれています。
要約すると「全部、お前が戦前に原因を作ったんだろうが!文句を今言うな!」
この件に関しては
単にかつて実戦で補給の苦労をみてきた児玉と実戦が初めての伊地知との視点の違いだったかも知れませんが。
かたや「無いなら、もらった分で工夫しろ」かたや「工夫したくともできんのだから砲弾をよこせ」
このほか第3軍から後に鴨緑江軍に編入された第11師団ですが、
旅順と同じ様に露西亜軍の野戦陣地に芸の無い銃剣突撃を行ない、失敗します。
一緒に攻撃した後備第1師団の方が支援砲撃等を工夫する芸のある突撃を行ない、
この陣地を占領しているのに対して。
最後に旅順攻撃における最大の失敗について、
第一回総攻撃で第9師団が要塞線の後方にある望台と言う高台にここまで部隊として進出してしまっています。
正に“進出した”じゃなくて“進出してしまった”でしょう。あの要塞群の火線を避けながら
(それでも小さな保塁は占領している)ですから。しかも、第9師団の師団司令部まではこの事を知っていた様です。
しかし、そこから第3軍司令部へは遠すぎて、連絡がタイムリーに届かない。
そして、軍司令部からの総攻撃中止命令。望台に進出してしまった部隊は撤退します。
軍司令部が知ったのは、第9師団の部隊が撤退した後でした。
第9師団の戦闘詳報(の様なもの)は、軍司令部に対する恨み節に満ちた文章で埋められていました。
今でも、あそこで予備を第9師団の戦線に投入し、無理攻めすれば、第一次総攻撃で旅順陥落とは行
かなくても主要塞線のかなりの保塁を露西亜軍は放棄したのではないかと言われています。
そうなっていれば、四回もの総攻撃を行なう事も無かったでしょうし、無意味に兵を壕の埋め草にする事もなかったでしょう。
連絡手段が整っていない時代の悲哀といえばそれまでですが、
機会を自ら潰したのが参謀長の意見だったというのが伊地知参謀長への
批判の始まりでしょう。
もっとも総軍も黒溝台で似たような失敗をしていますが。
事実隠蔽に成功してますからね。
これから考えるに、旅順攻撃時の第3軍の場合、作戦指導がまともに行われていたとは、
考え難いです。
木
文頭の『彼』は伊地知を指しています。(汗)
木
軍司令部があったのは柳樹房で、死闘を繰り返した東鶏冠山北堡塁との直線距離は七・二キロです。半年におよぶ長期間の要塞攻撃における軍司令部の位置としては史上でもまれにみる近さです。支那事変や大東亜戦争時の軍司令部の位置とくらべてみれば、戦線からの近さは傑出しています。
乃木軍司令部が退却を命じたときの軍の戦闘指令所は団山子東北方高地にありました。ここから激戦地の東鶏冠山までは直線距離わずかに三キロです。敵砲兵の完全な有効射程距離内であり、眼鏡をつかえば、戦況は手に取るようにわかる距離です。
第三軍が戦闘を中止した最大の理由は、砲弾が底をついたことです。
一戸は新鋭兵力があれば望台の奪取も可能といっていますが、それには新鋭兵力が絶対に必要です。
しかし、そのような兵力を第三軍はどこにももっていませんでした。
第十一師団も第九師団に劣らぬ損害を出しています。
第一次攻撃における状況は以下のようになっています。
日 戦闘総員50765人 死傷者15860人
露 戦闘総員33700人 死傷者 1500人
城や要塞を攻めるのには、私が知る限りでは、普通6倍から10倍以上の戦力が必要とされているようです。にもかかわらず、日本軍の戦力は2倍にも達していません。露軍が要塞内という圧倒的に有利な地勢にあるにもかかわらず、第一次攻撃中止時点の戦力比は日露でほぼ拮抗しています。死傷者の数をみると、砲弾もなしにさらに攻撃を続ければ、戦力比は逆転しかねない状況でさえあります。
攻撃の中止命令がだされたとき、一戸旅団長が掌握していた兵力はわずかに二個集成中隊とほとんど全滅に近い損害をだしていた第七連隊第二大隊の残存兵力にすぎませんでした。
つまり、あのまま砲弾も増援もなしに攻撃を続ければ一戸旅団をまっていたのは玉砕以外のなにものでもなかったと思います。
また、一部の小説などの描写にあるように、旅順要塞攻撃にあたって、第三軍は決して銃剣突撃一辺倒な攻撃をしているわけではありません。
第一次攻撃において、第三軍は攻撃準備射撃(日露戦争当時にはこんな言葉はありませんでしたが…)を二日間おこなっています(十九日から二十一日まで)。
この二日間という攻撃準備射撃は日本陸軍の歴史においても空前絶後の記録だそうです(コレドヒールに対する四日間延十七時間の攻撃準備射撃は厳密には最後の三時間とみなす)。世界戦史上でもかつてなかったほどの大砲撃です。
つまり第三軍は大火力によって要塞をたたいた後で、はじめて具体的な攻撃を行なうという近代的な攻撃方法を行なっているのです。
また、第一次攻撃において攻撃が失敗するにおよんで、第三軍は迅速で柔軟な対応を示し、攻撃方法を攻城築城(交通壕を掘って突撃陣地を逐次前方に進めていくという方法)にあらためています。
城や要塞の攻撃を強行すれば大損害がでるのは古来から当然のことであり、私は、あのような戦力比で、当時の常識であったクリミア戦争の時よりも圧倒的にはやく要塞を陥落させたことは、第三軍の大功績であると思っています。
celetaro
・・・・・・・・・・・(汗っ)
おかしいなぁ、祖母の知人の
尼さんが旅淳攻略に従軍した祖父から聞いた話を元に裏づけをとったんですが・・・。
やはり伝聞の途中で違ったのか、それとも記憶より記録を
元に裏付けを取るべきだったか・・・。
>兵力はわずかに二個集成中隊とほとんど全滅に近い損害をだしていた第七連隊第二大隊の残存兵力
それだけの戦力しかなかったのに、詳報の無念に満ちた文章は一体・・・?
>しかし、そのような兵力を第三軍はどこにももっていませんでした。
もし予備兵力が残っていたとしても、
砲弾が残っていない以上、敵砲弾が雨のように降ってくる中、
進むハメになりますから、ロシア側の予備投入の方が早いでしょうね。
防御側の兵力集中により、第一線に食い込んだ攻撃側がたたき出される。
うーん、一次大戦の塹壕戦そのものですね。
>攻撃方法を攻城築城(交通壕を掘って突撃陣地を逐次前方に進めていくという方法)にあらためています。
つまり、上原勇作工兵監の、「攻城戦マニュアルを作っておけばあんなことはさせなかった」
というコメントも創作と考えてよろしいのでしょうか?
木
すいません
歴史群像で旅順についての特集がありました。
よーく考えたら、当時ドイツは近代要塞とぶつかった経験はまったくありませんでした。
つまり、要塞を攻略する知識なぞ当時の日本にはほとんどなかったってことですね。
(フランスで騎兵科をやっていた秋山なら始めから掘削戦術をとったかも知れませんが)
伊地知参謀長も一応当時の常識、戦力の集中をしっかり限り守っていました。
しかし、日本軍が持ちこんだ砲は堡塁には歯が立たなかったことを考えると
砲弾を送るのはムダと考えていたのでしょう。
児玉中将は擾乱射撃を弾のムダとしていた模様ですし。(工兵爆破が主眼)
参謀長同士の対立の原因は砲弾の使い道だったと考えたほうがよろしいようです。
結局、適材適所ではなかったこと(ドイツ式の日本軍に適材がいたのか疑問ですが)、
中央(参謀本部)からの強襲の強要、
要塞や機関銃の威力がはっきりしていなかったことが損害の原因でしょう。
しかし、やはり乃木将軍は悲運の将軍ですね。
毎度毎度、ぶつかる相手が悪すぎます。
おまけに、井口松川に悪感情を持たれた模様ですし。
木